【武雄市武雄町下西山地区】

歴史の認識 現地調査レポート

 

1ED03018 柴川華衣

1ED03050 山隈祐子

 

協力・山口義春さん(昭和四年生まれ)

   山口さん  (大正十四年生まれ)

〜調査に協力してくださったお二方に心より感謝します〜

(便宜上、以後、山口義春さんを「義春さん」、山口さんを「山口さん」と記述します。)

 

◆地名◆

〇現在の下西山○

 地名についてお尋ねしてみた。下西山は、昔の西山村が上西山と下西山に分かれてできた地区なのだそうだ。現在、下西山は蓬莱山(上)、蓬莱山(下)、上砥石川(上)、上砥石川(下)、茜台住宅、下砥石川、土ノ海、岩喰(北)、岩喰(南)、岡、枯木塔、北宿(東)、北宿(西)、市住宅の十四の区域に分けて自治がおこなわれている。今回お話を伺った山口義春さんはこれら十四の区域全体をまとめる下西山自治公民館長を務めていらっしゃる。

 

○昔の小字O

 今では使われなくなった小字についてお伺いしてみた。そして二つの小字を教えていただくことができた。「井場上」と「宝蔵寺」という小字だ。どちらも今では使われておらず、八十代以上の方ぐらいしか使われないのだそうだ。井場上という名前は、昔、弓矢をひく場所があったことから由来しているそうだ。

 

○円満寺○

 また円満寺には下馬地蔵というお地蔵様がいて、とても身分の高いお地蔵様なので、そのまえを通るときは馬から下りて通らなければならなかったのだそうだ。

 

○長崎街道O

 九州には豊前小倉から長崎へと至る長崎街道が通っていた。長崎街道は九州と本州(東海道や中国)を結ぶ九州でもっとも重要な交通路であった。長崎街道ははじめ、嬉野から塩田へと至るルートをとっていた。しかし、度重なる塩田川の水害により、1717年に嬉野から武雄、そして北方へと至るルートに変更された。そういうわけで、下西山には長崎街道が通っている。下西山にある北宿は街道の宿場町として、多くの旅人で栄えていた。新町という町もあったそうで、新町は街道沿いでは一番の町で、商店や診療所などがあり地区の中心地だったそうだ。

 

○砥石川○

 下西山を流れている川で砥石川という川がある。今回訪ねた義春さんのお宅の近くにも流れていたが、割と小さい川たった。砥石川という名前は、その昔、武士がその川で刀を研いでいたことに由来しているそうだ、

 下西山はとても歴史のある町だとわかった。いや、きっとどんな町にもそれぞれに歴史があるのだけれど、その歴史について知っているかいないかという違いに過ぎないと思う。土地の歴史について語ってくださったお二方はすごい。

 

◆農業◆

○武雄・下西山の農家○

 今では幹線道路も通り、商店や民家が立ち並ぶ住宅街となっている下西山も、昔は一面田んぼだらけだったそうだ。昭和三十年前後を境に、開発が進んでいったのだ。昔は五百五十戸もあった農家も、今では三十戸程度まで少なくなってしまったという。農業を受け継いでいく若者は、ほとんどいないのが実情だ。やはり、後継者の問題は深刻なようだ。

 

○農耕に貢献した牛O

 現在のようにトラクターやコンバインの無かった時代、田畑を耕すのには牛や馬が重宝されていた。今となっては想像しがたいが、多くの農家で牛馬が飼われていた。山口さんのお宅も、古くからの農家である。山口さんのお宅でも、農耕用に牛を飼っていたそうだ。下西山では、牛が多く飼育されていた。馬を飼っていた農家はほとんど無かったようだ。その理由を尋ねると、それは広さが関係していると教えてくださった。東のほうでは馬を用いていたらしい。というのも、東のほうは田畑が広かったからだ。牛と馬では足の速さが全然違う。広い田畑を耕すには、足の速い馬を用いるほうが効率的なのだ。一方、田畑の面積がそう広くない下西山では、牛を用いていたというわけだ。

 ここで山口さんは、牛の扱いかたを教えてくださった。牛を操るには、掛け声をかけるそうだ。その掛け声にも、様々なものがあった。前に歩かせたいときは「まえまえ」、後ろに下がらせたいときは「わたわた」、止まらせるには「わ」と声を掛ける。「とうとう」と言えば左に曲がらせることもできるし、「けし」と言えば右に曲がらせられる。これらの掛け声は、牛がまだ小さいころから根気強く教え込んでいくのだ。

