(無断転載不許可) 新刊紹介『悪党の中世』 『史学雑誌』107-11、123-126頁悪党研究会編『悪党の中世』 一九九八年三月一七日岩田書院刊・A5 三九九頁・定価七九〇〇円プラス税 悪党が日本中世を考える上でのキータームであることはいうまでもない。戦後 の歴史学をリードしてきた石母田正、永原慶二、黒田俊雄、網野善彦らの仕事が、 深くこの悪党の解明、評価にも関わっていることにそれは明確だ。この悪党に関 する若手研究者の論考集が刊行された。『悪党の中世』。魅惑的な題目だ。収め られた各論考のタイトルも一見して魅惑的なものが多い。 以下目次(略) 海津論文は悪党を動員した弘安の異国征伐計画に関係する弘安五年(一二八二) の山城国大隅(大住)庄・薪園の相論の過程を解明したもの。未公刊の「勘仲記」 (弘安四年後半分)を翻刻・駆使して新しい論点を出そうとする。最終的に後亀 山上皇院宣によって、論所は関東一円地と交換されて、両庄は「関東御領」にな り、六波羅の責任者である六波羅評定衆長井頼重は越後に、六波羅探題(北方・ 北条時村)被官人弾正忠職直は土佐に流罪になった。権門体制論の発想の基とな った両庄だが、著者はむしろ朝廷は鎌倉幕府の施行機関に過ぎないという図式を 強調する。ところでこの弾正忠職直は越後国奥山庄絵図にも登場することで研究 者にはなじみの人物だ。彼が越後で活躍していたのは正応五年(一二九二)前後。 土佐に流刑になったはずの彼は、十年後にも北条時村被官として健在だったし、 弾正忠の官途もそのままだった。長井頼重にしても、その子の貞重、貞頼いずれ も六波羅評定衆になっており、備後守護職も継承している(佐藤進一『鎌倉幕府 守護制度の研究』越後・備後の項)。ほどなくの復権、処分の撤回は明白だ。 「流罪」とはその場を収める方便だった。したたかな幕府と朝廷。だから歴史は おもしろい。両庄がほんとうに「関東御領」になったのかどうか。そこも知りた い。たぶん二名の復権をめぐる駆引の材料にされただけだろう。 高木論文は悪党寺田法念で知られる播磨国矢野庄の永仁六年(一二九八)の下 地中分線や、それをめぐり、要害でもあった政所や悪党法念に備えて築かれた白 石城を現地復原する。文献史料が豊富であれば、現地情報と相まって二乗倍に歴 史情報が豊富になっていく。そんな好例だ。中世に「トチカ池今ハ松原」と書か れた地はいまも隣接して池がある。池になり放棄され、再開発され---。そんなく り返しがあったものか。多くを考えさせてくれる論考だ。兵庫県は市町村教育委 員会による荘園の現地調査が継続して行われたところ。過去に相生市教育委員会 も矢野庄現地調査を準備していたが、調査主体になるはずだった研究者側の不必 要との判断で中止された。高木論文と『相生市史』でも中分線の理解などに見解 の相違が見られるという。やはり矢野庄総合調査は必要だった。いや必要だ。 三藤論文は散在荘園として知られる東寺領山城国拝師庄に正和年間(一三一二 〜)に限って登場する「悪党」道願の分析。紛失状に署判する京都東九条の有力 者道願が、突如刈田狼藉の主犯として犯罪者になる。しかし領有関係の変動に伴 う混乱があり、その情勢では年貢納入責任者である道願が稲を刈るのは当然だっ たと著者はいう。道願は普通の市井人だった。ところで本文引用史料でも道願は 「違 勅狼藉人」とはあるが、「悪党」とはいわれていない。既公刊分の『鎌倉 遺文』で検索できた典拠史料でも、彼は「百姓道願」「河内入道道願」である。 とすると京都近郊の有力農民で、京中の東九条の住民でもあった人物が、突如 「悪党」になったというのは著者の考えた図式ではないか。道願はその反東寺行 動もわずか一年と短く、どうみても根っからの悪党でもない。