【武雄市武雄町川良地区】

歴史の認識 現地調査レポート

 

川良レポート

担当 後藤信行・中垣圭市

 

1.川良の柏岳では、打製石器を製造した跡がある。あと、このあたりには石器が散布しているため、一万年前から人が住んでいたと考えられている。今は建設会社が川良の土地に目をつけ、そこを住宅地にするまでは米づくりがさかんだった。その米づくりが始まったのは、弥生時代と考えられている。その米づくりは、武雄盆地全体で行われていた(もちろん川良でも行われていた)。米づくりについて、みやこ遺跡などがそのことをもの語る重要な遺跡となっている。

 

2.川良から地域の枠は少し広がるが、武雄市内には古墳が173基確認されている。それに加えて盗掘されたり、造材、みかん園の造成などで破壊された分も入れると300基以上あったと見られている。それらのほとんどは円墳で、浦古墳だけが前方後円墳である。あと、白岩運動公園では箱式石棺墓が見つかっている。

 

*ちょっとここで・・・

平安時代の武雄は長島庄と杵島庄の2つの荘園があった。ちなみに、川良のある武雄市は長島庄であった。長島庄の成立は、承安2年(1172)以前とされている。あと、ここらへんの土地は後藤氏が支配をまかせられていた。

 

「黒髪山の大蛇について」

これは、「肥前古跡縁起」や「藤山考略」に記されている。当時、後藤氏は肥前に拠点をもった鍋島の旧姓で、3代目の助明のときに黒髪山で大蛇が出現し、退治に困っていた。そんな時、平安時代の末期に豪勇無双で知られていた源為朝はあまりにも乱暴者であったため、勘当され九州に追放されてきていた。助明は彼に退治を頼み、みごと倒すことに成功した。その後には、住吉城が作られている。17代目職明は、明応5年(1496年)12月、黒髪山にある黒髪神社の大宮司に黒髪右京助家俊を任命し跡目を允許、さらに川良の丘陵に館を構えたと言われ、川良古城跡と呼ばれている。

 

3.武雄では文中元年(1372年)に、南北朝の動乱があった。北朝方の小弐頼澄は朝日町中野の烏帽子岳に拠点を持ち、さらに今川仲秋は武雄町川良の柏岳の拠点を持った。それに対し、南朝方の武雄鍋島は朝日町中野の磐井砦と猪熊砦に寄って対峙。これは南朝方が優勢だったため、肥後の菊池武政は南朝方の苦戦を知り、光明の救援にかけつけた。それにより、朝日町の繁晶で大決戦となった。

 

4.天保6年、7年の冷害や洪水による米や麦の不作などによって、米の値段の値上がりが激しく、しかも一般百姓の年貢は、豊凶にかかわらず収穫高の五割が課せられており、貧農小作はその上、加地子として二割を地主に収めなければならず、農民の貧困がすすむ一方だったため、武雄領の里代官の太浩寛太夫(おおこうかんだいう)は、佐賀藩主に対し、「民百姓は救いようのないほど疲弊しており、何とか今のうちに救いの道を講じていただきたい」と武雄領主を通じて嘆願したが、この諌言は藩主の怒りにふれ、「身分をわきまえない所業、もってのほか」というので、沙汰を持てということになった。寛太夫は庶民が救われることを願って、天保8年(1737年)11月15日に「農耕天下基本人命所繋」(のうこうてんかのきほんじんめいをつなぐところ)」と遺書を残して割腹自殺をした。彼の戒名は「太浩常機居士」で、武雄町川良の円応寺に墓があり、朝日町中野の居宅跡には五輪塔が建っている。

 

5.武雄領の山の中には「猪鹿塔(ししんとう)」という石碑がたっている。それは狩場であった山にある。現在までに確認されている「猪鹿塔」は五基で、若木町御所の山中にあるのが一番大きく、高さが85センチの自然石である。武雄町川良にある大磐若木(だいはんにゃき)は切石加工で「猪鹿一百誌石、天明四甲辰年2月17日」とあり、裏面には刻字がない。五基のいずれも享保年間から天明四年(1784年)までの江戸中期であり、銃殺した猪や鹿が百単位の頭数になると建てられたものらしい。

 

