上梅野1区、2区調査レポート

 

調査者 緒方 祐介

北島 脩平

 


・調査内容

12月23日に上梅野1区、2区の地名調査を行った。地図に地名を書きこみ、当日の様子をテープに収めた。

 

地名

以下に今回の調査で伺った地名をあげる。括弧の中は発音の通りに表記した。その場所は地図に記載した。ほとんどすべてが現在も使われていて、地図にもそのまま記載してあった。

梅野(ウメノ)、内野(ウチノ)、嘉瀬川(カセガワ)、三反田(サンタダ)、井出(イデ)、松瀬(マツセ)、名尾川(ナオガワ)、屋形所(ヤカタジョ)、祇園さん(ギオンサン)、眼鏡橋(メガネバシ)、前田(マエダ)、山田(ヤマダ)、柏木(カシワギ)、田中(タナカ)、原(ハラ)、名尾(ナオ)、桟敷(サシキ)、桟敷峠(サシキトウゲ)、井出の口(イデノクチ)

 

・質疑応答要項

質問者 緒方祐介(以下緒方)

回答者 佐保正治さん(以下佐保さん)

 

緒方「この家に屋号はついていましたか?」

佐保さん「屋号と言うのは普通の民家には付かないから家にはないですね。例えばここから50M先に昔で言う『あらもん屋』があってね」

緒方「『あらもん屋』ですか?」

佐保さん「『何でも屋さん』の事です。今のスーパーのように品物があって。で、そこが『蔵家』と呼ばれていました。で、(地図を指差して)ここに八坂神社ってあるでしょう?ここを皆は『祇園さん』と呼んでいました。」

緒方「なるほど」

『あらもん屋』の事が出てきたとき、佐保さんは「昔は、今ほど物が簡単に手に入らなかった」と言うこともおっしゃっていた。その話に引き続いてお祭りの話が出てきた。この話には思いで深い事がたくさんあったようで、非常に楽しそうにわくわくした面持ちでお祭りの話をしてくださった。聞いている私達もなんだかとても楽しい気持ちになった。

佐保さん「今では神主さんの神事くらいしかありませんがそこの『祇園さん』で毎年7月の中旬頃になると芝居をやっていました。我々はそれを『狂言』と言っていました。特に見料は無いが『お花』と言って部落の3役に謝礼を払うわけです。」

『祇園さん』とは現在の八坂神社のこと。このお祭りは近隣の村が準備をして行われるもので、その村村にとってはお花がちょっとした収入源になっていた。芝居をする人をわざわざ呼んで無料で公開していたそうだ。とても面白かったそうだ。

緒方「川に名前は付いていましたか?」

佐保さん「ここは昔から名尾川と言っていました。名尾というのは(地図を指差して)ここの1キロ四方辺りを通称で名尾と言っていたからです。ここに重要無形文化財(県指定)を受けている『名尾和紙』があります。」

緒方「岩に名前は付いていましたか?」

佐保さん「近くにそういった大岩はありません。ここから南に3キロ程いった所に石神さんと呼ばれる大岩がありますが。」

緒方「峠に何か名前が付いていましたか?」

佐保さん「近くに峠はありません。北に3キロ程離れた所には向き合い峠が、先ほど名尾と呼んでいた辺りに名尾峠と言っていました。」

佐保さんは隣のそのまた隣町くらいのかなり広い範囲にわたってご存知であった。当時の移動手段はまず歩くことであった。今のように道が整備されていなかった時代に佐保さんは旧制中学に通うために片道30kmの道のりを自転車で往復していたそうだ。その苦労と忍耐力にはただならぬものがある。

緒方「距離の単位は?メートルを使っていましたか?」

佐保さん「私たちの年代(昭和初期生まれ)はメートルを使っていました。その上の年代は一里、二里と言っていました。」

緒方「田んぼに名前は付いていましたか?」

佐保さん「家の近郊にある田を『前田』、離れにある田を『山田』と言っていました。私の青年時代は今と違って交通の便なんて良くないから昔は足を使ってたんですよ。それで、運搬は肩ですね。何処に行くにも、産物を持って行くときにも歩きだったから、我々の時代の人は足腰が強いわけです。」

