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 シベリアからの生還−−−重潔氏からの聞書

(20001,11,26〜27)

   豊栄会病院で同室だった重潔氏(大正14年丑年生まれ)より。

 1唐津商業時代   生まれは佐賀県玉島(現浜玉町)の五反田。唐津商業へ、自転車で通った。  虹ノ松原の中をいく。砂の中がちょうど、かとうして(固くて)走りよかった。  国有林だったから本当は通行禁止。営林署の管理官が同級生の父親(わきやま  さん)。厳しい人で、「通行しちゃあならん」。道に壕を掘ったりする。ふだ  んはそこをよければいいが、雨が降ってわからなくなると、転んだりした。   それでも同級生だから奥さんが、帰りによらんね。松原おこし、おりこ(?)の中で練る。広い台でぱっぱっぱ。寄せて切る。できたてがおいしか。黒砂糖に米の炒ったやつ、あめ。怒られたののお返し。お菓子は浜崎鶏卵、くわねばねえらん、といった鶏卵と、この虹の松原のおこしだった。松露饅頭は最近のもの。いたずらが悪かったのが寒稽古、朝早く暗いうち、5時頃、行く。製材所が2軒、杉の皮が詰んである。みんな5、6人一緒、その材でとおられんごと、バリケード。一番はやくくるのは福岡からの新聞車、わがとおるごとだけ開けてあとはほっておく。ぶつかってそのまま行く車もいる。影で見ていた。学校からも注意された。わきやまさんが針金を張ってある。暗いうちだから恐ろしかった。   浜崎の竹内薬局、「一カ月いくら淋病薬」とかの屋根の看板おろそうとしたり、立て看板の方は唐津の床屋の横に置いたり。二度くらいそんなことをした。   学校がえり、松露は我々でも見つけられる。小さい松の所、松葉がつもって、こんもり盛り上がっている。ぽこっと取れる。キノコのお吸い物。うちの家内のお父さん、鏡の人。前ほどはないといっていた。今でも小さい松のにきにはえとりゃせんか。国有林だから松露取りは松原の中は荒されんけど、みんなが取った。脇山さんは怖かったから、見たら注意したろう。   我々が通った頃は松は大木ばっかり。いまはところどころに大木。太い木は松食い虫でかなり切ってしまった。生の松原は全滅。赤松がしゃーっと伸びていた。唐津は黒松。   あとになって、自分が竹の仕事をした。そのときの退職した管理官、わきやさんが傘屋で竹の材料がほしい。傘にする竹はどんな竹でもいいというわけにはいかない。糊がひっつく古い竹じゃないといかん。白い玉子色の竹。そういう竹は少ない。それと曲がりのない竹。  「自由に持っていってよかですよ」。  「ああ、そぎゃんことまでよかですか」   「あとでけっそく(結束?)してくれれば」  結束の手間賃のようなもの。むこうはえらく喜んでくれた。唐津商業は先輩の  いうことが絶対。冬でも素手、足は足袋なしだった。   学校の時自転車旅行をした。甘木から杷木、豊後森から新耶馬渓、青の洞門。おばさん達は優しかった。ナスたべんね。道の上の梨畑、中に入ってこらーって叱られた。逃げるとき、一人がパンクした。下り道で、タイヤがつかえんごとなった。山国川の河畔で、前からの雨で湿った木ばかり、飯盒炊飯ができん。ちかくにたきもん小屋があった。すぬいたら、じわーじわーと倒れてひっくり返った。すこーしだけ抜けばよかった。河原に野宿、おじさんが見に来た。商業のしょう票、悪知恵で中津と嘘をつけ。ばれたときは唐津っていいましたよっていえばいい。薪の代わりは払いますので、といって許してもらった。えすかったよねぇ。学校に報告でもされたらおおごと。最後は糧秣が一日余ったけん、大濠公園で野宿。先生に怒られた。   天山にも一泊。防火線に一泊、帰りは古湯、とまるとにお宮に携帯天幕。あのお湯は皮膚病にいい。入りにいったらカサボコの患者が多かった。こりゃいかんいられんぞ。川に入った。天幕に入ったらものすごい藪蚊。草をナイフで切ってすぼして蚊のおらんぐらいにして、入り口閉めて寝た。    2 満州へ   卒業後、一七歳、長男だったけど満州行きを希望した。それも一番奥地を希  望した。自分はそれなりに理想を求める人間だった。