【武雄市武雄町上西山地区】

武雄市上西山の聞き取り調査のレポート

1lt03043 楠瀬 慶太

1lt03074 高瀬健太郎

調査日:6月28日(土)

 

お話を聞かせてくださった方

 松尾明さん(昭和9年1月10日生まれ)

 井上正信さん(昭和7年12月11日生まれ)

 

 

1、上西山の歴史

 

・武雄鍋島家と上西山後藤家

 

 江戸時代佐賀藩の武雄を治めた武雄鍋島家は、本姓後藤、二十一代藩主鍋島勝茂から鍋島姓を賜り、鍋島姓を名乗る。

 武雄後藤家の始祖章明は当初藤原姓を名乗っていたが、祖父公明が肥後守に任命されたため、父則常が肥後守の後と藤原の藤を合わせて後藤と名乗る。章明は永承六年(1052)前九年の役の戦功により、康年六年(1063)二月塚崎(武雄)の庄をおくられ、二代資茂が元永元年(1118)始めて塚崎に入国。最初丸隈山に館を構える。後、御船山の塚城に移る。三代助明の代には鎮西太郎源為朝の黒髪山の大蛇胎児の伝説がある。四代宗明については、北方町医王寺の歓喜(かんげ)寺本尊の薬師如来像の背銘に「藤原宗明并藤原氏」とあり当時長嶋庄の地頭であったことが伺われる。

 

・上西山のおこり

 宗明の代に長男清明が本家を継ぎ、次男公明が西山村を分譲し、西山後藤となり、三男信明が富岡村を分譲し、富岡後藤となる。後に、西山後藤家は、上西山、下西山の二家に分かれる。上西山家は、豊明の時代に一旦つぶれるが、再興され子孫代々続く。南北朝の戦乱では、南朝支持を貫く。天正年間にはお家騒動が起こる。

 江戸期には、佐賀本陣領武雄郷に属し、「宝暦郷村帳」「天明郷材帳」には一村として登録され、「天明村目録」「天保郷帳」には西山村と統一されて記載されている。「明治一一年戸籍帳」には武雄村のうちの「西山村」として記されている。

 

2、歴史から見る上西山

 上西山の歴史を見ると、やはりこの村も荘園の流れをくんだ村だとわかる。また、鎌倉時代の分割相続の様子も伺える。南北朝期の戦乱が、九州では特に激しいものだったことがこのような山間部の地域まで戦乱の影響が見られたことからわかる。また、上西山家に松浦隆信が、養子を入れてお家騒動がおきたことは、松浦氏が隣の佐賀に進出の機会をうかがっており、戦国期に小領主の上西山家が生き残りのために奮闘していたことが考えられる。上西山区と山内町永尾区の境福和峠にある白木の塞は武雄城西方の防塁として後藤宗明により築かれ、南北朝の戦い、対有馬戦で攻防が見られ、戦略上の拠点と上西山がなっていたことがわかる。江戸時代には長崎から長崎街道が通じ、要所となった。伊能忠敬も測量に訪れている。近代には鉄道が通り、軍事、交通に重要な役割を果たしたようだ。実際に訪れてみると、山に囲まれた地で江戸時代の箱根のような宿場町のようだと感じた。峠を抜ければ、そのまま武雄地区の平野部に出れるため軍事、交通の拠点となったことが理解された。やはり、実地に行ってこの目で見てみると想像も膨らむし、人の話を聞くことでさらに視野も広がる。歴史は、部屋にこもって研究するだけのものだけでなく、自分の足で歩き、自分の目で見ることも重要だと再認識した。

 

@地名に関する話について

 

●湯の谷

(井)「この湯の谷ちゅうとは、結局はそのー・・・昔は湯の出よったて。」

<高>「この前基山に行った時も、湯谷っていう地名があって、そこでも湯が出ていたとか・・・。」

(井)「そいで、今はですね、湯は出とらんですけど・・・、廃棄物の処理場のできとっですもんね。そこの人がですね、井戸ば掘っとんさっとですよ。で、そこにですね、温度のある湯じゃなくて、質の・・・」

<高>「成分が(温泉)ですか。」

(井)「それを涌かせば温泉。そこが湯の谷。明治の前から湯の谷ていいよる。いろいろ伝説のあっですもんね。湯のでよったけん赤ちゃんば湯につからしたとかですね。」

 

