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発表要旨
チャイナタウン唐坊と宗像大宮司の日宋貿易拠点・筑前国高田牧(史学回大会報告要旨、 2007・11・18) 服部英雄 九州海岸部にトウボウ地名が多くある。チャイナタウン唐坊(唐房)に由来する。福 岡県宗像郡津屋崎にも唐坊地名がある。『教訓抄』にみえる「ハ(ム)ナカタの唐坊」 に相当しよう。唐坊は(旧)塩入干潟に面する。その一角、在自西ノ後(あらじにしの あと)遺跡から出土した大量の中国陶磁器の中に、中国人貿易商「綱首」に関わる「綱」 字墨書・同安窯系青磁(12世紀前後)があった。ほかに「高田」と読みうる墨書白磁 も出土した(12世紀前後)。「高田」牧ではないか。 この唐坊に隣接して牧口社があった。「牧」に由来する社名である。平安末期から鎌 倉期の宗像大宮司には宋人を母とするものがいた。かれらはいずれもこの牧口社から宗 像本社に入社して大宮司になった。もともと宗像本社にいた大宮司家とは別グループで あった。 藤原実資の日記『小右記』にみえる筑前国高田牧は宋からの輸入品を京に運んだ。高 田牧司・宗像妙忠は、太政官および右相府(藤原実資)に宛てた宋人台州商客、周文裔 の書を京にもたらした(長元二年・一〇二九・三月二日条)。 高田牧司に任じられる人物は、対馬守、壱岐守などの国司経験者だったり、大宰大監 であったり、香椎大宮司や宗像大宮司となる人物だった。牧司人事は大宰府人事に連動 した。牧は甲斐一国の牧に匹敵する規模を持ち、宗像郡・遠賀郡など数郡にまたがって いたと想定される。大宰府膝下の巨大牧・筑前国高田牧は官牧の要素を濃厚に持つ。同 時に小野宮(藤原実資家)領でもあって複数の命令系統、貢進系統があった。高田牧を 指揮した大宰帥・大弐には平惟仲・藤原惟憲など藤原実資家と利害が対立する人物がい た。かれらは藤原道長に近いか、家司そのものであった。これは日宋貿易をめぐる対立 でもある。現地では宗像社と箱崎宮が対立しただろうし、宋人の側も対立する双方いず れかに結びつき、相互に対立した。 中世後期には津屋崎牧の存在が文献で確認できる。牧口社の存在や高田の墨書から、 津屋崎一帯は、高田牧の枢要拠点と推定できる。津屋崎・小呂島・壱岐という東西航路、 宗像ルートがあった。これは壱岐に荒馬を求める高田牧ルートであると同時に、博多ル ートとは異なる宗像氏の海外交易ルートでもあった。小呂島をめぐって鎌倉期に宗像氏 が争論を行った。孤島も利権対象になった。 宋人相互、在地支配者相互、大宰府内部、京都の貴族に至るまで、貿易の利権をめぐ る対立・争いがあった。博多唐坊では長承元年(一一三二)の殺害焼亡事件をはじめ数 度の暴行が記録されている(中右記部類)。博多を忌避する宋人は長門や肥前に着岸し たが、同様に高田牧ルート、宗像ルートを求めることもあった。