6.明治維新を敢行した新政府は、その誕生当時、幕府側の強硬な反政府抵抗勢力を排除するのに苦慮していた。そんな中武雄は、慶応四年(1868年)5月に武雄領生鍋島茂昌(しげはる)が新政府に指名され、東征大総督府(討幕軍の最高司令部)の直属部隊として動員令を下された。その武雄軍団は、野砲・臼砲十門を配属して、兵庫から英国船二隻に分乗し、日本海をわたり、久保田(秋田市)に到着したのは慶応四年(1868年)8月1日であった。その戦いでは秋田領内に侵入している庄内軍を撃破した。その後、平沢海岸(秋田県内利郡仁賀保町)で庄内軍と戦い、一時失脚するが、秋田市内方12キロの長浜では庄内軍を撃退。しかし、ここでは完全なまでの撃退とはいかなかったが、庄内軍は防戦一方になったため敗走していき、最後には塩越南方10キロの大師堂・観音森で降伏した。ちなみに庄内軍は幕府軍である。その羽洲戦では計14名が戦死・戦病した。その中には、大師堂付近で戦傷死した26歳の西村喜八孝之と長浜で戦死した34歳の馬渡栄助金秋の二人が川良出身だった。14名は、17・23・33・50年の祭祀にも円応寺に改名。

 

7.画家では、川良出身として岩谷白如斉・温古斉がいた。百姓の子、岩谷周助は絵がたくみであった。武雄神社の拝殿の合天井に画かれた絵は、白如斉・温古斉父子の合作であったと言われている。有名な作品で、白如斉は「山水図」「琴棋書画図」、温古斉は「桐に鳳凰堂」「牡円山猫図」がある。

 

8.文化財として、市に指定されている円応寺の半鐘で、これは寺の行事の合図などに鳴らしたもので、朝鮮鐘のよさを取り入れた鐘。あと、同じく円応寺の金木犀(きんもくせい)で、根回り2.59メートル、幹が直径82.5センチ、枝張り東西14メートル、南北15メートル、高さ12.5メートル、樹齢200年である。

 

9.昔、年貢納めのお祭りには必ず豊年三助踊りがまず踊られ、そのあと酒宴が開かれたというのが川良しか残ってない。踊りの起源は昔の労働歌が祝いの歌に転化したものといわれた。伝説では今から400年ばかり前、竜造寺隆信が家督を長男にゆずって須古城に隠居しているとき、訪ねてくる豪族たちにこの踊りを余興として披露したらたいへん喜ばれたので、それ以来流行。川良の踊りは、揃いのハッピに膝小僧の出る白パンツと白足袋、向こう鉢巻きをしたご婦人たちがツウマス(米をはかる容器)とトガキ(一斗ますの中の物をならす丸棒)をもった人、俵をもった人との二人一組になって踊る。単純で郷土色ゆたかなユーモラスな踊りである。

 

10.柏岳の中腹、円応寺の裏山に柏姫の墓といわれているものがある。柏姫は第56代清和天皇の叔母にあたる人。惟仁親王(清和天皇、母は藤原氏の出)と異母兄の惟嵩親王との間に、立太子問題が起こった時、柏姫はぜひ甥の惟仁親王を皇太子に立てたいと念願した。しかし、それぞれの主張があって、なかなか姫の希望どうりにはいかなかった。ある年の三月、柏姫は三人の供をつれてこっそりと京都の町をぬけだした。日ごろ信心する神社に甥の立太子を祈願するためである。それは高良山参りであった。しかし、九州の香椎の宮、英彦山などをこえる間に姫は力尽きて倒れてしまい、保養地として知られていた武雄温泉で静養させようと、娘を連れて川良の大徳寺(今の円応寺は大徳寺のあとに建てられた)に身を寄せた。しかし姫は日ごとに弱っていき、ついには永眠された。お供のものは、姫のなきがらと姫がもっていた鏡を柏岳に埋めた。この山を柏岳と呼ぶようになったのも、このときからである。柏姫の祈願のせいか、惟仁親王は清和天皇になることが出来た。1186年、源頼朝は平家追討の戦勝報告のため、使者を武雄神社に参拝させたが、その折、柏姫の墓にも浄水をささげてお参りさせた。その水をくんだ所を鎌倉水と言って、円応寺の西側に今も四季を通じてこんこんと清水が湧いている。この水はどんな干ばつにも涸れることがない。「鎌倉殿がくまれた水」ということから、村人たちが「鎌倉水」となづけた。