緒方「なるほど」

佐保さん「当時は車なんて町長さんとかお偉いさんしか持ってなかったし、速度も30キロくらいしか出てなかったです。排気ガス(の中のシンナー)を吸ったりしていましたね。」

佐保さんは排気ガスの匂いが好きだったそうで、車が来るとその車の跡を近所の子供らで追いかけてガスの匂いをかいでいたそうだ。速く長く走れば長い間ガスの匂いをかいでいられるので一生懸命追いかけたそうだ。今考えればとても健康には悪かっただろうなとおっしゃっていた。

緒方「田への水はどこから引いていました?」

佐保さん「この辺は池等が無いから、昔から井堰でした。この辺りでは水は豊富だったので水不足や、水争いというのは余り無かったですね。当然、旱魃も余り起こらないです。ただ、水を分けるルールと言ったら川の上流にいる人の方に水の優先権はありました。」

水を分けるルールは特に決ってはいなかったそうだ。ただ暗黙の了解で、水は高いところから流れてくるものなので川の上流に田を持っている人のほうに優先権があった。そのため上流の人がのんびり作業をしていると、いつまでも下の田んぼには水が流れてこないので困ったりしたそうだ。

緒方「雨乞いや、台風予防の神事はありましたか?」

佐保さん「先ほども言った通りこの辺りでは水は豊富で、自然災害が少ない地域なのでそういう事は殆どしていません。」

緒方「用水路の中にはどんな生き物がいましたか?」

佐保さん「川にはウナギや鮎、鮒、鯉がいましたが、今では魚が住めるスペースが無くなっているから今は放流している用水路には、ホージャーという(血を吸う生物)がいました。タニシは皆無では無かったけど、余りいませんでしたね。田にはドジョウやカニがいました。」

佐保さんは治水による河の急激な環境の変化を大変危惧されていた。魚にとって岩の隙間は非常に重要なもので、そのような隠れる場所が無いと魚は住み着かないらしい。しかし今の川を見てみると、河には石や草などがほとんど無く、ひどいところでは河を全部コンクリートで覆っているところもある。こんなことをすれば魚がいなくなるのも当然だ!とおっしゃっていた。洪水などの水害が起こらなくなった分のしわ寄せがこのような形で現れてきて、結局違う形で自分の首をしめるようなことになってしまっているともおっしゃっていた。私達が生まれたときにはすでに魚が生息している川などごく僅かだった。しかし私達若者は、数十年前まではそのような自然がまだあったが今は失われてしまったということを重大な事実として受け止め、これからを生きる者への一つの大きな課題あると思った。

緒方「この辺りで麦作は可能ですか?後村で良いとされた田は?」

佐保さん「この付近では二毛作は可能ですが、北の方等は麦を取る時期が遅くなる関係で二毛作はできませんね。ちょうどこの地域が町で一番(田の)評価が高いですね。」

ちょうど嘉瀬河を挟んで北側は気温が低いため、麦の育ちが遅いので収穫する前に田植えの時期が来てしまうらしく二毛作は行われていなかった。

緒方「何斗巻きといった田はありましたか?直蒔きはやっていましたか?」

佐保さん「そういった田はありますが、直播きはしていません。」

緒方「肥料はどういったものをつかっていましたか?」

佐保さん「化学肥料を使っていますが、昔は腐らせた物を使う有機肥料でした。」

緒方「稲の病気は?」

佐保さん「『芯食い虫』という稲の芯に食い込んでしまって稲を腐らせてしまう害虫がいて、どうやって駆除するのかと言ったら私たちが子供の時、学校の行事として午前中田んぼに行ってその虫をとっていました。『いもち病』と言って養分が奪われて自然と枯れていく病気もありました。」

稲の病気や害虫による被害には大変苦労なされたようだった。その中でも一番厄介だったのが『芯食い虫』だったそうで、これは稲の芯に潜り込む害虫でこれにやられると稲がまったく駄目になってしまうそうだ。