 牛は牡牛、牝牛ともに飼われていたようだが、特に牝牛は、子供を生ませてその仔牛を売りに行くことで家計の助けになったのだそうだ。牛の餌には、野草、雑草、稲わら、米ぬかなどが与えられた。朝草切と稲わらとを混ぜて食べさせたという。草切場などは特に無く、堤防に生えた草などを与えたそうだ。また、牛を洗ってやることはありましたか、とお聞きしたところ、馬はよく洗うんだけどね、とお答えになった。牛は馬ほど洗わないのだという。馬は病気になりやすいので、丹念に洗ってやることが必要だ。一方の牛は、そこまで神経質にならなくても大丈夫。その理由を伺ってみると、「牛は体が強いんじゃないかな。」と笑っておっしゃった。

 

○様々な家畜○

 山口さんのお宅では、牛の他にも様々な動物を飼っていたそうだ。豚、にわとり、うさぎやヤギなど、多くの動物が生活の助けになったという。自分の飼っている牛を食べることはなかったが、豚は食べることがあったらしい。また、にわとりは卵と食肉のために飼育されていた。にわとりは今のような白色レグホーンなどの卵用種ではなく、名古屋コーチンなどが多かった。しかしコーチン種はもともと食肉用品種であることもあり、卵はあまりたくさん産まなかったそうだ。ヤギはその乳のために飼育された。うさぎはチンチラを飼っていて、庭に放し飼いにしていたそうだ。とても意外だったのだが、なんと、ウサギの尿には殺虫効果かおるのだという。そのため便壷の上にうさぎを乗せておくと虫が湧くのを防ぐことができたそうだ。

 このようにたくさんの動物に囲まれた暮らしを想像してみると、さぞにぎやかなものだったであろうと思う。世話をするのは大変だったかもしれないが、そのぶん、動物たちは多くの利益を与えていたのだ。今ではペットとして寵愛されている動物も、以前は農耕のため、生活のため、あるいは食するために飼育されていたものがほとんどだ。猫は米などの農産物をネズミから守るために大いに貢献していたし、犬だって古くは狩猟に貢献していたのだ。

 

O水争いと雨乞いO

 次に私たちは、水争いについてもお話をうかがった。水争いとは、自分の田へより多く水を引こうと争うことである。これは水喧嘩とも呼ばれ、特に水の必要な夏の盛りなどに良く起こったようだ。下西山でも、水争いはあったという。「そんなのは、どこでもあったよ。」とお二人はおっしゃった。しかし下西山での水争いは、こぜりあい程度のもので、あまり深刻な問題という程でもなかったそうだ。昔から「旱魃に不作なし」と言って、旱魃のあった年にはかえって米が多くとれるのだという。とは言え、やはり農業を営む上で水は大切な資源である。雨の少ない日照りのときには、もっと雨が降ってくることを願って、雨乞いが行われた。降雨を神仏に祈るのだ。山口さんも、戦後すぐの頃に一度経験があるそうだ。武雄で行われた雨乞いは、海から潮水を汲んできてそれを竹の中に入れ、氏神に捧げるというものだった。鉦太鼓を叩いて雨を願ったそうだ。今ではもう、雨乞いが行われることはないという。その理由を尋ねると、ため池もあり、水が足りているため、雨乞いをする必要もなくなったのだと教えてくださった。

 また、雨乞いの他にも、田祈祷と呼ばれる神事が行われていた。田祈祷では、豊作祈願をしたり、害虫や風がこないよう祈願したりしたそうだ。これも今ではあまり行われなくなったという。地区行事の一環として行う程度で、本当の意味での田祈祷はもうあまり見られないようだ。

 

○共同作業○

 農業は家族ぐるみで行われた。農業を手作業で営んでいた時代、たくさんの人手が必要だったのだ。子供も家の仕事や農作業を手伝うのが当然のことだった。山口さんも、小学校の六年生の頃から、牛を使って農耕を行っていたそうだ。子供であっても、一家の大事な働き手であったのだ。

