【武雄市朝日町中野地区】
歴史の認識現地調査レポート
調査者 1LT03075 高野未奈子
1LT03139 元島美希子
武雄市朝日町中野現地調査レポート
調査地域 武雄市朝日町中野
調査日 平成15年 6月28日(土)
話者 中島義明さん (大正15年生)
樋口輝次さん (昭和2年生)
溝上政弘さん (昭和4年生)
<1日の動き>
8:45 学校を出発
12:00 目的地 朝日町中野に到着
(中野入口のバス停で下車)
約束の時間は1時だったので待ち合わせ場所の中野公民館の場所を確認。しかし看板に「中野農業推進拠点地域」と書かれていたので一度通り過ぎてしまう。が、地図を見るとそこしか該当場所が無いので不安を覚えつつも公民館はそれだと確定し、地図をもらった時から気になっていた八幡神社を訪ねる。濡れた坂道を登り本殿にたどり着きお賽銭をあげ、そこで昼食をとる。
13:00 再び中野農業推進拠点地域に戻る。場所はあっていたらしくお話を聞くことができた。
15:45 皆さんにお礼を言って公民館をあとにする。こちらに不手際があったにもかかわらず親切にお話しをしてくださった。
16:10 迎えのバスに乗る。
19:25 学校到着
・・・しこ名一覧・・・
サヤンモト(道祖元) アナダ(穴田) サンノイデ(三の井手) ニノイデ(二の井手)
ヨコカマダ(横鎌田) タテカマダ(縦鎌田) ショウジリ(正尻) スミダ(角田)
ゴヒャクジ(五百寺) イッチョウダ(一丁田) ツキダシ(突出) ツヅミダ(鼓田)
サンジュウロク(三十六) サンタンダ(三反田) キュウタンカシラ(九反頭)
カミジュウノツボ(上十ノ坪) シモジュウノツボ(下十ノ坪) クタンツボ(九反坪)
モリゾノ(森園) シンゴバヤシ(神幸林) フッタ(古田) ヤマンカミ(山ン神)
ゼンクロウ(善九郎) タカミチ(高道) シク(宿) マツモト(松本)
カイモト(貝本) ウラガンノン(浦観音) ゴウノツボ(響ノ坪) タカミ(高見)
ジゾウモト(地蔵元) テンジンモト(天神元) マエダ(前田) イケウチ(池内)
オクビ(小首) イワイジョウ(磐井城) ハアグチ(原口) オグスガイ(小楠ガイ)
シッタンバタ(四反畠) ヒライシ(平石) ジョウリン(定林) マルゴマ(丸駒)
ハチリウ(八竜) イモト(揖本) ツルギダニ(剣谷) ハサゴ(葉砂子)
ナカドオリ(中通) エノキマチ(榎町) ムタグチ(牟田口) ナカゾエ(中副)
クマサキ(熊崎) フジツマチ(藤津町)
・・・字・・・
フジタ(藤田) ウシンタニ(牛ン谷)
・・・古賀(小集落)・・・
小集落は一号から十一号まであり、それぞれに名前が付いていたとおっしゃっていた。
● 一号 ウシンタニ(牛ン谷)
● 二号 シュクン
● 三号 モリゾノ(森園)
● 四号 シモ(下)
● 五号 ナカドウリ(中道)
● 六号 ジョウリン(定林)
● 七号 オクビ(小首)
● 八号 ハクチ(張口)
● 九号 タカミ(高見)
● 九‐二号 トウゲ(峠)
● 九‐三号 ササノオ
● 十号 ツルギダニ(剣谷)
● 十一号 ミサワ
まず最初にしこ名、字を聞いた。地図を皆さんに見ていただき、中野地区が全部入っていないことがわかり少し慌ててしまったが、中野区の前区長である樋口さんが持ってきてくださった資料がとても役に立った。その上しこ名や字を全て書き込んできてくださっていたので時間にゆとりをもって他のお話しを聞くことができた。
しこ名を聞いた後に「大木や岩、また、ふるい道や峠に名前はついていましたか?」と質問をすると、中島さんが「中野にはそういう大きな木や岩はなかったからねえ。昔磐井八幡宮に大きな松の木があったけど名前はなかったしねえ。今は切り倒されてしまったよ。」と寂しそうに答えてくださった。さらに「川の瀬や淵、滝や井手、橋には名前がついていましたか?」と聞くと「そういえば昔は剣谷堤から150mくらいのところに“お滝”って呼ばれていた滝があったね。でも今は家庭用簡易水道ができたせいで水の流れが変わって涸れてしまった。もったいないね。橋はいっぱいあったけど名前がついていたのは森園橋くらいだね。」とおっしゃっていた。