国際  という会社だっ  た。奉天におる頃、晴れた日に霧氷がきらきら光ると零下三〇度という事だっ  た。おふくろが干し柿の砂糖漬けを送ってくれた。長期保存には砂糖漬けにす  る。柿は北の地方にはない。これが柿かと珍しがる人もいた。二年ほど勤めて、  応召。一九歳での現役召集だった。内地で兵隊検査を受けたいと思ったが、既  に朝鮮海峡にアメリカの潜水艦が出没するということで、帰させてくれなかっ  た。帰れないとなると帰りたくなるものだった。   そのとき叔母や妹たちに手紙を出した。自分ではすっかり忘れていたが、母  が死んだあと、整理してたらタンスのなかになおしてあった。叔母がこんな手  紙が来たと姉(母)に渡していたらしい。読んでみたが  「男と生まれたからは命は陛下に捧げた。おまえ達は元気に育ってお国のため  になるように」、  というようなことが書いてあった。たしかにこぎゃん気持ちやったなぁ、って  思う。決死隊はよく遺書のようなものを書くが、戦地に行ってからはそんな手  紙は出さなかった。   朝鮮人にもその年から徴兵制が布かれた。一九歳の徴収は繰り上げ徴収。正規の二〇歳と、一九歳と、韓国人。いっぱい応召の兵隊がいた。幹部候補生試験を受けた。甲種幹部候補生が将官適、乙種合格が士官適で、下士官までだった。関東軍はボタンショウの近く(?)セキトウにあって、予備士官学校もそこにあった。   自分が配属された部隊は甲種合格ばかり。そんな部隊はふつうはない。どん  な特殊任務につく部隊かと思ったら、ソ満国境、ハイラル(海拉爾)の砲台だ  った。瀋陽からハルピン、国境の町がマンチューリ(満州里)。その手前に作  られ、マジノ線にも勝る要塞といわれていた。自分は陣地守備で、独立歩兵大  隊265だったかな。そんな番号の部隊だった。いちど砲台のなかを見学した  が、地下のものすごい要塞で、地上に出ているのはわずかだった。   黒竜江の上流、(大興安嶺から流れてくるアルグン川が流れているが)冬に  なると凍結するからどこでも渡れて、攻めてこられた。   初年兵教育が担当、座金のついた軍曹だった。古参兵はノモンハンの生き残  りばかり。星一つの兵(二等兵)の連中が「神さま」といっていた万年一等兵  もいた。  上等兵も頭が上がらないくらい、権力を持っていた。  −−ひとのいやがる軍隊へ、志願してくるばかもいる。   志願兵もいた。カチン台陣地だったかな。志願兵は二つぐらい年齢が下。学  徒じゃなかった。学徒動員は予備士官学校でも聞かなかった。   ハイラルにきたのは一種の現役召集。速成だから鍛えられる。ちょっとひど  かった。演習は完全武装で駆け足。くたびれる。そこへ「ガース!」、ガスマ  スク着用。苦しいから口の横に指をつっこむと指揮刀で尻をばーっと叩かれる。  匍匐前進はこれがまた疲れる。疲れたところで「ガース!」   見習士官、鉄拳制裁を引き継いだような人、「内務班の掃除が悪い」。注意  だけではすまない。緊急に整列!まだ掃除中。汚れ雑巾に汚れたバケツの水。  「内務班は敬礼!」  「今日の当番は出てこい!」  汚れ雑巾をくわえさせられる。「ワンワンっていえ!」「落としたらいかん!」  ひとりがほうていく(這っていく)。 ひとりがワンワン。あとはバケツをがん  がん叩く。バケツの水がだんだん凍っていく。  −−五尺の寝台、わら布団。  二段になっていてそこに柱がある。細くて掴まりにくい。一番うえまで上れ!  「ミーンミーンミーンと鳴け」  ずるずる落ちてくると尻をつつかれる。おもしろ半分(からかい)の制裁があ  った。人間性はまったく無視だった。   訓練といえば前に爆薬つけてつっこむ訓練ばかり。戦車がきたらその下に入  って自爆する。特攻隊と一緒だった。自分はその教育隊長だった。自分たちも  挺身隊を組織していた。隣の猪俣部隊などそれで全滅している。自分も当然死  ぬ気だった。   ソ連が参戦する直前、自分は胸郭浸潤 (?)の疑いありとされていた。ソ連  の大部隊が越境。その夜には挺身隊でいくつもりだったが、師団命令でセキト  ウの陸軍病院に入院。翌朝前線に戦友が出発するとき、自分は涙を流して悔し  がった。