【佐賀県東松浦郡厳木町本山地区調査】

           〜2003.6.29

 

訪問先:新開明雄さん(大正9年生まれ)

      ハツさん(大正8年生まれ)

 

                            1LA02054 川嶋 拓恵

                            1LA02067 金 淑美

〜導入〜

 <お宅訪問まで>

 午前10時半くらいに今回お世話になった新開さん宅を見つけたが、相手方には11時半に伺うことになっていたため、私たち二人は地図を参考にして周辺を回ってみた。まずは資料“厳木町の地名”にも載っていた岩屋駅に行ったが、特別珍しいものではなく田舎町ののどかな駅という感じだった。そのすぐ隣にあった岩屋郵便局も普通の小さな郵便局であった。ただ、資料によると岩屋駅は、明治32年の開通当時は本山駅と言ったそうだが山本駅と間違うので367年頃に岩屋駅と改名したそうだ。それに伴い、本山郵便局も岩屋郵便局と改名され今に至っている。

 まだ少し時間があったので住吉神社にも行ってみた。保育園の園庭から山に向かって伸びる急な階段の先にひっそりと存在していた。大阪住吉神社の分神が祭ってあるそうだ。

 そうこうしているうちに時間がきたので新開さん宅へ向かった。

 

 <新開秋雄さん・ハツさん夫妻>

 今回お話を聞いた新開秋雄さんは、昭和8年から本山地区に住んでおられるそうだ。○年間町会議員を務められたそうで、居間にはたくさんの賞状が飾ってあり、なんと天皇からの勲章まで授与された方だった。「何でも聞いて帰りなさいね。どんなことでも答えてあげるから。」と、感じのいい方という印象を受けた。さっそく聞き取りを開始した。

 

 <本山町>

 聞き取りを始めるに当たってある勘違いに気づいた。私たちは椋の木担当ということになっていたが、椋の木とは本山町の中の小字の一つだということが判明したのである。そこで本山町全体に関して調査を進めることにした。ちなみに椋の木とはもともと“椋の木瀬”という小字だったそうだが、新開さんが椋の木瀬の町会長をした時、椋の木瀬町というと呼びにくかったため椋の木町と呼ぶように変えたのだそうだ。それ以来、椋の木が正式な小字として通っている。

 本山町は炭鉱町である。昭和40年まで、岩屋炭鉱と呼ばれる炭鉱があった。当時はたくさんの人であふれにぎやかな町だったそうだ。閉山を期に一気に過疎化が進み、今では静かな田舎町という感じになっている。

 

1.地名の聞き取り調査

 <本山町の小字>

 改めて、小字としこ名の聞き取りを始めた。まず、この辺一体が本山町と呼ばれていることを確認し、地図を見ながら境界を教えてもらった。新開さんは「大字本山」とおっしゃっていた。

☆本山町の小字は以下の通りである。

ノギマチ(乃木町):乃木さん岩周辺の地域を指す。

コウシンマチ(庚申町):庚串塚付近を指す。

スミヨシチョウ(住吉町):住吉神社周辺を指す。

モトマチ(本町):昔、岩屋劇場を中心として栄えた地域。

タカクラ(高倉):岩屋炭鉱があった地域。岩屋炭鉱を開鉱した貝島氏の経営が破綻し、時期会長となった高倉氏の苗字からとった。

フナキダニ(舟木谷):岩屋炭鉱の中に、鉱員が買い物をするための商店街があった。その周辺のことを指す小字。谷川に沿って商店が並び、その谷川に舟が浮いているように見えたので舟木谷と言った。

ムクノキセ(椋の木瀬):上記のような変遷を経て、現在は椋の木という小字で存在している。

 

<本山町のしこ名>

☆本山町のしこ名は以下の通りである。

小字、乃木町のうち…イデンダニ(井出の谷)

          イチリヅカ(一里塚)

           一里測量して印に石塚を立て、流れないように桧の木を植えてある。

          ノギサンイワ(乃木さん岩)

           新開さんの家から見える。山の側面から大きな岩が剥き出しになっている。「乃木さん岩ちゅうたらここらへんじゃ一番有名ですもんね。知らん人はおりまっしぇん。」とおっしゃっていた。

             (※写真@参照、原本は佐賀県立図書館所蔵)

小字、庚申町のうち…コウシンサン(庚申さん)