●枯木塔

<高>「この枯木塔っていうのは何か塔があったんですか?」

(井)「ないですね。どういうわけで(名前を)つけたか知らんばってん。」

(松)(地図を指して)「上西山のこのへんじゃんね。」

(井)「こいは、私の考えじゃあちょっと簡単な考えばってん、枯木塔ちゅうとはいつからあがな(名に)なったか知らんですけど、変電所のあっですもんね。」

<高>(地図で確認)「あ、ここにありますね。」

(井)「そいで、変電所のあっですけんね、妙にその・・・山の上に境界線の(役目をする)スギとかヒノキの立っとっとですよ。それにね、雷のよーう落ちよった。それでほとんどその境界に立つとった木は枯れよったさ。」

<高>「いつごろ雷は落ちてましたか?」

(井)「近頃は落ちよらんですね。」

 

●素桶田

(井)「この素桶田ちゅうのはね、なぜ素桶田てつけたかてゆうたら、素桶て知っとろう?あの、竹で作ったザル。あれが昔一斗ぐらい入るとが素桶ていいよったとくさ。お米なんか計る・・・。そいけん素桶田ていうのは水を入れてもザーって漏れるような田だから素桶田。」

 

●渡り瀬

(井)「この渡り瀬ちゅうとはですね、(昔は)橋の無かったわけですよ。今はそこに大きか橋のできとる。結局、石がですね、飛び石。そこば渡りよったけん渡り瀬。」

 

●木下

<高>「このあたりで、目立った大木とか岩とかに名のついたものはありますか?」

(松)「・・・石とか、大木とかなんてのはあんまりなかもんね。」

(井)「ただ、木下ちゅうとはこのへんにあっです。字が木下。そいぎ、その木下も、昔んもんにいわすっぎ、大きな木があったから木下てつけたらしい。」

(松)「現在でも根っこはあっとさ。」

(井)「そいぎあの・・・大体ですね、住宅になる前やけんが・・・今は機械でトラクター使ってやるが、昔は牛馬でしよったでしょう。鍬で。鍬は見たことある?」

<楠>「はい、分かります。」

(井)「そういうとで、下でごっといすかせたわけ。田んぼを。そいぎ、つくり上と盤土とあるわけ。盤土は固か土。つくり土は一番肥えた土さ。」

(松)「そいで、鍬の(上の)下までいくぎんたが、ガサーっと(本の根に)つかえてみたりして・・・・」

(井)「そいけん、鍬ですきよって牛のつかえるもんじゃからさ、その田んぼをつくりよる耕作者がですね、ごっとい5月の田植え前になっぎさ、オノば持ってきんさっわけたいね。この付近ではヨキていったばってん。そいでね、その根っこば削りよんさった。鍬ちゅうぎこう・・・先のきれいかとのね、ちょっとでん引っ掛くっぎポキッと折るっごたっと。そいけんごっとい削りよんさった。」

(松)「木下ちゅうとはね、おそらくそういうふうなとがずーっとあったけんが、そこらへんが木下ちゅう地名になったやなかろうかちゅうことたいね。そいけん、全部そういうふうな形で地名のついとっと思う。」

 

 これらの話の他にも、正光寺周辺についての話があった。鐘突という地名は一見して寺に関連したものと分かるが、忠次郎・前田という字名も付近にある。これは松尾さん・井上さんによると正光寺に関係のある人物にちなんでつけられたらしいが、詳しいことは分からないとのことだった。

 

上西山の範囲はとても広く、「もう通称の呼び名は本当にたっくさんあっさ。あーばってんですね、おいもちょっと分からん。」と井上さん。これらの呼び名は正式な地名として登録されたものとほとんど変わっていないらしい。そのため、昔からこの地域にいる人は、忠次郎・前田などの名を聞いても「自分たちが呼びよったのと変わらんね」というふうに、ただ通称の地名ぐらいにしか思わないのだとか。それぞれの通称地名のイメージが人々の心に強く残ってそのまま小字名になったということか。

 

A水に関する話について

 上西山地域では溜池があちこちに数多くあり、田の用水の主な水源となっている。また、農業用水に必要な分を溜めるため、小さな堤をいくつも作ってある。そのため、現在では水量は余るほどだが、昔は住宅のあるところ一帯全てが水田で、当然必要な水量も膨大で水利をめぐる問題があった。

 

