【神埼郡脊振村岩屋】
現地調査レポート
1LT02155山口 舞
lTE02540広場優一
lTE02531濱田雄二
1EDE2019神野陽介
お話をして下さった方々
久野玉貫さん(昭和十四年八月生まれ)
邦江さん(昭和十九年二月生まれ)
梅子さん(大正五年四月生まれ)
平成15年1月19日、岩屋地区の現地調査に行く。途中少し道に迷ったが無事、今回の調査に協力して下さる久野さんのお宅についた。まず地図を広げ岩屋地区の小字を聞いていく。
・しこ名一覧
宇西小松原のうち
ワカミヤサン(若宮さん)→昔大きな神社から分かれてきたものがあったのだろうということ。
ウータヌキワラ(大たぬき原)
カイモンバタケ
ゴゼンイシ(御前石)→大きな石があって、そこに集まって食事をしていたことから。
字横井出のうち
ヤマグチ(山口)→山の入り口
字中原のうち
ウランタニ(裏の谷)→集落の小高い所に畑をつくっていてそこの谷に通っている道の裏の場所。
クエ→くずれたということを`くえた:と言う。
ジャアラ→平らという意味。
ビュウノウマツリダ(祭り田)
字前田のうち
フケンタニ
ウーセマチ(大畝町)→大きな田んぼがあったことから。
ウービラ
ソネダ
フルミチ(古道、旧道)
字下の迎のうち
クボイ
カメワリ(亀割り)
レンガヤシキ(レンガ屋敷)→九州で初めて水力発電所がつくられたとき、レンガを積んで建てられたが、その一時置き場であったため。
カイタク(開拓)→戦後食料のないときにその土地を開拓し農地をつくったため。
ナラハル
字西の迎のうち
ゴンゲンサン(権現さん)
カミノムカイ(上の迎)サボウ(砂防)→川の瀬や淵という意味。ダムがある。
川の名前
倉谷川、城原川
用水、池、橋の名前
横井出の水路、はすわ井手水路、前田の水路、部落の水路、そね田水路、開拓橋、池は無い。
古賀の名前
発電所。上、中、下と分かれているくらい。
(玉貫さんが、手書きの地図を描いて説明して下さった。さらに質問を続けていく。以下それぞれの言葉を調査者、調:久野玉貫さん、玉:邦江さん、邦:梅子さん、梅:とする。)
調:「家に屋号はついていましたか?」
玉:「最近出来た岩屋うどんだけ。昔はこの辺には屋号はついていなかった。」
調:「大木や岩、古い道や峠に名前はついていましたか?」
玉:「峠はない。大木もなかね。」
梅:「よっぽど広か石のあったけん、それでみんながお昼弁当食べたりしよったけん、御前
石って言う。」
玉:「峠はこのへんはそうなかけんね。」
調:「田んぼへの道はどこから引いていますか?」
城原川、倉谷川から引いている。ビシャモン井堰、はすわ井手から。水の量は充分あり、水争いや水を分けるうえでのルールは無い。
調:「用水路、田、川の中にはどんな生き物がいましたか?」
玉:「あぶらハヤがおった。」
邦:「アブラメとかね。」
梅:「今が一番おいしい。」
調:「今もいるんですか?」
玉:「おるよ、おる。」
調:「田んぼの中にはどんな生き物がいましたか?」
玉:「いもり。」
調:「いもりがいるんですか?!」
邦:「あの、お腹が赤いやつね。あぜにおるのは、けら、けら……」
玉:「ケラ虫。」
調:「おけらのことですか?」
邦:「うん、けら、けら。おけらって言うね、普通ね。」
玉:「ケラ虫さ。いもりにケラ虫、ミミズもおる。用水路の中にはいろいろおるよ。用水路の中でちょろんちょろんしよっとがさ、あぶらハヤさ、アブラメさ。やけんいもりみたいなもんさ、かえるもおるよ〜。」
梅:「かじかもおるよ」
邦:「かじかはほら〜」
玉:「それは城原川さ。それ、特別に書いてやろうか。川にはさ、ハヤやろがドンコじゃろが。」
邦:「あとハゼみたいのドンコって」
玉:「アブラメって、これアブラハヤのこと。それからさ、毛ガニ。」
調:「毛ガニ?!」
邦:「毛ガニって一番おいしいと。秋とかに来たらちゃんととってから、見せてよっかたけどね。」
調:「釣りができるんですか?」
邦:「釣りもできるけども、網かごでね。」
玉:「それからヤマメもね。コイもおるよ。ウナギもおるよ。それからドウキョ。摂にはこういうのがおります。」
調:「麦を作れる田と作れない田はありますか?」
玉:「麦はどこでも作れる。ただ作っていないちゅうだけ。どの田んぼででん作れる。」
邦:「昔は麦、ここらへんは作ってたけどね。」
梅:「上等の麦をね。米と同じんごととれよった。」
玉:「科学肥料は三十年代やろうね。このころから化学肥料に切り替わった。昔は草を入れたりね、野草をいれたりしよった。」
調:「村の一等田っていうのはどこになるんですか?」
玉:「一等田はこの県道の奥がね、この辺が一等田。」
調:「反当何俵ですか?悪い田、麦、そばはどうですか?」
玉:「その当時はやっぱあ六俵じゃああるな。今はそこが、標準……う〜ん悪くて九俵。
ちゅうことは、六九、五十四か、五百四十キロ。よくて、六百キロ。あんた達は一俵何キロって知っとう?」
調:「……知らないです。すいません。」
玉:「ハハハハ、一俵何キロかわからんなら、あんた達どのくらいか検討つくめーな。」
梅:「体重の六十キロって言うてどんくらいかわからんならね。(笑)」
玉:「悪い田なら、まあ八俵やろうな。」
調:「あ、昔の悪い田で……」
玉:「昔や、昔は五俵やろうな。」
邦:「五俵はとれるよね。」
玉:「今はとれるよ。昔の話よ。」
梅:「昔はとれんよ。三俵くらい。」
玉:「ねえ、反当六俵くらいばってん、昔は五俵くさあ。麦がね〜、麦はだいたい米んごと出来んとよ。一割落としやろうね。」
梅:「一番よか所で米とあんまり変わらんくらい。」
玉:「うん、そやけんが、まあ四俵やろう。」
調:「何斗蒔きとか何升蒔きとかいった田はありましたか?」
玉:「これは、ないよ。苗代ばっかり。」
調:「昔はどんな肥料を使っていましたか?」
玉:「昔ていうのは、どの時点を昔っていうかっていう話になる。」
調:「あ〜、そうですね。」
玉:「ね、昭和二十年代を昔っていうか、三十年代までを昔って言うか。硫安とかね尿素とかね、そういうのは三十年代いっぱいきたけんね。」
調:「リュウアン??」
(玉貫さんが硫安と漢字で書いて下さる。)
玉:「おそらく、二十年代までは化学肥料はまだなかったと思うばってんね。まあ野草がほんに多かった。やけん、野草をとる草刈り場があった。三十年代はね、硫安とかね尿素とかね、こういう化学肥料が入ってきた。これはもうここにかぎったことじゃない。日本国中同じ。」
調:「野草はいつ頃……?」
梅:「昔から野草はしよったんやろうね。堆肥をつくってね。」
玉:「野草は昭和二十五〜三十年以前じゃな。」
