歴史の認識  七山村大屋敷

       文学部一年  1LT03057  佐藤佳子

              1LT03078 高柳佳奈

佐賀県東松浦郡七山村大屋敷地区

大屋敷地区は、七山村の中でも南に位置する。現在、地区には17戸、55人の人々が住んでいる。
五年前に中原地区・桑原地区と合併し、池原区となっ
た。

住民のほとんどは農家で、今ではその全てが兼業農家である。

 

川添さんの話

<青年宿について>

まず、青年宿について聞いてみた。すると川添さん自身若いころには青年宿に寝泊りをしていたという。

「青年宿」という概念を全く持っていなかった私は、まずその事実に驚いた。

「青年宿」とは、同じ地区の若い男たちが寄り合って一緒に寝泊りする場所のことである。

皆家で夕食を済ませてからそこに集まるのである。

目的は、川添さんによると、「そこに行けば若い男がおるのがわかっとるけん、地区の人は安心できるとですよ。

要は、かけこみ寺のように、治安維持のためじゃなかとですかね。」だそうだ。

川添さんが寝泊りしていたのは大屋敷地区の青年宿だが、七山村だけでも他にもたくさんの青年宿があったらしい。

学校を卒業したら地区の男子は必ずそこに入るのが決まりで、始めは皆知り合いに連れられてあいさつをしに行き、

それから自分の蒲団を持って宿に入るというのがならわしだったそうだ。

結婚したら出て行くので、2526才くらいが最高齢だった。宿の中での上下関係は厳しかったらしい。

若者たちはきっと社会の規範のようなものもそこで身に付けていったのだろう。

とはいえども若い男同士で毎晩酒を飲んだり、いろいろな話で盛り上がるのはとても楽しかったそうだ。

 

 

<山・田の俗称>

川添さんご夫妻からお聞きしただけでも相当な数の呼び名があった。

(この辺りでは「しこ名」とはいわないらしい)

 川添さんからおしえていただいた呼び名を地図に落としておく。(別紙参照、佐賀県立図書館所蔵)

しかし時代の流れとともに、若い人たちはこれらの呼び方はわからなくなってきているため、

きちんとおしえなければいけないとご夫妻は口をそろえていた。

そうやって昔からの慣習を守ろうとする動きはやはりむらの人にはあるようである。

  

<田植えについて>

田植えは親戚が集まって「もやい」で行っていたらしい。

ここでまたひとつ驚

いたことは、昔は泊り込みで田植えを行っていたということである。

しかもその期間は一週間から十日におよぶ。昔は移動手段が徒歩に限られていたため、

今では日帰りで行けるところも戦前は家族で泊り込みで行く以外に方法はなかった。

寝泊りをする場所は、自分たちで作った山小屋だった。

山小屋は、木材(ないときは竹で代用)で柱を立て、わらなどをかぶせる簡単なつくりのもので、

川添さんによると寿命は、わらが朽ちるまでの3~4年が限度だったらしい。

しかしその当時の家族というと祖父・祖母合わせ10人前後だったというからある程度はしっかりした山小屋だったのだろう。

田植えの時期(大屋敷では5月下旬〜6月上旬)はまだ夜は寒かったため、地面に穴を掘っていろりを作っていたそうだ。

その間、たくさんの田んぼを点々としながら一家は暮らし、子どもたちはそこから学校へ行っていた。

歩いてみるとわかるのだが、七山村は山・川・谷など非常に起伏に富んだ地形をしている。

この辺りを毎日歩いて学校に通った子どもたちは、さぞ脚力がついたことだろう。

このころの食事は一日4食が普通で、朝六時を「茶の子」、正午を「朝めし」、午後三時を「昼めし」、そして夕食を「晩めし」と呼んでいたという。

「ガガ」や「マゲモノ」と呼ばれる弁当箱を見せていただいた。(別紙イラスト参照)

「これに麦ごはんばいっっぱい詰めて持っていきよったですもんね〜」と、奥さんは微笑みながら話してくれた。

他に、「ヒャードラ」と呼ばれるい草のようなもので編んだかごを見せてくれた。

仕事に出かけるときにその中に「ガガ」に詰めたお弁当などの荷物を入れて持ち運んだり、

赤ちゃんを入れて仕事場へ連れて行ったりしたらしい。

自分たちで作ったお米をおなかいっぱい食べて、百姓仕事に精を出していた当時の人々の様子をより鮮明に想像することができた。

  

<稲の栽培について>

水争いについての質問をしてみた。それほど大きな争いは記憶にないというが、ちょこちょこもめたりはしていたらしい。

今はパイプがあるため水は全ての田んぼに均等に分配されるが、昔は上から流れてくる水を皆で分け合って使っていたため、

自分の田んぼに水を引くために他人の田んぼの水口を下げたりするという話は聞いたことがあるという。

では高いところに田んぼを持っているほうが有利だったのかと思い聞いてみたが、上に行けば行くほど水が冷たくなるため、

「すくれ」といって米ができない状態になりやすいらしく、その辺りは一概には言えないということだった。

肥料は専ら牛の堆肥を使っていたらしい。

耕耘機が登場するまでの間、各農家にとって牛は大変重要な存在だった。

牛を扱うときは「キセイキセイ」や「ドウドウ」という掛け声を使って、牛を扱っていたそうだ。

きっと家族の一員のように感じていたのだろう。牛が死んでしまったときは、その肉は地区の皆で集まって、

切り分けて食用にしていたというが、飼い主は家畜のその場面には立ち会えなかったらしい。

今は専ら化学肥料しか使わないわけだが、育ち方にこそ差は出るものの味は昔も今も変わらないというから不思議である。

昔の人々の自然に順応した生き方にまた感動を覚えた。

 