           庚申塚がある。春と秋にお祭りがあるそうだ。新開さんの家のまん前にあった!(※写真A参照)

小字、住吉町のうち…スミヨシジンジャ(住吉神社)

           厳木町で一番新しい神社。新開さんの裏の山にある。

           (※写真B参照)

小字、本町のうち‥・イワヤエキ(岩屋駅)

          今も存在する。開通当時は本山駅と呼んでいた。

          炭鉱があった時代はここから唐津まで貨車で石炭を運んでいたらしい。「あの頃はほんっとに一日に何べんも貨車が行ったり来たりしよった」そうだ。

           (※写真C参照)

          イワヤユウビンキョク(岩屋郵便局)

          岩屋駅改名と同時に本山郵便局から岩屋郵便局に改名された。

小字、高倉のうち…イワヤタンコウ(岩屋炭鉱)

          明治39年貝島氏によって開鉱。戦時中は全国各地から出稼ぎの人が集まってきた。一つの村のようなものができており、ここに住む人たちは地元の人から「タンコウモン」と呼ばれていた。

          今はその跡地に石碑が建てられている。

           (※写真D参照)

小字、??のうち…スイシャ(水車)

          昔米つき水車があった場所を今でもそう呼んでいる。昭和1617年まであったそうだ。エネルギーが電気や灯油に変わったためなくなった。「おじさん(新開さん)が青年時代に恋愛ばしたもんね。いっつもその女性をここまで送って、握手ばしてから別れよった。」ちなみにそれは奥さんではないようだった。

 

2.聞き取り調査(炭鉱編)

 「炭拡があった時代のお話を聞いてもよろしいですか?」と聞くと「あ〜何でも答えるよ」と相変わらず親切だった。「あんたたちは炭拡ちゆうてもあんま想像しきらんめ?一回くらい見たことのある人ならね、つかみやすいとやろうけど‥・」と懸念されつつも真剣に話を聞いた。

 さっそく坑道があった場所を尋ねてみた。坑道は高倉の中心にあったそうだ。今では普通に車などが走っている。ガスがたまる危険性があるため、採ったらすぐに閉めていた。トロッコもあった。採った石炭はトロッコで岩屋駅まで運び、そこから専用の貨車で唐津湾まで運び出し、それから東京や大阪などへ搬出されたそうだ。「そんな遠くまで運んでたんですね。」と言うと、「戦時中、日本軍の飛行機や船を出すために上質な石炭が求められたったい。そげな石炭をね、『海軍御用炭』てゆうたと。」とのことだった。そういう燃料に使われるほどの石炭を産出していたのだから、結構大規模な炭鉱で、採れる石炭も立派なものだったんだなあと思うと同時に、今ではその面影すらないことに時代の流れを感じた。

「一般の炭鉱員の仕事ってどんなものだったんですか?男と女では違いましたか?」という質問をした。やはり炭鉱では男の仕事と女の仕事が分かれていたそうだ。まあ、体力的な差があるから当然か‥・。でもここからは初めて知る内容だった。女の仕事はさらに二種類あり、一つは「からい」と呼ばれるかごのようなものを背中に担ぎ、それに石炭を入れて四つん這いになり広いところまで運ぶ役、もう一つはそこできちんと燃える石炭と単なる石とを選別する役だった。「こげーんして這うていきよったとよ」と言いながら新開さんがしてみせてくれた姿勢は、ほんとに低く、かなり腰への負担が大きかっただろうなと思った。男の仕事はというと、想像した通り、採掘してそれを女の「からい」に入れることだった。しかし、戦時中は男手が足りなくなったので、女が男と同じ仕事をこなしていたらしい!!!体力云々などとは言ってられなかったのだろう。当時の食事の状況などを考えたらそれは相当過酷な仕事だったに違いない。私は今一日三食栄養たっぷりな食生活を送っており、二十歳ということで体力も最もある年代なはずではあるが、さすがに石炭採掘は無理だと思う‥・。当時の女性はほんとにつらかっただろうなと思った。ちなみに戦後、労働基準法が制定され、女が石炭を掘ることは禁止になったそうだ。