調:「稲の病気にはどんなものがありましたか?」
玉:「イモチ病っていうて、これが一番多い!昭和三十年代以降はね。そのイモチの薬はセレサン石灰さ。」
調:「それはどんな病気なんですか?」
玉:「イモチ病って言うのは葉が枯れて萎縮していく。じゅ〜っとなって。太らんで、稲が。
モン枯れっていうとね、下葉からずうっと枯れていく。」
梅:「斑点が入ってね、それはもう菌じゃけんね。」
玉:「これはもう農学部で調べんしゃいよ。」(みんな笑う)
調:「共同作業はありましたか?」
邦:「共同作業はあったよね。」
玉:「共同作業はね、まあ水路とか道路とかね.」
邦:「田植えも共同作業、ほら、お隣さんが終わってないとみんな手伝いに行ったりね。」
玉:「共同作業っていうか、それは手間返し。純然たる共同である作業じゃない。かせいする、おかせいするっていう手伝い。共同でやる場合はね、水路やろ水路の補修。水路、 道路たいね。それが共同作業。」
調:「かせいと言いましたか? ユイと言いましたか?」
梅:「ユイっていうのは手間返のことじゃ。」
玉:「手間がかかるって言おうが、これを返すわけよ。」
梅:「今日はあんたんとこして手伝ってもろうたけん明日はあんたんとこってね、」
玉:「これはあったさ、昔から。早う終わったとこが加勢しに来いと。」
調:「田植えはゆいでしたか?」
玉:「いや、もう完全なユイじゃない。個人的にね。」
梅:「早く終わった人が手伝いに行くくらい。」
調:「さおとめはいましたか?」
玉:「いません。」
調:「さなぶりはありましたか?」
玉:「それはあったろうね。ばってんいつまであったかって……」
梅:「戦後はなかよ。」
玉:「戦後はしとらんじゃろうね。戦前ばい。」
調:「田植え歌はありましたか?」
玉:「田植え歌はなか。」
調:「さなぶりに参加されたことはないということですか?」
玉:「こっちでさなぶりというのはね、もうここ五十年くらいなかね。」
梅:「そう、もう戦後はねもうなんでんなかごてなったと。」
調:「飼っていたのは牛ですか馬ですか?」
玉:「これは牛です。」
調:「えさはどこから運んでいましたか?J
玉:「田んぼのね、畦草。畦草ば切ってね。」
調:「牛を歩かせるときの掛け声は?右へ、左へは何と言っていましたか?」
玉:「右、左、これは言わんばいかんさ。この辺では右に行けって言うとは、どがん言いよった? 知らんじゃろうね、ばあさんたちゃ。」
梅:「知ってるよぉ、あたし。連れてそーつきよったけ。ハイハイちゅうて、右んさくさいってね、そして右と左はね、あのコシコシってゆうたりトウトウってゆうたりしてね。」
玉:「右はトウトウって言うとね。左さ行けっていう時は、左はサシって言うと。止まれがね、わって言うと。」
調「わ?」
玉:「わわわってね、わって言うと止まる。(実際に身振りをしながら)手綱でねサシサシ、サシサシっていうと左に行くと。トーウって右にぴゅうっと引くけん右さ行くわけ。鼻からこうっけとうけん。」
梅:「それで聞きよったもんね。結構。あの、小さかときからそういうふうに教えてね、連れて歩くわけ。そうすっと覚えると。」
調:どうやって手綱は操作しましたか?
玉:「手綱はどうやってって、牛ば書こうか(鉛筆をとって、絵を描きながら)牛はこうしとろうが、耳が…これ上から見た図。しっぽがあってさ。そしたらここが鼻。そしたらね、牛の鼻はこうしとる。(手綱と人の絵を描いて)これ下手くそね〜。鼻からこうね、鼻グイっちゅうたい、これね。」
調:「手綱の本数は?」
玉:「一本。それで一本してね、手綱はこっち、右にきとった。そして……」
梅:「頭にはちまきさせちょったもんね」
調:「牛の頭にですか?」
梅:「そうそう」
玉:「つのが、つのがこうあってね、そすと、こっちに引けば右。こっちからこの綱をぴっぴっとこう左にむち打てば左に行く。」
梅:「あの、乗馬の人のムチと同じさ。」
調:「ああ〜。止まるときは、こう引っ張る……?」
玉:「止まるときは、わって言う。わ、わって言ってちょっと手綱を絞ってやる。」
梅:「行かれんと思うでしょうね。」
玉:「手綱ば締めてね、締める事によって、わって言うてねかけ声をかける。声。そすと止まる。」
調:「わって……ふう〜ん。(操作の仕方に感心する。)こって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?」
梅:「男がこって牛だもんね。」
玉:「こって牛って言う、ごじゃなかもん。」
調:「ああ、ごじゃないんですか。女の牛は?」
玉:「雌牛。」
調:「ウノ牛という言い方はしないんですね。」
玉:「鼻グイっちゅうとば入れよった。」
梅:「鼻輪たい。」
玉:「おとなしゅうするとちゃ鼻グイいれんばいかん。」
調:「鼻グイ?」
玉:「鼻のね、牛の鼻は、ぐうっとこう鼻のあっじゃろ。(と、また絵を描いて下さる。)鼻輪ば一回こう入れるわけ。こう輪ば。鼻の中にこう輪ば入るうわけ。ね、そしてこう口のあって。この輸にね、手綱をくびっちゃったわけ。ひもば。ところが輪はツルンツルンしとっさ。」
梅:「動くけんね。」
玉:「だから鼻の中にこうと通しとっけんね、ツルンツルンしとっけん鼻の痛うなかもん。だから、あの、ショロの木って知っとうね?」
梅:「ショロの木って聞いたことなかろお」
調:「わからないですね……」
玉:「あのね、たわし知っとう?たわし。」
調:「たわし?はい、分かります。」
玉:「あの材料で縫うた綱、小さな綱をね。そして、縄がさ、まだ毛をとっていないから、ちかちかする訳ね。それをちかちかすっとを一緒に鼻の中に入れよったわけ。」
調:「うわあ……(痛そうだなあと思わず顔をしかめる。)」
玉:「そうすっと手綱をポット引くと鼻の痛かけんよくゆうこと聞くわけ。これを鼻グイってゆうてね、ショロの綱を鼻に通しよった訳ね。そうすっとね、痛かけんね、痛みで効果があるね。牛の操作がたやすくなる訳よ。」
調:「馬は毎日洗いましたか?」
玉:「まあ時々よ。これは馬じゃなかもん。うちは牛。」
調:「馬はもう全然使ってないんですか?」
玉:「馬はねえこっちはあんま使っちょらん。」
調:「蹄鉄はしていましたか?」
玉:「馬はねこの鉄をはめる訳よ。牛ははめない。」
調:「牛洗はあったんですか?」
玉:「これはありました。ちゃんと牛は洗いよった。」
調:「場所を教えてくれますか?」
玉:「(地図をみながら)用水がこう、こっちから用水がきとっとね、ここが牛洗い場。」
邦:「ここじゃないよ。牛洗場はこの前田のね、集落の中の……」
玉:「ここじゃ、ここじゃ、ここが水路、この合流したとこが牛洗い場。」
