毎日新聞060513朝刊・西部本社版

原城跡発掘調査・骨が語るキリシタン最期の状況 服部英雄

(無断転載をお断りします)

原城跡(長崎県南島原市南有馬町)は島原の乱の舞台である。平成4年から発掘調査が

開始され、すでに14年間継続されている。鉄砲玉を溶かして作られた粗末なクルス

(十字架)の出土は話題になった。九州国立博物館開館時に展示もされた。いっぽう

毎年毎年、人骨も出土する。こちらはあまり話題にならないが、原城の戦いの凄惨さを

まざまざとよみがえらせる。頭から足まで完全に揃った骨はひとつもない。みな部分で

あり、断片である。今年度は本丸大手門前において、頭蓋骨が出土した。これまでも歯

型はときおり出土していたが、完全な頭蓋骨は珍しい。歯の並びがきれいで、若者だっ

たことは確実である。しかし前歯3本が無くなっていた。頬骨も陥没していた。首から

下はない。古人骨が専門の同僚・中橋孝博先生に写真を見てもらった。額の形からする

と男のようで、30代ぐらい、しかし形だけからは判断しづらいという。

 損傷が著しく激しい。頭蓋骨横の骨は左の肩、腕、肘になる。その部分は原形を保っ

ているから、関節の腱・肉は残っていた。その地点からわずかに離れて足や胴体の骨が

バラバラに散乱していた。骨は石垣の下で固まって発見されることが多く、例外なくそ

の上に石がある。巨石に死体が潰された。そんな表現しかできない。遺体は石垣上に集

められ、下に落とされる。つぎに順に石垣の石を上から崩して落とし、さらに城内の土

を掘りとってかぶせた。乱後に徹底的に壊されたはずの原城石垣も上部以外は良好に保

存されている。石垣の外側に死体を投げ捨てたため、石垣下部には手が付けられなかった。

一年の発掘で毎年30体ほどの遺骨が出る。これまでに450人近くの遺体が検出され

たことになるが、詳細はわからない。バラバラ遺体だからどれが一人分なのかさえ、見

当がつかない。男女比や子供の人数の報告もない。一揆軍はだんだんと追いつめられて

いった。三の丸にいた男女も二の丸にいた守備隊も最後には多くが本丸に逃げ込んだ。

遺体近くからクルス、メダイ、ロザリオが見つかることが多い。神を信じた多数の男女

が悲惨な最期を迎えたことは確実である。わたしが現地を訪れた日の午前に島原教会の

神父らによって慰霊のミサが行われた。

最後の戦いで首を掛けられた一揆方の数は一万八百六十九、焼け死んだ男女は五六千人

と記録にある。男であれば首は切られて別の場所に運ばれ検分(首実検)を受け、そし

てさらされた。胴体だけが現場に残されたといえる。しかし男の首が出土する。文字記

録から受ける印象ともちがう部分もある。

これほどまでに遺体がバラバラになっているのはなぜだろうか。骨の分離が進むまで、

腐敗が進行するまで、死骸が放置されていた。原城跡は腐臭・異臭に充ち満ちていたで

あろう。遺体の山に近づくものはおらず、犬やカラスによっても、遺体の損傷が進行し

た。遠吠えやカラスのさわぐ声が不気味だった。数日放置されたが、最後は投げ捨てら

れた。かなりの遺体がそのときバラバラになった。

戦死者(死体)に対して試し切りがなされたとみる意見もあるけれど、にわかには従い

にくい。けれども攻撃軍(幕府軍)側の籠城者に対する恐怖があったことはまちがいない。

幕府軍側の損害は予想外に多かった。討死は合計一一一五人、負傷(「手負」)は

六七六一人とある。農民相手の戦いにあってはならない犠牲者がでた。指揮官も兵士も

パニックになりやすかった。憎しみもあり、恐怖もあった。この乱の状況を記録した

人物に松平輝綱がいる。総司令官・松平信綱の子で、当事者、目撃者である。かれは日記に

「剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の

致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」と記した(『島原天草日記』続々群書類従)。

喜んで死のうとする少女は、彼の目には何かにとりつかれたとしか見えなかった。

魔物の存在を感じた勝利者は、遺体に向けて石を投げ落とさせた。

発掘によって再現される場面場面は歴史のシーンの巻き戻しである。発掘光景は次々に

新しいものに変わっていく。徹底的に発掘すれば最後には人骨さえもない事件前の姿に

戻ってしまう。また骨は長期地中にあって劣化も激しい。歯型しか残っていないものが

多いように保存状況は良好ではない。空気に曝されたとたん、ぼろぼろになる。数年前

に出土した人骨を含む発掘現場のレプリカ(複製)が作製され、原城文化センターで

公開されているが、訪れる人は少ない。韓国の教会関係者が定期的に視察にくるそうで

ある。今回の発掘現場もレプリカによって発掘状況が保存される。わたしはそれが現地

に置かれればよいと思うけれど、施設内で見せるべきだという意見もある。複製といえ

ども遺体の状況を見せることに消極的な意見はたしかにある。けれども、事件がなかっ

たかのような原城、事件前の原城しか見せられなくていいのだろうか。この悲惨さをど

う後世に伝えるか。大きな課題である。

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