「炭鉱の人はどんな生活をしていましたか?」と尋ねた。特に恋愛や結婚が今とどう違ったか、あるいは当時の村の人たちと違いはあったかということに興味があったので、その辺も聞いてみた。炭鉱で働く人たちは全国から集まってきた出稼ぎの人たちである。採掘の仕事はそれほど儲かるものだったそうだ。「おい」や「こら」など、短くて乱暴な言葉を使う人が多く、村の女からすると魅力的だったらしい。しかし、村に住む親は「炭鉱もんとだけは結婚するな」と言っていたそうだ。「なんでですか?」と聞くと、当時はどこの親も相手方の家柄を重視していて炭鉱員の場合出身地が不明な場合が多かったし、仕事柄いつ死ぬかもわからなかったからとおっしゃっていた。「じゃあ全く結婚する人はいなかったんですか?」と聞くと、「それでも一緒になりたいと思ったら駆け落ちするしかなかったとですよ」と奥さんが教えてくれた。実際にそういう人もいたそうだから、人を好きになる気持ちは今も昔も変わらないのかなとちょっと思った。

新開さんは炭鉱で人事の仕事をなさっていたそうだ。戦時中は石炭の需要に採掘が追いつかず、人手集めに奔走なさったとか。「政府から、『石炭が足らん、人ば集めろー』て言われてね、熊本やらまで行って人を連れてきたとよ。それでも足りんかったけん、今度は朝鮮まで行っていっぱい連れてきよったと。」とおっしゃっていた。それを聞いて、私たちは強制連行のようにして連れてきたのかなと思い「え、無理やり連れてきてたんですか?」と聞いたが、そうではなかったらしい。朝鮮から家族連れで日本に渡って来た人たちのために、専用の寮を4ヶ所設け、そこに住まわせる形をとっていたとの話だった。

「炭鉱でのタブーは?」と尋ねると、「タブーてなんね?」とかみ合っておらず、「禁止事項とかありましたか?」と聞くと「あーもう、なんてったってタバコよ!!」とすごい勢いでおっしゃっていた。私たちは、それでもなぜタバコなのかいまいちピンとこなかった。ん、健康維持のため?・・・真相は、「石炭に火が移ると、坑道内の爆発事故を招くから」だった。言われてみるとなるほどな、という感じだった。「じゃあ滅多にそういう事故は起きなかったんですよね]と言うと、「いやいや、しょっちゅう起きよった」それでも実際には、爆発事故は頻繁に起こっていたらしい。新開さんの奥さん、ハツさんのお父さんはこの事故で亡くなられたそうだ。ハツさんは静かに頷いていらっしゃった。次いで多かった事故は、落盤による生き埋めと、貨車が途中で切れてその下敷きになることを挙げておられた。危険な分稼ぎはよかった様だが、やはり殉職者もたまに出ていたことが伺える。

 「何か特別なお祭りはありましたか?」と尋ねた。安全を願って「山ん神さん守り」という祭りが行われていたそうだ。「各坑道の入り口に毎月1日に祭ったと。」、全体では「年に一度神楽を立てて大規模なお祭りもしよった」とのこと。そこでは、ぜんざいやうどんなどの出店が並び、今のお祭りのような感じだったようだが、参加できるのは炭鉱の従業員だけだったそうだ。

 「歌とかはありましたか?やっぱり炭鉱節?」と開くと、おもしろい答えが返ってきた。普段はみんなで炭鉱節を歌いながら作業をすることもあったそうだが普通の炭鉱節とは少し違う。本来の炭鉱節は『月が出た出た〜月が〜でた、あよいよい。“三池炭鉱”の〜ぉ上に〜出た』というものであるが、この三池炭鉱の部分を岩屋炭鉱に変えて歌っていたらしい。新開さんもちょっと笑いながらしゃべっておられた。しかしこのようにして共同精神のようなものを保っていたんだなと感心した。

 炭鉱員はほとんどが出稼ぎのために全国各地から新しく集まってきた人たちである。それに対して村の人たちは昔からこの地区に住みつづけてきた人たちだ。この二つのグループはどういう関係にあったのだろうか。「差別はありましたか?」と尋ねると、「差別っちゅうほどでもないけど、交流をすることはなかったですね」とのことだった。炭鉱の人たちは、隣組をたくさん作って寄り合い所帯と呼ばれる公民館のようなところで、頻繁に集まっていたらしく、今もその建物が残っている。(写真F参照)また、当時は炭鉱で働く人の子供しか通えない小学校(現・本山小学校)があり、村の子供はいくら遠くても別の小学校(現・うつぼぎ小学校)に通わなければならなかったそうだ。このように、炭鉱の人たちは独自の町のようなものを作り出していたようである。

