恩師石井進先生

     服部英雄

 先生からのおはがきにこの夏、静脈瘤の手術をしたと書いてあった。こうい うことで連絡をいただいたことはなかったので、何かのご用かもしれないと思 って、上京することにした。先生は九月の頭には中世都市研で大分に行くから、 わざわざこなくともいいとのことだったが、ちょうどそのころ、自分の本がで きるはずだったので、それを見ていただこうという気持ちも強く、東大泉のご 自宅にお伺いした。七・八年ぶりだったか、駅の様子もすっかり変わっており、 少しまごついた。しかし先生のお宅は犬が吠えたこと以外はなにも変わってい なかった。 どれぐらい入院されたのですか、と聞いたら「三日」ということだったので 二人で大笑いをした。わたしがその一年前に山の事故で三カ月も入院していた からでもある。杖をついて電車に乗ったら、おばあさんが席を譲ってくれたと いって、また笑った。しかし先生も自分もこのときは楽観視しすぎていた。静 脈の再生までに心臓にも負担はかかるだろう。せめて半年は静養していただく ように、そういうべきだったが、当時はこんなことになるとは夢にも思わなか った。先生は前年に百歳の庄司先生を亡くされたばかり。ご両親とも長寿の家 系だから、ぼくたちよりも長生きされるだろう。先生は鶴見(大学)も今年で おしまいだとおっしゃったが、迂闊にも先生が古稀になられたことにさえ、思 いが至らなかった。 奥さま手作りの料理をいただきながら、またたく間に四、五時間が過ぎた。 いつものように八割方は先生がお話しされていた。先生は信濃史学会のわらじ 史学に共鳴されていたから、このときも話がでたが、主に一志茂樹氏と周辺の 人々の話だったと思う。わたしは最近大分県竹田市に行ったこと、いわゆる「山 窩」、当地では「カンジン」とか「ヒニン」といっているが、かれらを対象に国 勢調査をした人物から聞き取りをした話をした。先生は『列島の文化史』に掲 載された乙益重隆氏の肥後サンカについての報告に言及された。わたしは当時 刊行されたばかりの『三角寛著作集』についても聞いた。先生は即座に「古く は荒井貢次郎」、と過去に三角氏を批判した論考に言及され、サンカ文字につい ては三角氏自身が自己批判しているともいわれた。いつもながら何でも知って おられる先生に驚いた。それから近刊予定『都市と職能民』(新人物往来社) 掲載の松井章報告の話になった。牛馬犬ほか動物の骨の考古学を扱ったもので、 本には書かれなかった差別問題の話などを聞いた。また食犬の話にもなり、こ れはまもなくわたしが犬追物と「河原の者」に関心を持 つきっかけになった。   そして話題作になっていた黒須紀一郎『鉢屋秀吉』に話が及んだ。「秀吉に 興味はないですか」といわれたときは、先生と秀吉の組み合わせをちぐはぐに も思ったほどだ。『鉢屋秀吉』は豊臣秀吉が被差別階層の出身(鉢屋、「鉢の 者」)であると主張する。その根拠は安国寺恵瓊書状なのだが、「秀吉さりとて ハ(は)の者に候」(信長に較べ、秀吉はなかなかの人物だ)とある部分を、 この本は「秀吉さりとて、ハチの者に候」と、「ハ」を「八」に解して論を展 開している。先生は上向きかげんに少し右をむいて本当におかしそうに笑うこ とがある。この時もそうだった。しかし「秀吉の妻ねね方の実家杉原氏は尾張 清須の連雀商人の出身だ」ともいわれた。これは急に七〇〇〇石取りの主にな った秀吉が、家臣になる者がいないため、もし自分がこれから出世して石高が 増えても必ず七分の一を与えるという約束で杉原を召し抱えた、という有名な 一節にある言葉だ。しかし「連尺」(連雀)の意味にまでは気にとめる人はい なかった。先生が『中世商人の世界』(一九九六)に詳しく述べられたように、 連雀商人はこの時代には差別された存在で、秀吉はその家から妻を迎えた。秀 吉自身が木綿針を売り、わらじを売った。これも賤視された職種という。秀吉 は百姓の小せがれではなく、賤民階層の出だった。すると秀吉像は一変する。 脱「賤」の典型になる。わたしはいつもそうであったように、先生の着眼点の 新鮮さにおどろき、いつものようにまもなく活字になるであろう、その論文の 完成を待ち遠しく思った。 先生と奥さまに見送っていただき、ご自宅を出た。これが今生のお別れだな どとは夢にも考えることはなかった。これまで先生がご多忙と思い、あまりお 宅にまでは通わなかった。自分も楽しかったし、先生も楽しそうだった。これ からはもっともっと足を運ぼう。そんなことを考えた。 二ヶ月が過ぎ、先生が亡くなったという知らせを妻からの伝言に聞いた。何 のことだかわからない。その日を含めてしばらくは涙も出てこない自分が不思 議だった。すぐにも駆けつけるべきだったが、通夜・葬儀がゆとりのある日程 になったので、約束していた仕事は片づけることにした。わたしは熊本県人吉 市で「戦国相良氏展」開催にあわせて、話をすることになっていた。  人吉は学部を卒業してまもなく、先生と、そして一年先輩の村井章介氏と一 緒に、三人で旅行させていただいた思い出の場所である。わたしの役目は卒論 でとりあげた佐賀県武雄市、肥前国長嶋庄故地を案内するということだった。 当時先生は小学館の『中世武士団』(一九七四)を執筆中だった。  