調:「草切山はありましたか?」
玉:「こっちは草切山はない。」
(ここで、邦江さんがコーヒーを出して下さる。一息入れてまた質問に移る。)
調:「薪はどうやって入手しましたか?」
玉:「薪? 薪は国有林があるけんね。」
邦:「自分の山があるけん、ほとんどみんな自分の山でとる。」
玉:「私有の山林からとってきたね。」
調:「入り会い山はありましたか?」
玉:「入り会いの山はない。」
調:「共同山は?」
玉:「共同山はなかさ。」
調:「木の切り出し、木馬引き、路引き、川流しはありましたか?」
玉:「木馬引き、路引き、こがんとはしとらん、ぜーんぶ、川流しもしとらん。肩で背負っとたいな。」
調:「肩で?」
邦:「テンビン棒で荷台とか。」
玉:「テンビン棒たい。棒で。」
調:「ああ、じゃあそれで運ぶんですか?」
玉:「担いでね。」
邦:「その後一輪車とかそのリヤカーとかでね,」
梅:「一輪車は戦後じゃんね。」
玉:「山でね木を切ってちゃんと縛って、輪になしたとを両方テンビン棒でかついでくる。木の切り出しはこういうことですよ。」
調:「炭は焼きましたか?」
玉:「ここは焼いた人はおります。戦後ね。戦後五六年じゃろうね。戦前は焼きよらんかったろうこっちは。戦後二十五六年までよ。戦前も焼いたかわからんばってん、終戦前はねだいたい兵隊さんにいたとっけんが焼いとらんはず。やっぱこれは、戦後ね、昭和二十年から二十五六年。」
邦:「いや四十年代まで焼く人は焼いとっさ。何人かは炭焼きよっさ。」
調:「収入はよかったですか?」
玉:「収入はよかった。そしてね、炭は何人くらい焼いたかなあ、岩屋では。(〜さん、〜さんと名前をあげていく。)これは、ほとんどの人がね。」
梅:「ここは田んぼの少なかけんそれで生活されんけんね、炭を焼いてね。」
(ここで、邦江さんがお菓子をすすめてくださったので、頂く。和やかな雰囲気で話しは進んでいく)。
調:「炭を焼かれていたんですか?」
邦:「販売とか自家用とかね。冬はこたつ。」
玉:「昔は火鉢やったけんね。暖房はね。」
梅:「くずになった粉とかを使って時々民宿なんかにあるごた囲炉裏に入れてね。」
調:「かまどを使っていけない日はありましたか?」
玉:「かまど? かまどを使ってはいけない日は無いよ。」
調:「山を焼くことはありましたか?」
玉:「焼いとらんね。もちろん木炭焼いたあとばさ、あの焼いたりしとらんよ。よそはね。焼いた人はいないかな。」
調:「ソバは反当何俵ですか? 野稲は?」
玉:「ソバ作りよったね?こっちは?」
邦:「昔は作りよったけど、それこそ自家用でしょ。野稲はあるね。」
(と、玉貫さんが質問事項の書かれた紙をみて「まだいっぱいあるなあ」とおっしゃる。少しお疲れになってきたようだ。申し訳ないと思いつつさらにお話を伺っていく。)
玉:「ソバは反当どのくらいやろうか。」
調:「ソバは分からないですか?」
玉:「分からんねえ、今いくらぐらいやろうか,」
梅:「見当つかんよ。よけいは採れんよ。半分じゃうね。」
玉:「こないだ我々も作ったばってんね、とれん、一反当たり二俵とか三俵じゃろ。二俵くらいじゃなっかね。二俵っちゅうと何キロかって言うと百二十キロよ。野稲はまだ採れんやったはず。野稲って言うのは田んぼに水を引かんで畑に稲を作ったとよ。これはもうとれんよ。」
調:「二俵とれないくらいですか?」
玉:「二俵くらいはとれたかもね。こういうのはほとんど作ってないもんね。」
調:「草山を焼くことは?」
玉:「草山を焼くことはこれないね。こっちは草山がないもん。」
調:「カゴ(入力者注:楮)はとりましたか?」
玉:「こういうものもこっちはしとらんね。今しよっところはトバエン地区ってある。」
邦:「うちん所のあぜに植えてあったね。少しね。昔の頃は、田んぼでも収入が少ないから、ほらお米もたくさん量がとれないから田んぼのあぜの縁の所を利用してそんな和紙の原料になるを植えたりしてね、売ったりとかね。かごも少しはとりよったよ。」
玉:「少々はね、何人くらいおったろうか。二三人くらいしよった。」
梅:「ここではカゴはせん。ただ植えてあったけんよそさんやりなんやったけん。」
玉:「このくらいのね太さになって一メーター五十くらいになるね。その皮をはぐわけ。ただ生の揚合はかわげんけんが、ゆでてね。それを乾かしてね。それが紙の原料。和紙の。」
調:「山の木の実はどんなものがありますか?」
玉:「この辺であっとは、ハゼ、ハゼの実。これはろうそくの原料。」
邦:「秋になったら赤あく葉がこうなって。」
玉:「そういえば、こないだドラマの朝ありよったのはなんちゅうか、さくらちゃん! さくらちゃんが下宿しとったとこのじいさんがろうそく作りやった、あのろうそくはハゼの実。まだそこらへんなっとう。」
調:「山栗、カンネは?」
玉:「カンネは倉谷地区、こっちはない。」
邦:「いや、しよったよ。たもっつあんにしゅんじさんとこ……」
玉:「しよったね。何人くらいしよったかね。」
梅:「四人くらいしないよったかね.」
邦:「くずこ、上等の片栗粉ね。カズラの根っこにこう生えてるのをね。」
邦:「木の実は色んなのがあるけんね。」
玉:「ここだったらアケビとかさ、栗、これは山栗さいね。」
邦:「あの〜あれ何やったかいね、上等の。サトウさんの裏の辺にあったと。」
玉:「あれは……クルミ。山はまだいっぱいあったばってんね。」
邦:「木の実は何でもある。カシの実でもあれば、ドングリ……椎の実もあるよ。桑の実とか。」
玉:「桑の実は食べよったもんね。」
梅:「こっちはマテの木はなかもんね。」
邦:「マテの実はおいしいよ。」
調:「ほか山の幸はどんなものがありますか?」
玉:「山イモが一番ね。」
邦:「今はイノシシが掘ってしまうからない、ここら辺。上等の山イモはね高いよ。あと山の幸はウドとか、ワサビとか椎茸、椎茸は山の幸って言うか…フキとかセリとか。」
玉:「山ばい、セリはだいたい畑のさ。」
邦:「うちはあるよ。山の幸よ。ゼンマイ、ワラビ……」
玉:「ああ、そうそうそう! フキとかね、そんなもんか。」
梅:「そんなん山じゃないけんね、ここはね。」
調:「干し柿のつくり方は?」
玉:「干し柿はね、シュブ柿じゃないといかんよ。」
梅:「甘柿じゃあ干し柿はできんもんね。」
玉:「これはね、皮をむいてね、連縄に挟んでね、雨のかからんごとね、日には当たったちゃよかさ、雨よけで自然に干す。」
邦:「普通硫黄で蒸すけど、今はその代わり自家用でちょこっとしんさあ人たちは蒸し器で蒸したりしてね。」
玉:「硫黄で薫蒸、硫黄って知っとう?」
調:「はい。」