そのときの様子を戦友が『落日の満州』という本に書いている。「涙  やまざる重軍曹を前に、去るに去るがたきも」とか書いている。陸軍病院の窓  から、出ていく戦友達に力の限り手をふり続けた。   敵の進駐で危険が迫り重病人は病院に置く。そのあと、軍隊も最後の列車で  おりてきた。セキトウの病院に入院した晩(?)に玉音放送。何日か病院兵と  逃げ遅れた人間と一緒に病院にいて、汽車で奉天まで南下。奉天におりたら「白  衣の兵隊」・婦人会がごくろうさんと迎えてくれた。それまで戦争が終わった  実感はなかったが、日本の武装兵が兵器を焼いているのを見て、敗戦を実感し  た。奉天の病院はいっぱい、忠霊塔の周りに白衣だの兵隊がいた。弥生国民学  校が収容所に宛てられた。奉天の地理に詳しいものは出てこいといわれたので、  出ていった。   捕虜要員で引っ張られた。一個列車を編成してノーボリンスカヤに送られた。     3シベリアへ   捕虜収容所はウランディ(ウランウデ)というところのノーボリンスカヤ収容所。バイカル湖の下がったところのすぐ東。ブラゴエチェンスクというのはソ連側の収容所だった。日本の捕虜は穀倉地帯の(ウクライナ?)に入ったものもお  る。   ここは零下五〇度になる。五〇度だと肌にチカチカ痛みがある。三〇度で耐  寒訓練。寒気に素手をさらす。しもやけになる。暖かい熊本の第六師団からき  た兵なんかすぐ凍った。股ぐらでこすって暖める。息を吹きかけたりしたらだめ。  足も耐寒靴だけど、穴などがあいていたらいっぺんに凍傷。骨だけになる。そ  うしたら切断。不潔にしていても、湿気が抜けないから凍傷になる。ものすごく  死んだですよ。一〇〇〇人の部隊が二五〇人になった。七五〇人全員が死んだというわけではない。病院に行ったり、よそに移った者もいるが。二五〇人になる  と寄せ集める。また五〇〇人の作業班。それでまた死んでいく。シベリアから帰れた者は半分とはいわんのじゃないか。たくさん死にましたよ。     しごとは毎日山に行って木を切るばかり。雪の上に座って木挽きのごと、二人で挽く。木が倒れたら、また材をちょうどの大きさに切っていく。たぶん炭坑の用材、枕木だった。二人で大きな松の木を担いでいても、一人がふらふらしていると仕事にならない。   体ふらふらの人間がいても、何人でどれだけの作業ノルマ。ノルマがこな  せないと、食事が減らされる。け落としあい。生きんがため弱肉強食。なんぼ、  きれいごというても、一本のたばこを二人でのむというのはあくまで歌の文句。  生きるか死ぬかになれば自分が一番。   お互いにひどいことはせんけど、栄養失調のものがふらふらしていると、気  持ちが一つにならず、作業ができん。一五人いたらこれだけの仕事がノルマ。  それが(達成)できんと、80,70って落ちる。食べ物に影響する。飯があ  がって(?)、くるのが減る。それだけ減らされる。「おまえ達のために」っ  て責めるし、気が滅入る。栄養失調になって病院に送られて、帰ってくる人は  おらんかったですね。   気持ちがですよ。お互い励まし合ったものでも「くたばれー」っていうです  よ。そういう気持ちが起こる。作業をカバーしてやろうとはとても思わん。じ  ぶんも精一杯やっている。   「働かざるもの食うべからず」、捕虜には徹底していた。食えないから働けないんだとは考えてくれない。   日本の兵隊は零下三〇度以下は使わん規定だったはずだけど、零下四〇度で  も「集合」。こんな日に作業やるんかいな、って出ていく。そんな寒さは真っ  赤な鉄板に唾を落とすとジュッとなるのと一緒。唾を出しても瞬間になくなる。  バケツなんか生でやるなら(素手で持ったら)、ひっついてしまう。   防寒具の中に毛糸のテトウってある。大(おお)テトウはミット。親指とほかの指だけ分かれている。そんなときはノコは大テトウのままやりよった。中のテトウを清潔にしとかんと、大テトウしてても湿気があるんで凍傷になる。   零下四〇度では頭がポーッとなる。召集兵なんかボケ気味。シベリアボケっ  ていった。隊列からふらーふらーと外れる。