<炭について>

川添さんの父親は、昔は炭を自分で作っていたそうだ。地元の人は「たきもん」と呼ぶ。

今はもう売ってはいないらしいが、昔は高収入だった。

樫の木は高価だった。今でも昔掘った炭がま跡がいくつか残っている。

地図に記した「ゴロメキ」は直径2〜3mの炭がま跡である。

 

<祭りについて>

大屋敷地区は祭りが多い。まず、4月24日に「春祭り」がある。これは50年ほど前に大火事があって以来行われているそうだ。

次に旧暦6月14日に「祇園様」。8月に「地蔵様」。

これは道の脇に並んでいたお地蔵様たちに移動してもらうことになったので、5年程前から行うことを決定した。

旧暦8月20日には「池原祭り」。そして旧暦8月25日には、大屋敷地区で一番大きなイベントである「秋祭り」がある。

この祭りでは「浮立 天衝舞」という踊りが奉納される。佐賀県に残る数少ない浮立である。

大昔、病気が流行り、「これは神のたたりである」として神にささげたのが始まりだという。

地元では「ドンドンガンガ」と呼ばれるその舞は、大切に大切に受け継がれてきた。

毎年地区の青年が一人、メインの踊り手として選ばれる。

選ばれるのは一家の長男で、健全な両親を持つ未婚者に限られているのだという。

川添さん自身も若いころはその大役を務めた経験があり、今は息子さんが務められているということだった。

代表として選ばれることはとても誇り高いことなのである。

 この祭りが終わり、年を越して1月11日には初祭り「お伊勢様」がある。

以上、私たちが聞くことができただけでも六つの祭りがある。

どの祭りも地区の人々が協力しあって成り立っているのだ。

祭りの時には、皆で集まって作業をしたりまんじゅうを作ったりするのだそうだ。

神事が終わった後の飲み会、「直会(なおらい)」も度々行われているらしい。

その辺りもきっと昔から変わらず受け継がれてきたものなのだろう。

 

 <放送について>

浮立の衣装を見に公民館に案内された際、その衣装の隣に大きなほら貝を見つけた。

何かと思えば、昔地区の人々を集めるために使ったものだというから驚きである。

昭和30年くらいからはマイクとスピーカーが使われるようになり、今では各家庭にスピーカーが設置してあるそうだが、

その昔は、地区の長がこのほら貝を吹き、皆を集めて連絡をまわしたり話し合いを行ったりしていたのだという。

年忌の入ったそのほら貝は、スピーカーが導入された今でも、代々区長さんの手によって受け継がれてきたのだそうだ。

それを吹くのはとても難しいそうで、今となっては吹くことができる人は誰もいないという。

 

<廃校の利用>

昭和62年3月、川添さんの母校である池原小学校が、地区合併のため廃校となった。

しかしこの学校は取り壊されることはなく、今は「池原田舎の学校」として利用されている。

今年の7月には「こども木工まつり」という催しが開かれるらしい。(別紙参照) 

廃校が決まったときはやはりとても寂しかっというが、

このようにむらの活性化や次の世代へとつなげていく試みが、地区の人々の努力によってなされている。

 

 <戦争・戦時中の様子>

少しためらいながらも、川添さんは戦争のことについても私たちに話してくれた。

川添さんの母は四人兄妹の末っ子である。上に三人の兄がいるが、うち二人を戦争で亡くした。

長男は幼いころに亡くなり、次男はニューギニアで戦死、三男はビルマで戦死。

「祖母は、当時は死んだがましと思ったときもあったらしい。世の中に失望したて言いよった。

祖父はそれまで吸わなかったたばこを始めたとですよ。」と川添さんは語った。

非情な戦争の影は、のどかな山村にも影を落としているのである。

戦中・戦後、同じように戦争で男手を失った家はたくさんあり、そこには中学生が農業の加勢をしに行っていたらしい。

こういう人と人とのつながり、あたたかさは、今も昔も変わらずにこのむらにあるように感じた。

  

川添さんからおしえていただいた地名一覧

 センド(ウ)ニギリ(船頭握)・・・その昔、船頭さんがここで捕まったという話が伝わっている 

ヨナキサコ(夜泣坂)

ゴロメキ・・・2〜3mの炭がま跡

コウチイデ

ナゴサイデ

タイランイデ(平井出)

ナカオサキ

ナカンコイデ

ニヤトギリ(呼びにくいので川添さんの父が名付けた「むこう坂」という呼び名もあるらしい)  

イワガワ

ヒガシバタケ(東畑)

バンショノモト(番所の元)

ウドトウゲ・・・佐賀県で一番標高が高いところ

イケンモト・・・溜め池があるところ

タケンタ

オブケ

サイマタ

シロンタニ(城谷)・・・炭がま跡