玉:「あの、温泉に行ったらにおいのする、あの硫黄で薫蒸する、蒸す。そうしたらね、自分から渋みがのいて、白粉ば吹くわけ。そすとできあがり。」
調:「勝ちぐりの作り方は?」
玉:「勝ち栗はなかもん。」
調:「ないんですか。干し柿の数え方は何ですか?」
玉:「いく縄って言う。縄数でいく。」
邦:「連っても言うじゃない。」
玉:「三十個連のさ、○○縄。縄数たいね。例えば三十個をさ、ずうっと吊すやろ、その一縄のことを、いく縄と。十個あれば十縄下げましたと。三十個挟んだのの縄を何個下げたかと。」
邦:「普通、三十連のいく縄って言うもんね。だから、干し柿製品にして箱につめるときは三十個をこうきれいに二十に紐をこうこうしてきれいにつくってね、箱におさめて、出荷するときは、三十連とかに二十連とかにするね、個数をね。」
調:「食べられる野草、食べられない野草は?」
玉:「食べられない野草は食べられる野草以外すべて。」
調:「食べられる野草を教えてもらえますか?」
玉:「食べられる野草はワサビとかね。」
邦:「食べられない野草は……」
玉:「彼岸花。(みんな笑う。)彼岸花は食べられんばい。ね、食べられる野草はね七草。」
邦:「あ、食べられる野草って言ったら、ほら、ギシギシとかハコベとか。」
玉:「ギシギシっていうたらほんとの名前はなんごっじゃね。シイカンボっていう。」
梅:「大根とか菜っぱは野草になっとらんもんね。七草のうち入っとうけどね。」
玉:「モトジロウ、ハギナがある。」
邦:「ああ、ハギナが一番いいたい。」
玉:「セリもある。セリも野草って言わんかね。イタドリってある。子供ん時なんでん食べられんもんじゃさ、イタドリってね、蛇の背中のこて色しとう。」
梅:「戦時中はほら、お米が食われんとやったけんね。そやけん配給受けた人の中からも徴収しよった。」
玉:「食べられる野草はね、ヨモギ、ヨモギ餅。それからね、ツクシ。ツクシって知っとう?」
調:「はい、ツクシ食べます。」
梅:「ツクシの親じゃんね、スギナは。ハギナはおいしかもんね。」
調:「米はどういう風に保存しましたか?」
玉:「あの、米カンのことはアルミ缶って言うかな?」
邦:「アルミじゃないよ。」
梅:「トタン缶。」
玉:「丸い筒になる訳よ。円筒の差。」
邦:「上からね、入れる穴が開けてあって出すときは下に小さい開け口があるんですよ。そして、ちょっと出てて中にひとつ半分になったのがあってぽっと押してくるっと上にあげたら出てきて、そこにまた蓋があるんですよ。だから、そこから出して……」
玉:「十俵入り五俵入りってある訳よね。今も使いよる。ただ米も死んでくっけんね。」
邦:「ニンニクを入れてると虫が付かない。」
玉:「虫除けね。」
調:「そうなんですかあ、ニンニク……」
邦:「今はね、卵を買うとき二十個入りじゃなくて、パックに大きく十何個入ってるのに、パックの外に赤い網で、一キロなら一キロって入れてある網があるけんそれを利用してね。」
調:「ねずみ対策は?」
玉:「ねずみ対策は、もう缶に入れとっけん入らん。」
調:「缶に入れてることが、ねずみ対策ですね。」
玉:「そやっけんがねずみは入らない。」
梅:「昔は猫ばそやっけんが飼わんばいかんやった。ねずみ退治にね。」
調:「やっぱり、猫を飼ってたときもあるんですか?」
梅:「うん。猫はねずみを捕るけんね。」
調:「兵糧米は?」
玉:「自家消費米のことははん米っていう。ほとんど供出米って言う。今までは米の管理は全部国がしたけんね。農水省がしたけんね。自分が食べるだけの保有米、これをはん米って言う。それ以外は全部農家以外の国民に全部供給する訳よ。これを供出といいます。」
邦:「それで、自家用のお米の他にやっぱり物々交換みたいにしてね、現金収入がないときはお米でお魚屋さんとか、洋服とかね。」
梅:「そして、ばあちゃんたちゃお金を持たっされんけんね、お米で買わな。」
玉:「物々交換は(昭和)二十年代までやね。だいたい。」
邦:「そういうのの目的で保有米も多くしよんなったんやろうね。自分たちの自家用で食べる分じゃなくて。」
調:「それも全部缶で保管してたんですか?」
邦:「そうせんと、そのまましとったら湿気がきて食べられんごとなるからね。」
調:「米作りの楽しみ苦しみは?」
玉:「全部苦しみ! 農家は苦しいし。まあせいぜい農家の楽しみは収穫時の終わったときでしょうね。」
梅:「苦るしかと忘れて、きれいにできたとが楽しみ。育ちが。」
調:「昔の暖房は?」
玉:「暖房は昔は木炭とかたき木とかね。」
邦:「うん、いろりね。」
玉:「いろり。レン炭が流行ってきた。」
梅:「まだあるよ、うちも。豆炭とかね。1
調:「車社会になる前の道はどの道ですか?」
玉:「それはぜーんぶさ。集落内に入ってる道は全部。すべての道さ。現在の車道なんですよ。ただね、車社会になったからいくらかね拡幅をしましょうというようなことになってきた。」
梅:「もとからあったけんね。」
玉:「うん、従前の道ですね。そやけんが後でね。車社会になってから拡幅工事がなされたな。」
調:「むらにはどのような物資が入り、そとからはどんな人がきましたか?」
玉:「これは、その当時は黒砂糖の配給のありよった。塩も配給はありよったかなあ?」
梅:「塩もありよった。」
玉:「それから、魚も昔はありよったよ、戦後すぐは。鰯を配給しないよった。それからね、貝売りさんの来ないよった。有明海の近くから。アサヒ貝を売るやつさ。」
邦:「赤貝とかね、自転車でよく来よったね。」
玉:「これはね、有明沿岸の方じゃ。有明の沿岸の地域の人が持って来よったよ。それから、行商人はね、小売行がおっと。魚とか自転車に乗せて来よったと。」
梅:「どっさり持っていくのにきつしゃあね、犬の太おかと連れて引かせなんよった。」
玉:「それから衣類も来ないよった。」
邦:「今でも山ん方はたまに売りよう人おったよ。」
玉:「薬売りはきよったね。薬はね、入り薬っていってね、富山県から行商がきよったね。」
邦:「今も入り薬はあるたいね。一年に二回きよったね。」
玉:「薬の入れ替え行商人さ。そやけん富山からきなってずうっとこっち泊まりがけで回りなすっと。富山県から。」
調:「ザトウさんは?」
玉:「ザトウさんっておいなったねえ。ザトウさんはね、ただ米ばくんさいって帰り口んとこ立っとんなったと俺は思うばってん。お経さんなあげよらんかった。」
梅:「ザトウさんっていうたら、荒神さんの琵琶弾きさんもきないよったもんね。」
邦:「荒神さんってかまどの神様のことよ。」
梅:「屋敷の神さんっちいいんなっとね、荒神さんって。」
邦:「かまどっていうのはやっぱり家の大切なとこだからね。」
