歩き、見、ふれる歴史学レポート
担当者氏名 1TE02101K黒田直樹 1TE02103M高祖靖臣
調査日 平成14年12月23日
調査地 佐賀県佐賀郡大和町八反原
協力してくださった方々 古賀 様(66) 水田 様(67)
調査の目的 現地の昔の姿を記録するし、記憶する。その作業を通じて、昔の人々の生活
と、現代の生活の差を考える。
地図の読み方、手元で入手できる資料の扱い方や情報の読み取り方、整理の
仕方を学ぶ。
レポート本文
質問内容とその応答
質問 「この周辺の地名、小字やあだなの位置を教えていただきませんか?」
応答 地図に記入済み、参照されたい。
質問 「谷の名前、川の瀬や渕、滝には名前はなかったでしょうか?むらの田んぼにそういう名前はなかったでしょうか?」
応答 地図参照
質問 「昔は山の中に田んぼはありましたか?また、それをなんと呼んでましたか?」
応答 「あった、あった。ヤマダと呼んでいた。」
質問 「井手にはどんな名前がありましたか?用水はなんという名前ですか?」
応答 「井手はオガワウチ井関といっていた。用水は兼作水」
質問 「近辺の池はなんといいますか?また、橋の名前は?古賀(小集落)の名前は?」
応答 地図参照
質問 「家に屋号はついていましたか?」
応答 「ついていない。」
質問 「名前の付いた大木や岩はありますか?また、その名前は?」
応答 「ない。」
質問 「古い道や峠に名前はついていましたか?」
応答 地図参照
質問 「地域の範囲はどこまでですか?」
応答 地図参照
質問 「この地域に何か思い出はありますか?」
応答 「小城郡から佐賀郡へ移った。富士町から大和町になった。」
質問 「田んぼの水はどこから引いていますか?」
応答 「オガワウチ井手から」地図参照
質問 「川の水量は昔と比べてどうですか?また、水争いは?水を分けるルールはありますか?」
応答 「水量は変わらない。争いごとは無かった。水は上流から順に取る。」
質問 「旱魃のときの思い出は?雨乞いの経験は?そのとき、どんなことをしましたか?」
応答 「25年前の旱魃のときに、高木瀬八幡の神主におみことをあげてもらった。」
質問 「台風予防の神事、風切りなどはありましたか?」
応答 「ない。」
質問 「用水路の中にはどんな生き物がいましたか?昔と今では変わっていますか?」
応答 「昔からヤマメ、ハヤ、イラ、コイなどがいた。昔と比べて、イラが少なくなっている。昔はすくって取れてたが、今は。」
質問 「麦を作れる田と作れない田はありますか?村の一等田はどこで、昔は一反あたり、何俵取れましたか?悪い田は一反あたり、何俵収穫できましたか?一等田で、麦は同じように一反あたりどれくらい取れましたか?そばはつくっていましたか?」
応答 「麦は昔は作っていた。今はレタス、ナスなどの野菜をつくっている。一等田では、
昔は良い時で一反で10俵くらい取れた。悪い時では4、5俵しか取れなかった。麦は一等田では8俵くらい、そばは作っていなかった。」
質問 「昔はどんな肥料を使いましたか?」
応答 「牛糞、キンピ、化成肥料、それからタンポ、タンポは肥ごえのことや。」
質問 「稲の病気にはどんなものがありましたか?害虫はどうやって駆除しましたか?」
応答 「イモチ、モンガレ、そいからウンガ。害虫は廃油をまいて駆除した。」
質問 「農作業で共同作業はありましたか?ゆいといいましたか?かせいといいました
か?田植えはどうやってしていましたか?お手伝いの早乙女は雇いましたか?ま
た早乙女にいきましたか?」
応答 「共同作業はなかった。たうえさんを雇っていたよ。加勢にいってもいた。」
質問 「さなぶり、田植えのあとの打ち上げはありましたか?思い出は?」
応答 「おひまちがあった。みんなで、酒を飲むばかり。」
質問 「田植え歌はありましたか?」
応答 「なかった。」
質問 「牛か馬か飼っていましたか?」
応答 「牛ば飼っていた。」
質問 「牛のえさはどんなものを?」
応答 「田んぼの草、わら、小麦かす、米ぬか。」
質問 「牛を歩かせたり、するときのかけ声は?右、左に動かすときは?」
応答 「右に動かすときは、手網を引っ張って、左へ動かすときは「トウトウ」とこえをだす。」
質問 「どうやって手綱は操作しましたか?一本ですか?」
応答 「一本やった。」
質問 「ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?」
応答 「鼻ぐりをして、「こばなし」をつけて、痛いようにしていた。」
質問 「牛は洗っていましたか?」
応答 「うん、洗ってたよ。」
質問 「どこで洗っていましたか?」
応答 「川の浅瀬に連れて行って洗っていた。」
質問 「草きり山はありましたか?」
応答 「あるよ。」地図参照
質問 「薪はどうやって手に入れましたか?」
応答 「そこら辺どこでも手に入る。」
質問 「入り会い山はありましたか?どこに?」
応答 「あった。」地図参照
質問 「そこでどんな作業をしていましたか?」
応答 「スギの下刈り、植林。」
質問 「木の切り出しは、どうやっていましたか?川流しはありましたか?」
応答 「路引きを昔はやったいた。川流しはやっていなかった。」
質問 「炭は焼きましたか?焼いたとすると自家生産ですか?」
応答 「自分で焼いていた。」
質問 「カマドを作ってはいけない日はありましたか?」
応答 「ない。」
質問 「山を焼くことはありましたか?そして、何をしましたか?」
応答 「野焼きして、スギを植えた。」
質問 「草山を焼く事はしますか?」
応答 「する。」
質問 「かごは取りましたか?」
応答 「取っていない。」
質問 「山栗は?カンネは?山の木の実にはどんなものがありましたか?」
応答 「山栗は取っていた。カンネは取っていなかった。山には他にシイの実があった。」
質問 「ほかに山の幸はどんなものがありましたか?」
応答 「しいたけ、きくらげ。」
質問 「干し柿の数え方は?」
応答 「一連、二連。」
質問 「食べられる野菜を教えてください?」
応答 「ギシギシ、ゲンのショウコウ、フツ、ヨモギ、オオバコ、キランソウ、セリ。」
質問 「食べられない野菜は?」
応答 「ウマンゲシゲシ、ヘビイチゴ。」
質問 「米はどういう風に保存していましたか?」
応答 「缶にいれていた。今は、保管庫になっている。」
質問 「ねずみ対策はやっていましたか?」
応答 「ねずみ捕りかごを置いていた。」
質問 「米作りの楽しみは、苦しみは?」
応答 「やはり、収穫の時が楽しみ。苦しみは、腰が痛くなること。」
質問 「昔の暖房は何ですか?」
応答 「掘りごたつ。あと、かまどでワラをやいたり。」
質問 「車社会になる前の道はどの道でしたか?」
応答 「砂利道、えくぼ道。」
質問 「村にはどうのような物が入り、外からはどんな人が来ましたか?行商人は?