そういう人は、なごう(長く)もて  ん。その月の内には倒れる。千葉からきた梅室(梅村?)さんていた。奉天からの召集兵。よか椅子に座った写真は立派なもの。寒さ厳しさで呆けてしまう。痴呆同然。みなで「ぼくんなよ」といいあった。   死者ばかり続出で、だんだん少なくなると、それでも結束はした。自分は座  金をつけていた(軍曹)。幹部候補生のプライド、それだけだった。自分は班  長をしていた。   炊事班長を知っていた。「おい、重、帰りによれ」、よるとコゲをとってお  いてくれた。みんなでむしって、固いから少しずつ食べた。   シベリアで経験したが、くえんもんはなか。山野草、アカザ、アオザ。ほうれん草と一緒。シソの葉でも赤と青がある。アカザ、アオザはそれと同じ。タンポポ、アザミ。アザミは根っこでも食べられる。あくがあるが食用になる。ゴボウみたい。オスは花がつく。メスは花はつかないが、やわらかい。一本ネギの大葉。あればっかりはかとうして(固くて)食べれん。   内地に帰ってから、柔らかい山野草、気をつけるようになった。春の七草のゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、このへんではヒヨコ草、みかん園にいっぱい出る。薬草類似のものもある。イタドリは割って、水車にして遊ぶ。それも、ギシギシも食べられる。オオバコの葉も食べられる。ミツバゼリに似た黄色い花の咲  く草、あれは毒花。食べられるのは下から葉がつくから若いときはわかる。ダラ(たらのめ)は薬効がある。皮から根に成分。カンネはミカン畑の下雨で崖崩れ、大きなくずの根っこが出てきた。繊維がきついからこの辺では食べない。シベリ  アに葛はない。   シベリアではきのこを食べた。作業の頭にとって、薪で炊く。マッチで火を  おこす。たばこを吸うからマッチは持っている。そのままもってきたんでは量が少ない。煮たらかさが減る。たくさんもって帰れる。飯盒に入れて持ってくる。何でもかんでも腹さえ膨れりゃいい。そうしたら力も出る。腹ぺこでは鋸を挽いてもノコにはねとばされる。わたしは田舎のものだから柄のさけたのは安全と思っている。しらん人は柄がぼろぼろの、あんなツキヨタケでもきづかん。食べると下痢がひどい。よけいに食べると動けない。ロスケが「キノコは禁止」、飯盒の中を検査した。   種類は多い。生の松原でも松葉の下。松露じゃなくて上が黄土色、ぬるぬる  の海綿体。それをとると白い。安全、この辺ではウマンクソタケっていう。裏  側をとってそのまま焼く。簡単で一番よかった。   松の木の材を切って枕木にする。貯木場の広場に皮付きのまま詰んでいる。  中のアマガワ、白い「木ひそ」を食べに山羊が来る。枕木を二列に並べておく。  人が作業している方に山羊はこない。山羊が食べている方の枕木を上から落として圧死させる。どぎゃんして剥きよったかなぁ。皮は食べられんから剥くことは  剥く。ある程度そこで食べたり、飯盒に入れたり。大きいから全部は食べきら  ん。かなりあるですよ。皮も骨も身も残る。民間人が飼ってる山羊、たくさんいるから一匹ぐらいわからない。ロシアの歩哨に見つかったらえらいことになる。 貨車に枕木を積む。貨車は無蓋車、有蓋車、いろいろあるけど、いっぱいにするのがノルマ。有蓋車なら枕木三メートル幅に詰んでいく。端だけ積み上げて上に木を渡して橋を架けて、また詰んで橋を架ける。空洞だらけでもそとめにはわからん。「ハラショー、100%」、ロスケは鷹揚。その空洞に山羊の皮や残りを入れておく。   発覚したら大変、ロシアは思想と食料は、罪が重い。指でサンカクの営倉マー  クで、営倉行きだといつもおどされた。ポイントで、がたんとなって崩れて発  覚せやせんかって、心配するもんもおったけど、ばれんかった。丸太の着く所  は炭坑かどこかで、そこも日本人が働いていたんでしょう。凍ったままで向こ  うに着くから、向こうのもん(日本人)も食べたんでしょうかなぁ。   ノロという鹿の大きなのがいる。ロスケは一日ひま。逃亡するやつはおりゃ  せん。監督は地方人でダコララオーチ(?)