調:「むかしは病気になったときどこでみてもらいましたか?」
玉:「むかしはどこでみてもらいよった? やっぱそこそこの病院なあったもんね。」
邦:「各地区にちょっとしたお医者さんがおらしたけん。」
玉:「まあ、今でいえばヤブ医者じゃ。(みんな笑う)まあ各地区に医者なおったよ。だいたい病名は風邪とか腹痛じゃ。昭和三十年代にはね診療所があったよ。戦後診療所ができた、各地区にね。」
調:「川原やお宮の境内に野宿しながら箕をなおしたり、売りに来る人をみたことはあるか?」
玉:「箕修理をしたりさ、桶修理をしたりさ、それからナベソクってわかる? 鍋のほげたとを修理する、そういうナベソキンさきよった。売りにはきよらんかった。集落に製造者がおったわけね。うちもね、じいさんがずっと作りよった。」
調:「米は麦と混ぜたりしましたか?」
玉:「ああ、混ぜよった。今も混ぜて食べよるよ。」
邦:「最近ね、混ぜて、去年くらいから。栄養をね。一割くらい混ぜて。」
玉:「麦が一割か。尺貫法でいったら分からんや?」
調:「あ、分かります。」
玉:「(意外そうに)あ、分かる?(みんな笑う)ま、普通ね、金融機関の利率は何割何分とか言うこた言うけどね。麦が多かときなんやりよった。米は全部供出やったけん。」
梅:「自分で作って自分で腹んいっぱい食べられんやったけん。」
玉:「これは昭和二十一年よ、強制的にね国が供出令を出してね。もう、我が食うとを持たんごとなったっちゃ出させよった、国が。強制的に。これを供給発動って言うてね、国の強力な権限で米ば吸い上げよった、そやけん農家は我が食ぶっとなかけん麦ばね多く混ぜよったこともある。そやけんね、国が供出令を出したけんね、農家は米を生産したばってんね米不足になったわけね。米んなかけんが隠れて持っていってね警察が捕まえよった。ヤミ米さ。」(力強い口調で語って下さった。)
調:「自給できるおかずとできないおかずは?」
玉:「自給できるのは全部野菜物類がね。それと、野ウサギ捕ったり山烏捕ったりね。」
梅:「魚とかね、自分が川で捕れば食べられる。」
玉:「動物とかと、川魚これは自給自足さ。」
調:「結婚前の若者が集まる宿、青年クラブはありましたか?」
玉:「ははは、これは青年宿ってあったな。同じことね、青年宿、青年クラブっていうのは。」
調:「男だけですか?」
玉:「これは男だけです。」
調:「そこで何をしていましたか?」
玉:「それは寝泊まりたい。夜になっと青年宿さ、全部青年は泊まりに行くけん。」
調:「いつもですか?」
玉:「いっつもさ。毎日。」
調:「本当ですか?!」(毎日と言うことを初めて知って驚く。)
玉:「とにかく毎日泊まらないけん。何するかって、泊まってまあ良う言えばね、あの〜……」
梅:「勉強するくらいはありよったかもしれん。」
玉:「勉強っていうかねえ、あの、まあとにかく毎日泊まってさ、青年の相互の交流っていうか、よか言葉で言えばね。会話が主になってくるばってんね。それから、酒持ってきてね、さなぶりをしようかと。終戦後はね、踊りが流行った、舞踊。これがね、終戦後は非常に荒れた時代でね、やはりその青年で娯楽的なことも含めてね、演芸たい。踊って歌とかハーモニカとか、今んごと楽器のなかったけんね、ハーモニカも流行ったね青年の間で。踊りが流行った。」
梅:「アコーディオンば弾きないよったけんね。」
調:「上級生からの制裁などはありましたか?」
玉:「やはり、やっぱなんて言うても戦後の先輩後輩の序列はあった。先輩、はいはいはいってね。先後輩たいね。後輩の規則なあったね。正式な文書で書いた規則じゃないよ。」
梅:「秩序はやっぱね、昔はありよった。」
玉:「そやけんが、一級先輩っていうと言うこと聞かんばならんんかった。何故かっちゅうとね、終戦になってすぐさま民主主義の教育になったわけよ。まだ軍国主義のね、言うなれば戦前の教育を受けた人が青年じゃけ、だから、先輩後輩の規律っていうのはきついわけよ。だんだんねそれが無くなり始めたのはね、あんたたち知っとうかね? 吉田茂っていう総理大臣、あの人が日米安全保障協定を結んだ。それからどんどんどんどん欧米の、アメリカの教育、自由、実勢こういうのがどんどん唱えられてきたね。そして、若い者も言いたいことを言うと、こういう世相に変わってきた。先輩見とっと怖くてね叩かれたりすっけんが。ほってだんだん民主主義の教育をうけながらそういう世相に変わっていったわけよ。ですからね、昭和二十七八年はあんたたちのお父さんの生まれた年でしょ、ひょっとしたら、そういうお方はだんだんだんだん民主主義になりきってきてね、自分の主張ははっきりする、自分の権利だけははっきり言うて、こうき多(ママ)。ところがだんだん失われてきた物がある。それは人間としての義務を忘れてきた。ここに今の世相があるわけよ。そやけん、自分本位という世相になっとう。上級生からの制裁は、やっぱ戦前はあったね。うさぎの罠かけていくけんどっさ、山に、そして一番かかりそうなとこは上級生が掛くうわけよ。それで、下級生はかからんとこに、ここにかけろって言われてさ、かからんとこにかけよった。上の権限がね。これは戦前はあった。自分が上級生になったときにまたやるわけよ。」
梅:「まだ軍隊教育が残っとうけんね。」
玉:「その昭和十八年九年頃はね、二十歳前後の二十歳にならん人がね、飛行機とともに特攻隊に入ったんよ。アメリカ軍の大きな船に飛行機で自分とともに、早うゆうたら今で言う自爆テロよ。自爆テロをやってきたわけよ。それも全部軍国主義の思想って、天皇陛下のために、そやっけんがイラクが自爆テロすっけん私は聖者となります、アッラーの神にいきますとこうなる。これとおんなし。わかった? いい話やろ? (笑)まあ、それで戦前の日本もそれからどんどん民主主義という教育を受けてきてね、だんだんだんだん、上下の差のない、男女の差別のない、そういうふうな社会に今なっていきようばってん、どうしてもねそういう差別っていうものはね残るところは残っとう。」
梅:「自由ばっか唱えて責任とらんけんが。」
調:「干し柿を盗んだり、スイカをとったりは?」
