歴史の認識現地調査(6/29)報告書

種村 新

財部 修平

 砥綿 啓晶

l         調査地域:佐賀県松浦郡厳木町厳木地区

 

厳木の風景                     厳木町公民館

l         話者:三塩 正次サン(昭和17年生まれ)

         中島 亀夫サン(昭和7年生まれ)

         戸川 好司サン(昭和13年生まれ)

l      行動記録

10:30  現地到着、散策。役場前~厳木高校方面へ。

11:00  厳木駅に到着。近くの田んぼの中の生物を調査。

12:30  聞き取り調査開始。

15:00  調査終了。話題にのぼった場所を歩いて回る。役場→長厳寺→矢房様→首なし六地蔵→古寺跡→セブンイレブン(休憩)

15:30  ようやく昼食が売っているところを見つける。セブンイレブン万歳!

   セブンイレブン

16:00 調査再開 保利病院→恵比寿様→室園神社→オタッチョ森→給水塔

16:30  バスの到着を待つ。

19:00  学校到着。

l      聞き取り調査内容

<しこ名>

名称

読み

種類

祗園山

ギオンヤマ

木挽谷

キワキタニ

トクブチ谷

トクブチダン

鶴権現様

ツルゴンゲンサン

五郎橋

ゴロウバシ

大谷

オオタニ

古宮

フルミヤ

室園神社

ムロゾノジンジャ

オタッチョ森

オタッチョノモリ

古寺跡

フルデラアト

屋敷

首なし六地蔵

クビナシジゾウ

長厳寺

チョウゴンジ

山ベタ

ヤマベタ

屋敷

火の神様

ヒノカミサマ

矢房様

ヤソサマ

祖谷の神(道祖神)

サヤノカミ

山ノ下の溝

ヤマノシタノミゾ

森園

モリゾノ

また、場所は分からないが、アテノキというしこ名もあった。ホッカイドウというしこ名も聞いたことはあるが、本当かどうかは分からない。

古宮は山崩れにより、崩れ流されたという言い伝えがあり、別紙の地図によりその流された経路を示す。

火の神様もその場所を移転している。現在は室園神社の中にある。旧火の神様の場所も地図により、示している。

矢房様も同様に、移転したが現在はもとの位置に戻る。

 

 

Q&A>

田んぼについて

田んぼへの水は、どこから引いているか・・・川から引いていた。

水の量は潤沢だったか・・・ダムがなかったので、一定しておらず、大雨のときは多くなり、また少なくなるときもあった。

水を分ける上で特別のルールはあったか。また、水争いはあったか・・・特にはなかった。

雨乞いの経験はあるか・・・なし!

用水路の中にはどんな生き物がいたか・・・ドジョウ、ドンポ(ドンコとも呼ばれていた)、なまず、うなぎ、ジョウトク、ギュウギュウ(三塩サンはよくさされていた。)、谷ガニ(沢ガニのこと)。

田の中にはどんな生き物がいたか・・・昔はいなかったが、今はタニシが出てきた。自分たちで見たところ、おたまじゃくしがたくさんいた。

米は昔反当何俵だったか・・・いいところで7俵、悪いところで4俵。

何升まきと言った田はあったか・・・モミのまき方で、5升まき、6升まき等あった。モミ一升分まいたら、1升まき。

稲の病気にはどんなものがあったか・・・イモチ病、シラハカレ病(葉が白くなって枯れる)等があった。

害虫はどうやって駆除したか・・・田に油をまいてその上に虫を落として駆除していた。また、青い電気をつけて下に箱を置き、水を入れてその上に油を浮かせ虫をその中に落とす、夕蛾灯(ゆうがとう)というものがあった。

共同作業はあったか・・・あった。農薬散布などのときに他の家から加勢にきてもらったり、加勢に行ったりする、「いいがえし」と呼ばれる共同作業があった。

麦は作っていたか・・・作っていたが、今は作っていない。

田植えはいつだったか・・・六月下旬ごろで、現在よりは遅い。田植えはいいがえしによる10人以上での共同作業だった。

さなぶりはあったか。その思い出は・・・さなぶりはあった。昔は三日間くらい踊ったり歌ったりしていたが、いまは飲み会だけ。楽しみはそれくらいしかなく、とても楽しみだったようである。

飼っていたのは牛か馬か・・・主に牛を飼っていた。馬はその地域で一頭だけ飼っていた。

えさはどこから運んだか・・・牛のえさは藁で、夏に草を切り、冬までに乾燥させ、食べさせていた。

                  夏はたくさん草が生えているので、えさには困らなかった。

牛を歩かせたり、鍬を引かせる時の掛け声は・・・右、左は紐で引き、止まるは「ワァワァ」、行けは「トウトウ」。

どうやって手綱は操作したか・・・牛は1本で、馬は2本の手綱で操作していた。

 

馬は毎日洗ったか・・・馬はあまりいなかったのでよく分からないが、牛は川で洗っていた。(地図に記入している)

ゴッテ牛をおとなしくするときどうしたか・・・ゴッテ牛は導引き(どうびき)牛と呼ばれていたが、あまりいなかった。

 