次に「田んぼへの水はどこから引いていますか?」と聞いた。すると中島さんと溝上さんがお二人交互に「今は繁昌ダムから引いとうよ。ダムができる前は朝日川の松本井手からひいとったよ。水の量が少なくて大変やったよ。」とおっしゃい、私たちが更に「水争いや水を分ける際の決まりなどはありましたか?」と聞くと、笑いながら「水争いはよくありよったね。水は管理当番の人がいて井関で調整して各田んぼに分けていたけど、それでも夜中に盗んでいる人とかもおったよ。」と話してくださった。
旱魃の時の思い出を聞くと「部落皆でシンボイに塩水を汲みに行って、太鼓を叩いて氏神山に登りよった。」とお答えになり、「平成6年の旱魃の時は何かしましたか?」と聞くと、当時区長をしていた樋口さんが「シンボイの塩水を汲んで高橋天満宮で祈願したよ。そのときはさすがに太鼓叩いたりはしなかったね。その次の日雨がふったんだよねえ。」としみじみと話してくださった。また、昭和14年にも旱魃がありその時は塩水を汲んできて氏神様にお供えをしたことや、昭和30年代にも旱魃があったことなどを話してくださった。しかし、台風予防の神事などは無かったらしい。これらのことは、溝上さんが村史や目記などを見て事前に調べて下さっていた。
「用水路や田の中、川にはどんな生き物がいたのですか?」と尋ねると、「大き溝にはコブナが2種類と、ドジョウ、ナマズの子、ドンコ、メダカ、ツガニやサワガニがおったね。田んぼにはドジョウ、コブナ、タニシ、メダカ、ゲンゴロウ、タガメ、タニシがおったよ。川には大き溝におったのの他にハヤが3種類と、タエビ、モエビ、ギギュウ、ニナ、カワニナ、ウナギ、シジミガイ、ナガレガイがおったよ。昔は水がきれいやったから色んなもんが住んどったよ。農薬の害もなかったしね。よくみんなで魚釣りもしたね。」とうれしそうに教えてくださった。その話のとき樋口さんが最近自分の家の近くの川で鰻を捕った話をしてくださった。今でも年に何回か鰻を捕ることができるらしい。
次に私たちが「麦を作れる田と作れない田はありますか?」と聞くと、「中野では麦は少ししか作ってなかったね。反当2〜3俵くらいかな。」と答えてくださり、「むらの一等田はどこでしたか?」と続けて聞くと「牟田口や十ノ坪のあたりかな。(昭湘)28年ごろで化学肥料を少し使っていたけど5〜6俵くらいとれよったね。収穫の悪い田は山田のあたりやったかな。4俵くらいしかとれてなかったと思うよ。」とおっしゃった。そばは作っていたのかどうか聞くと、中野では作っていなかったと教えてくださった。さらに農業のことについていろいろ尋ねると「昔は肥料には丹比肥料やリン酸、窒素を自分で別々に調合して使いよったね。後は下肥も使いよった。今は丹比肥料やリン酸、窒素が全部一緒に調合された化学肥料を使いようよ。稲の病気には今で言うイモチがあったね。害虫は戦時中には石油を使って駆除しよった。石油を瓶に入れて栓をしてから少しだけこぼれるようにしてね、田んぼにまいてかき混ぜると下に溜まっとう石油に虫が落ちて死んでしまうようにしとった。」と教えてくださった。
「共同作業はありましたか?」と聞くと「ほとんどが共同作業やったね。ゆいって言いよったよ。かせいとは言ってなかったね。田植えは苗代でしよったよ。米を田の中に蒔いて一月くらいしてから牛馬でしろかき(水をためる)してね、縄を張ってゆいで手植えしよった。六月二十日〜七月五日くらいまでかかってた。」と話してくださった。そして私たちが「お手伝いの早乙女は来ていましたか?自分の村から早乙女に行く人はいましたか?」と聞くと、笑いながら「早乙女はきてなかったね。行ってもなかったよ。早乙女になるほど綺麗な娘さんはおらんやった。」とおっしゃっていた。なぜ田植えは女性の仕事だったのかと聞くと、「男もしとったよ。朝4:30頃からやったけん大変やったね。ただ男は牛馬を使う仕事もおおかったけん田植えは女性がしようことが多かったかな。」と教えてくださった。