緒方「その病気の駆除はどうやっていたのですか?」

佐保さん「この駆除は農薬や化学肥料に頼るか、水を入れ換えて水温を低く保ったりします。他にはなたね油を巻いて膜を作ってそういった害虫等を窒息させたりしました。」

緒方「共同作業は?田植えの時歌を歌ったりはしましたか?」

佐保さん「ありました。やって貰ったら今度はこちらもやると言うことで『手間返し』と言っていました。やはり一人でやるより大人数でやった方が作業ははかどりますから。歌は歌いませんでしたが、田植えが終わった後で『さなぶり』と言って皆で飲み食いをしたりはしました。」

現代では薄れてしまった人付き合いだが、この頃、村人は皆家族のように助け合い、励ましあって共同生活をしていた。正月やお祭りの際にも協力し合い、おはぎなどのお菓子を近所同士で配り合ったりしていたそうだ。「手間返しとは良い言葉だ。これは昔の良いところだった。」と佐保さんはうなずきながらおっしゃっていた。今では人と人のつながり合い、そこから生じる人の温もりを感じる機会がずっと減ってしまっている。そう考えると寂しい気持ちになった。

緒方「牛や馬を飼っていましたか?」

佐保さん「牛を飼っていました。耕耘機の代わりにもなるし、糞は肥料にもなるしね。餌は近くの原野から草を取っていました。」

緒方「手綱は何本でしたか?また、牛を右、左に曲げる時の掛け声は?」

この質問をしたとき、佐保さんは事前にお送りした質問を読んでくださっていて、「そんな質問もあったな」と昔を思い出して懐かしそうな笑顔で話してくださった。

佐保さん「一本で、左へ曲がる時の掛け声は『さっしさっし・・・』と言っていました。右へ曲げる時は手綱を引っ張っていたと思います。」

緒方「ごって牛をおとなしくさせるためにはどうしました?」

佐保さん「余りに気性が激しいから、山での材木の運搬用に使われていました。私はごって牛を飼っていないので、よく分らないです。」

ごって牛は非常に気性の荒い牛だったそうで、そうやすやすと近づいてみることなど出来なかったそうだ。よくどこどこのだれだれがごって牛に頭突かれて骨折したと言う話を聞いたそうだ。またごって牛を専門に扱う人もいたのだとか。

緒方「なるほど。」

佐保さん「ちなみに、どの牛がいい牛かどうか判別できる仲買人の人を『バクローさん』とよんでいましたね。」

この人を仲介して牛のやり取りが行われていたので大変重要な職業の人だったそうだ。この人はどこにどんな牛がいると言うことを全部知っているので牛をやり取りする際お願いするそうだ。