山について

炭は焼いたか。収入は良かったか・・・焼いた。自宅用だったので収入はなかった。

山を焼くことはあったか・・・野焼きと言っていた。木を植えるために一回だけ大谷を焼いた。そのときは火事にならないかハラハラしたようである。

山栗やカンネはあったか・・・カンネはカンネカヅラと呼ばれていた。

山の木の実にはどんなものがあったか・・・くずゆと呼ばれるものがあった。また、何か黒い実もあったらしいが、名称不明。

川の毒流しはあったか・・・あった。電気を流したりもした。警察に禁止されてしまったので現在はできない。

フチや瀬や滝に名前はあったか・・・川の深いところを泳ぎ場所にしていて、それが4カ所あり、それぞれ、スナハラ、ウオドシ(ウオトシ)、ツカミ、シンデンと呼んでいた。

干し柿の作り方は・・・ショロの葉を割いて紐のようにして、しぶ柿の皮をむいたものを干した。縄干しにもした。

 

生活について

米はどういうふうに保存したか・・・カメに入れていた。

ねずみ対策は・・・箱にもみがらを敷き詰めて、俵にいれた米を入れて、さらにその上からもみがらを入れて、また俵を入れて・・・と繰り返してもみで隙間をなくし、ねずみが入ってこれないようにした。

昔の暖房はどんなものがあったか・・・木炭をつかって、いろりで暖をとっていた。

車社会になる前の道はどんな道だったか・・・じゃり道、凸凹道だった。

薬売りは来ていたか・・・富山から年に1回置き薬をしに来ていた。置き薬とは、家の薬箱の中に薬を入れて帰って、次回来たときに使った分の薬代を請求する制度のこと。アンポンタン(ハンポンタン)などと笑って呼んでいた。

病気になった時はどこで診てもらっていたか・・・病院が二つあった。明治時代からもう保利医院、居石医院の二つの病院があった。保利医院は下のほうに写真あり。

米は麦と混ぜたりしたか・・・終戦後はほとんど麦で、麦と米は8対2くらいの割合だった。

給水塔についての話も聞くことができた。厳木駅は、唐津-佐賀間の中継地であり、給水塔と呼ばれる蒸気機関車に給水するための設備があった。今は稼動していない。

恋愛について

結婚前の若者たちの集まる宿はあったか・・・青年宿があった。男女が集まった。上級生からの 制裁もあったらしい。

よばいは盛んだったか・・・なかった。山の方ではどうやらあったらしい。

もやい風呂はあったか・・・共同風呂と呼ばれていた。今ではない。コミュニケーションをとる場でもあった。

恋愛はどうだったか・・・文通などをしていた。共同風呂で男同士で情報交換などをしていた。

 

祭りについて

盆踊りや祭りは楽しみだったか。また、祭りはいつあったか。-祭りしかほとんど楽しみがなく、みなさん祭りは楽しみにしていたようである。また、いくつか祭りがあるが、それを以下にまとめる。

   名前

内容

大祭り

12月15日

大祭りと呼ばれ、今もあり。

 盆綱曳き

8月13日

今はなし。とても太い綱で、綱引きをする。

      

 

戌の子さん

 

 

内容参照

旧暦の10月の一番戌の日は男の子、2番戌の日は女の子が各所を回り、大きな石にロープを付け多数の子供たちが石つきのように四方から調子を取りながら石を地面に落とす。「ガンガンさんが揃うたらそろそろやろうじゃないかいな繁盛せーい、繁盛せーい」という掛け声をかけていた。

 

 

 もぐらうち

 

 

旧正月14日

 

もぐらが出てこないように「14日のモグラ一打ち、なぁーれ、なぁーれ、柿の木千なれ万なれ、虫喰うな、太うして長うしてぶらさがれ」という掛け声とともに、地面を竹で打ち、固めていた。

昔の神社の祭りの参加は平等であったか・・・平等であった。

昔の神社の運営は平等であったか・・・平等ではなく、お金を持っている人が運営費を多く出し、持ってない人は少なかったが、出さない人はいなかった。

 

その他

力石はあったか・・・あった。力石とは力比べ用の大きな石のこと。

干し柿を盗ったりすいかを盗んだりしたか・・・盗んだりした。

犬をつかまえて、すき焼きや鍋にしたことはあるか・・・あったらしい。特に赤い犬はおいしい!!!

犬はおねしょの薬だと聞いた事はあるか・・・ある。

 

 

 

l      写真集

  

       長厳寺                 矢房様

 

  

   首なし六地蔵         保利医院(木造の建物だった)

 

  

恵比寿様(聞き取り調査中に、資料を見せてもらう。)

  

室園神社境内              室園神社鳥居

 

  

室園神社境内へ続く階段    室園神社境内より

室園神社境内へ行く階段はとても長く、登るときにとても苦労した。数えてみると、

269段あった。苦労していった境内は想像していたよりも小さく、ちょっとがっかりだった。

 

  

 左)神社の維持の寄付金(金三百円 保利磯冶朗と書いてある。)寄付金が最も多く、保利医院の人だと考えられる。

 右)お金がなく、寄付金が少ない。(金拾円など)

寄付金が多い人の碑ほど、階段の上段の方にあった。

  

オタッチョの森             給水塔

       給水塔2

l         感想

三人とも終始丁寧に説明してくださった。資料とは別の字名はあまり聞けなかったが 、それを介さなくても村の生活の様子をいろいろ聞くことが出来た。みなさんは自分たちの住んでいる地域についての詳しい歴史や成り立ちにとても詳しく、そして学ぼうとする意志がとても強かった。僕たちはそれについてぜんぜん分かってなく、知ろうとも思わなかった。今回の調査でそれがとても恥ずかしく思えた。その土地の歴史や、生活についての知識をいつまでも絶やすことなく伝えていくために今回の調査はとてもためになったと思う。