、ソーニャという一八,一九の娘  とパンチ、遊びたい盛り、兵隊の前でもむつみあう(?)。  「ダバエラバ」(作業始め)  といったら、あとはノロ獲り。たいてい獲ってきていい肉だけを自分たちで食  べる。残っているのを兵隊で分けた。   松の木の上をクモキリ、ツバメの大きなやつ、松の木の上を二回、三回と飛  び回る。こりゃー巣ばかけとるばい。入った。さぁ切れ。こげなふとか木、ふ  たりで挽いて松が倒れる。なかにクモキリ、二羽ぐらい目を回している。巣を  掛ける木は中が空洞、おまけに取りやすいように谷わたしに倒した。  ヨッポイマー(このバカ野郎)  みごとな大木だけどそんなことしたら材にはならん。  ドラワ(?)  薪にしかならん。鳥はむしってちっと裂く。そういうことはやりおったです。  兵隊がネズミを食べたというのも本当だろう。我々の所にはネズミはおらんか  った。ノロのおこぼれちょうだいだけ。   黒パンを運ぶ人がいて時々落とす。それを拾う。夜に黒パンだとおもって部  屋に持っていって、臭くなった人がいた。何かの糞だった。   雪の上の作業、みんな痔になる。便所のくみ取り、冬は穴はほらん。ただの  ところにやぐらを造って上から落とす。つるはしで崩して外へ運ぶ。黄金の山、  色とりどり、みんな切れ痔だった。   凍れる空の月も日本の月とまったく同じ。みなの顔が浮かんだ。ぜったいに日本に帰るぞ、って思った。    4 脱出へ   わたしが駅で枕木の積み込み作業、引っ込み線にいた。本線を煙突のついた貨車、暖房をつけていく。  ソルター、ヤポンスキーダモイ、スマテリー  みろ、日本人が帰るぞ!   見たら確かに兵隊だ。  ハラショーボダモイ。  作業成績のよかものが帰れるんだ。   そういわれて、てっきり本当かと思って作業を続けた。本当に帰れるんか。自分たちでもほんとうかなって話をした。   作業小屋は今でいうログハウス。丸太にひびが入って隙間に苔。虫がいっぱいいる。南京虫にやられてカサボコになって、化膿した。   ロスケは女医が一人。日本人の軍医が一人。増田大尉だった。日本の医療の  方が技術が高かっただろう。神経痛なんかは嘘だといって通らない。怪我をし  た人間なんかは休める。増田軍医に化膿を見てもらった。  「重、いま帰りよるとの見たろう。東へ行きよる。ハラショーボダモイ?、作  業のでくる人間は何で帰す?使いもんにならんもんを帰すばい」   それなら栄養失調になるほかなかろう。ただでさえ腹ぺこ、そんなこと、でく  るかと思ったけど、居合わせた仲間二、三人とスープだけ飲んで黒パンを残す。  それを二週間やったらふらふらになった。ノコを挽くにもノコから引っ張られ  るごと。ぴしゃり栄養失調状態になった。保護状態になって、栄養をつけるよ  うに食事が出た。そしたらもとの体になってしもうた。作業隊に放り出された。  「軍医どの、失敗しました」   二回目にも挑戦した。パンだけでなく、スープも飯盒に入れて凍らせて隠し  た。人にやろうという気にはならなかった。残せるものはみな残した。皮膚を  持ち上げても、しわが元にもどらんですよ。老人のごとなったなぁって。四〇  キロになる人もおるけど、自分は四八キロからは絶対におちんかった。   翌月の身体検査で栄養失調、うまい具合に月一回の帰還編成に重なった。一  人だけでなく、何人かでやった。あんまり吹聴するなよ、って軍医殿にいわれ  た。   二年目の冬を迎えた一〇月に帰ることができた。最終集結地が、ナホトカのラーゲル。各地から集まってくる。ナホトカまできたところが、  そう簡単には帰してくれん。日本の兵隊にスパイがいる。教育・思想スパイ。  将校たちは最初に集められて、別の収容所で教育を受けていた。かれらがそこにいて思想をチェック。スパイです。共産党の批判をしたら、そういう人間は日本には、わたせんとなる。がまんせろ。山に戻されるぞ。赤旗の歌を朝から歌う。「ーーなにやら、旗守る」。歌わんと帰れんぞ。本当にあったかどうか知らないが、またUターンさせられて別の収容所で働かされるという話だった。船に乗るまで歌った。   向こうで技術者は優遇された。大工とか電気とか医者とか。