【武雄市朝日町繁昌地区】

歴史の認識現地調査レポート

 

1LT03058 塩崎梓

1LT03079 竹之下のぞみ

 

最初の地名についての質問で地図を皆さんに見せたところ、地図に自分たちも知らない地名も載っているということで、驚かれた。このような地図があれば便利そうだと言われた。

 

この繁昌は、明治44年まで「半上」という名の土地と「戸坂」という名の土地で、中野村の一部だったそうだ。そして明治44年朝日村となった時にこの二つの土地は合併し、「繁昌」となったそうだ。「半上」ではなく「繁昌」という字を当てるようになったのは、この土地がもっと栄えますようにという意図を含めてのことだそうだ。

 

地名の一覧表について、差左衛門古場は「サザエモンコバ」ではなく、「ゼンザエモンコバ」であるという指摘を受けた。おそらく正確には「善左衛門古場」という字が当てられるのだろうと思われた。

 

古場とは地形のことを表しているらしいと聞いた。どのような地形かは思い出してもらえなかったが、その代わりにもうひとつ、古場(もしくは大古場)とは姓にも多いということを聞いた。

 

繁昌にはそのような土地特有の名字はあるのかを聞いてみたが、ないとのことだった。その代わりに多い名字を教えてもらった。岩谷、辻という名字が原の近くに多く、福田は平地に多いと教えてもらった。

 

繁昌の地名には、朝鮮に由来するものがあると聞いた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、大陸から大勢の陶工たちが連れてこられた。「焼峯」はその陶工たちが連れてこられた土地で、焼き物発祥の地ではないかと言われているらしい。実際、釜跡があるとのことだった。また、繁昌周辺の地域にも焼き物に関係する地名がある。鎌ヶ谷、釜ヶ谷などである。そして焼峯で行われていた焼き物が、武内のほうへ伝わったのだろうといっていた。

 

こぼれ話として、焼き物に関係する言葉は朝鮮から伝わった言葉が多いと聞いた。「ハンネージャーラ」、「多々良(たたら)」、円通行などの例を教えてもらった。

また、我牟呂(がむろ)は明らかに日本語ではなく、朝鮮から伝わってきた名前に、当て字をしたものだといった。

 

最初に地図を見て、知らない地名が多かったのは、どうやら数個の土地がまとめて一つの土地として呼ばれるようになってしまっていたためだと、次第に分かってきた。例えば、砂原、高見下、館場の3つの土地が今ではまとめて佐原と呼ばれている。

 

昔は地図や一覧表に書かれている以上に地名が細かく存在していただろうと言っていた。山での作業は手作業で、広範囲にわたるが、山の下の方で行われていた農作業は、小さく分けて仕事をしていたため、細かく呼ばれていただろうとのことだった。

 

また、地図上にはない地名も教えてもらった。主として、山の中の地名だった。

白い石がごろごろとあるため、白石と呼ばれる土地。

犬も転がりそうな急な斜面、犬転ばし(イヌコロバシ)。

また、ダムに埋まったかもしれないすりばち谷や、完全にダムに埋まってしまった上杉谷。同じくダムに水没してしまった中井手。ここのは井堰があったらしい。その井堰を巡って水争いもあったようだ。

 

名水の出るという湯谷という土地のことも聞いた。ここの水は酒の水として使われてもいたという。また、その水は大旱魃のときも枯れなかったと聞いた。

そのあたりでは安産の神である子安観音を祭ってあり、湯谷の水は安産にも効果があるというそうだ。

 

水といえば、「すりばち谷の水は飲んでもいいが、我牟呂の水は飲むな」という言葉があるのだということも聞いた。どうやら我牟呂の水は硬水らしい。農作業をしている途中で、水を飲むときはよく気をつけて飲まないといけなかったそうだ、

 

それから、山留原(ヤマトンバ)について話してもらった。ここは、武雄藩の殿様の狩場の山の入り口だったそうだ。だから、山に入ってはいけない(入れない)という意味でこの地名になったのだろうといっていた。