話が終わりかけて、先生との思い出を少ししゃべろうと思ったが、声がつま った。もうだめだった。昼はウナギ屋に連れていってくれた。先生はウナギが 好きだったなぁ。白焼きなんかが好きだったなぁ。悲してたまらなかった。帰 りの列車にJRの広報誌がおいてあって、「棚田麗し」というタイトルだった。 「せんせい、棚田ですよ、市民権を得てますよ」。自分の何もかもが先生と結び ついている。一人窓外を見ていると、涙がとまらなかった。  葬儀では最後のご奉公だと思って、柩を担いだ。最後の甘えだと思い、お骨 を拾わさせていただいた。すべて整理され記憶されていた頭脳も含め、形をと どめているものは何もなかった。  不肖の弟子という言葉がある。できの悪い子ほどかわいがられるともいう。 たとえ末席でも先生の弟子になれたことが、わが人生で最大の幸福だった。先 輩・同級生はみな学部生の頃から頭角を現す俊秀揃いだった。わたしは先生か ら「はっとりくんは海のものとも山のものともつかん」といわれた。ものには なるまいという意味だろうか。わたしは経済学者宇野弘蔵の「いなかの鈍才」 論が好きだった。先生を前にある会のスピーチでもお話したことはある。研究 者に一番むいているのは都会の秀才ではなく、もちろん田舎の秀才、都会の鈍 才でもなく、田舎の鈍才なのだというはなしである。じぶんにはこんな都合の よい言葉はなかった。本当は先生のような記憶力抜群、頭脳明晰な秀才・天才 がすぐれた研究者になるのは当たり前だが、ひとのやらないようなことをひた すら手がける鈍才にも、研究者への道はあると思っていた。先生はすぐれた研 究者であるだけではなく、すぐれた教育者で、人それぞれにあわせた指導をし てくださって、長所を伸ばされた。わたしのようなものでも、どうにかこうに か学問をなりわいとすることができたのは先生のおかげである。  しかしわたしはずぼらなわりに、急に直情型に変身することがあり、短慮の あまり舌禍・筆禍をくり返した。その苦情は服部本人にではなく、先生のとこ ろにいくようで、ご迷惑をおかけした。交際の広い先生のところには、なにか のおりにそんな話をする人がいたのだろう。先生の胸にしまわれた部分もある のかも知れないが、かなりの部分は伝えられ、いくども叱られた記憶がある。 また先生は心配性ではないかと思うほどにわたしの行動を気にかけてくださ る。文化庁に入ってしばらくして、お願いして一緒に出張に出た。先生はわた しの少し後ろに控えられて、わたしが先方と名刺交換をしているときに、「名 刺は自分から出して」と小声でいわれた。まるで子供だなぁと思った。しかし それからは必ず先生の教えを守っている。九州大学に移ってから、外部評価で 来学していただき、そのあと学生たちと佐賀県三根町の光浄寺文書を見学した。 先方のご都合もあり、時間が限られていた。先生はお寺に迷惑のかからないよ う、かなり気を配られた。自分ではわかっているつもりだったが、わたしがつ いつい欲張って、少しでも長く見ようとするような態度だったのかもしれない。 五〇歳になっても心配をおかけするばかりの子供だった。  叱られることは多かったが、喜んでいただいたこともけっこうある。難産だ った自著『景観にさぐる中世』(一九九五)が刊行できたときには、網野先生、 永原先生、木村礎先生、海老澤さんたちに働きかけて、祝賀会を計画してくだ さった。東京會舘という破格の場所だった。それだけではなく、五〇部も自費 で買い上げてくださった。上田市の桜井松夫先生や、新見庄の竹本豊重さん、 大田庄の波田一夫さんら地方で活躍する人たちに送られたようで、みなさんに あったとき、そんな話を聞いた。先生は皇太子にも手渡されたといっておられ た。この本は幸運にも角川源義賞を受賞することができた。その時も先生は心 から喜んでくださり、受賞式に参加くださった。 文化庁時代は先生と史跡指定の事前調査に行くことが楽しみだった。わたし はこっそり先生の日程を最優先するように段取りしようとしたが、それでも二 日、三日の旅行日程全部を確保することはむずかしかった。兵庫県の黒井城や 此隅山城調査、福島県の桑折西山城調査などなど。いますべては思い出せない。 飯坂温泉では先生の疎開時代の話に小林清治先生と話がはずんでいた。また北 海道の上ノ国勝山舘跡の調査指導委員会をはじめ、全国各地方教育委員会が先 生に史跡の調査指導をお願いすることがあり、ご負担をおかけしたが、地方を 愛する先生はたいてい断らずに引き受けられた。三重県紀和町の赤木城跡調査 整備委員に先生の就任をお願いしてもいいかと地元から聞かれたとき、「先生 は過疎地が好きだから」と答えた。この奥熊野の村には丸山千枚田がある。こ のことが先生の棚田学会創設そして会長就任のひとつの契機になったような気 がする。棚田は中世のものというよりは、多くは近世末期、近代の水田開鑿、 耕地整理の産物である。中世史家の先生がなぜあのように夢中になられるのか 不思議な気もしたが、棚田こそ、文字記録を残さなかった民衆が残した遺産で、 それが人々に感動を与える。その思いであろう。  無念にして先生の肉体は滅びたが、書物という永遠の命が残された。わたし も少しでも先生の遺志を継いで、歴史学に殉じたいと思っている。


一覧へ戻る