【神埼郡脊振村田中】
現地調査レポート
調査者:学籍番号1LT02010石崎幸平
話者 :広瀬徳幸さん(大正13年生)
調査日:平成15年1月11日(土)
1.はじめに
調査日当日は、一週間ほど前に積もった雪がまだ残っていた。最近は雪が少なくなっており、例年だと10cmほどしか積もらないらしいが、今回は20cmほどの積雪があったという。
これまでに一番積もったのは昭和29年のとき。このときは家の軒ぐらいまでの積雪があり、谷なんかもすべて埋もれてしまったという。屋根の雪下ろしなどしたことがなかったため、大変だったという。
2.村の名前・地名・しこ名について
特別な名前を使って呼んだりした思い出がないそうで、残念ながら記録することができなかった。
田中地区の南にあるヅーベット山(地図参照)について尋ねた。昔からそう呼ばれているが、名前の由来などはわからないらしい。
3.田畑について
イ.昔の様子
田中地区は脊振村の中でも水田の豊富な地区で、一軒あたり平均で1町1反(3300坪)ほどの水田があるという。戦前においても、この地区では地主・小作制度はなかったらしく、各家がそれぞれの水田を所有していたそうだ。
昔は裏作として麦を作っており、そのため田植えは、5月の終わりから6月の半ばに行っていた。田植えは、自分の所有している水田は家族だけで行ない、他の家の人や早乙女さんが手伝いに来ることはなかったそうだ。ただ、祭りで使う米を作るために祭田(まつりだ)というものがあり、この水田は共同で田植えをしたそうだ。
肥料や農薬といったものは当然今のようにはなかった。そのため、水田の近くの芝刈り場から草を刈り取り、稲刈りの後に水田に入れていた。現在の自衛隊基地の下あたりまで笹をとりに行って、抱えて持ってきたりもしたそうだ。また、農薬はその代わりに、自分で栽培している菜種や椿から油をとって水田にたらしたりした。現在のような農薬を使うことなどなかったので、稲を育てている間に田んぼで鯉の稚魚を育てたりもしたそうだ。
当時の収穫については、米は1反あたり3〜4俵、麦は1反あたり米の半分くらいがとれていたそうだ。
米の保存は、たわらに入れて保存をした。家のそばに川があり、川ねずみなどがいるため、ねずみ対策にそれぞれの家が猫を飼っていたそうだ。また、自分で罠(箱の中に野菜などを入れて、ねずみがそれを取ろうとすると、入り口が閉まるようなもの)を作って、ねずみを捕まえたりもしたそうだ。
また、米をつくための水車もあった。
一方、畑はほとんどなく、自分の家の野菜を作るためのものぐらいしかなかったそうだ。
ロ.現在の祥子
十数年前には圃場整備などもあり、現在では農業の形態に変化が見られる。田植えは現在では5月の始めくらいに行う。そのため、現在では麦を裏作として作らなくなったそうだ。
一方、畑はビニールハウスがあり、主にホウレンソウを作っている。
4.山・水資源の利用について
山の所有は、山麓から上の方に向かって、大まかに、個人の所有地、地区の共同用地、 村有林、国有林となっている。個人所有の場所は先祖代々受け継がれたものだという。 以前のように山の価値が高く評価されていた(地価が高かった)頃には、結婚式や先祖供養の費用のために山を売ったりすることもあったそうだ,
田中地区では林業は盛んではなかったそうだ。山から切り出した木は、地区の中で 家を建てたりするのに主に使われた。製材所などはなく、製材の道具を家の前や山などに移動させて製材を行っていた。切り出した木は牛で引いて運んだという。牛はそれぞれの家が飼っていたそうだ。なお、馬は飼っていなかった。
以前は炭を作っていたという。この炭は各家で作られる自家製のものであった。そして、この炭を今の農協に出して売ることによって現金収入を得ることもあったそうだ。
次に水資源の利用について。水田の水は、道沿いにある用水路から引いている。家で利用する分の水は、各家にある井戸と川からとっていた。特に、川は家の前にあり、きれいなため、うどんを川で洗うなどと料理にも利用していたそうだ。
5.食生活について
田中地区は山の中にあり、食べ物は基本的に自給自足であった。山の中に位置して いるという性質上、魚を食べる機会は少なかったようだ。そのため、昭和の初期の頃には魚売りが籠にかついで持ってきていた。売りにくる魚はもちろん生の魚などではなく、塩で丸められたイワシなんかを持ってきたそうだ。この魚売りは東脊振の松隈(田中地区の南東)あたりから来ていたそうだ。
川でとれる魚には、ヤマメがあるという。昔は家の前の川にもヤマメがたくさんいて、流れの穏やかなところでは産卵するのを見ることもできたそうだ。そのヤマメも現在ではほとんど見ることができなくなっているという。というのも、釣り人が川のはるか上流の方で釣ってしまうからだそうだ。放流を行っているが、効果は出ていないという