また、狩で狩った猪たちを供養した石碑、猪鹿塔が立てられていると聞いた。

猪鹿塔があるのは、道上の北で、他の地区との境目に近いところにあるのだが、その近くにある戸坂峠は佐賀県伊万里までに続く、伊万里街道という街道であったそうだ。宿はなかったが、昔から茶屋や料理屋があったと聞いた。

その戸坂峠に古戦場もあると教えてもらった。戸坂峠の戦と呼ばれ、碑もたっているということだ。戦国時代のことで、碑は戦死した上級武士のために立てられたそうだ。勝負谷の地名は、その戦に関係しているのだろうといっていた。

 

戦といえば、もうひとつ、柏岳・烏帽子岳の戦いという戦の舞台でもあるということを教えてもらった。南北朝の戦で、柏岳に後藤という武士が率いる南朝の軍が、烏帽子岳には北朝の軍が拠を構えていたそうだ。ここでは、北朝側の撤退という結果だったそうだ。

この戦のときに、大勢の兵士が疫病で死んだということを話してもらった。その兵士たちの死体を集めて祭った土地は、死体が積み重なっているから小積堂と呼ばれるようになったそうだ。

そして小積堂に薬師堂が建てられた。祭られているのは、繁昌の氏神である薬師如来だと聞いた。

 

それから、山に金山の跡があるということも聞いた。明治時代のころ掘られていたもので、中野方面でも掘られていたと聞いた。今でも金は出るだろうといっていた。掘られなくなったのは採算に合わなくなったためだろうといっていた。金だけでなく、水晶や金剛石も出たそうだ。今は崩れているが、だいぶ深い山で、こうもりがいたらしい。

 

オンチョー柿という地名について聞いてみた。そのあたりの屋敷に、柿が生えていたそうだ。この地名は、家の名前だそうだ。

オンチョーとは、雄という意味で、牛や馬を指すとのことだった。そして、メスの場合はメンチョーというらしい。

 

話の合間合間に、面白い話がいくつか出てきた。

例えば弁慶が投げたといういわれのある石があるということ。これは眉唾物な話だが、おそらく昔このあたりに弁慶のような力持ちの豪傑がいたのだろう、といっていた。

 

他にも、山の話をしているときに、むかし重石(カサネイシ)という土地に、山賊がでたというはなしを聞いた。

 

繁昌の第一の水源は繁昌川という名前で繁昌の間中を通っている。山から集められてきた水や先に書いた湯谷という所から湧き出てきた水が集められて通っている。下流になると高橋川、もっと下流になると六角川とその名を変える。

その一つしかない川で、しかも上流の川であるので水争いはたびたび起こったという。元々、昔は水を維持すること自体が困難であったという。農作業を手作業でしていたために田の面積を小さくし段々にして棚田にしていたのだが、そのあぜから水がよく漏れていたのだという。

慣行として水の権利・水利権を分けて、水をわるのが決まりだったという。しかし、上の方の人は下の田の人にあげまいと井堰を閉めてしまったり、下の人は勝手に井堰を開けて水を落としたりして、水の取り合いで喧嘩もあったと話してくれた。こういうことへの対策として当番を決めて井堰を見張ることがあったという。この井堰の管理をして水を公平に分ける当番を水番といった。水番になればさぞ思い通りに水を流せて美味しい役目であっただろうと思ったのだが、そうでもなかったという。色々な人から苦情や訴えや願いを聞かなければならず、やりたくない役であった。そこで、たいていは権力のある人や権限を与えてやってもらったらしい。

そんな水争いもダムができてからはもうないという。ダムのおかげで上から下のところまで水が行き届くようになった。

旱魃の時には堤で作ったため池の水を本当に最悪の時に落とすという。数箇所を堰き止めて、上から落としていくのだと具体的に示して説明してくれました。

 