「さなぶりはありましたか?」と質問すると、「ありよったね。さなぶりのときはフリュウ(太鼓をたたいたり、笛をふいたりする)をして氏神山に登りよった。その後みんなで鱈と昆布と大豆にコショウを入れて炊いたもんを食べよった。さなぶりのあとは田祈祷(豊作を祈るための神事)をしよったね。同じ日にしようところもあったけど中野では違う日にしよった。」と答えてくださった。「さなぶりでなにか思い出に残っていることはありますか?」と聞くと「やっぱり賃金をもらえるときが一番楽しかったねえ。」とうれしそうにおっしやった。
「田植え歌やもみすり歌はありましたか?」と尋ねると「この辺ではそういう歌は流行らんかったねえ。」とお答えになった。どこの地方にも昔から伝わっているものだと思っていたので“流行る”という言葉での表現に少し驚いた。
次に私たちは「飼っていたのは牛ですか、馬ですか?」と質問した。すると「この辺では馬は飼ってなかったね。」と答えてくださった。「では、牛のえさはどこから運んでいたのですか?」と聞くと、「牛には稲のワラや干草、ぬかを食べさせよった。それは自分の家なんかで取れたやつやったね。あとは満州から持ってきた大豆のかすをやりよったよ。」と教えてくださった。
「牛を歩かせたり、鋤を引かせるときはどのようにしていましたか?」と質問すると「一本の手綱で操作しよった。右に行くときは『けしけし!』、左に行くときは『とうとう!』、止まれって言うときは『わあわあ!』って言いよった。」と答えてくださった。さらに「コッテ牛をおとなしくさせるためにはどうしましたか?」と聞くと特別なことはしてないよ。牛に鼻ぐりをつけていたから、手綱を引いたら言うこと聞きよった。それでダメなときは牛を逆さまに吊るしてたね。」と私たちにしてはとても怖いことを笑顔でおっしゃっていた。
「牛のえさをとるための草切場はありましたか?」と聞くと、「剣谷堤のあたりにあったよ。でも道端の草も使いよったね。あとはレンゲソウの種をまいて使いよった。」と教えてくださった。次に「薪はどうやって入手していましたか?」と聞くと、「個人の山や村の共有林から取りよったよ。あとは山師から買いよったね。山師が山から木の幹だけを取りよったから、彼らが幹から落とした枝を買い取りよった。」と答えてくださった。
「その共有林では他にどんな作業をしていましたか?」と聞くと「草払いや間伐をしよったね。でもうちの共有林は松ばかりだったからあんまりやらなかったね。」と答えてくださった。続けて「木の切り出し、木馬、路引き、川流しはありましたか?」と聞くと、「主に路引きをしよったね。川流しはしてなかった。」と教えてくださった。
「炭を焼くことや山を焼くことはありましたか?」と質問すると、「炭焼きはしてなかった。山を焼くこともなかったね。」とおっしゃっていた。「キイノという地名はご存知ですか?」と聞くと、「聞いたことがない」とお答えになった。草山を焼くこともなかったようだ。
「かごは取りましたか?」と聞くと、「ここでは“こうぞ”って言っていたけど作ってなかったね。昔は中野に紙屋があってそこではこうぞを作っていたと思うよ。その紙屋ももう無くなってしまったね。」と話してくださった。
「山ではどんなものを採っていましたか?」と聞いた。「カンネは戦争中に採っていたね。あれはデンプンがあったからね。あとは木は少なかったけど山もを採りよったし、山イチジクやアケビや山葡萄、山芋、木苺、ワラビやツワも採りよった。畑では桑の実も採れよった。」と教えてくださった。
「川の毒流しはしていたのですか?」と尋ねると、「毒流しはしていた。どんな薬かは分からんけど“ゲラン”という薬を流しよった。あとはガスを流したり、石灰を流したりしよったね。中野ではしてなかったけど堤防工事のときに誰かがダイナマイトを朝日川の深みで爆破させたね。」とおっしゃっていた。私たちはダイナマイトなんか使ったら他の面にも影響が出るのではないかと心配になった。