緒方「そうですか。ところで、馬洗いはあるのに牛洗いは何でないのですか?」

佐保さん「いや、牛も洗いますよ。冬は洗いませんけど、夏場は蒸し暑いので、牛を川に連れてって洗ってやると牛も喜びますし、牛についている血を吸う虫もとれますので。」

牛を河(嘉瀬河)に連れていって水をかけてやったりしたそうだ。やはり愛情を持って動物に接すれば必ず動物は答えてくれるものだと力強くおっしゃっていた。

緒方「薪はどこから入手していました?」

佐保さん「近くの山から取っていました。その作業は農閑期の仕事ですね。1月〜3月くらいですね。」

緒方「むらの共有の山等はありました?」

佐保さん「ありますね、先ほど言った牛の餌をとりに行く原野も共有地でした。」

しかし特に約束事があるのではなく自由に使っていた。当然無駄に摂ったりはしなかった。

緒方「切った木を川に流したりはしましたか?」

佐保さん「川幅がせまいのでそういう事はやってないです。」

もっと下流のほうではそのような方法をとっていたところもあったそうだ。筑紫のあたりではそうしていたというのは良く聞きますとおっしゃっていた。

緒方「炭を焼いた事はありますか?収入は?」

佐保さん「一度だけ経験しています。良かったです。」

緒方「焼畑農業はやっていましたか?」

佐保さん「野焼きはしていましたが焼畑農業はやっていませんね。」

緒方「そばを作っていましたか?」

佐保さん「そばは作っていません。」

緒方「山で茸を取ったりしたという事はありましたか?」

佐保さん「それを職業にしている人はいませんでしたね。」

緒方「おかしはどういったものがありましたか?」

佐保さん「やはり、おはぎですね。後あんなしの饅頭を食べたりしました。それと干し柿です。」

緒方「干し柿の作り方はどうやっていたのですか?」

佐保さん「干し柿は山の麓に畑があって草を切って牛に持ってこさせてそれを畑に蒔く。そして柿を植えて、夜にその柿を縄にくくって柿を干すわけです。昔はハウスではなくて藁の小屋で干すわけです。」

緒方「柿の数え方は何ですか?連ですか?」

佐保さん「市場で売るような柿の束は連と言いますけど普通に数える時は一個二個です。」

緒方「勝ち栗って作っていましたか?」

佐保さん「勝ち栗は作っていませんね。」

緒方「では野草は食べていましたか?」

佐保さん「野草は食べてないです。」

緒方「米の保存ってどうやっていましたか?また、ネズミ対策は?」

佐保さん「小屋で保存していました。ネズミには猫を使っていました。」

ネズミには猫が効果覿面だそうで猫を放しておくと自然とネズミを駆除できたそうだ。猫の獲物を捕らえるすばやさと言ったら目を見張るものがあるそうだ。

緒方「昔の暖房は何を使っていましたか?」

佐保さん「この辺りの家の9割程はいろりでしたが、うちでは火鉢を使っていました。」

              大きい家ではいろりが、小規模の家では火鉢を利用して暖を取っていたそうだ。

緒方「この辺りに行商人はいましたか?」

佐保さん「鯨を売りにくる人がいたくらいですかね。」

              鯨は塩漬けにしてあって、貴重な栄養源であったそうだ。

緒方「薬はどうやって入手していましたか?」

佐保さん「薬は富山の行商さんが来ていました。」

薬の行商さんは村に尋ねてきた日をメモしておいて周期的に村に訪れたそうだ。その際前回渡した古い薬を新しいものに取り替えてくれるそうなのだが、薬屋さんは別の家から回収した古い薬を分らないようにして取り替えていたようだった。

緒方「病気になった時はどこへ行きましたか?」

佐保さん「病気になった時は昔から病院があったのでそこで。後は何でも屋さんがお医者さんの役目もやっていたので、あらもん屋へも。」

緒方「箕を売る行商人はいませんでしたか?」

佐保さん「雨具の行商人は少なくとも私たちの時代はいませんね。」

緒方「米と麦を混ぜていましたか?」

佐保さん「戦中、戦後の世代ですから米と麦は混ぜていましたよ。」

緒方「それはどのくらいの割合ですか?」

佐保さん「うちは農家ですからある程度は混ぜますが、米はある程度は確保できました。」

緒方「自給できるおかずは何ですか?」

佐保さん「自給できるおかずは芋等の野菜や鶏や川の魚ですね。」

緒方「干し柿やすいかを盗んだりしましたか?」

佐保さん「それはないです。すいかを取られた事はありますが。」

佐保さんはご自分の畑ですいかを栽培していため、逆に盗まれたり割られたりされたそうだ。どうやら当時は食べるために盗むのではなく、肝試しのような感覚でいたずらされたとおっしゃっていた。

緒方「犬を食べた事はありますか?」

佐保さん「米がある程度あったので、食糧難のときでも犬は食べませんでした。」

家で米をはじめとする食料を栽培していたのでそこまでする程、食料不足で悩んだことは無かったそうです。ただその当時、役人が来てたんすの中まで食料が無いか調べに来ていたそうです。プライバシーも何もあったものじゃ無かったとおっしゃっていた。もし食料が見つかれば没収されたりするため、見つからないように樽に食料を詰めて地中に埋めたりしていたそうだ。また配給も時々あり、佐保さんはタバコの配給を受けて村の人に配っていたそうだ。村の同級生の方が配給で新品の制服を貰ったそうで「とても羨ましかった。」と話して下さった。他にも靴などの配給があり、「この前はあなたのところが貰ったから、今回はうちが貰う。」などしたりして配給を分けていたそうだ。揉め事になることも多々あったそうだ。