 しかしそれでも、家族だけでは人手が足りず、他から手伝ってもらうこともあった。それが「ゆい」や「かせい」と呼ばれる共同作業なのだが、意外なことに、下西山では共同作業はあまり行われなかったそうである。というのも、下西山では田が狭いので、自分だけでも十分間に合ったのだそうだ。兄弟くらいでの「ゆい」はやはり行われたのだが、それもあまり規模の大きいものではなかったのだという。私たちは、「早乙女」に行ったりすることはあったのですか、とお聞きしてみた。すると、「早乙女」は下西山のあたりではあまり使わない言葉だと教えてくださった。女の人が白石に出稼ぎに行くことはあったが、それを「早乙女」と呼ぶことはなかったそうだ。

 

○田植え○

 下西山では、田植えは六月中旬に行われる。田植えの時期はその地方地方で様々なのだそうだが、六月中旬というのは、中でも少し早いほうなのだという。田植えの時には、田植え歌などは歌わずに黙々と作業をされたそうだ。その理由をお聞きすると、「さっさと終わらせたいから。歌なんか歌って悠長にはしとられん。」とおっしゃった。早く田植え作業を終わらせようと必死だったのだ。田植えの後も「さなぼり」と呼ばれる打ち上げ会などはしなかったそうだ。個人の家でぼた餅を作って食べたり、それを親戚の家に配ったりするくらいのことしかされなかったようである。田植え後には、夏祭りと一緒に一銭二銭のお金を子供にあげていたそうだ。それも田植えの楽しみのひとつとなっていたようだ。

 また、麦をつくっていたかも伺った。下西山では、麦は昔は作っていたが今ではもう作らなくなったそうだ。昭和五十年頃から、麦作は行われなくなっていったのだという。昔の麦は今のものよりも色が黒く、米と麦を混ぜると、すぐに腐ってしまうという欠点もあったそうだ。しかし昔は、農家はどこでも、米は麦と混ぜて食べていたのだ。町のほうではどうかわからないが、農村ではそれが普通だったのだそうだ。そのためもあって、麦作も稲作と同様に重要な意味を持っていた。やはり年を重ねるにつれて、次第に麦が食卓にのぼることも少なくなり、麦作の必要性も薄れていったのであろう。

 

○肥料・害虫駆除○

 稲作には肥料が欠かせない。現在のように化学肥料が無かった頃は、何を肥料として用いていたのだろうか。それをお聞きしたところ、雑草、人糞、牛糞、堆肥などを使っていたと教えてくださった。硫安(硫酸アンモニウム)などの金肥は無かったそうだ。しかし、このような人糞や牛糞などの天然肥料を使っていたためか、やはり衛生面には少し問題があったようだ。回虫などの寄生虫がたくさん繁殖していたのだという。学校では、生徒に飲み薬を飲ませて駆除していたそうだ。私は回虫というのがどのような虫なのかよく知らなかったので、それを伺ってみた。二十センチメートル以上もあるような線虫で、人間の腸に寄生するのだそうだ。想像しただけでも気色悪いが、そんなのが実際に人体に寄生するのだから怖いものだ。

 また昔は、稲の害虫駆除としては、朝の涼しい時間帯に油を撒いていた。油を撒いた上で、稲をはたいたり蹴ったりすると、稲についた害虫が落ちて羽が油まみれになり、飛べなくって死んでしまうのだそうだ。これは油取りや虫取りと呼ばれていた。また、害虫の卵のついた葉を、ひとつひとつ丁寧に手で摘み取っていったりもしたそうだ。これはとても根気の要る作業だったのだろうな、と思う。田虫取りは小学校でもやっていて、ある程度の量集めて持っていくとお金をもらえたりもしたそうだ。これはいい小遣い稼ぎにもなるので、子供はみんな田んぼに入って害虫を捕まえようと苦心していたようだ。誘蛾灯で蛾を捕まえたりもしたという。田畑に設けた誘蛾灯を夜に点灯すると、蛾が明かりに誘われてやってくるのだ。丹精込めて作った作物を害虫に荒らされてしまうのは残念でならない。自分の稲を害虫から守ろうと苦労するのは、今も昔も同じなのだ。

 

○ネズミ対策○

 米はどのようにして保存していたのだろうか。昔は缶に入れたり、紙袋に入れたりして保存していたそうだ。今は、消毒済みの紙に入れて保存するのだという。もみで米を包むと、虫がつくのを防ぐことができたそうだ。