魚売りはどこから来ていましたか?」
応答 「主に魚が入ってきていた。入れ薬屋もおった。行商人や魚売りはあちこちから来ていた。」
質問 「カマドのお経をあげる目の見えないお坊さん、ザトウさんは来ていましたか?」
応答 「来よったよ。川上から。」
質問 「昔は病気になったときはどこでみてもらいましたか?」
応答 「川上の医者に見てもらいよった。」
質問 「川原や、お宮の境内に野宿しながら、箕をなおしたり、箕を売りに来る人はきて
いましたか?」
応答 「来よったよ。川久保あたりから。」
質問 「米は麦と混ぜたりしていましたか?また何対何ぐらいですか?」
応答 「米7に麦3くらい。」
質問 「自給できるおかずと、自給できないおかずを教えてください?」
応答 「野菜などは自給できた。魚は買っていた。」
質問 「結婚前の若者たちが集まる宿などはありましたか?それは男だけですか?そこで
何をしていましたか?規律は厳しかったですか?上級生からの制裁とかはありましたか?」
応答 「青年会場があった。もちろん、男だけ。そこでは寝泊りをしていた。規律はそう
厳しくなかった。上級生からの制裁とかはなかった。」
質問 「力石はありましたか?干し柿を盗んだり、すいかを取ったりはしていましたか?」
応答 「力石は今でもある。すいかはよく取っていた。」
質問 「戦後の食料難のとき、犬を捕まえてナベにしたことはありますか?また犬はおねしょの薬だと聞いたことはありますか?」
応答 「山の奥では食べていた。おねしょの薬とは聞いたことはない。」
質問 「犬はどうやったら捕まりますか?」
応答 「もう、慣れているものやったら、声をならしたり、動作で招き寄せることができるようになって、それで、捕まえていた。」
質問 「「よばい」はさかんでしたか?よその村からきた若者とけんかをしたりは?」
応答 「よう、そげんことば聞きたがるねぇ。よばいはありよった。他の村から来た若者とけんかになることもあった。」
質問 「共同風呂はありましたか?」
応答 「あった。」地図記入済み
質問 「恋愛はふつうでしたか?」
応答 「厳しかった。お見合いが多かった。」
質問 「盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつあっていましたか?」
応答 「祭りは楽しみやった。神社の記念日があって、7月の半ばにやっていた。」
質問 「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?」
応答 「大きい規模であった。」
質問 「格差のようなものはありましたか?」
応答 「あった。」
質問 「昔は神社の祭りの参加、運営は平等でしたか?」
応答 「平等やったと思う。ナンギン社の尊社だったため、学校が参加していた。」
質問 「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?」
応答 「米出しをしたり、もっと米をかせげといわれた。戦争未亡人や靖国の母はいた。」
質問 「村はかわってきましたか?これからはどうなっていくと思いますか?」
応答 「村は変わってきた。これからは佐賀市と合併するかもしれない。」
以上が、聞き取り内容である。
感想
黒田直樹:今回の調査は世代が50年以上違う方たちから聞き取りをするという、いままで経験したことのないものだった。自分の身内以外で、こんなに年の離れた方たちと会話する機会がないので、貴重な体験だったと思う。世代が違うと、自分の知識に無いことがたくさん出てきて自分の考えを広げることができたと思う。今回の調査を通じて、昔の暮らしぶりは、いろいろな機械や物があふれ、便利になった現在と比べて、物は少なく、農作業も重労働だが、現在にない、工夫や協力によって生活していたということを感じた。最後に、今回、調査に協力していただいた古賀さん水田さんには本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
高祖靖臣:今回、大和町八反原での調査での聞き取りは、これまで、この年代の方々とはあまり話をする機会が無かったので、非常に有意義なものだった。今では次第に失われつつある、様々な生活や風習、慣習、そして、地名に関するあれこれを聞けて、大変貴重な体験をした。またこの町では、そう急激な自然環境の変化というものは見られず(生物の減少などは見られる)、さらに、加瀬川流域を県立公園として保護して、良い自然環境をこれからも保っていこうという努力をされていた。