「お菓子はどんなものを食べていたのですか?」と聞くと「こんぺいとうやあめ、もなか、いっこっこう、アイスキャンデー、アイスクリーム、ぽんがし、グリコのキャラメルなんかを食べよった。」とおっしゃっていた。私たちが「干し柿は作っていましたか?作り方を教えてください。」と言うと、「干し柿は家ごとで作っとったね。家族みんなで柿の皮を剥いてそれを紐で縛って、日当たりがいい風通しの良いとこに吊るしてね、最後に坪に入れてワラを掛けて蓋をして白くするとよ。干し柿は連で数えていた。作った干し柿は売りよったね。こづかいくらいにはなっていた。柿の木も昔は各家庭に一本はあったね。」と教えてくださった。「勝ちぐりの作り方は?」と聞くと、「ここらでは栗はふかして食べてたね。栗を売るときは升か合ではかって売りよった。数え方はわからんけど1個2個じゃないかな。」と話してくださった。
「食べられる野草を教えてください。」と私たちが言うと、「食べられる野草はギシギシで二種類あって、一種類は食べられんかった。赤くなるやつに塩をかけて食べてたね。あとはツバナや、ヨモギ、ハギナニシ、薬用でドクダミ、七草ではセリをよく食べよった。」と答えてくださった。食べられない野草を聞くと笑いながらこれ以外は食べられんねえと言われてしまった。この他の野草は苦くて食べられないらしい。
「米はどのようにして保存していましたか?」と尋ねると、「4斗(約60kg)にして、二階に柱を立ててその上に俵を立てて置いていたね。戦後は蔵にいれていた。兵糧米は自分では保存してなかったね。すぐに地主さんのとこへもって行きよった。米も自分の分だけ確保して残りは地主さんのとこへもって行きよったね。」とおっしゃっていた。「ねずみ対策にはどのようなことをしていましたか?」と聞くと、「やっぱり猫を一番よく使いよったね。あとは杉の葉やね。杉の葉は枯れたらちくちくするからそれを置いていた。本当に効果があったのかは分からんけどね。」と教えてくださった。
「米作りの楽しみ、苦しみは?」と聞くと、米作りについてあまり知らない私たちに米の作り方を丁寧に教えてくださった。まず、苗代をつくり、苗を取って田植えをし、肥料をやる。虫取りをして田掘り(苗張りをよくするために田を掘る)をし、除草を二回くらいする。そして稲刈りをし、稲子積みをして何日かおいて乾かす。それから稲こぎをして三日くらいもみ干しをして、もみすりをし、米俵に入れるそうだ。「楽しみは米がいっぱいできることで、あとは最初から最後までずっと苦しみばっかり。」と懐かしそうに話してくださった。
「昔の暖房はどうしていましたか?」と尋ねると、「いろりがあったよ。ないところは土間に火鉢があったけど、あんまり温まらなかった。他には土で作ったのに炭火をいれたこたつを使いよった。」と教えてくださった。
「車社会になる前の道はどのような道でしたか?」と聞くと、「前の道はもうほとんど残ってないね。」と答えてくださった。車が走るようになって道はほとんど変わってしまったらしい。
「むらにはどのような物資が入ってきていましたか?」と質問すると、「肉は食べてなかったね。魚は部落に魚屋さんがいたからその人から買いよった。冬の保存食の塩イワシや塩クジラはトラックで売りに来ていた。」と教えてくださった。樋口さんの出身地である北方では、魚屋さんは始め、カゴを担いで売りに来ていたが、途中でリアカーを使うようになったと話してくださった。ザトウさんは来ているのは見たことがないとおっしゃっていた。
「やんぶし、薬売りはどうでしたか?」と尋ねると、「このへんでは“やんぼっさん”って言いよったね。やんぼっさんは地鎮祭や、お墓や供養塔の供養に来ていた。薬売りは各家庭に入り薬があったからあまり来てなかったけどたまに富山や基山からもきてたね。」と話してくださった。続けて「病気になったときはどこで診てもらいましたか?」と聞くと、「高橋にお医者さんがいたから、そこで診てもらっていた。往診もしてくれよったよ。入院はなかったね。」と話してくださった。
「川原やお宮の境内に野宿しながら箕をなおしたり、箕を売りに来る人を見たことがありますか?」と尋ねると、「箕売りはいまでも来てるよ。どこから来るかは知らないけどね。」と答えてくださった。この時私たちが“み”について上手く説明出来なかったために着用する“みの”と農具の“み”で話が食い違ってしまったが、途中で樋口さんが気づいてくださり、話を聞くことができた。ちなみに昭和になってから“みの売り”は来ていないらしい。