ちなみに・・・川良は海抜840メートルの八幡岳にある、伊万里に行くのに12もの坂がつづく十坂峠からの水源と内ノ湖からの水源、そして三坂の三つの水源により豊かな水が常にそそいできている。それらの水はとてもキレイなため、日本一水道代が高いことで有名である。

 

11.元禄3年(1560年)12月、後藤貴明は須古の城主平井経冶と、橋下村芦原で戦ったが、戦い利にあわず、馬にむちうって退却した。ところが、彼のうしろから須古の猛将と言われた白石弥五郎が追いかける。その時、弓矢の名人と言われた武雄兵部太夫とその弟右馬太夫は白石弥五郎に近づき、みごと射たてた。しかし、須古の一軍は勝ちに乗じて貴明の拠点の塚崎城に追って来る。この時、川良の浄円寺の心巴和尚は「須古軍来る」の知らせを聞くやいなや、寺の半鐘を打ち鳴らした。心巴和尚は、先代純明の甥にあたり、もともと武芸に精通した人。鐘の音を聞いて、足軽百姓たちは和尚とともに、おっとり刀を手に甘久に出陣した。そして、寄せ手の大将花木甚左衛門が和尚に迫ってきた。和尚はこれを挑発したため、花木は怒って向かってきたが、和尚は打ち倒した。大将を倒された平井軍は、退却するはめになった。川良と甘久の境の田圃の中に三つの塚がある。花木甚左衛門ほか二人の戦死者を葬ったところで、「花木塚」とも呼ばれる。三つの塚にはそれぞれ松を植えたが、村の人はこの塚の草木を切ると崇りがあると言って手をつけなかった。この木は大きくなり、のちに武雄名所「三本松」となったが、昭和18年に松くい虫にやられて枯れてしまった。

 

12.落ち武者の前田利清の矢筈の伝説がある。織田信長に仕えた前田備前守利清は、信長が本能寺で討たれたあと、家来数人を連れて諸国を流浪し、ある年唐津に上陸した。唐津付近では安住の地が見つからず、彼らはさらにあちこちと歩いて、ついに西川登の矢筈にたどり着いた。そこは人里離れた山の上の部落で、落ち武者にとっては格好の隠れ家であった。しかも、矢筈の人たちはそこで平穏な日々を送っていた。利清はそこで村の娘と結婚し、この地に骨を埋めようと思ったが、考えれば考えるほど乱世の世の武士の身分がはかなく感じたため、彼は修験道に入って山伏になる決心をした。その頃、川良に吉祥坊という修験道の道場があったので、ここで修業すること三年、利清は勇誉という僧名で矢筈に帰ってきた。帰ってくると彼は、唐津の鏡神社の分霊を祭り、矢筈をご神体とした矢筈神社を建て、村人の心のよりどころとした現在の矢筈大明神である。

 

13.お諏訪さんを東に辿れば、「石塔」と呼ばれるところに、大きな石の塔が立っている。これは市の指定文化財にされている。建久四年(1193)、源頼朝が富士の裾野で催した「巻狩り」は曽我兄弟の敵討ちとして世間に知られているが、彼らは父の仇工藤祐経がこの巻狩りに参加しているのを知り、夜の暗闇にまぎれて忍び込み、無事に仇を討った。ところが、陣中は大騒ぎとなり、兄の十郎は殺され、弟の五郎は捕らえられ鎌倉の牢屋に連れていかれ、やがて病死した。十郎の許婚者であった大磯の虎御前は、兄弟の冥福を祈るために黒髪を切り落とし、善光寺の尼さんになった。ちょうどその頃、佐賀の古城の里に西国一と云われる岩蔵寺が建設されると聞いて、虎御前は九州に下ってきた。道中の中国、四国地方に石塔を建てて、兄弟の冥福を祈ったという。その三番目に建てられたのが、川良にある八並の石塔である。彼女は古城の岩蔵寺で、写経と読経の毎日を過ごしながら余命を全うしたと伝えられている。

 

14.八並の石塔の隣に、夜泣地蔵があり、子供の夜泣がたちまち止まるというので祈願しに来る母親が大勢いた。元禄十三年の開眼である。また、この彫刻は美術的にも高く評価されている。これより東へ百メートル行ったところに、黒髪山の大蛇を退治した為朝が、その矢を洗ったという「矢洗川」がある。

