【武雄市武雄町永島溝の上地区】

歴史の認識 現地調査レポート

 

武雄町大字永島字溝の上のことについて

 

第一章 住所のうつり変わり

旧住所:杵島郡三法方溝ノ上郷(明治26年まで)以後編入になる。

    蓮池藩(龍造寺隆宣)との言われであり、行事などは汐見と一緒に行われていたと聴きおよんでいる。その後(昭和12年)武雄町に編入されるときは、溝ノ上郷の人口100余人の加入のおかげでなったといわれているものである。

旧住所:杵島郡武雄町大字永島字溝ノ上(明治26年〜昭和29年)

現住所:武雄市武雄町大字永島字溝ノ上(昭和29年4月1日以降)

 

第二章 小字の中での通称の呼び名

1.宇溝の上(ミゾノウエ)

 この中の、地域での通称の地名。

 ショオブジャー・相ノ木(アイノキ)・善六(ゼンロク)・すずめ蔵(スズメクラ)・堤の上(ツツミノウエ)・樫の木壇(カシノキダン)・馬橋(ウマバシ)・八の角(ハチノカク)・提内(デーウチ)・七の角(ヒチノカク)・ヒャーシ・掘田(ホイタ)・潟淵(カタフチ)・下(シモ)・盛崎(モイザキ)・岩段(イワダン)

 

2、字池の上(イケノカミ)

 山田(ウーベット・ジアンタン・カッタバ・ヤマンカミ・タツキワリ・ヘーフイザコ・タケンタン・テイシュゴ)・幸々谷(コウゴダン)ウマステバ

 

第三章 河川名

 溝ノ上盆地は、下流域にたびたび水害を引き起こすことから、その当時の水利学者である「成富兵庫」の立案による、遊水地帯が設定され、流れを蛇行させ、河川沿いには一段低い水田(現在の河川の小段に当る)があり、堤外に平行して副提を築き、また、河川に垂直な築堤(タカデー)が築かれていて、少量の雨でも冠水する河川構造となっていた。

 六角川の上流を潮見川と呼び、日常生活にはなくてはならない川で、「ウウカワ」と呼び、位置を表すために「アラコ」・「テンジンサン」・「モイザキ」等と言って、家畜の水浴びや、風呂がわりに利用し、親まれていた。

 池ノ上は、内の子堤(永島区所有)を流域とした「山田みぞ」よりかけ流しで水稲を栽培し、余水は池ノ内溜池に貯水され、他地域の300町歩で再利用されている、

この中間に、水田に取水するための「アカンバ堰」が設けられ、2町歩の受益而積をもっている。

 

第四章 屋号

1.湯屋(ユウヤ)

 個人で拓いた冷泉で、通常「かさ風呂」と呼ばれ共同風呂(区民及び他所からの客等)であった。(個人で風呂場がなかった時。昭和40年前半まで。)

2.新宅(シンタク)

 石材業を営み、積み石(間地石)や砕石等を採取されていて、お弟子さんを数人抱え、生活を共にしていた親分宅(現在の社長宅)である。

3.天徳寺(テントクジ)のバクリュウさん

 天徳寺の閉鎖後、そこに移り住んだ人が農家の牛や馬の入れ替え時に仲介役(仲買人)とする商買人である。売買の値段を決める場合には、タオルで手を覆い他人に見えない方法で行っていたものです。

 

第五章 古道の呼び名

 武雄の街から鹿島までの道路を「おおかん」と呼んでいた。それから分岐して溝の上に通じる道を「池の平道」(イケンヒラミチ)と呼ばれ、生活道路としてなくてはならないものであり、荷車(シヤリキやリヤカー)の通るくらいの4尺道(1.2m)と狭く、山側からは、雑木やささで覆いかぶさっていて、大人も子供も夜道の一人歩きは、怖いものであった。

 また、通常利用する集落道路は前道といい、それから分岐した宅地までを木戸道(キドミチ)と呼ばれ、角道(尺道・2尺道)であった。

 

第六章 橋名

 河川(ウウカワ)に架かる橋としては、昔から造られている石を並べたテンジンさんの「ピンピン橋」であつたが、ウウカワの水が太った(多くなった)時は渡れなく不便であった。

 そこで、戦後に兵隊から戻ってきた若者たちが、潜水橋を「アラコ」に計画され、鉄筋コンクリートの近代橋として造られ、交通の便が大変良くなったのである。

 