玉:「あります。わたし。(堂々とした言い方にみんな笑う。)これは私の話よ。人はねそう悪いことはあんま言わん。それで、柿は縄って言うたね? 三十連の一縄って。初めは一ちょずっとりよったさ、下がっとっとば。私の学校は自宅から七キロあったけんが、七キロ毎日往復で歩きやけんが帰りはもう日の暮れてさ、腹ん減ってしょうがない。金はない。(その当時を思い出しているように)そしたら、干し柿の干してある。米はとらるうっていうたね?だから腹一杯食べられん、野草ばっか食べると。こういう自家製のもんばっか食べる、おいしいものは食べん。とこう、食べるもんはないし金もない。で、あそこに干し柿のしてあるって、初めは一ちょずつこうとりよったっさ。そしたら、そこの干し柿の製造の人がね、盗られたばい、盗まれたよって言うて学校さ行きないよった。で、学校の先生にがらるうもん。お前たちはよその干し柿を盗んじゃあおらんかって、がらるうもんじゃさ、ばってん盗らんと腹んへっていかんもんじゃね、とうとう縄ぐるみもって走ったよ。そういうことでね、記憶が私もあります。」
調:「戦後の食糧難、犬を食べましたか?」
玉:「ああ、犬も食べよった。」
調:「犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか?」
玉:「おねしょの薬ってしらんばってん、食べました。」
調:「若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きや鍋にしたことは?」
玉:「消防団やなしい、普通の人も食べた。若者って言うよりもね、これは一一般人も食べた。」
邦:「売ってくんさあ人がおったもんね、犬の肉を。」
玉:「うちの家で、こう、かわいがりよった犬のおらんごとなった、何の、ちゃんと殺して食うとりなった。そういうことなんです。ねえ食糧難ときは。もう一つはね、犬ぐらいじゃないよ。家畜の牛を殺しよった。山に連れて行ってといてね。牛も食べよった。そのあと。犬を食べよった。私は猫も食うたことがある。カラスも食べた。イタチも食べた。戦後にね私は一番太り盛りやけん。昭和二十年に終戦、八月十五ん日が終戦。今は平和の日という銘打って、八月十五ん日になったらそうなっじゃろ。原子爆弾の落ちとらんなら、まだ終戦は遅れとうよ。」
調:「そうですね……」
玉:「広島に八月六日、八月九日長崎に原爆が落ちた。もうお手上げと言うことで天皇陛下は無条件降伏じゃけ。だから、二十一一年になったら私は小学校の一年生やけ。一年生やけ、食べもんのなか、学校の教科書はなか、譲り譲りして弁当のシミの付いたごたっとば……」
梅:「何でもお譲りやけんね。」
玉:「犬はどうしたら捕まるかって、そりゃあ、こいこいってしたら捕まるよ。(笑)想像どおり。」
調:「よばいはさかんでしたか?」
玉:「よばいはこれ、終戦後はあっとりません。戦前はあったわけよ。戦前は青年たちがよばいをしよったわけよ。これは他の町村に行きよったわけよ。そすっと、ここでも上下の差があったわけよ。先輩後輩が。どういうことかちゅうと、まああんたたちもすぐ結婚したりする、ね、例えば、夜娘さんのおっとこさこそっと行くわけよ、そして娘さんの寝とんしゃっとこさ、じわ〜っと行くわけね。そして仲良くしてくるわけよ。まあ、それから先は想像にまかせるよ、何をしたかは別。(笑)(みんなもどっと笑う)そしてね、とうとう肉体関係を結んで、夫婦になった組もかなりある。」
梅:「むかしはね。」
玉:「うん、そすっとね今度はよばいは親父さん、両親たい、よそからよばいに来てくいなったって、来てくいなったっじゃけ、来たじゃなか、来てくいなったばってんって。両親のさ、うちの娘によその青年がねよばいに来とって、そすと、今しようばいなって知らんふりして寝とりなはっじゃ。とおきたまね、ゲホッって言うて咳払いしてみたりしてさ(笑)ところが、来なかった親はどげんやったかというと、うちん娘はやっぱ魅力の無かったやろうと……」
邦:「他んとこの娘さんはね、やっぱ親にしたらね、来てくれないっていうのがね……」
梅:「やかましかとこには行けんのじゃけ。」
玉:「そすっとね、靴も今んごた革靴とかはなかとよ、草履と下駄じゃ。下駄はいて、草履はいてあんた、十キロもいくらもよその村さ行ったって娘のおっとこさ行かんなんじゃっけ。それっいて行くのが後輩よ。そすっと、下駄はいてよそん家あがられんけ、夜真っ暗かけんね。脱がんばいかんじゃろっが。そすっと下駄持っつあんが必要になっさ。後輩は下駄もっとかんなんばい。ずうっと、出てくんまで待っとかんさ。ま、そういう世の中もあった。我々の親もよばいしよいたってな。そしたらね、同じ家に兄弟うち会ってさ、同じ女にはいっとさ。(みんな笑う)そういう話があるね(笑)。」
調:「よその村から来る青年とけんかしたりは?」
玉:「けんかしたっちゅうのは、ちょっと聞いたことなかけばってん、あったろうね。それはもう、われわれは行かんけんしらん。」
調:「もやい風呂はありましたか?」
玉:「共同風呂はありました。ほとんどがね共同風呂やった。」
調:「もやい風呂っていう呼び方はしてましたか?」
玉:「もやい風呂ってね、言いよったっさ。そやけん集落に二つ、多いとこで三つくらいねあった。そうすっと寝、今頃は温泉に行ったっちゃさ、男女混同風呂っていうのはあってんばってんほとんどは入らんもんね。もやい風呂はあんた混同風呂じゃけ、おばちゃんは真っ裸でこっちゃ入ってきたり……」
邦:「全部混浴やけんね。そしてそれを炊くのがね、ここら辺は大人の数でね、大人一人につき一晩ずつ、だからうちなんかみたいに三人いるでしでしょ、風呂当番で三晩わかさんといかん。」
玉:「風呂当番っていうのがあったわけよ。水入れて、行ったあくる日はちゃんと洗って、新しい水を入れてそしてわかさないかん。」
邦:「結局自分たちの山のあっけんね、薪とってきて。だから、子供は数にいれてなかったけんね。大人の数だけ、」
梅:「そして、水の引き場所と捨て場所場ちゃんとなかけ、どこでも風呂作られんでしょうが、昔はね。」
調:「ああ…(納得)恋愛は普通でしたか?」
玉:「恋愛は普通じゃなかったね、昔はね。隠れてしよんなっけ。」
邦:「あったのはあったろうけどね。」
玉:「あったのはあったさ。そやけど、密かにね。密かに逢い引きさ。」
梅:「昔の人も、恋愛で夫婦になった人もたまにはおっとよ。」
邦:「だけど今みたいにおおっぴらじゃないね。」
玉:「戦後はね、逢い引きの場所は、夜青年団の運動会の稽古ばしよった。その稽古の夜が一番多かった。」
梅:「お祭りとかでね。」
玉:「今は、本人同士よかならよかなったいって、本人主義になったとね。両性の合意に基づいてって憲法にまで言うちょう、ばってん昔は親がいかんって言うたらいかん。」
調:「盆踊りや祭りは楽しみでしたか?」
玉:「これは、楽しみ。盆踊りは。」
調:「祭りはいっでしたか?」
玉:「だいたい秋じゃね。普通ね。」
邦:「祭りは秋の収穫の後が多かね。」
玉:「そやっけんが、秋祭りが多かね。収穫の後たい。農家の収穫した後で祭りのあるわけ。」