「米は麦と混ぜたりしましたか?」という質問には、「ああ、もう米と麦はいつも混ぜとったよ。米だけでおなかいっぱいは食べられんかった。5:5くらいで混ぜとったね。」と苦笑いしながら答えてくださった。さらに続けて「自給できるおかずと自給できないおかずにはどの様なものがありましたか?」と聞いた。すると「野菜は全部自給自足やったね。魚や肉は無理やったけど、鶏やウサギは自給して食べよった。」と話してくださった。
「青年クラブはありましたか?」と聞くと溝上さんが村史を調べてきてくださっていて、「このあたりに最初に青年クラブができたのは大正5年で、中野には昭和17年にできた。」と教えてくださった。ちなみに場所は私たちが話を聞いていた中野公民館(中野農業推進拠点施設)の上にあったらしい。中島さんは終戦の時まで、溝上さんも終戦後1年くらい、樋口さんも昭和27年くらいまでいたらしい。「男だけでしたか?そこでは何をしていましたか?」と聞くと、「男だけやったね。そこでは鐘、太鼓、笛の稽古をしていたよ。あとは荒踊りの振り付けの練習もしよった。」と答えてくださった。今でも荒踊りは行われているらしい。先日も6月24日に朝日小学校で発表があったようだ。
※荒踊り・・・武雄の荒踊りは、旧武雄藩にのみ伝わる芸能でその由来は、遠く享禄三年、今から約四百年前、島原の領主 有馬仙岩 が武雄の領主 後藤純明 を住吉城に攻めたとき、純明は闇夜に乗じて勇敢なる逆襲を以って有馬方の強兵を中通村白水原にて討ち破り、宇土手が原において戦勝を祝して大いに踊ったのがこの荒踊りの始まりと言い伝えられています。その後では日清、日露、その他の戦勝祝賀会や氏神様の祭典奉納や雨乞い祈願等に出演、永々と継承してまいりましたが戦争中一時中断していたのを戦後いち早く復活をして昭和二十六年に文部省主催の第二回全国芸能祭に九州代表として出演、その後昭和三十五年に佐賀県重要無形民俗文化財に指定され、ついで五十二年に国の重要無形民俗文化財の指定を受け、その後各地のイベント等に出演を致して現在に至っております。(お借りした“武雄の荒踊り解説”から抜粋)
「規律は厳しかったですか?上級生からの制裁はありましたか?」と聞くと、「規律は厳しかったけど自分たちがいたときは上級生からの制裁はなかったね。割り木の上に座らせるとかいうのは聞いたことがあるよ。制裁はなかったけど座る順番なんかは決まってたね。上座に近いほうから上級生が座っとった。あとは一番若い人がみんなの布団を敷いたり片付けたり、掃除もしよった。」と懐かしそうに語ってくれた。このとき私たちは自分たちの方がお話してくださっている方よりも上座に座ってしまっていることを気にしたけれど、今更どうしようもなかった・・・。
「力石はありましたか?」と聞くと中島さんと溝上さんは「中野では相撲くらいしかしてなかった。」と教えてくださった。樋口さんがいらっしゃった北方ではさしごろといって12月15日の区の生産品評会の時に米俵を持ち上げて力試しをしていたと話してくださった。
「干し柿を盗んだり、スイカを盗んだりはしましたか?」と質問すると、「干し柿はいっつも盗りよった。スイカのほうは戦前は番小屋を建てて徹夜で管理するようになったけど、話をしてる隙にとりよったりしたね。柿は警察沙汰にもなったよ。」と、とても楽しそうに話してくださった。
「戦後の食糧難のときに犬を捕まえて食べたことはありますか?また犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか?」と尋ねると「中野では犬は食べよったよ。犬は体がぬくもっていいとは言っていたね。えさを使って捕まえたり、針金で作った輪で捕まえたりしよった。」とおっしゃっていた。赤犬がおいしかったとも話してくださった。