緒方「恋愛は普通に行う事はできましたか?」

佐保さん「恋愛の制限と言ったら昔は親の同意がやはり必要でしたね。丁度私たちの世代は、恋愛は自由であるべきだという考えと昔の考えの狭間にありました。」

緒方「戦争はこの村にどんな影響?」

佐保さん「佐賀、博多空襲の時には電波障害が起こったり、後防空壕を作ったりしました。後夜は電気が漏れないように電灯を覆っていました。」

緒方「近所の人で戦争未亡人や、靖国の母はいましたか?」

佐保さん「いましたよ。その話をするならそれだけで1時間くらいかかりますよ。あの人たちは本当に不憫です。」

戦争未亡人の話しをされるとき、佐保さんは「不憫です。」と言いながら涙を流されていた。村人総出で戦争へ行く男性を日本のためにがんばってきてくださいと言って見送ったそうだ。それを見送るその男性の母親の気持ちを推し量ると、涙なしでは語れない話だった。また佐保さんは次のような戦争未亡人の方の話もしてくださった。夫がお国の為に徴兵され、その後身ごもっていた妻は子を産んだそうだ。男手を国に取られてしまったその方は、生まれたばかりの赤ん坊と自分一人が生きぬくのも大変であった時代を必死で生活されていたそうだ。数年してその方は国に帰られたそうだ。佐保さんはその苦労している姿を思い浮かべて涙を流された。そして「戦争はいかん。絶対にいかん…。」と涙ながらにつぶやかれた。私達にとってその話しは衝撃的だった。また佐保さんのその姿がとても痛々しくて戦争の残酷さ、戦争の苦しさ、戦争の悲しさをありありと感じた。今まで平和な世の中で生きてきて、平和がどんなものか知らずに生きてきたのだなと思った。この平和を守っていくのも我々の使命の一つだなと切に感じた。

緒方「戦後この村はどう変わりましたか」

佐保さん「質問が漠然としているので答えずらいのですが、田舎は都会から10年くらいの遅れはあるものの、経済の成長や食料の豊富さ、交通の便が変わった等たくさんありますね。日本が大きく変動したのと同じように変化しました。」

緒方「最後に生まれた年は何年ですか?」

佐保さん「昭和4年です。」

緒方「そうですか。質問に答えて頂きありがとうございました。」

このようにして無事終えることが出来た。なんと3時間にも及ぶ長いインタビューだった。その間、佐保さんは一つ一つの質問に対して丁寧に、そして熱心にお答え下さった。誠にありがとうございました。最後に、直接質問はしませんでしたが、事前にお送りした質問事項に大変無礼な質問があったことをこの場を借りてお詫びいたします。

 

・感想

このような調査をするのは初めてだったので当日はとても緊張した。しかし無事に終えることが出来てほっとしている。思ったほど地名は変化しておらず、昔の呼び名が現在でもそのまま使われていた。佐保さんの話しで印象に残ったものは、環境の急激な変化の話し、古き良き日本を感じることの出来た手間返しの話しそして戦争と戦争未亡人の話しだ。特に戦争未亡人の話しは胸に太く大きな釘が刺さったような衝撃を受けた。このレポートを打つためにテープを聞きなおしたがとても辛かった。これらの話しを佐保さんから私達へのメッセージとして受け止め、これらの事を忘れぬよう大切にしていきたいと思った。(緒方)

事前の準備や、当日も結構大変でしたが、テープ起こしの作業が一番辛かったです。当日は佐保さんが質問した内容以外にもいろいろと話して下さったのでいい話を聞けて良かったと思います。やはり、世代が違う人の話と言うのは今まで体験した事の無い話を聞く事が出来るので興味深かったです。

ただ、自動車の排ガスのシンナーって話は圧巻でしたが。(北島)