向こうは技術が低い。かれらは給料ももらっていたのではないか。将校も優遇されたはず、幹部候補生学校で同期だった者に丹野信二がいる。その母が「岸壁の母」の丹野いせさん。丹野少尉は欧州の方で生きとったげな。ソ連に役立つ人間はむこうで永住した者もいるだろう。  重さんは給料をもらったのかーーーー   わたしはほんとうに「お国のために」です。ただ働き。国から(国債で?年金?)10万円もらった。日本政府が補償した。      毎朝競って赤旗の歌を大声で歌う。思想が良好でないと帰れない 共産主義体制の中で働いて、貧しい国だから団結するんだろうとは思った。教育程度が低い国しか共産主義にはならない。日本に共産主義はないだろうと思ったが、帰ってみたら党まであった。あんな赤軍派の事件も起きた。   船に乗る前、シベリアにいたみんなの名簿は全部没収された。時計も取られ  た。略奪と同じ。住所録まで取られたから、いまみながどこへ行ったかわから  ん。誰か、天草かな。苗字だけ、中道とか、江崎とか覚えていても、大分の時  益とかみんなしっとったけど、もうあうことはない。大分の久住を通ったとき、  ああこの辺だなと思ったけど、あえるはずもない。唐津の駅でばったり、「重  じゃなかか」って偶然にあった。その人だけがわかった。江崎グリコに勤めて  いて、中国の学生相手に学生寮を開いている。その人を通じて、二三人がわか  っただけ。満州時代の人は名簿があるらしく、教育隊の区隊長から年賀状が来  る。   船に乗る前、おみやげをくれた。共産党の本を渡された。何冊か文庫のよう  になっていて、全員一冊はないから回し読みせろ。帰還船、しんよう丸に載っ  た。船が出たとたん、その共産党の本を投げ捨てるものがおった。たちまち担  当の人がかけあがってきて「そんなことをしたら、このあと帰還する人にものすごう迷惑がかかるぞ」   しんよう丸の甲板、白衣の天使がいた。看護婦さんたち。ほんとうにきれい  だった。山の中ではロスケの女と男のむつみ合うのを見ても何とも思わなかっ  たのに、はじめて色気が出た。   舞鶴はちょうどお祭りだった。戦後鉛筆一本が一〇円とか聞いていた。女性  は堕落したとか、靴下と女は強くなったとか聞いていた。アメリカのパンスケ  になっているとか聞いていたが、うわさのごとはなかった。   田中さんという人が福岡まで一緒だった。昼間帰るとは、いやバイ。その人  は夜に帰った。凱旋ならともかく、抑留の引け目があった。こそーっと内緒で帰った。浜崎駅で同級生のお父さん、代燃車、馬に幌のかけ馬車をやっていて、その人に拾われて駅から玉島まで。家の近くまできて、叔母にあった。婦人会からの帰り。あの手紙を出した人。シベリア抑留中は何の手紙も出せない。2年以上消息不明のままで、生きているとも死んでいるともわからなかった。わたしの姿を見て  「きよしちゃんのかえってきとらすばい」  って、母親に連絡したらしい。家に帰ったが父母はおらず、弟と一番下の妹し  かいなかった。妹は別れたとき四歳。わたしの顔をしらん。弟に「このひと、  だれ」とか聞いている。  「一番ふとかあんちゃんたい」    腹具合が悪うして寝ていたら、母親と叔母がきた。  「おまえは元気で帰ってきたとか」「きよしちゃん、ようかえってきたね」  母も叔母もものすごう喜んだですよ。父は男だからあまり態度には出さなかったが、  「ようかえってきたのう」  やっぱり喜んだ。   ふだんより痩せている。おふくろが栄養のつくものをいっぱい食わせた。前  は六五キロがふつうだったが、太りすぎて七五キロになって、サツマイモ、畑  で掘ってひとうね、掘ったら苦しうてほられんようになった。   帰ってきたら帰ってきたでシベリア帰り。思想的に偏見を持たれた。共産党かという眼で見られた。町会議員をしていた父も「そういうことは口にするな」と心配した。むこうの実際、地方人(実状?)を見たら、共産主義にかぶれるはずはないが、「ああいうことはするな」といっていた。   日本に帰ってから労働基準局監督署に勤めていた人が、唐津に配属になって  転勤してきた。わたしのことを「班長」、「班長」っていう。  