肉類は山に囲まれているという性質上、食べる機会は多かったようである。昔は、うさぎ、鹿、きじ、山鳥などがよく獲れていたという。そして、獲れた物はみんなで分け合っていたそうだ。ただ、最近ではこれらの動物はあまり獲れなくなっているという。その一方で二十年くらい前からイノシシが増えているそうだ。今回、話をしてくださった広瀬さんは、去年一人でイノシシを三十数頭とらえたそうだ。
野菜や米は先にも述べたように、基本的に地区にある水田や畑で作っていたようだ。お茶も自分たちの家で作っていた。この他に、終戦前後の頃から山の木を切って焼畑でサトイモを作り始めたそうだ。また、車が走り出してからは他のところから野菜を売りに来るようになったという。
乳製品は、地区の中にヤギを飼っている家があって、その乳を牛乳として飲んでいたそうだ。ただ、牛とは違ってどの家でもヤギを飼っているというわけではなく、数軒の家が飼っていた
お菓子類は、主に干し柿や飴玉があった。干し柿は知ってのとおり、渋柿の皮をむいたのを干して作っていた。飴玉はもち米でできていて、「一銭玉」とか「五厘玉」とか呼んでいたそうだ。また、学校の帰りがけには「ギシギシ」という長い草を採って食べたりしていた。味は、すっぱかったという。
食べ物とは変わるが、昔のタバコは現在のようなものではなく、キセルばかりだったそうだ。
6.祭りについて
田中地区での祭りは、お盆にあるもの、秋と冬に神社で行われる祭り、12月にある共同の祭りの三つがある。
特に12月に行われる祭りは地区の青年たちが主催し、家事などで休みなく働いて いる女性の接待をするものだったそうだ。だから、この日だけは女性たちは家事などから開放されてのんびりできたそうだ。
7.青年クラブについて
現往の公民館のところに青年クラブがあったそうだ。そこには小学校を卒業したら 男は必ず入ることになっており、14〜30歳の独身男性が所属していたそうだ。
わっかもんかい(集まり)は毎晩あり、家で夕食を食べたあとに遊びに行き、酒を飲んだりした。そして、そのままそこに泊まり、翌朝家に帰っていたという。
隣の地区とは仲がよく、お互いに行ったり来たりしていた。
時々、人の家につるしてあるつるしがき(干し柿)をとってきたり、鍋をするときには畑から野菜をとってきたりもしたらしい。また、力石もあった。
ここでは礼儀が非常に厳しかった。青年クラブには「青年長」と呼ばれる人がいたそうだ。炊事、塩加減、箸の置き方、ご飯のつぎかたのどれひとつをとっても、青年長の言うことは絶対だったそうだ。朝帰るときは上級生が帰るまで帰ってはならず、掃除をしたり後片付けをしたりしなければならなかったそうだ。
また、行儀が悪い(横着)者や上級生になめてかかるようなやつは、正座をさせられて2〜3人から同時に説教されたりしたそうだ。だが、礼儀以外のことはさほど厳しくなかったようだ。わっかもんかいに参加し始めてあまり日にちが経っていないような人は、神経を使うことが多かったそうだが、すぐに慣れて楽しめるようになったそうだ。
8.恋愛・結婚について
以前はやはり、お見合いをして結婚をすることが多かったそうだ。だが、中には夜這いがきっかけで結婚したりすることもあったそうだ。
田中地区では夜這いはあまりなく、時々そのような噂を聞くだけだったそうだ。ま た、他の地区の人間が夜這いに来てもあまり問題にならなかったそうだ。
先にも述べたが、以前はどこの家でも牛を飼っており、これが恋愛においても大活躍したそうだ。具体的にいうと、「自分の家の牛は見飽きた」と言って、「牛を見せてください」と自分の家の牛を連れて他の家を訪れる。もちろん、牛を見せてくれと言うのは口実に過ぎず、その家の娘さんを見に行くのが本当の目的である。このとき、自分ひとりで行くと目的がバレバレなので、牛を連れるだけでなく、自分の父親にも一緒についてきてもらったそうだ。
9.共同作業・施設について
水田の用水路を作る際に、土木作業の手伝いを行ったそうだ。また、もやいで5〜6 軒餅をついてまわったりしたそうだ,
共同施設の代表的なものとしては、風呂があげられる。昭和四十年頃までは、2〜5軒で一つの共同風呂を使っていたそうだ。
10.感想
今回は地名の調査はうまくいかなかったが、以前の生活についての貴重な話を聞く ことができた。特に私が一番関心を持ったのが、青年クラブの話であった。ほんの数十年前までは、ほとんどの人が小さい頃から厳しくしつけをされ、わっかもんかいでは礼儀作法を厳しく教え込まれていたのだ。これが以前の日本人の行動を律する基盤となっていたといっても過言ではないと思う。今の日本にこそ、わっかもんかいのようなものが必要であると思う。
田中地区も他の農村部と同様に過疎や高齢化に悩まされており、どの家も後継ぎに苦慮されているそう。また、自然環境についても、一見残っているようであるが、工事などによって生き物が減るなどと、失われているようである。
物質的な豊かさを手に入れ過ぎたために、残すべき伝統が失われてしまったと思う。先人たちの知恵による古くからの風習を失うことの重さを実感した調査であった。