そして、昭和17、8年の大干ばつには雨乞いをしたという。雨乞いのやり方は新堀という塩水が上がってくるところまで行って、船で朝に竹筒に塩水を汲み、それを権言様のところまで持って行き浮立するものだった。距離は約5kmはあったという。浮立とは鐘や太鼓を打ち鳴らして雨乞いすることである。そして、酒を飲んだりしてご利益を願うものだったという。なぜ、塩水を持って山に入るのか?これは確かなことは分かりませんが、塩水で神様の喉をかわかせるのではないかと面白い仮説を立ててもらいました。

 

他に神事といえば、田祈祷という田植えの後にするものがあって、それは丁度私たちが調査した次の日に行われる予定だったそうです。これは豊作を祈願するもので、災害や台風が来ないように、また防虫の意味もあったという。

 それは対照的なのは彼岸のごもりといい、稲刈りの後に行われた神事です。その名の通り、堂に籠もって豊作を感謝するものであった。

 

田や用水路の生物はかなり減ったという。それは強力な除草剤を使った所為で、その前まではゲンゴロウ・タガメ・ケラ・蛍・どじょう・ウナギ・タニシ・ケナ・ミズスマシ・沢がにがいたというが一時的にいなくなってしまったという。しかし、今は低農薬で低毒性のものを使っていて増えてきているのだという。蛍が出るようになったと話してくれました。

 

小麦は作ってはいるが、作れない田と作れる田があるという。それは麦が稲とは違って水分が多いと.駄目になってしまうためである。だから、乾田で栽培するという。

 

お米に関して、今、棚田の米が質が良いと評判と話してくれた。今の時代、量より質でグルメな方々が増えてきたらしい。外国からの安い米の輸入の影響もあるのだろうか。そして、繁昌の米は地下水や湯谷の美味しい水を使い、減農薬で貝殻や石灰を肥料としていてうまいと自慢げに話してくれた。

 

昔はどんな肥料を使っていたかというと、牛の糞を使ったり、草や木の芽を切ってそれを土に入れて腐らせてたい肥にしていたという。戦前・戦後ちょっとのことである。

害虫駆除はどうしていたのかというと、水の張った田に重油を入れて、稲やらを足で蹴って虫を油の上に落としていたという。また、苗の時期に蛾が卵を産むのだが、それをこずかいをあげて取らせていたのだという。一本の稲の葉に付いていた卵を取って一銭を区からもらっていたのだという。ただ、稲の葉は何枚もあり重なっていて聞くと取り難そうだった。秋には、白稲という蛾の幼虫が入って太った稲を取るのだという。これは次の時期への予防であったという。

 

昔の田植えは朝早くから苗を取って、それを運んでと全部手作業であったので、終るまで一週間から10日かかったという。そして、村の協力意識は強く、早く済んだ人はまだ終っていない人を心配して、自主的に加勢に来ていたという。そんな共同作業が終った後、お礼として世話になった人が饅頭や料理をご馳走し、さなぼりという打ち上げ会をしていたという。昔はそういうのが当たり前だったのだろう。今は機械化になって、家族だけで、しかも短い日数でできるようになり、そういうことはないという。

 

女性はもう昔と今では全く違うことを話してもらいました。女性は下着として腰巻を腰に巻いていたというが、なんと人のうちの便所を借りたりということは無かったらしい。若い女性でも家でトイレをすることはなかったという。今では考えられず、想像もできないことだ。

 

残念ながら田植え歌は残ってないという。けれども、有田で全国田植え大会があるというのを教えてもらいました。

 

牛について、ほとんどの農家が農耕用ではなくて運ぶ用に牛を飼っていたという。木の切り出しは路引きであったという。

その牛のえさは田のあぜや土手やため池の堤防の雑草やわらや冬にはわらと米ぬかを合わせていたもので、草は貴重なえさだったという。だから、自分の田と他人の田の境目のあぜの雑草は余針に相手のほうの草を切ってしまったら、口げんかになるほどだったという。けれども、今は相手のほうの草を切ると感謝されると笑って話してくれました。