●農業用水

(井)「・・・・全部水田やけん、(水が足りずに)そらーおそらく水ゲンカのあっとっと思う。」

<高>「水争いですか?」

(松)「この地図は古かけんが、(地図を見ながら)このへん田んぼになっとろう、ずっと?今はここは全部住宅になっとっさね。」

<高>「じゃあ、(暴力を伴う)いさかいがあったんですね。」

(井)「いや、特別にいさかいていうか・・・口ゲンカぐらいはあっとっさ。」

(松)「昔の人たちは、堤から水を流すやろう、そしたら上の方の人たちが取ってしまうぎ、下の方は水の流れてこんて。そいぎ、その人たちが、番兵ちゅうて留守番のごとしてずーっとおって、『下まで流さんか!』て。

<高>「ああ、下の人が上まで抗議しにいって・・・。」

(井)「そいけん、水番さんちゅうて、水を番する人がもうけちゃったとですよ。手当てをもらいよんさった、そんかわりに毎日せないかん。1人じゃなくてこの部落に3、4人。そいぎその人たちが、きれいに水を分けてやるわけさ。そいじゃすまんわけたい。誰でも欲のあっけんね。」

(松)「早う自分の所に水ば取ろうてしよんさった。そいぎ口ゲンカぐらいはあった。」

 

 以上のお話を聞く限りでは、水は欲しい時に取る、取ったもん勝ちといった様子がうかがわれる。実際、ある人が夜中の12時ごろこっそり水を自分の田にひきいれると、後ろに隠れていた人が自分の方に、またその後ろ、そのまた後ろ・・・・なんてこともあったらしい。実に面白い光景だ。最後まで隠れていた人の勝ちということか。それだけ当時の人たちは必死だったに違いない。

 

● 雨乞い

<高>「実際に雨乞いってされたことありますか?」

(井)「もっと昔のひとはですね、塩くみちゅうてさ、竹の筒の節から節を切ったのに塩を入れてお供えしよんさった。谷中ではフリュウをしよったり‥・。」

<高>「フリュウ?ああ・・・。」

(井)「旱魃ん時は水のなかぎなんもできんとですよ。畑もでけん。」

(松)「今は神社に集まって風流をしたりていうのが伝統。」

 

 平成6年の旱魃の時は、飲料水にも事欠く状態だったらしく、踊瀬ダムから1万2千tほど水を流したという。しかしこのダムは昭和31年7月完成であり、それ以前の水不足の時には人々も頭を悩ませたことだろう。松尾さんは「そんな時は仕事はなくて楽ではある」とはいっておられたが、やはり大変だったのではないだろうか。非科学的ではあるが、神にすがることも時には必要だったのか。

 

・毒流し

(高)毒流しをされたことはありますか?

(井)流したことは・・・。

(高)ある程度昔でないとやったらだめですよね?

(井)警察にひっかかっけんね。あのー、なんてろっていう実あってんばってんな。そいばですね、つぶして煮詰めて上流に流す。ちょくちょくやいよったよ。

(松・奥)そいぎんたその毒は人間には、、、、、

(井)(害に)ならんと。毒流してすぐとればよかさ。毒流しにあうぎですね、すぐ悪くなっさ。いつかこの庄もやられたろうが?

(松)しらーん・・・。

(井)いつじゃい何年前じゃいにさ。今でもする人おっさ。ただね、毒を流した、それが何の毒かはわからんとさ。他に魚ば採ろうと思って毒流しせじ、何かば流してたまたま魚が返ったとかも。昔は魚ばとろうと思って毒流しをした。ちょっと、、、例えばある程度上流に流してもこの付近まで来るけんね。

(高)影響がでる・・・。

(井)そう、そがんとき早うすくうて昔のもんは食べよった。食べるために毒を流しよった。

(松)昔は食べるためにしよったばってん、今はいたずらと・・・。

 

 昔は、毒流しは魚を採るために結構行われていたようだ。本の実から毒をとって流したというのも自然を生かした昔の人の知恵である。現在は魚を取るにしても許可が必要になっている。そんな中、いたずらで毒を流す人がいるとは自然への考え方も変わったものだ。もっと自然を大切にしてほしい。

 

・物資の交流

(高)この辺りの地域と他地域との物資の交流について、行商人さんとかのお話はないでしょうか?魚売りさんとか・‥。

(井)魚売りさんはきよったよ。あのー、かついでさ。

(高)両方にザルのついてる様なやつですか。

(井)あー、そうそう。このへんじやあ、オオコて言いよるね。麻のかごつけて。

(中略)

(高)昔病気になったときはどうなされていましたか?薬売りさんとかは?