「おい、針木さん、班長ってやめんね」   内地に帰って、一〇年もたって戦友から手紙が来た。長崎出張で佐賀を通過  する。何時何分に停車すると書いてあった。唐津まででて、さらに佐賀駅まで行った。たくさん人がいて、誰だかわからない。向こうから走ってくる人がいた。  「班長どのー!」  周りのほかのお客さんが振り返るぐらいの大きな声だった。停車時間だけのわ  ずか数分の何十年ぶりかの再会だった。そのときも食い物の話ばかりだった。      5 ふたたび日本の生活へ・村の生活    玉島劇場の話   帰ってきてから家の手伝い。玉島劇場の番台にも座った。妹が切符売りをした。映画もだけど、鈴木□□演劇団(?)なんかも来た。   佐賀の何とか組、気が荒い。飲んできて無銭で入ろうとするから腕を広げて止める。おまえはここの兄さんかとかいう。そんなものに関係はないけど、腕に傷があったから向こうは警戒したらしい。シベリア帰りで、気が荒いことは荒かった。妹が釣り銭をまちがえて多く渡しすぎた。ふとかあんちゃん、あのさっきの人、止めて。すみませんが先ほどのお釣り、まちがっていませんでしたでしょうか。そういうと、あっそうそうとかいって返してくれた。  犬の鍋   シベリアから帰ってきて、消防団の部長をしていた。夜に隣の七山の消防団、  知り合いから電話で、「狩川の何々じゃけど、ミカン畑の貯蔵庫破り、みつけ  たけど捕まえそこなったけん、そっちで捕まえてくれ」って。一本道を降りて  きたところを派出所につきだした。そしたらお礼のつもりか、「赤犬の太かの  もっちょるけど、使うか。たべんかい」。むろん飼い犬だった。愛宕講がある  のに、村からおりてくる金が少なか。会費はよりなかもん(もっと少ない)。行事として役員を招待せなかん。さばき方は知らんもんで、シベリアで山羊をさば  いたときの見よう見まね。頭にごつん。空気入れで皮と身を剥がしたり。ちょっと開けばあとはささーっと剥げる。小便袋とかは面倒だから腸は全部出した。ぜったいお客さんにいうなよ。団員に口止め。   役員には最初の皿はふつうの肉を出した。(肉は珍しかったから)「犬じゃ  なかね」といわれた。「先生方に犬ば食わせるもんですか」。おかわりの皿か  らは犬の肉を出した。酒の入って、なんのわかるか。牛肉と犬と並べりゃーわ  かるかもしれん。呑んだらわかるもんか。気づくものは一人もおらん。赤犬は  うまか。団員は犬だと知っとるけん、始めは食わんけど、食えばうまい。みん  なが食べた。   赤犬は身のぬくもりって、ばあちゃんから聞いていた。夜尿症の子にはよか  薬。いうなといってあったけど、いつのまにかしゃべるもんがおるんですなぁ。ふたつばなし(?)、今でもその話になる。来賓の大歯先生、去年九〇いくつで  亡くなられた。「潔君はぼくたちに、とうとう、犬ば、くわせたもんなぁ」っ  て後々までいわれた。  よばい   ヨバイはこの辺ではさかんだった。わたしが帰ってきた頃にもあった。とくにお盆の夜なんかそういうルーズな風潮があった。いまでいえばフリーセックスのような。新盆の家をまわって踊るでしょう。そういうときに忍び込むのがいた。親父に見つかって逃げる。そのとき川を飛び越えようとして、さるいし、猿のような形の岩が出ていて、そこにぶつかって死んだものがある。そのちょっと上だったら渡れた。ヨバイは受ける側にも問題がある。厳しい家ではそういうことはない。家内に「お前もヨバイ受けたと?」っていうんだけど、お寺で厳しい家だったからそういうことはなかった。   うちの身内、すこし、ひとのいいものがいた。村に四つか五つ年上の娘がいた。子を身ごもった、お前の子だといってきた。「あんちゃん、おれはぜったいしとらん」っていうから、よしおれが出ていく。「病院の診断書をもらいましょか」。そうしたらもういってこなくなった。近所のことだから詮索はできんけど、だれかが自分の子を押しつけよう、面倒を見させようって、知恵を付けたもんがおるんでしょうなぁ。    (未)

 
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