 

15.四百年以上も前に、円応寺の僧庵(お坊さんの寝泊りする家)があった場所に、僧庵橋がおる。今ではコンクリートの橋になってしまったが、この橋の上流で、浄円寺の東に位置するところに円応寺が建てられたのは、永正十六年(1519)である。これは第十八代後藤純明の発願である。彼は壱岐の出身で、西川登高瀬の慈円寺の和尚了然禅師の開基という。現在、この区域は寺内(じにゃあ)と呼ばれている。円応寺は戦火に焼かれ、文禄年中に柏岳の中腹に再建された。

 

16.長崎街道から少し離れたところに古い禅寺である浄円寺がる。第十八代の領主後藤純明が大永二年(1522)に建立し、了然禅師をして開山たらしめたという。彼は柏岳の中腹に、大きな楠が毎晩光を放っていると聞き、これを瑞木として利用した。四百六十年ばかり経っているが、当時の楠は本堂にその面影をとどめている。本尊は薬師如来、純明自身が彫刻したそうだ。

 彼が浄円という名で仏門に入ったのは大永七年(1527)である。その父、公勢が若木の日鼓城で次男公政の乳母に毒殺された。純明は、後藤氏を継ぐために母の実家がある武雄に帰っていたが、ただちに日鼓城の腹違いの弟公親を攻めた。この戦いののちに、父の菩提を弔うために頭を丸めたと伝えられている。戦国の乱世を生きてきた純明にとっても、父の急死は大変な動揺であり、それがきっかけになって建てたのである。境内には六地蔵の純明の墓がある。これは大変珍しい形の墓で、高さ2.14メートル、大きさでは最大級のもの、普通の建て方は堀立式ではあるが、これは石盤上の自然石の基礎に立っているそうだ。前方には「月湖浄円居士」、後方には「天文二十三年三月十八日」と刻まれている。墓地の西南の隅に、瑠璃姫の供養として六地蔵がある。十七歳で亡くなった純明の娘で、第十九代領主貴明の室であった。さらに、ここには当時の大金持ちであった浄円寺の檀家である原鴨右ヱ門の墓もある。

 

*ちょっとここで・・・

<長崎街道について>

長崎街道は長崎から小倉まで、25宿、57里(228キロ)で、徳川将軍への年始のあいさつとしてオランダ商館長の江戸参府のルートであった。この長崎街道は長崎を出発して時津―彼杵―嬉野―塩田―鳴瀬―北方―大町を経由していたが、享保年間に嬉野―内田―渕の尾峠―上西田をへて武雄に入る新街道が開通した。

 

17.度々でてきたが、円応寺とは、武雄領主の菩提寺である。第十八代純明の開基によって浄円寺に建てられたが、戦火で焼失してしまい、再建されたものである。二十代家信以後の領主の墓が東西に刻まれており、位牌堂も残っている。本尊は十一面観音で、弘法大師の作と伝えられている。参道三百メートルで、通称「めがね門」に突き当たる。この門は文化十四年(1817)に参道の石畳を寄進した大串儀左衛門が、住職の頼みを一言で承諾して建立したことから、「一言即諾の門」と呼ばれている。

 この門に掲げられた「西海禅林」の文字は、二十八代茂義が十五、六の時に書いたものである。このようなエピソードがある。ある時、円応寺を参拝した使者が「これはさぞかし高貴な方の書でしょう。」と尋ねた。すると、案内をしていた僧が「なぜお分りになったのですか。」と言ったが、僧侶は答えない。僧が思わず、「これはお殿様の書かれたものですよ。」と自慢気に言うと、使者は大きくうなずいて、「そうでしょう。でなければ、こんなまずい書をあげる筈がありませんもの。」と言った。これを聞いた茂義は、怒るどころか、以後大いに書や画に励み、上達したそうだ。

 門をくぐって登れば、右手に六地蔵がある。これは島原の有馬氏の娘で、十八代純明の室で、法名を銀室妙金という人物の供養牌である。彼女は後藤純明に嫁いできたが、戦乱の続く島原の実家に一度も帰らなかったという。

