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『歴博』104,2001/20janより

     書評・千田嘉博『織豊系城郭の研究』                  服部英雄
 古墳も城跡も身近な遺跡だ。少年時代にこれらの遺跡を通じて、考古学や歴史
学にめざめていった人は多かろう。ふつうの人にはただの山にしかみえなくとも、
残された遺構・遺物が、過去の世界への扉となる。城跡の場合には土塁、堀、石
垣、平場などが可視化されて、平面図(縄張り図)となる。これを読み解くこと
によって、城と城に関わった人々の歴史が解明できる。そうした意識のもとに、
若き著者による意欲作、問題提起の書が刊行された。この間、一貫して城郭研究
をリードしてこられた千田嘉博氏による『織豊系城郭の研究』である。
  「縄張りの発展過程を遺構から読み取ることが可能である」。
本書の重要な主張のひとつである。むろん遺構の編年も可能ということになる。
この視点は城郭研究に大きな画期をもたらした。とりわけ著者が注目するのは出
入り口(虎口)だ。城には絶対に通路が必要だが、籠城の際には、逆にこの通路
が致命的な弱点になる。通路を塞ぐ門は、厚い扉と閂に守られているようにみえ
ても、所詮は板に釘を打ち付けただけのもの。物理的には弱い。ほっておけばガ
ンガン叩かれ、打ち壊される。そこで門(入り口)の構造に細心の注意が払われ
た。敵を門・扉には近づけさせないための工夫、それが折れ・桝形である。
  著者は入り口の構造を、折れの数と空間の有無、その変化によって分類し編年
した。評者は基本的に著者の見解・結論を支持する。初期の刀、槍、弓矢を武器
とする城は接近戦を念頭に置いたものだ。武器が鉄砲に変わってからは、短・中
距離戦になる。虎口・桝形も空間を持ち広くなっていく。その意味からも、著者
の編年は首肯できる。賛同したい。
 しかし単線的な発達図式には若干の躊躇と保留もある。たとえば本書の示す編
年初期の事例には圧倒的に山城が多い。狭隘な虎口を持つ平城の事例は岐阜城千
畳敷のみだ。城は自然地形のままに築かれるわけではない。こんにち下から見て
も、城跡だとわかる山が多いのは、それが盛り土、削平によって造成されている
からだ。城山は自然のままの山ではなく、山頂の平地は費用と時間をかけて作り
出したものである。平地が少ない山に様々な施設を盛り込む場合には、折れを多
用した理想的な桝形を設けるわけにはいかないことも、ままあろう。もしも兵糧
蔵や兵士の快適な宿舎や、人質確保(本書270頁)のスペースをつぶして桝形
を作ったならば、短期戦には強くとも、長期持久戦には弱い城になってしまう。
また造成しづらい斜面地には、スペースを必要とする施設は作れまい。山城には
自ずから、完璧な虎口は作られにくい。編年終期の完成した馬出を持つ城は大半
が平地の大名拠点の城である。逆に本書225頁の近江北脇城は、平地にある土
豪拠点の屋敷城だが、すでに二度折れがある。古い時代でも空間があれば二度折
れは設けられたのでは?立地と虎口の形態にも相関があり、時間差以外の要素も
考えたい。
 平面プランを平面に写し取った縄張り図には、必然的に高さが読みとれないも
のが多い。しかし築城者は必ず高さを考慮しただろう。たとえば仮に弓矢の有効
射程距離を水平五〇メートル、上方一〇メートルとしよう。後者の高さは防御上
の安全圏を示している。鉄砲も同じらしい。上に向けて打った鉄砲は中らない、
とは日中戦争に従軍した兵隊の話である。小部隊の徴発行動で敵に包囲されても、
一点を突破して、山にあがる。伝書鳩を飛ばして本隊の救援を待つ。山に上がれ
ば助かったそうだ。逆にすり鉢状の小盆地に追い込まれたら、四周の山から攻撃
されて、万を越す部隊であっても全滅した。島原の乱の原城籠城者の有効な武器
は石だった(本書264頁に関ヶ原以降、礫の使用が減ったような記述があるが、
そうではない)。織豊期の鉄砲技術は近代よりは劣っていよう。高さこそが最大
の防御だった。高さの確保に有効で、手軽なものは構造物、建物である。入り口
にも建物空間を利用した立体的なものがある(熊本城ほか多くの天守への入り口)。
あえて望蜀の言を。二次元的解析から三次元的解析へ、下部構造(縄張り)から
上部構造へ。建物・構造物も含んだ「立体的縄張り図」への展開も期待したい。
                            

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