(井)病院に行く前に自分の家で野草なんかば煎じて飲んだかということやろ?あんまり病院には行きよらんかったけんね。今はそが人なかばってん、子供のころは瘡てできものができよった。昔はやりっぱなしやったけん、清潔じゃなかったわけたい。そいで、手とか足とかできもののできとったですよ。そういうのは薬草で・・・どくだみを煎じて飲んだり、膿を持ったりしたのは毒ヘビの皮とか。こいはよかとよ。毒蛇の平口ておろうが?

(高)平口?

(松)マムシ。頭の平べったくしとったけん平口ていう。

(高)ああー。

(井)そいで、骨は栄養剤やろう?皮はね、膏薬とかそがんとなか時は皮ば貼っつけとくさ。そいばはいだ時は膿の一緒につんのうてくっと。ぺらーっと。

 

 村には薬売りが基山から来、「オオコ」といわれるかっぎ棒をかついだ魚売り、ヤンブシと呼ばれるお札を配る修行憎が村に出入りしていた。乞食や物貰いも見たそうで、お宮とまって「め笹」を切って「めごう」というザルを作り売っていたそうだ。また村の人は薬草をうまく活用していたようだ。

 

・角一 かくんちゃん

(井)かくんちゃんば九大で解剖すってゆうて断れさったてもんね。

(高)解剖?

(奥)かくんちゃんて知らんでしょう?有名な方よ。

(井)なんとか角一て言うばってん「かくんちゃん」。

(奥)三味線の糸が一本しかないのに、カドズケして回りんさっと。

(高)カドズケ?

(奥)ずっと1件1軒回ってお金もらって歩いたり、食べ物をもらったり・・・。さがやったら・・・お母さん、いやおばあちゃん(なら知ってる)かな。

(井)おにぎりばやればさ、コロコロつてころばかして食べる。

(高)わざとですか?なぜ?

(奥)それが病気なのかは知りませんけど・・・。

(井)習慣。目悪かったとばってん。

(松)そうすっと、瘤のこう大きかとの背中に3つぐらいできとんさっとさ。それを九大の医学部で手術して中身を見るちゅてね、話しないよったばってん、とうとう亡くなんさってそこまでいかんかった。

 かくんちゃんは農薬のBHCの粉ににぎりめしを転がして食べて死んでしまったらしい。昭和のころにこのような琵琶法師のような人がいたことには驚いた。

 

・青年団・青年クラブ

上西山は青年クラブが盛ん。井上さんのころがもっとも盛んだったらしい。青年団は女子青年団と男子青年団があり、20〜25歳までは学生から勤め人まで皆参加が義務付けられていた。青年クラブには、泊り込みで行く。その時、よその家のスイカを盗んだりして、刑事事件となったりもしたらしいが、だいたいは青年団は地域の役にも立っているということでおおめに周りの人も見てくれたらしい。夏祭りは青年クラブが全部仕切っていた。

 

・村のこれから

 今回渡された地図にはかなり田んぼがあったが、実際に行ってみるとあまり田んぼはなく、山の辺りには団地があり以前行った基山とは様相が違った。お話を伺った松尾さんも村は5年ごとに変化を見せており、人口も増え、農地は住宅に変わっており、これからは店や学校、施設などができるのではないかと言っています。またこれからは、田舎は町に変わり、町は逆にさびれるのではないかという意見もおっしゃっています。町村合併については、逆に複雑になるのではないかという不安もおっしゃっていました。最後に松尾さんは「町や昔の良さをどうこれから先に生かすかが重要だ。」また私達文学部の学生へのメッセージとして「古墳などの昔の旧跡や歴史をどのように今に残し、どう伝えていくか考えてほしい。」とおっしゃった。この言葉は、歴史を学ぶ私にとって歴史についても一度考え直すきっかけとなった。九州大学に入学して以来、福岡城、大宰府、板付遺跡、箱崎・香椎官、名島城といろいろな史跡を訪れたが、それぞれ史跡の現在の姿が違った。私は板付遺跡のような再現された史跡よりも、碑だけがぽつりと残る史跡のほうが歴史を感じる。私は、歴史というのは史学にしろ、考古学にしろ、まず想像から始まると思う。私は、歴史は文字として残し、またそこを訪れた人たちに歴史を感じ、想像してもらうことのできる形で残してほしい。「過去を知り、今をどう考えるか」、そのために歴史を学ぶことが重要なのだと思う。