 そのすぐ上には、若宮社がある。幕末、第二十七代茂順の建立によるもので、疱瘡の神としてあがめられた。その当時は天然痘が大流行した。種痘が成功するのは、第二十八代茂義の天保八年であった。毎年、川良の夏祭りが八月二十六日にここで行われる。若宮社の左に大きないぼ地蔵がまつってある。台座共1メートル80センチある。いぼを取ってくれる地蔵さんで、お参りするときには炒り豆をあげる。天和三年(1683)に建てられた。

 石段を左に登る途中に、羽州戦の戦死者の牌がある。明治元年の戊辰戦争(武雄では羽州戦というそうだ。)に従軍して戦死した人々の供養牌が明治二年に子孫の手によって建てられている。山門の左に天然記念物のキンモクセイがある。この山門は、名工丹宗沖右ヱ門の作である。

 

18.「市に高橋、荷は牛津」と云われたように、高橋は鉄道開通まで佐賀県西部の商業の中心地であった。町並みには老舗が並び、白壁づくりの土蔵も多かったという。現在でも当時の白壁の名残をとどめている家々がある。

 

最後に川良の名前の由来ですが、もともとは朝鮮人がこの地を自分の住んでいた地方の地域の名前にちなんで「こうら」とよんでいたが、それが後になまって「かわら」と言うようになった。

 

<ここからはお話をお聞きした松尾善章さんの戦争体験についてです>

 

 松尾さんは20代前半の時、政府の命令で、戦争に出兵することになりました。松尾さんはその時、歩兵部隊として、まず中国をめざします。地図で見るとおりそこは広大な土地が広がり、進んでも進んでも目の前の景色は変わることなく、自分の周りでは一人、また一人と死んでいったといいます。戦争では戦いで死ぬ人もいますが、戦場まで行くという、戦場で戦うのと同じくらいつらい仕事があるのです。戦場では、食料などの物資の補給部隊や、救急部隊などだけが車を使い、あとはひたすら歩き。気がつけば、中国を横断するのに進んだ距離は、実に8000キロだったそうです。その中国横断の時、一つだけ覚えていることがあるそうです。歩いていると、隣で死んでいくというのは日常茶飯事だったそうで、死んでいく人にかまっていると自分も死の境地に立たせられるため、悪いと知りながら死体をそのまま置き去りにしていたそうですが、ある一人の人だけは寺の中に埋葬したそうです。その時はたまたま寺で一息ついている時に、その人は息をひきとったそうです。彼は、死ぬ最後まで必死に生きようとしていて、その当時の松尾さんにはすごい衝撃だったようです。もちろん、その話はぼくらにとっても衝撃で、かたずを飲んでその話に耳を傾けていました。そんな経験をしながらその後、ベトナム、ビルマ、フィリピンと進んでいったそうです。

 1945年、政府は終戦宣言をし、戦争は終結しました。松尾さんはその一年後に日本に帰ってきたそうですが、松尾さんは戦争に行く前は、宮崎の小学校で先生をしていたそうで、その生徒たちが、松尾さんの帰国を迎えてくれたそうです。松尾さんが汽車から出てくると、「松尾先生万歳」という声が至る所から響いてきたそうです。

 話は変わるが、昔は戦争で人が必要だったため、20歳を超えるとすぐ結婚させられ、子供を作ることを勧められた。松尾さんも、「昔はようやったー」と一言。大きくなると、ほとんどが出兵していったそうです。今では考えられないが7、8人兄弟は当たり前。 10人兄弟はぞろにいたそうです。

 あと、最後らへんに話してくれたことですが、ビルマでの出来事。ビルマの奥地のサハリ川というところがあるらしいのですが、そこはなんと人食い人種の村だったそうで、今まで経験したことのないことだったので、そこで一晩過ごしたそうですが、とても眠れる夜ではなかったそうです。

 松尾さんの話は、現在の私たちの生活からは想像もつかない世界であり、戦争について考えるいい機会となりました。これからは、戦争を経験してきた方というのは減っていく一方でしょう。このような機会を大事にし、やっぱりいつになっても、戦争があったという事実は忘れてはいけないと痛感させられた2時間でした。

 

*最後に松尾善章さんについて*

松尾さんは大正2年生まれの90歳。武雄の町の歴史についてお調べになり、「武雄の歴史 武雄の長崎街道今昔」や「ふるさとの正史散歩」などを執筆なさっている。その功績を称えられ、文化勲章も受章なされている。