 炭鉱は昭和40年に閉山した。それをきっかけにほとんどの人が地元へ帰っていってしまったため、一気に過疎化が進んだ。昭和156年のピーク時の人口は22000人くらいだったのに、今は5700人くらいしかいない。「町並みはどう変わりましたか?」と聞くと「沿道にあった店やら飲み屋がじぇーんぶつぶれてしまったもんね。」とおっしゃっており、私たちが見た感じでも、今は岩屋炭鉱跡の石碑が建っているだけで、もう炭鉱の面影は全く残っていなかった。「もう残っとうのは年寄りばっかりですもんね。私たちは幸い家族がおりますが、一人で暮らしている人も多くて、その人たちの気持ちを考えたら寂しかでしょうね〜」と奥さんが話されていたのが印象的だった。

 

4.聞き取り調査(農業編)

「本山地区は炭鉱の町だったのですが、農業について少し聞いてもいいですか?」と尋ねたところ、「何でも聞いてんねん。,分かることはじぇんぶ話してあげるけん」と返事をして下さった新開さん。さっそく私たちはマニュアルを元に話を進めていった。

「田んぼへの水はどこから引いてきたんですか?」と尋ねると「厳木町はね昔から非常に水に恵まれとっとよ。そしてね、この地の水源地はね…東の方にね、作礼山があっとよ。それからね、天山もあるね」と新開さん。作礼山も天山も厳木地区にあるそうだ。作礼山は標高887m、天山は標高1046m。また、天山はこの地で一番の水源地だそうだ。「そこから降った雨がね、ざぁとね、厳木川に流れてくるとよ」と教えてくれた。その厳木川から田んぼへ水を引いていたということだ。「いっくら干ばつが起きてもね、水が不足することはなかとよ」と言って、昔から水には不自由していないことや本山地区が水にとても恵まれていたことを語ってくれた。

「どんな井関がありましたか?」と尋ねると「えーっとね、長分井関っちゅうのがある。厳木川がね、田んぼより上にあるけん人工的に川の水を止めてね、水路を作るわけよ。そこからね、田んぼに水を引くとよ」と答え、厳木には二箇所の井関があるという。長分井関と厳木井関。これらの井関は今でもまだ使っているらしい

「水の争いなんかはありましたか?」と尋ねると「なんがね、そんなのはいっちょんなか」たくさんの水があり、厳木町の人々は水に困ることがなかったため、水を取り合うという争いはなかったようである。

「用水路の中にはどんな生き物がいましたか?」と尋ねると「用水路の中にはね、まず鯉、フナ、ハヤ、かに、川えびやね」昔と今では生き物の種類は変わらないけれども、やはり数が少なくなったらしい、また、ハヤなどは食べることができるため昔は釣り人もたくさんいたそうだ。「昔はね釣りは楽しみの一つやったんにね、今んのね若者は釣りをせんよ」と遠くを見つめながら時代が変わったことを感じているようだった。

「田んぼの中にいた生き物とかは?」と尋ねると「田んぼにはね、うなぎ、どじょうとかちょぼちょぼちょぼちょぼとね、川からきよったよ」と、どじょうのように泳いでみせながら答えてくれた。雨が降ったときに川から田んぼにきていたらしい。

「米も麦もある程度とれていたんですか?」と尋ねると「うん、米もとれとう。麦はね、米の裏作としてね、どこの農家でも作りよったとよ。やけどね、だんだん国民が米を食べんくなってね、政府が減反政策を出したんよ。それで農家は米を作らんくなって同時に麦も作らんくなったんよね。最近はちいっと増えてきたけどね」と政府の減反政策を直接受け、米や麦の生産量が減ったことを話してくれた。農家では米、麦のほかにトマト、みかん、いちご、花の生産を行って生活を補っていたらしい。「一等田とかありましたか?」と尋ねると「一等田とかは今使わんばってんがね、ひのひかりとかこしひかりとか本山地区にあるよ」とブランド化された米を栽培しているらしい。「一反当たり何俵でしたか?」と尋ねると、「田んぼは一せい二せいって数えよったかなあ。一反は十俵やったかな。時には十二俵とかあったみたいやけどね。麦は知らん」と少し曖昧ではあったが新開さんが分かる範囲で教えていただいた。「ここは田んぼ田んぼといってもね、まず杉、米、みかんやらが多かったねえ」みかんは生産すれば必ず儲かるというほどであったが、だんだん下火になってきて今はもうあまり生産されていないらしい。その代わり、いちごを生産し始めたという。