 収穫した米や麦を保存する上での大敵が、ネズミである。せっかく収穫した作物も、ネズミに食い荒らされてしまったのではたまらない。ただ放っておいただけでは、やはりネズミの被害は避けられないそうである。万全の対策をこうじる必要があったのだ。そこで私たちは、ネズミ対策としてどのようなことを行っていたかを伺った。収催前の田に植わった状態の稲をネズミから守る術は、残念ながら無いのだという。しかし、収穫後の作物への被害は、何か何でも防がなければならない。家ネズミは、家の中に罠を仕掛けて捕まえ、薬で殺した。また、猫を飼うというのもネズミ対策の有効な手である。猫を飼うとやはり効果がありますか、とお闘きすると、「それは猫はやっぱりネズミをよく捕まえてくれるよ。」とおっしゃった。今ではすっかり愛玩用とかっている猫も、農村の生活には欠かせない役割を負っていたのだ。

 

◆生活◆

 昔の生活についていろいろとお話を伺った。遊びや食べ物や、それから恋愛についてまで、今とはまったく違う興味深いお話を聞くことができた。どの話も驚かされることばかりで、非常におもしろかった。

 

○昔の遊び○

 昔の遊びについて伺った。夏は川、冬は山で遊んでいた。男の子はぺちゃ、こま、ビー玉、もくろうち、魚釣り、めじろ捕り、凧揚げ、木登りなどをして遊んだ。ぺちゃというのは、平べったいもの同士を打ち付けて、ひっくり返して遊ぶものだそうで、めんこに少しにている遊びなのかなと思った。また女の子の遊びにはおざこというのがあった。おざこというのはお手玉のようなものだそうだ。

 

○昔の食生活O

 また、子供のおやつにはどのようなものがあったかをお尋ねした。昔は、基本的にはおやつなどはなかった。遊んでおなかがすいたときは、山にある食べ物を食べていたそうだ。逆に、私たちが小さいときにおやつはあったかと尋ねられ、あったと答えると、ちょっと意外そうにしてらしたのが意外だった。甘いものはだご、さつまいも、あめ、果物ぐらいしかなかった。しかも果物のなかでもバナナはとても高級品で、病気のときにしか食べられなかったそうだ。卵も同様でとても高級品だったのだそうだ。今ではどちらもお店で安く手に入るので、少し驚いた。ご飯は麦飯が主流で、米:麦はだいたい7:3の割合で混ぜていた。また、戦時中の食糧難の時期には米に大根を混ぜて炊いたりしていた。おかずは梅干や漬物が主で、時々いわしや魚の塩漬けのようなものを食べていたようだ。戦後の食糧難の時期に犬を食べていたという話は本当ですか?と伺ってみた。すると、お二方は食べたことはないそうだが、犬、猫、ヤギを食べるという話は聞いたことがあったそうだ。この話にはかなりびっくりしてしまった。犬を食べる話は聞いたことあるが、猫を食べていたという話は初めて聞いた。猫はおいしいのだろうか?戦後の食糧難を生き延びていくには仕方の無いことだろう。魚釣りでは、ふな、はや、こい、うなぎ、どんぽを釣って、味噌炊きにして食べていたそうだ。このような食生活が長生きの秘訣だそうだ。また、毒流しもしたことがあるそうだ。毒流しにつかわれる毒は植物からとれる毒を使ったようだ。毒を使わないときは、電気を流したりしていた。

 

○昔の燃料○

 まきは重要な資源で、主に冬に山からとってきていた。家の横に、屋根ぐらいの高さになるくらいまで積んでいた。まきは、かまどやいろり、風呂などに使われていた。また、家分けをするときには、まきを分けて家分けをしたそうだ。まきは燃料として、昭和三十年ごろまで使われ、それ以降は灯油やガスが主流になった。電気はそれ以前から通っていたが、電灯は一家にひとつと今よりかなり少なかったようだ。今の生活からは電灯ひとつの生活などは想像もつかないので、電灯ひとつでは暗くなかったですか?と尋ねたところ、ろうそくの明かりに比べれば明るかったそうで、ろうそくの明かりでは明かりがゆらめいて勉強できなかったから、「蛍雪の功」というが、そのようなものでは暗すぎて勉強できないだろう、と笑ってお答えになった。今の私たちがどれだけ恵まれているかをしみじみと実感させられた。