調:「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?」
玉:「やっぱ小作ん場合はね、払わないかんけんね。地主と小作って言うのがあっと。地主って分かんね? はやくいうと、土地の所有者、地主は、農地の所有者。それを小作人に貸して作らせよっと、やけん小作料の払わないけん。小作料はどのくらいやったろうかねえ。なんぼか知らん、ばってんかなり小作料を納めんばやったろうね、地主さんに。三割か四割ね、これは想像よ。」
梅:「税金納めなんばってんねえ。地主さんも。」
玉:「ですからね、結局戦後になったら、農地改革では、土地は持っとんばってんさ、住んどんさらんさ。大金持ちさんで土地は持っとんしゃあ。そばってんその人は町に悠々て暮らしないよっと。その土地は小作人がたがやしてつくりよっと。で、これはいかんということで、不在地主っていうことで、田んぼの側に住んどらんっていうことは不在っていうこと、で、この不在地主を解消しましょう、不在地主の土地は全部強制的に小作人にやりますよっていう制度が農地改革。」
梅:「二十二年にあった。」
玉:「うん、戦後すぐ。」
調:「格差のようなのもはありましたか?」
玉:「格差はあったろうね。ただ、どのくらいあったかはわからん。」
調:「むかし神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?」
玉:「神社の祭りは平等やったね。氏子さん、氏子さんが全部。」
調:「氏子さんっていうのは?」
玉:「氏子さんっていうのは例えばね、この背振には神社がいくつもある。その氏子さんっていうのは、お寺でいうたら、門徒、檀家と同じこと。この神社を中心として集合している住民、これを氏子って言う。例えば、神社がある、一番大きいのは背振神社ってある、この神枇を中心に運営していくわな。護持、護持って守る、この護持運営をしていくための集団の一人一人を氏子って言う。ですから、神社の祭りをしようって言うたら、この一人一人が氏子さんやけん、お祭りは全部でする。そしたらね、氏子でない人もお祭りにかたってくださいって案内を出しよった。
そしてお祭りはどんなお祭りがあったかっていうと、相撲大会は、昔から日本は相撲の国やけ、やってみたり、踊りをしてみたり。とこたまね、氏子が神社を運営するのに寄付金を募る。金も出し合おうやと。強制的とはあんま聞いとらんばってん、これを奉賀という。しかし日本の文化っていうのはさ、また観光地もしかりばってん、神社仏閣で栄えてきとっとよ。」
梅:「京都あたりでんね。」
玉:「京都もしかりね。京都は仏閣。」
玉:「神と仏、これは伝統の長い、神がちょっと長いらしい歴史は。よろづの神とか天照大神とか、仏教よりかはやく渡ってきた。だから、その歴史的な建物見たっちゃ法隆寺にしても、どこのお寺にしても世界遺産になっとう。文化財産じゃ。ですから日本の文化は神社仏閣で栄えた文化、そういってもよかろうね。それが今どんどんどんどん観光資源として活用されよう。」
調:「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?」
玉:「うちのばあさん、この人が戦争未亡人なんですよ。旦那を戦争でなくした。どのような影響をあたえたか……・これは村だけじゃなか全国おんなし。戦争未亡人っていうたら当時は弱者になった。戦争で国のために犠牲になった、その家庭はね、村の中で話し合いをしてみても、親父がおらんけん弱かけん弱者扱いになった。こういう弊害って:言うかいわゆる民主主義に反するようなね、今は同和対策ってあんの知っとう?」
調:「はい。」
玉:「昔の江戸時代に出来た士農工商えたひにんという身分制度。この制度が今もかなり残っとるわけよ。その、影響ちゅうのは大なるものがあると思う。ということはどんな影響があったかというとね、政治が、国がやった、いまも国がしよるよ。しかし軍国主義というのはね、陸海空軍のトップクラスが政治をつかさどってね、それをどういうやり方でやったかって言うと、日本のために、天皇陛下のためにっていう、今のフセインと同じことさ、北朝鮮と同じ思想やね。今の政治っていうのはさ、国民一人一人の幸せでしょうが。これを願こうて政治をやるのが今の民主主義なんよ。ところが軍国主義はね、国が第一。人民、国民は二の次。国が強うなって、そやけん富国強兵っていう思想、やけんどんどんどんどん軍事費ばっか使こうて、人間もどんどんどんどん軍人になって、強制的に徴兵制度をしいて赤紙一枚で戦争にやった。そして、大きな目的はあったと。なぜかっていうと、日本には資源がない。資源がなかけんが大陸に渡って、大陸の資源ばふんだんに使って、日本の国を富国強兵に、富を得ようというやりかたじゃけん。そこの先頭になったのが、中国を侵略し、朝鮮半島を侵略し、東南アジアを侵略し、そして中国には満州鉄道を引いて我がものんごとしてやった。だからその当時の悲劇が今かえってきようね。朝鮮半島も植民地に日本がなしたっちゃけ。早く言えば戦国時代だもん。豊臣秀吉と同じことさ。そういう生き方で。軍が主体にしていたとね。こういう戦争をやったもんじゃけ、内輪はぎゅうぎゅうさ。産業で一番栄えたとはなんだと思う?軍需工場なんですよ。鉄砲作り、機関車、飛行機作り、もうけたとはそういう企業。だからほんとに弱かったのは士農工商の農じゃなかったかな。農民がきつかったと。」
梅:「取り上げばされてね。」
玉:「全部国のために国のために言うて何でんかんでん血みどろになって働かせたと。そして日本で十六年が一番ひどかった。真珠湾攻撃があったとは十六年でしょ。」
梅:「十二年くらいからもう戦争に行ってお父さんのおらん家もあったよ。うちは二度目やったけん後からやったばってんね。十四年に行って、また十九年に二度目の徴集で行った。その間の四年ばっかはかえってきとった。ばってんね、十二年くらいからずうっとお父さん行ってあったとこもあった。」
玉:「まあ、個人的なことはよかったい。そういう世相じゃけんがね、どういう影響を与えましたかって言うと、ほとんどそういう産業にたずさわっていない、一次産業の農林業これはもう苦しかったって言うことよ。しかし天皇陛下の名の下に強制的にやらされた。だれがしたかって、軍部。野木大将のA級戦犯、先導した一番最高幹部が後で終戦になって裁判にかけられてね、犯人たい、戦争犯人。これは戦犯ていう。だから今靖国神社に参ったとき反対したね。どこが反対したかって中国も朝鮮も。というのはね、このばあさんの旦那さんの赤紙一ちょで戦争行って死んだ、そばってん、先導して行けっていうて強制的にやった幹部も靖国神社にまつっちゃあ。」