「どんな肥料を使っていたんですか?」と尋ねると「昔はね、肥やし寵をかついで各家庭で肥やしを汲んでねえ、畑の中にざあーと流しよったもんねえ」という言葉を聞いて「それは馬の肥やしですか?」と尋ねると馬の肥やしではないという。なんと当事は人間の肥やしを使っていたらしい。そのため、当時は虫下しを飲むことは当たり前だった。私たち調査員は思いもよらない返事にただただ驚くばかりだった。百姓は肥やしをただで持って帰る代わりに正月などに餅をついて、お礼として持ってきていたそうだ。

「じゃあ、馬とか牛とかは飼ってなかったんですか?」と尋ねると「いやいや農家は飼っとったよ。それでね、その川(厳木川)でね、みんな洗いよったもんねえ」とハツさん。農家では馬や牛を飼ってはいたが肥料としては人間の肥やしを使っており、だんだん人間の肥やしを使わなくなってきて馬や牛の肥やしを使うようになってきたらしい。

 

5.昼ごはんと対談

新開さん宅にお伺いする前に電話をしたときに「一緒に昼ごはんを食べようね」と誘われ、その言葉に甘えて昼ごはんを新開さん宅でいただくことにした。私たちの予想では郷土料理が出てくるのではないか、と少し不安ではあったが、実際に当日運ばれてきたごはんはなんと高級なお寿司であった。私たちはまたまた呆気にとられた。いいのだろうか?と思いながら私たちは食べ姶めた。新開さんが「食べながら話そうね」とおっしゃってくれたので私たちは失礼を承知で質問を続けた。

「昔も病院ありましたか?」と尋ねた。炭鉱地区にもあったし、町の中にもたくさんあったそうだ。昔は医者が往診することが多かったらしい。医者も車などを使うことなく、自転車で患者の家を訪れていたそうだ。今では病院に通うようになって往診は少なくなったらしい。昔から病院はあり、特に炭鉱地区ではけが人が多く出るということで炭鉱の中で設立されていた。昔炭鉱地区にあった病院は今ではなくなっており、それも炭鉱の衰退が原因だという。

「昔のご飯というのは米と麦をまぜたものでしたか?」と尋ねると「戦時中はご飯どころじゃなくて、砂糖きびやら大根葉やらを食べとって米なんかちょびっとやったね…でもそれも古き良き時代やね」と答えてくださった。みなが同じ食事をしており、誰か一人が贅沢することなく、食物を分けて生活していた時代を懐かしんでいる様子だった。

「おかずは自分たちで育てたもので作っていたんですか?」と尋ねると「いやいや買うて(こうて)ばっかり」と答えてくださった。やはり炭鉱地区であったため、農作物を育てるということはなかったらしい。炭鉱の裏に当時は長い商店街があったため、そこでご飯のおかずの材料は買っていた。その炭鉱区にあった商店街が舟木谷の商店街だそうだ。やはりこの商店街も炭鉱の衰退が原因でなくなってしまった。

「結婚前の男性が集まる場所なんかはありましたか?」と尋ねると「集会所を作って青年たちが集まりよってなんじゃかんじゃ話しよったよ。でもね、女性の集まりもあったよ。処女会っていってね、裁縫とか手芸とかするような学校があったよ」と教えてくださった。その処女会に通うのは小学校を卒業して金銭的に裕福な家庭の娘だったという。貧しい家庭の娘は炭鉱で働いて家庭を支えていた。

「お見合いはなかったんですか?」と尋ねると「なか、なか。やけどね、やっぱり相手を見つけきらん人がおるとよ」と答えてくださった。そのような人のために、この地区では媒酌人として新開さん夫妻が面倒をみていたという。計57組の縁談を成立させたらしい。すごい!!この事実は新聞にも掲載されており、大きく新開さん夫妻が写真付きで記事になっていた。

「男女共同風呂はありましたか?」と尋ねると「男女共同風呂はなかったね。ちいっと分けてあった」と答えてくださった。もやい風呂というのは農村部にはあったらしい。当時は一軒一軒にお風呂はなかったため、人々はもやい風呂に走って行っていた。また、電話も一軒一軒にはなかった。そのような生活を私たちは想像することが難しかった。