「夜這いはさかんでしたか?」と聞くと、「夜這いはこの辺ではやってないね。夜中に外で遊んだりはしたけど、家の中には入らんかった。よその人もきてないね。」と教えてくださった。「もやい風呂はありましたか?」と聞くと、溝上さんが村史で調べていてくださって「大正14年に部落が85戸、風呂が29個、井戸が26個あって、温泉みたいなのが一ヶ所あったってかいてある。この温泉は井戸を掘ったらなくなってしまって戦後はもうなかったね。」と教えてくださった。
「盆踊りや祭りは楽しみにしていましたか?祭りはいつやっていましたか?」と質問したところ、「とても楽しみにしていた。隣組や市道だけで夏祭りをしたりもしよった。氏神様や観音堂ではフリュウ(鐘や太鼓、笛の演奏)をしよったね。観音堂では戦後3〜4年して占領軍の許可をもらって芝居もしよったよ。あとこの辺ではおひっさん(天照大神)を祭っとったから昔はお堂があったよ。」と嬉しそうに話してくださった。
「恋愛は普通でしたか?」と聞くと、少し困った様子で「普通かどうかは分からんばってん、戦前は見合いが主で、戦後はよそと同じように恋愛もありよったよ。」と教えてくださった。
「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?」と尋ねると、「米倉を持っている大地主と、自作人、小作人がおった。自作人は一丁未満で、小作人は三反百姓などやった。小作人は一反につき2〜3俵を現物払いで大地主に払いよったね。小作の契約の仕組みは知らんねえ。」とおっしゃっていた。次に「身分の格差のようなものはありましたか?」と聞くと、「ああ、あったねえ。服を見たら身分が分かりよった。」と答えてくださった。「神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?」と質問すると「祭りのときは平等やった。」と言われた。祭りの話になるととてもにこやかな顔になられるのが印象的だった。
「この村に電気やガスが来たのはいつでしたか?」と聞くと、「ガスは今も昔もプロパンガスやった。電気が最初にこの辺に来たのは大正5年ごろで最後は大正14年やったね。中野には大正10年ごろに来とうよ。」と村史を調べて教えてくださった。
「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?」と質問した。すると「この村から戦争に行ったのは82人でうち36人が亡くなった。未亡人も3人おったね。戦争に行くのはみんな働き盛りの人たちばかりやったよ。」と寂しそうに教えてくださった。溝上さんの家でも2人亡くなったと話してくださった。
最後に「村は変わってきましたか?これからどうなっていくと思いますか?」と聞くと、「生活は良くなったと思うよ。これからどうなるかは想像できんね。」と答えてくださった。“生活は良くなった”という言い方に失ったものも多いのではないだろうかと感じた。
・・・感想・・・
今回私たちが朝目町中野に行くことになったのは偶然だったが、とてもいい経験になったと思う。高校の時とは違い実際に外へ出ることで様々なことを学ぶことができた。自分たちで先方に連絡を取り、下調べを行い、知らない土地へ行く。現地まではバスに乗って行ったがそれでも二人だけでバスを降りる瞬間は色々な不安もあり緊張した。これらのことはそのほとんどが初めての体験だった。
私たちは始め中野長寿会会長の中島義明さんに話を聞かせてもらおうと連絡をとったが、中島さんが私たちにより詳しく教えてくださるために、溝上さんと樋口さんを紹介してくださった。溝上さんは村史や御自分の日記からたくさんの細かい事柄を教えてくださり、樋口さんは区長を今年の3月まで10年も勤め上げられたということから、とても地名に詳しく、細かい中野地区の地図を持ってきてくださった。私たちが持って行った地図の範囲が問違えておりどうすればいいかと不安になったが、その地図のおかげでとても助かった。また樋口さんが覚えていらっしゃるしこ名を書き込んできてくださらなかったらとても最後までお話を聞けなかっただろう。本当に感謝したい。この経験をこれから先の自分たちの研究や社会生活に生かしていきたい。