字も読めなかった だろうし、突然「違勅」といわれても「濡衣どす、雲の上のことは知りまへんが な」と狼狽する。そんな人物の可能性もある。「違勅」のレッテルは貼られたが、 たぶん悪党と呼ばれるような階層でもなかったと思う。ほんとうに悪い奴はそう した「百姓」に「違勅」のレッテルを貼った側にいるのではないか。政治的状況 変化の中で反当知行者側にならざるをえなかったもの、御下知に違背したといわ れたものたちは、全員悪党になるのだろうか。「悪党道願考」というタイトルは すてきだが、再考も要しよう。 渡辺論文のタイトル「悪党大勧進円瑜」についても同じ感想を持つ。円瑜は重 源以来の東大寺の大勧進職であり、高僧である。彼自身が悪党であるとは考えに くい。史料上でも「円瑜被管之輩、相語所々悪党」とあり、円瑜が悪党だったの ではなく、円瑜→被官→悪党と、悪党までには二段階あった。円瑜のようなひと つのヒエラルヒーの頂点に立ちうる高僧が悪党だったとすると、歴史辞典に書か れるような悪党の定義は書き換えなければならない。渡辺氏は平将門も悪党だっ たといいたいようだ。悪党とは何かを問いたい。この道願、円瑜は個人であるが、 もともと悪「党」の「党」は、「武蔵七党」「松浦党」のように、集団を指す言 葉だったはず。個人を悪党とするのは誤用、ないしは現代的用法ではないか (「悪党張本」ならまだ分かるが)。 渡辺氏自身は巻頭で問題提起を行っている。「ならない」「のである」の連発 で(一五頁前後)、いかにも肩に力が入った、いまどき珍しいアジ調論考だ。し かしそこではそうしたことには全くふれられていない。史料上に「悪党」とはな い者まで「悪党」にしてしまうのはこの会の方針なのか。タイトルは「悪党と大 勧進円瑜」でよかったのではないか。 ところでこの巻頭渡辺論考では悪党は一二世紀半ばに現れ、一三世紀末に急増 し、一四世紀後半に激減するとなっている(一二頁)。悪党を南北朝期特有のも のとする見解は辞典類にも見られる。しかしこの理解がなんらかの統計処理・史 料操作に基づくものだとは思えない。むしろ研究史からのバイアスのような気が する。われわれの感覚では戦国期もまた悪党が暗躍した時代であり、史料上にも 多く登場する。山賊・海賊・野伏も含めれば、彼らこそ大名勢力の帰趨を握るキ ーマンだった。「戦国期江戸湾の海賊」と「半手」(両属年貢、双方に献金を出 して村の安全を保障してもらうこと)を扱った則竹論文はそのことを実証する論 文だろう。 また近江大浦の悪党を扱った蔵持論文に登場するのは一五世紀後半の悪党であ る。ここでは史料に即して「他所」の者のみを「悪党」と称し、自領の大浦百姓 を「悪党」と称することはなかったという指摘がある。本書には蔵持論文あるい は「悪党蜂起」の語を分析し、和歌蜂起、疫癘蜂起などの例から蜂起には現代語 の蜂起がもつ武力行使の意味はないと主張する楠木論文、また「路次狼藉」「野 伏」の語を分析した櫻井論文、梶山論文のように、史料上に悪党や悪党行為がど のように登場するのかを分析する視角に立つ論考と、三藤・渡辺論文のように史 料上の登場の仕方とは別個に、研究者が「悪党」と定義したものたちの行動を分 析する手法が混在している。どちらが有効なのかは、にわかには分からないが、 読者を混乱させていることはたしかだ。 「悪源太」「悪左府」のように「悪」には強いの意味がある。しかし双手をあ げての賛辞のはずはない。「悪む」=「憎む」。それ程に強いの意か。『日本国 語大辞典』では霊亀二年(『続日本紀』)から森鴎外、国木田独歩までの悪党の 用例が列挙されている。歴史的には悪党は相手を謗る言葉だった。