「犬とか食べていましたか?」と尋ねると「犬食べたことあるよ。犬もたぬきもいのししも猟師がこれ食べんですかー?って持ってきよったよ」と驚くべき返事をしてくださった。私たちの感覚からすれば犬は飼う生き物であるが、当時の世代のほとんどの人々は犬も食べたことがあるらしい。犬はおいしくないが、おねしょをする人に食べさせるとおねしょをしなくなるということから食べていた。たぬきもおいしくなく、たぬき汁は真っ黒らしく、見ると食べたくなくなるぐらいに気持ち悪いものらしい。「うさぎも食べたことあるよ」と答えてくださった。当時は食糧難でもあったし、安く食料を手に入れようとなんでも食べていた。

このような食事の話をしていると、新開さん夫妻が「今は贅沢かあ…本当にブルジョアの生活よ」と語ってくださり、私たちは今の贅沢な生活を改めてありがたく感じる機会を得た。また、昔の人は今の人よりもだいぶ苦労して生きてきたため、いろんな経験を積んでいて新開さん夫妻を始めお年寄りが立派な人のように思えた。現代の生活からは絶対に抜け出せない現代人には、新開さん夫妻が行ってきた生活をすることはできないだろう。そのような怒涛の時代を生き抜いてきた新開さん夫妻に私たちは頭があがらない。また、新開さんはライ病患者を発見し、その後の対応などは当時の人々でももちろん現代人にもできないほどのものであった。ライ病患者に対して差別的であった当時の人々の前でライ病患者が持ってきたりんごをかじり、何も影響はない、何も感染しない、ということを示したという。しかもその時の新開さんは本当に感染しないのか分からなかったらしい。それなのに、このような行動に出ることができたのは新開さんの人柄というか偉大さを示しているように感じた。

そのようなお話をしているうちに、豪華な昼食を食べ終え、あっという間に帰る時間が来た。まだまだ聞き足りない、話し足りない思いでいっぱいであったが、私たちはその後も本山地区の名所を回らなければならなかったので、3時過ぎに新開さん宅を失礼した。帰り際にも家の外まで出てきてくださり、乃木さん岩や岩屋炭鉱の石碑の場所を詳しく教えていただいた。本当に最後の最後まで親切に対応してくださった新開さん夫妻にはとても感謝している。

 

6.感想

顔も知らない方に電話をして、その地区のお話を直接聞くということに初めは戸惑いを覚えました。私たちが戸惑ったように新開さんもとても驚いた様子でしたが、当日会った時もとても親切に迎えて下さいました。どのような町なのか何も分からなかった私たちに、新開さん夫妻が知っていることを詳しく話してくださったことに、私たちは感謝の気持ちでいっぱいです。

 私たちが訪れるということで町の図書館で本山地区について書かれてある本を借りてきて下さっていました。会ったこともない私たちが本山地区を調査するということで、そこまでして下さる新開さん夫妻の人柄の良さを感じました。事前に電話した時にお昼ご飯を一緒に食べようね、と誘って下さったり、何かどこの方にあるのか外に出て教えて下さったり、とても優しい夫妻でした。この本山という町の穏やかな雰囲気そのものを感じることができた気がします。

時間がなく、十分にお話もできず、また本山地区を回ることができなかったことがとても残念でした。新開さんの口からは私たちには想像もつかないことばかりがでてきて、時間を忘れるぐらいに話に熱中してしまいました。時間があるときに本山地区をもっと回ってみたいし、新開さん夫妻を始め本山地区に住んでいる方のお話も聞いてみたいな、と感じました。

最後にこのような機会を設けていただいた服部先生にとても感謝しています。

 

 <一目の行動記録>

10:30〜 バス降車 歩いて本山地区へ向かう

〜11:00 住吉神社、岩屋駅、岩屋郵便局、庚申塚を見学

11:00〜 新開さん宅訪問 聞き取り調査開始

1:00〜  お昼ご飯(お寿司)を頂く

〜3:15  聞き取り調査終了 新開さん夫婦に別れを告げる

〜4:20  岩屋炭鉱跡石碑、集会所、乃木さん岩を見学

4:30   バスを待ち始める 1時間後乗車

 

 (写真(7)アリ)



戻る