第七章 生活状況

 溝の上盆地は、村内10町と山田5町の水田及び畑を26戸の農家が耕作し生計を営でいる小さな集落である。

 生活水準は、8反百姓になると水田には、表作に稲、裏作に麦(小麦や裸麦)・ナタネ(カラシ)・ソラマメ(トン豆)を栽培し、畑には、四季に育つ野菜の栽培により街へ商い(アキニャー)の現金収入で生活必需品を購入していた。

 農家は、牛や馬を飼育していて、農繁期には牛馬で水田を耕し、冬場は、肥育牛として育て、子牛を売って現金収入を得る一石二鳥の生活の知恵であった。

 畑を耕すのは全部鍬を使い人力で行うため、裕福な農家は、養育することを条件に、アンネさんとして住み込ませ、子守や農作業の手伝いをさせていた。

 また、手不足な農家は、子供が手伝うのは当たり前(アテニサレル)とされていた。

 一方、5反百姓以下の農家は、農作業の手伝いや、土木工事の人夫として働き生活の足しにしていた。また、谷田の耕作に不便な所の小作を行っていた。

 農閑期には、山の薪集めや、まき割り(ワレキ)、炭焼きにより、1年間の自家消費を蓄え、余ったときは、燃料屋に販売していた。

 また、藁(わら)加工も盛んで、むしろばたでむしろ(包装や敷物などに使用)を織り・かます(米や麦を供出する時の袋)・縄ない等を加工するときは夜なべして働いていた。

 

第八章 風習

1.農休日

 休む暇もなく働いている百姓の休日を定めた。そのきっかけは、機械化(動墳)による農家の共同作業(共同防除)が始まる昭和30年代で、「皆が農作業をしないこと」を取り決め、農休日を定められた、それから農休日は現在も続けられている。

2.三夜待

 同年代の数人で組織を作り、毎月二十三日の夜亭主の家に集まり、共飲共食し深夜まで話に花を咲かせ、仲間の親睦を図る目的であった。亭主は輪番で家回しで、冠婚葬祭等までを加勢する、一生の付き合いで現在も6組織が続いている。

 

第九章 農業用水

 用水源としては、潮見川(アラコ)を主水源として、デーウチに渦巻きポンプを設置し、関係農家が当番制で一昼夜万古(バンコ)で監視を行っていた。

 バンコで夕涼みしに大人も子供もあつまり、家にあるスイカ等が持ち込まれ、井戸端会議がなされるのが楽しみであった。(現在のコミュニケーションの場。)

 また、補給水として、ため池2箇所を保有しているが、満足できる水量でなく管理は、 区長が行っていた。

 干ばつ時は、アラコからバーチカルポンプで汲み上げ、生きをしのいでいた。

 

第十章 行事や祭り等

1月7日  鬼火焚き(子供が笹で家を造り共同生活し、7日朝燃やす。)

4月3日  春祭り(ヨモギ餅をついて神に供える。)

6月    田祈祷(農作業の安全と豊作を祈り、浮立を捧げる。)

7月20日 土用の入り(区長宅で区の役員及水役が豊作祈願をする。)

7月25日   天神さん祭り(子供たちが祭りをし、水神様を祀る。)

7月29日  ヒラクチ神さん祭り(マムシから区民を守る。)

8月7日   七夕祭り(1月遅れ(旧暦)の七夕祭り。)

8月23日  祇園(夏祭り)

10月23日 秋祭り(甘酒を作って、豊作を祝う。)

12月25日 祭り(区民で1年の無事を感謝するもので、毎年家回しで行う。)

 

第十一章 遺跡

 戦国時代には、潮見城を攻める兵士たちの戦場となったこともあると聞き及んでいる。したがって、小高で、なだらかな「アイノキ」斜面に、ミカン園に開墾する時の昭和30年代に古墳群が見つかった。

 また、観音堂は、春・秋のお彼岸のお中日に、巡業者の接待をする風習が残っている。

 

佐賀県武雄市武雄町大字永島溝の上を訪れて

話者:山下一彦 氏 (昭和21年生まれ)

 

 まず、話は、「小字について」から始まった。以下に小字とその地域での通称の地名を列挙した。

1.字溝の上(ミソノウエ)

 ショオブジャー・相ノ木(アイノキ)・善六(ゼンロク)・すずめ蔵(スズメクラ)・堤の上(ツツミノウエ)・樫の木壇(カシノキダン)・馬橋(ウマバシ)・八の角(ハチノカク)・提内(デーウチ)・七の角(ヒチノカク)・ヒヤーシ・掘田(ホイタ)・潟淵(カタフチ)・下(シモ)・盛崎(モイザキ)・岩段(イワダン)