 

〇もやい風呂○

 もやい風呂は下西山にはなかったそうだが、離れたところにあった。もやい風呂に入りに行くときは、まきを持っていかなければならなかったそうだ。しかし、あまりもやい風呂に入ることはなかったようで、家の風呂に入ることが多かった。

 

○昔の医療O

 医療は現在ほど充実してはいなかった。町にいる医者は一人だった。一人で、町中の病人を診た。往診するのが主流で、バイクに乗って往診していたそうだ。あちこちに病院が建っている医者余りの現代とは大違いだ。しかし、医者を呼ぶときは病気が重いときで、それ以外のときは、ほとんど自分たちで薬草を煎じて(つまり漢方薬を)飲んだりしていたそうだ。さきにも書いたが、病気をしたときは、バナナや卵といった普段では食べられないような高級品を食べることができたのだそうだ。バナナは今でいうところの高級メロンのようなものだったようだ。薬に関しては、富山の薬売り(井手薬)が来ていたそうだ。

 

○青年クラブ○

 町には青年クラブがあった。青年クラブでの主な活動は浮立の稽古だったそうだ。浮立とは、お祭りのときなどに鳴らす、笛や太鼓のことだ。山口さんは笛の名手だそうで、今もお祭りのときなどで活躍されている。「青年団に入らなければ一人前じゃない」と言われていて、多くの人が青年団に所属したようだ。また、青年団とは別に女子青年団があった。青年団と女子青年団はお祭りのときに協力したり、女子青年団が青年団のお世話をしたりした。青年クラブには宿泊することができた。青年クラブに泊まるときは、大きな一枚の布団に寝て、一番下っ端が翌朝、布団を片付けなければならなかった。布団がとても大きくて、片付けるのが人変だったので、朝、他の人が起きる前に起きて、こっそり先に帰ったりしたそうだ。布団の洗濯などは女子青年団の仕事だったそうだ。

 

○昔の恋愛○

 昔の男女の出会いについてお話を伺うことができた。よばいの話について、聞いてみたいねと二人で話してはいたが、実際お話を伺う段階になると、なかなか間きだせないで困っていた。すると、それを察してくださったのか、自らよばいについて話してくださったので、とてもありかたかった。男女の出会いは、現代ほど多くなかったそうだ。夏祭りのときなどに、青年団と女子青年団との交流が出会いの場となった。また、よばいも貴重な出会いのうちのひとつだったようだ。よばいとは、夜に女性の家にこっそり忍び込むことだ。女性もよばいを受け入れていて、わざと家の鍵をかけないで寝て、男性が入ってくるのを待っていたりしたそうだ。よばいがきっかけで結婚する人もいたそうで、「まあ、今で言うできちゃった婚、やっちゃった婚やね」と義春さん。実は昔から「できちゃった婚」があったのには驚いた。これは戦後なくなった。たぜなら、住居不法侵入罪で警察に捕まってしまうからだ。「不法侵入になっていまうけん、今じゃできんよ」と一同笑った。

 

○下西山の行事O

 下西山の行事についてお話を聞いた。夏祭りや盆踊りは、昔から今も変わらず継承されている行事だ。奉納相撲は現在ではこども相撲という形で残っている。また、下西山では来年の四月の第二日曜日、御田祭りがひらかれる。御田祭りは十二年に一度、申年にひらかれるお祭りで、この地区のビッグイベントだ。御田祭りは、江戸時代以前の申年にこの地方が飢饉に見舞われたことを起源としていて、五穀豊穣を祈願して行われる祭りだ。義春さんは下西山の自治公民館長をしていらっしゃるので、このような伝統行事の保存に積極的に取り組んでいらっしゃる。御田祭りの準備は今の時期から始まっていて、忙しいそうだ。お祭りによって地域がひとつになれるので、若い人たちに地区の伝統行事を継承してほしいという思いが強いようだ。

 