ある側の人間 Aが対立するBの手先となっている集団B'を攻撃する際に「悪党」と謗ったとする と、Bの側もAの手先となっている集団A'を「悪党」と謗ることもあっただろう。 ある人には悪党で、ある人には悪党ではない。それが史料上の悪党ではないか。 本書を読むと悪党像がいかに混乱しているかを実感できる。史料上に「悪党」 とはなくとも、研究者が定義した「悪党」。その「悪党」がどんどん拡大してい る。悪党は蔑称であり、レッテル貼りではないのか。紹介子はそう思う。であれ ば、せめて後世の史家ぐらいは公正に判断すべきだと思うのだが。蔑称のはずの 悪党は反体制のシンボルとなり、研究者が美化し、自己を投影する。紹介子も含 め、魅惑的な反権力集団「悪党」には多くのものがシンパシーを抱く。悪党たち の生きていた時代とは逆の評価が生まれてくる所以だ。本書によって若手研究者 による悪党研究の最前線の実情はよく分かるが、悪党像については整理されたと いう印象は受けない。もう一度悪党の定義も必要だろう。 もちろん悪党の定義づけへの努力は本書の随所にも見られる。本所敵対行為、 城郭を構える、また政所を攻撃し、相手の「当知行」を否定する、あるいは公戦 に対する私戦を悪党行為と定義する、苅田狼藉(小林論文三〇五、三一二頁、楠 木論文二四九頁)などなど。しかしこれらは悪党にのみ固有の行動といえるのだ ろうか。 放火を悪党(海賊)行為の指標にしている箇所もあった(則竹論文二二五頁〜 など)。その通りなのかもしれないが、敵対地域を放火略奪することは戦法とし ては特殊なものではない。敵対地の民家を放火して狼煙の代わりにすることは新 田義貞軍も、根来寺も、ほか多くの軍隊も採用した戦法である(『烽の道』二一 三頁〜)。日中戦争・太平洋戦争でも敵の軍隊が来れば、抵抗をやめない限り民 家は焼かれ続けた。城郭を構えることや、苅田狼藉にも同じことがいえる。文禄 慶長時に朝鮮で日本軍(豊臣軍)がやったことばかりだ。 国家システムにより維持される秩序を前提にし、それに反するものを悪党と見 なす論者も多いが(楠木論文二五六頁ほか)、荘園諸職などは相伝や寄進の都度 混乱する方がむしろあたりまえで、排除された側にも何らかの正当性を証明する 文書があることもしばしばだった。そこにやり手のプロ=雑掌が暗躍する世界が あった。庄務職(領家職)が混乱すれば、上級の職(本家職)はうつべき有効な 手だてを持たない。あれほどに領家職相論が多いのはなぜなのだろう。当事者主 義の中世社会に、国家システムにより維持される安定した荘園制秩序など、本当 にあったのか。 本書巻末の悪党注文の一覧は貴重なものだ。この一覧で年未詳となっている長 谷場文書中の「水間忠政(=悪党)与党人注文」(『宮崎県史』史料編中世二ー 三七ー三)については、『宮崎県史』通史編中世では貞和二年(一三四六)のも のとしている。また「悪党交名の史料学」(三九〇頁)には「本所一円地の悪党 検断システム」という興味深い図が掲載されているが、図中ゴチになっている 「衾の御教書」ほかの説明はどこにあるのだろうか。「未消化」のままの図、論 考という印象のみ残る。 最後に本書の中には論考中に全く悪党の文字が登場しないものもいくつかある。 こうした記念論集(本書の刊行は本研究会の代表者佐藤和彦氏の還暦を記念して いる)にはありがちのことかもしれない。しかし論題と悪党がどう関わるのか、 テーマが悪党研究にどう寄与するのかについて一言ふれてあれば、読後感もちが っただろう。せっかくの力作であっても違うタンス、異なる引き出しに入ってし まっては読まれることも少なくなる。一部「看板に偽り」のあることを紹介子は 義務として報告する。 (服部英雄)