2.字池の上(イケノカミ)

 山田(ウーベット・ジアンタン・カッタベ・ヤマンカミ・タツキワリ・ヘーフイザコ・タケンタン・テイシュゴ)・幸々谷(コウゴダン)・ウマステバ

 

 一つ一つ上記の位置を地図で確認しながら、その土地について説明してくださった。新しい道路と以前からある細い道との交差点で、ちょうど荷車がUターンできるくらいの広場があって、そこをカッタベと言うそうだ。「その名前の由来を現在分かる人は、ほとんどいないのではないかな。」と、山下さん。こどもの頃から、単に場所を指してカッタベと呼んでいたそうだ。次は、ヤマンカミに。山の神という言われはないようだ。最後にウマステバ。昔、病気や老衰で死んだ馬を埋めた場所で、昭和30年ぐらいまでは、家が2軒あったそうだ。「おそらく、姥捨て山からウマステヤマに語源がかわったのではないか。」と山下さん。

 

 溝の上には、六角川がある。昔、下流域でたびたび水害が起こることから、水利学者の成富兵庫によって、遊水地帯を設定し、流れを蛇行させ、副堤と六角川に垂直な築堤(タカデー)を築き、少量の雨でも冠水する河川構造にした。昔は、遊水地帯の固定資産税は、安かったそうだが、現在は、他の土地と変わらないそうだ。また、副堤の権利は、隣接する水田の持ち主にあったようだ。川は、この土地の人の生活上欠かせないもので、川の位置を示すために、アラコ、テンジンサン、モイザキなどと呼んでいるそうだ。川に架かる橋には、昔、50〜60センチくらいの石を並べて造られたテンジンサンのピンピン橋があるが、河川の水位が上がると渡れなく不便だったそうだ。戦後、戦争から帰還した人達によって、アラコに潜水橋が架けられ、交通の便が良くなった。昔から、絶好の遊び場でもあった。ハヤ、フナ、コイ、ナマズ、サワガニ、ザリガニなど川遊びをして獲ったものが、その日のおかずになったそうだ。遊べて新鮮な魚を食べることができ、一石二鳥だ。違反であるが、毒流しも行われていたそうだ。上流から毒を流すとちょうど溝の上のあたりで、魚が浮いている。それを発見するやいなや、村全員出動して、その魚をとりに行ったそうだ。自転車の電気を利用して、魚にショックを与えてとる人もおり、たまに感電死する人もいたそうだ。しかし、現在では、こうした川の生き物はいなくなってしまった。原因は、農薬だ。昔、油を入れたビール瓶の先に栓をして竹を突き出したもので水田にまいて、害虫駆除をしていたそうだ。農薬の発展とともに、パラチオンや除草剤を使用するようになったため、生き物がいなくなったのだ。現在、こうした農薬の使用について見直し、川に再び生物が棲めるよう改善されている。

 

 また、溝の上は、主に農業で生活している。村内には10町、山田(谷の部分)には5町の水田と畑がある。農業用水は、アラコを主水源とし、デーウチに昔は水車を、現在は、渦巻きポンプを設置して、水をくみ上げていた。農家が当番制で一昼夜万古(バンコ)で監視をしていたそうだ。バンコで、各自家にある食べ物を持ち寄りこどもから大人まで、楽しいときを過ごしていた。2つあるため池も補給水として利用されていて、ため池係りが、監視していた。干ばつの際には、バーチカルポンプで水をくみ上げていた。昭和28年の水不足で、その年の収穫は0であったらしい。やはり、河川沿いに被害が大きいようだ。主な被害は、田んぼののり面が崩れることである。タニダ、谷の部分など遊水のあるところは、他がダメなときでも収穫できるそうだ。8反百姓になると、水田では、表作に稲、裏作に麦、菜種(カラシ)、ソラマメ(トン豆)、畑では、四季折々の野菜を栽培していたそうだ。また、副堤では、稲刈りの後、馬、牛のえさとなるレンゲソウを栽培していた。彼ら(馬、牛)の好物は、レンゲソウらしい。収穫された作物は、ムシロの上で乾燥させて、保管していた。

 