◆自然◆

○川と毒流し○

 以前は、川には多くの魚が生息していた。こいやナマズ、どんぽ、カニに、うなぎまでいたそうだ。これらの川魚を釣っては家に持ち帰り、味噌炊きにしておかずとすることもあったのだそうだ。今となっては魚もあまり生息していないようだが、昔は水ももっと澄んできれいだったのであろう。また、川では毒流しをしたこともあるとおっしゃった。川に毒を流して、浮いてきた魚を捕るのだ。これでは川の水質や周囲の土壌などの環境を汚染してしまうため、当時でも毒流しは禁止されていた。だが、実際は結構多くの人がやっていたというのが実情のようである。

 

○山と山焼き○

 下西山では山焼きをしたことはあろのかを伺った。阿蘇などのように広い場所でないと、山焼きのように大規模なことはできないのだという。そのため、あまり広くはない下西山の一帯では、山焼きが行われたことはないそうだ。

下西山には、村山という共有地があるそうだ。村山は区有林であり、区の財産だとおっしゃる。下西山では深谷山が代表的な村山なのだそうだ。村山は何のためにあるのかを伺ってみた。主に薪をとるため、だそうだ。十二月、一月、二月、三月の間に薪とりをして、その間に一年分の薪を蓄えていたのだという。しかし区内財産である村山も、薪を使うこともなくなった今では、お荷物となってしまっているそうである。

 

◆戦争のこと◆

○戦争と下西山○

 幸いなことに、武雄では、戦争による被害はそれほど大きいものではなかったらしい。列車が攻撃を受けたことが一度あったそうだが、どれほどの犠牲があったのかは定かでない。お二人が、死者が出たかどうかについてお話しされていたところを見ると、やはり少ない犠牲で済んだのであろう。

 

○志願兵としての経験O

 「お二人は戦争に行かれたのですか。」この質問に山口さんは、ご自分の体験を教えてくださった。山口さんは、佐世保で竹やりを作った経験をお持ちだった。その竹やりは、柄の部分が約四十センチメートル、穂(刃の部分)が約十センチメートルだったと、身振りを交えながら教えてくださった。それを何百本も作ったそうだ。しかし、武装解除令のため、それらの竹やりも炭鉱に放棄してしまったのだという。山口さんは志願兵だったそうだ。十八歳で志願し、海軍に入隊された。十八歳。今の私と同じ年齢だ。十八歳の山口さんは、一体どのような思いで戦地へ出て戦うことを決意されたのだろうか。召集令状を待たずに、志願までして…。それを思うと、少し切ないような気持ちになった。山口さんはご無事だったから良かったものの、同じように志願して戦地へ赴き、戦死していった若者もたくさんいただろう。日本の勝利を信じて、戦ったのだろうか。

 

○学徒動員○

 一方、義春さんは、戦時中、学生だった。しかし、まだ幼い学童であっても、やはり戦争の影響は多分にある。義春さんも、学徒動員により工場で働かれた経験をお持ちだった。工場では、多くの学童が軍需兵器を作っていた。軍需兵器と一言で言っても様々なものが連想されるが、実際に義春さんが作っていたものをうかがって、私たちは驚いた。「飛行機を作りよった。」なんと、ゼロ戦を作っておられたそうなのだ。私は今まで、学徒動員で作ったものといえば、火薬とか、砲弾とか、そういった類のものだろうと思っていた。それが、飛行機。全くの、予想を裏切るお言葉に、思わず感嘆してしまった。たいして年端のいかない学生であっても、飛行機さえをも作っていたのだ。だが義春さんは、意外なことをおっしゃった。「そんなにたいした技術も持たない学生が作った飛行機々んて、ろくに飛ぶはずもない。おもちゃのようなもんだ。」そうおっしゃるのだ。その言葉は、私の胸に、少し、引っかかった。長い年月を経た今、当時を振り返ってそのようにおっしゃっているのだろうか。それとも、当時から、実際に飛行機を作っていた時も、そのように思っていらっしゃったのだろうか。もし、当時からそのように思っていらっしゃったのだとしたら…。そう思うと、なんだか寂しい気持ちになった。

 

 今回この調査を通して、昔の暮らしや農村のありよう、下西山をはじめとする武雄の地域のこと、そして戦争のことなど、いろいろなお話を聞くことができた。現在の私たちの生活とは異なる点が多く、とても興味深かった。このレポートを通じて、失われてしまった昔の生活の様子を、後世に伝えていくことができたら、と思う。