【佐賀郡大和町野口】

佐賀県大和町現地調査レポート

 調査者:藤本維佐武

 

話者 :内山 英敏さん

福嶋 芳恵さん

 

はじめに

 今回の調査は、過去の学生による当地の調査が不十分であったため、再調査という形で平成15年9月28日(日)に行ったものである。今報告では、聞き取った地名の由来や地元の方から聞いた話を中心に述べる。

 午前9時から午後1時までの約4時間で訪れた家は10軒。そのうち完全に不在であったのが2軒。家におられた方が若いか、嫁に来たから地名に詳しくないということで聞き取りができなかったのが4軒。残り4軒のうち2軒(久野勇吉さん、原利三さん)は満足のいく聞き取りができず、結局ちゃんとした調査ができたのは2軒(内山英敏さん、福嶋芳恵さん)だけだった。

 

1.内山英敏さんからの聞き取り

 内山さんは、お話を聴き終わったあとに知ったのだが、野口地区の区長をされている方であった。お役所の人間が嫌いで、自分はまだまだ若いと思っているおじいさんだ。しこ名について尋ねると、早速たくさんのしこ名が返ってきた。(しこ名の各名称、位置については別紙記載につき省略)

 鉄砲河原は、昔そこの河原で鉄砲を使った猟が行われたからだという。乳母のつくら、これは往時、周りが木でそこだけ草が生えていた所であったという。内山さんは昔、そこでよく日向ぼっこをされていたそうだ。ちなみに「つくら」とは佐賀の方言で「ふところ」という意味らしい。まさに幼子が乳母の懐で寝る気持ちよさだったのだろう。

 川沿いに登っていく道にも、しこ名は残っている。御手洗の滝から金敷(かなしき)峠までの間にノンボリ川、ウウトビ越し、一本杉、駒隠しのしこ名が残っている。ノンボリ川は、そこだけ南に下っていた川が北に上っている地形のためについた。ウウトビ越しの 「ウウ]は「おお」の音、つまり大飛び越しである。そこだけ川幅が広かったのだろうか。駒隠しは、戦国時代に駒、つまり兵などを隠したためについたのではないかとのこと。そこには大きな岩があって、岩の下側に隙間があるのだという。ちょうど西側には春日山城という城跡がある。昔ここに兵を隠すための岩場があり、それを駒隠しと呼んでいたのだと言われれば、なるほどと思う。

 この他に、今は存在しないが昔はお寺があったということで、明通寺、尊光寺、大願寺などの地名も聞くことができた。ちなみに当時の明通寺、現在その南西に位置する光沢寺の前身だという。以上、内山さんからお聞きした地名の由来について述べた。

 昔、親に連れられて山に登ったとき「ここは何々で、あそこは何々というんだ」と、いろいろと地名を聞かされたそうだ。親にしてみれば、昔から土地の人たちが呼んできたしこ名を、自分も親からそうされたように今度は自分の子供に伝えようとしたのだろうが、内山さんいわく「親の取り越し苦労」だったそうだ。生活の糧を山に求めることが極端に減って、山で昔から使われてきたしこ名など、もはや必要性がほとんど無くなってしまったという意味だろうか。

先に述べた春日山城跡についても、一の丸、二の丸、三の丸という呼び名は残っているらしいのだが、はたしてそれがどのあたりに該当するのかがわからないのとのことだった。

 昔の「大和」「松梅(まつめ)」「川上」の三地区により今の大和町は成っている。嘉瀬川を挟んで東側が大和、西側が川上であった。内山さんの住む野口は昔の大和地区である。小さい頃、町の中央を流れる嘉瀬川を越えて川上地区に行くと石を投げられたりしたそうだ。

 小学校の先生が野口地区周辺の地名を使って歌を作ったという話も聞いた。残念ながら内山さんはあまり歌の内容を覚えていらっしゃらなかった。

 

2.福嶋芳恵さんからの聞き取り

 福嶋さんから聞いた地名のうち特に気になったのが「八天山堤(はってんさんのつつみ)」である。昔は八天山(今、山は無い。昔はあったのだろうか)に修験者のような人がいたということである。また、祭りの時には地域の人たちが皆集まったのだそうだ。

 面白い話が聞けた。福嶋さんの亡くなった旦那さんのおじいさんは鍋島藩の武士。(近くには鍋島直茂の墓がある。土地の方々は「御墓所」と呼んでいる)昔、ちょんまげ頭で江戸に旅立った武士、福嶋某は故郷に帰ってきたときには散切り頭になっていた。彼の母親は泣いたのだそうだ。若かりし日の散切り頭姿の彼の写真を福嶋さんに見せていただいた。ご自分の息子さんと似ているそうだ。なかなか凛々しい青年である。彼は何度か東京に行ったことがあり、鍋島の殿様の園遊会にも招待されたことがあるそうだ。

 戦後の進駐軍についても話してくださった。当時、大和町にも多くの進駐軍が入ってきたことや、アメリカ人が家族で車に乗ってプールに泳ぎに行っていたことなど。

 

おわりに

 今回の調査の感想等を簡単にまとめたいと思う。まず、現地に行ってみて思ったのが「話者が非常に少ない」という事。不在であるケースも多かったように思う。山間部の地名を尋ねたときに、等高線の入った地図に渋い顔をされた。この地図ではわかりにくいと言われた。

 高城寺跡にも行ってみたが、墓屋ののぼりと新旧の墓石、碑などが立っているだけで少々がっかりした。

 以上をもって今回の地名調査の報告を終わる。