 農作業をするにあたって不可欠だったのが馬と牛であった。昔ピンピン橋という石を並べただけの橋(飛び石)があり今はもうないのだが、そこを人が通る際に、牛はその横の川を渡っていたそうだ。川は浅かったらしい。副堤では、馬、牛を洗っていたそうだ。馬は洗ってやらないと、足の裏がくさってしまって病気になってしまうので、洗ってやって、そして蹄鉄をはめてやる。爪は焼き鏝できれいにしてやるそうだ。また、副堤では、馬の食べる草を刈っていたそうだ。水田にくっついている副堤は、水田を持っている人のものなので、その人以外はそこで草を刈ることはできなかったそうだ。牛、馬は人々にとってなくてはならないもので、一家に最低一頭ずついて、忙しくないときに、子牛を生ませて育てていたそうだ。牝牛が子供を生むのはだいたい冬で、その時期には、乳をしぼって牛乳をとって飲むこともあったそうだ。育てた子牛は、高く(2〜3万で)売っていたそうだ。この値段は、昭和30年の始めくらいの初任月給、米1〜1.5表に相当する。2年に1回くらいのペースで、多くて5〜6頭生んでいたそうだ。そういうわけで、牛、馬は当時一番うやまわれている動物であった。しかし、牛、馬を慣れさせるためには、1年かかる。右、左に綱をつけておいて、右をひくときには‘ケシ’という掛け声を、左をひくときには‘トウ’という掛け声を、止まれというときには‘ワァー’という掛け声をかけていたそうだ。すき(耕作)を教える際には、前に一人つきそって二人がかりでおしえていたそうだ。昔は、育てていた牛や飼っていた犬を食べたりもしていたらしい。飼っている犬だけでなく、食べるために犬を輪投げでつかまえてとってきて食べたりもしていたようだ。犬の肉は、牛の肉とあまりかわらずおいしかったそうだ。また、白兎を育てて大きくなったら食べたり、毛皮は首巻にしたりしていたそうだ。しかし、化け猫騒動というのがあり、猫だけは食べなかったそうだ。昔は、いのししと出会うことはめったになかったそうだ。

 次に、子供のころの活動や遊びについて。昔、青年は青年団で活動をしていたようだ。公民館に寝泊りして、春、秋まつりのために、かね、つづみ、ふえ、たいこの練習をして、ふりゅうの踊りをしていたそうだ。このとき、毎日のように干し柿、すいか泥棒があったそうだ。春、秋まつりの日は、学校は午前中までで、このまつりのときに寄付金(50.100円)をもらっていたそうだ。この活動は、昭和30年前後まで行われており、農家だけでは生活できなくなってしまったために町で働くようになってから、青年団の廃止とともになくなってしまったそうだ。変わって、子供のころの遊びについては、主に、ケンケンパタ、かわらおとし、おにごっこ、ゴムとび、ぺちゃ、ビー玉、木渡り、仕掛けをいろんなところにかけておいて後から見て回ってとる、すずめとり、とりもちなどであった。とったすずめは食べていたらしく、結構おいしかったようだ。中でも、一番おいしかったのは、カッチュウという鳥らしい。他に、おやつとして、木の実、どんぐり、しいのみ、あけび、くり、かき(干し柿)、野いちごなど四季折々の山のめぐみをいただいていたそうだ。

 最後に、昔の村と比較した今の現状について。昔、村には26戸あり、村全体が家族みたいであったそうだが、今では、戸数は増えているが人口は増えておらず、少子化が進み、また、今では、子供を見かけてもどこの家の子供だかわからないような状況になってしまったらしい。「昔は、家族づきあいがあったのに、今ではなくなってしまった。以前は、子供が悪さをしていたら、叱ることもできたのに、今はどこの家の子供かわからないので、叱ることもできない。」と、山下さんはおっしゃっていた。こういう状況を解消しようと、今では、公民館主催のレクリエーションを行ったりして、子供たちと触れ合う機会を増やそうとがんばっていらっしゃる。また、今では、週休2日制となり、土曜日に子供たちの学校がないので、地域活動を行って子供と触れ合い、子供の社会勉強にでもなるようなことができれば、とおっしゃっていた。その他にも、町全体を盛り上げようと、保養村という市有地を設けたそうだ。そこには、宇宙科学館、文化会館、図書館などが整備されているそうだ。ここに観光客を呼ぶための試みがなされている。また、武雄は温泉でも有名で、近々、3つの場所から温泉が湧き出したらしい。そこの水質は3つとも違うので、一緒にしてはいけないそうだ。今度は、温泉につかりに行きたいと思う。さらなる発展をしていることを楽しみにしながら。