 

牛を歩かせる方法は 前に進めは ハイ  左に進めは トウ

右に進めは ケシ  止まれは ワアワア

という掛け声をかけていたという。手綱は一本で牛は綱の引き方で素人か玄人かがわかったらしい。もう素人だとわかると牛になめられていたというのだから驚きだ。

こういう牛を思うがままに歩かせるのは牛が小さな時に教えるらしい。ただし、あまりに牛が小さな時に教えてしまうとショックが大きく、しけるという。少し大きくなり、鼻をほがして、牛が一番痛がる時に教えるのが良いのだという。

牛の鼻を開ける方法はまず杉の木をゆでて粘り強くし、その木でもって牛の鼻の薄いところを開けるのだという。そして、血どめに生味噌をぬったのだという。『牛も 金かましゅうか 杉の枝』という歌が残っている。今は金具が使われている。

 

牛は胴引き牛として使われた。胴引き牛は蔵から材木(杉やヒノキ)を選ぶ役目をしていたのである。これに使われたのはこって牛(雄の牛)で去勢していない牛である。肉にする牛は去勢して、大人しくさせる。去勢されると雌の牛より大人しくなってしまうものらしい。しかし、胴引き牛は材木を運んだりとあまり大人しくては困るのである。そのため、胴引き牛は去勢されておらず、気性が激しい。イメージとしてはスペインの闘牛みたいなものだろうか。人に向かって角をもっていくこともあるという。だから、飼い主は牛になめられないよう、攻撃なんて気を起こさせないよう、むちで打ったりしてひどい扱いをしたのだという。

最後に牛からの逃げ方として下に飛んで逃げるのが良いと教えてもらった。土手のほうに行くとやられてしまうらしい。

 

明治時代までは繁昌は殿様の狩場だったが立枯(立ったまま枯れた木)は取って良かったという。生の木は枝を切り、上は柴としてよく乾かしてから燃料に使い、下は幹で割って薪にしていたという。ビャーラという枯れた枝は良く燃えてよかったという。繁昌は半分は山なので、資金源として薪をリヤカー.を引いて、下の方の村に売ったり、魚と交換したりしていたという。

しかし、炭は売ったりはしなかったという。個人的に、自分の山の雑木林から材料をもってきて焼いて作っていたという。

 

繁昌の入り合い山は白石山・湯谷・重ね石であったという。

主に白石山は植林とみかん栽培。湯谷は雑木林。重ね石は杉の木の植林として使っていたという。そして、山にはワラビ・つわふきなどの山菜やマツタケや栗が取れて、旅館の人も取りに来るほどだという。

日照時間が短いため、山の中には田がなく、焼畑や切り野はしなかったという。野焼きも無かったが、若木のほうではしていたものの大正時代に終ってしまったという。

 

かご(紙の材料となるもの)は昭和初期20〜までは取っていたものの、終戦後は取ってはいないという。これは終戦後に紙が豊富になり、わざわざ手作りでするとコストがかかってしまったことが原因である。

 

山には山菜やマツタケや栗があったが、潤にはコイ・フナ・ハヤ・ウナギ・ツガニ(ケガニ)・ヤマトロガニ・ドンポなどがいたという。特に、ドンポはアラカブかムツゴロウによく似た、動きの鈍い魚で焼いて食べると美味しかったという。

 

川の魚たちを取るために川の毒流しはしたことはあったという。けれども、それは違法なのだという。川の毒流しの毒は薬局に売っていた『げらん』という毒薬かまたはツバキの油かすを使ったのだという。ツバキの油は髪の手入れのために使われるが、ツバキの残りのカスは毒があり、それをもんで流していたのだという。

そして、ツバキのカスのほうも髪を洗うのに使われたのだという。そうやって使うとツバキのカスの毒でしらみが死ぬのだという。当時、しらみだと隔離されたりと大変だったという。