梅:「そやけん、腹ん立っ。」
玉:「だから、そういう戦犯をまつったとこに国の最高責任者が、小泉総理がお参りするっちゅうことは、まだまだ日本は軍国主義の思想が流れとう、怖いと、こういう話で反畿するわけよ。しかし、戦争犠牲者の冥福を祈って今から絶対、参戦する、再び戦争を起こすことはしないと誓いに行ったって、首相は良いなって、外から見てそぎゃんと見えんとってね。今問題になっんのは靖国神社に、そういう戦争を先導して一般国民を兵隊として駆り立てて戦死させた、そういう国の責任において靖国神社をまつろう、戦死した人の霊を慰めようってゆうて全部一緒に靖国神社にまつったとよ。だから、戦争未亡人は決して悪いことじゃないですよと、私の旦那も国の犠牲になって命を落としました、それを国でまつってやるのは当然のことでしょうと。ですから、この未亡人ていうのは非常に苦労されとる。女手一つで子供を育てて先祖をまつってきたわけよ。母ちゃん一人で先祖をまつってこにゃいかん、子供を育てにゃいかん、学校にもやらないかん、しかし財政的には親父が、お父さんがおんしゃらんけん貧乏。こういう中で未亡人がどれだけ苦しんできたかっていうのがわかるやろ? そういうのが戦争のもたらした悲劇っていうの。」
(言葉のでない私たちに玉貫さんは優しく語りかけるように話てくださった。)
調:「むらは変わってきましたか?これからどうなっていくのでしょうか?」
玉:「これは一口で言うのは大変なこと。変わりました。どんどんどんどん変わりました。二十代で、あ、今の十円銅貨ってしっとるね、最初に出たのは何年と思う? 昭和二十六年から二十七年。私が中学生の時じゃ。四十年から五十年近くなる、あの時期から。そして、昭和三十年代になった。そしたらあんたたちも今大学行きようけんがね、経済っていうのをほんとに立て直して、就職を早くできるように、経済再建っていうかな、不況対策ってのをどんどんしよったって、なかなか日本だけの問題やなか、世界各国がそういう問題、デフレの問題、昔はインフレで苦労した、ところが今はデフレ、品物が余って、ということで昭和三十四、五年まで非常に経済が低迷しちゃった。それで、池田勇人さんっていうのが首相になった。日本もなんとか経済を立ち上げて国民の所得を倍になそうという大きな柱を、所得倍増論っていうのを出した。
そうしたら昭和三十六、七年頃から教育がようなってきた。そしたら中学校でてんが高等学校出ただけでんがどんどんどんどん就職列車で上った、地方から。金の卵っていう言葉がそれで出た。今大学出たっちゃね、うちも三人が三人大学出たばってんとうとう思うとこ就職できんかった。しかしその当時は金の卵っていうことで就職はもう、経済成長時代やけん、四十年代前後から。その当時はどんどんどんどん。
で農家もそのあとどうなったかっていうと米作りがんばろうって言うて、二年連続、三年やったか連続佐賀県が一番になった。そいで、機械化がどんどん進んできた。ところがどんどん機械化が進んできたばってんが、四十年代になった。
四十年代はどういう世界やったかって言うと、やっぱ技術革新っていうかな、技術革新によって生産量はどんどん増えた。しかし労働者は減ってきた。機械がロボット化する。合理化合理化っていうことで、非常に労働者が困ってきた。だから労働運動っていうのがどんどん広まってきた。今一番どう変わってきたかって言うとそういう風に変わってきた。
ところが、経済、平成なってから一番きつくなった。どがんきつくなったかっていうと、農産物が豊富に出来るようんなった、技術革新でなったわけよ。肥料は良かとんでくうは農薬は良かとんでくうは田植機はでくうは、今時はね冷房用のコンバインのある。ところが機械が一台八百万とかそがんとはする。ところが規模拡大しよう言うて、大きく何十ヘクタールって言うん農業じゃないと日本の農業はたっていかんよ、アメリカの、カリフォルニア農業に太刀打ちできるてちゃ大規模農業をせんばいかん。大規模農業をしたはよかばってんが、ところがその付けが来た。
経費はどんどん使うたもんじゃけ、こんだ借金だらけ。その反面こんだね、農産物の輸入の問題が出てきた。今米でんがカリフォルニア、タイ米、中国米、こう出てきよったいね。ですから、よそは貨幣価値って言うのは、今ほらドルだってあるいは円だって勘定したっちゃ、一ドル百二十円とか何とかいうて、円高やろ。
向こうの給料はあんた、月に何千円とかよ、中国の給料は。それで生産するもんじゃけ、安上がりよ。どんどんでくうわけよ。日本の企業は国内でつくりよんなら、とても人件費の高うして採算のあわん。そして企業は外国に進出して、向こうで現地人のつこうて、しなもんの商品を作って日本によこすわけやけ、日本に残ったのは失業者ばっかり。そうでしょうが。
そうなってきて農産物も米も輸入する。米は日本の文化って言うたばってん、米も輸入する。なんでんよそから、人件費の安いとこで出来た物を。そいで、自由経済の貿易でしょ。関税の問題はどうしようかって話が国際的になる。しかし、だんだんだんだん自由化は進んでいく。そうすっと日本などんどん困っていく。だから、百姓しよったっちゃ、あわんけんがっていうてね、農家は荒れてきた。
そして、なんか儲かる商売がよか、二次産業、三次産業が良いって言うて、一次産業を辞めていく。中国が今そうなってきたね。上海とか都会に若者がでてはしって、百姓するもんなおらんごとなる。ま、そういう時代になってきた。ところが、よそ行ったっちゃ就職口はなっかったい。これが今の時代でしょうが。ますます日本の情勢は厳しくなる。村も厳しくなる。だから、国は何ばしっよっかって、景気対策景気対策って、いっこうに目に見えてくるもんはなかもんね。
学校もしかりね、だから子供がどんどん減ってきたわけ。少子高齢化の時代なんですよって。お母さん一人から1.23人しか産まれん。私は十人兄弟。でけたしこ生んでくれたけん有り難いこと。学校を中心にして、村が栄えてきとう。その学校が潰れていくわけよ。全部が全部技術革新に乗っかかっていかるっかって、百姓どもはどぎゃんすっとよかかい、農家は。そういう風な厳しい時代に入ってきます。」
質問事項を聞き終わり、お茶などを頂いて少し雑談したあと、おいとますることにした。今回、初めての現地調査ということで不安も多くあったが、実際に現地へ行くことで、机の上では得られない多くの貴重な情報を得ることが出来た。また、戦争の話など普段なかなか直接は聞くことの出来ないようなお話も聞けとても良い経験になった。