基山4区の調査              調査者 1LA02148 中村真太郎

調査日 平成15621日            1LT03112 波多江俊介

 

協力者(敬称略)    

大山常次(T2) 坂口伊三郎(T7) 久保山辰美(S3

内山孝夫(S11) 大山軍太(S13) 木原鐵男(S19) 松石信男(S21

 

地名(読み方)       しこ名       由来

  

畑田(ハタケタ)      ハタケダ      不明

辻(ツシ)         ツジ        不明

津具田(ツクタ)      ツクダ       不明

脇田(ワキタ)       ワキダ       不明 

光枝(ミツエタ)      ミツエダ      不明    

潮井川(シヲイカワ)    シオイガワ     不明 

 

八龍(ヤツタツ)      ハチリュウ     (備考)「本来の呼び方

は『ヤツタツ』かもしれないが、わたしたちはずっと『ハチリュウ』と呼んで

いた。」と話してくれた。

白土(シラツ)       シラツチ      不明  

塚原(ツカバル)      ツカハラ      不明

一井木(イチイキ)     イチギ       不明

大園(ヲヲソノ)      ウウゾノ      不明

千搭(セントヲ)      センド(ウ)    搭(=墓、墓碑)が沢山

あったため

北陳谷(キタチンヤ)    キタジンヤ     陣営があったため

                        (備考)昔、このあたり

は元寇に対する陣営があり、そのため「定馬」などの戦にまつわる地名が多

い。ちなみに、現在では「北」はあまりつけないらしい。

馬出(ムマタシ)      ミャーダシ     不明

崩ノ下(クヘノシタ)    クヘンシタ     不明 

浦郷(ウラコヲ)      ウラゴ(ヲ)    不明

 

産所谷(サンショタニ)   サンジュダン    子供を出産する所だった

ため

                        (備考)お産を助けると

いうことで、「所」は「助」の可能性もある。 

谷口(タニグチ)      タングチ      不明 

柿谷(カキノキタニ)    カキノキダン    不明

浦谷(ウラタニ)      ウランタン     不明

白木谷(シラキタニ)    シラキダン     不明

南谷(ミナミタニ)     ミナミダン     木山から見て南にあった

谷だから

 

 

松浦園(マツラソノ)    マツラドン     (備考)この地域に家が

あったため、屋号として用いられた。「だから、ここに住む人のことは〜さん

とは言わないで、マツラドンのおっちゃんと呼んでいた。」という話だった。

大行司様(ダイギョウジサマ)ダイギョッサ(ン) 神として祀られている大

行事様の像があるため

                        (備考)地名としては大

行司だが、人々はダイギョッサ(ン)と呼んでいる。また、「司」は「事」であ

る可能性が高い。

男手矢(ヲテヤ)      グウズイシ     近くの川に、ぐうず

(亀)に似た石があったため                      

                      

                        (備考)この例は特殊

で、この場合のしこ名は別名といった感じである。

 

※これらのしこ名及び由来は、はっきりとしたものではなく、地名は学術的に

記録されたものである。

 

考察

地名としこ名の違いは、大きく2つのグループに分けられる。ひとつは濁点の

有無による違いであり、もうひとつは文字の省略や変化による違いである。前

者はそのままの意味であるが、後者の例として「谷」を「タン」と発音するも

のが挙げられる。基山は特に山を中心に地名が定められているので、「谷」と

いう言葉が多く使われている。

 

農業について

◎田んぼへの水はどこから引いていますか?川ですか、池ですか?

----------湧き水、清水、山水を主に川から引いていた。また、雨水をため

るため溜池を掘って、そこから井手で水を落としていた。井手(工)とは、田

に水を引き入れるため、川の流れをせき止めてあるところである。一つの川か

ら水を引いているのだが、水を引く場所によって「〜水路」と名前が異なる。

◎水争いはありましたか?

----------夜中に水を引かれることがあった。ひとつの川から水路を引いて

いるため、下のほうでは水が少なかった。また、水を勝手に抜かれないように

立番(見張り)をおくことがあった。隣村との水の奪い合いがあった。隣村の

用水路まで行き傍らで待ち伏せて、隣村の奴がいなくなったのを見計らって水

路を塞ぎ、自分たちの田に水が来るようにした。この事で口論になったことも

あるが喧嘩のような暴力沙汰には(多分)なりはしなかったとのこと。

◎旱魃の時の思い出はありますか?

----------旱魃の時には、木山の頂上で千束焚(せんばたき)という焚き火

を行い、雨乞いをした。神主を連れてきて、神事をしたこともあった。

◎麦を作れる田と作れない田はありますか?

----------麦は湿田では作れなかった。麦を作っている割合は2〜3%くら

いであった。

◎むらの一等田はどこで、むかし(化学肥料の導入以前で)米は反当何俵でし

たか?

----------村の一等田は馬出周辺で(地図に記入)、当時は1反当り7〜8俵

くらい収穫できた。

◎むかしはどんな肥料を使いましたか?

-----------当時は牛の糞を堆肥として使っていた。それをまやんこえ(まや

ん肥?)といった。馬や人の糞も肥料として使用。

◎稲の病気にはどんなものがありましたか?

----------いもち病があった。

◎害虫はどうやって駆除しましたか?

----------害虫にはうんかなどがあり、菜種油で駆除した。その油は竹の筒

に入れ、その筒のそこに栓をして、その栓をきつくしたりゆるくしたりするこ

とで空気の量を調節し、それによって油の出る量を調節していた。また、稲の

葉っぱの裏側に虫の卵があると、それを集めて区長に持っていったり、蛾を学

校に持っていったりすると、表彰されることがあった。

◎共同作業はありましたか?ゆいといいましたか、かせいといいましたか(双

方が

加勢するとユイ)?。

----------共同作業はあったが、それを手間換え(手間借り)と呼んでい

た。いわゆる奉仕作業で、助け合っていろいろな仕事をしていた。山の上の方

から順に行っていた。村の人同士もあるが、大体は親戚同士で行っていた。人

を雇うこともあった。

◎田植えはいつでしたか?

----------田植えの時期は6月末〜7月にかけてで、だいたい梅雨に入ってか

ら行っていた。また、田舎のほうは温度差が激しく、上のほうは寒いので早く

植えて、下のほうは暖かいので遅く植えていた。

◎お手伝いの早乙女はきましたか?あるいは早乙女にいきましたか?

----------早乙女という言い方はしなかったが、お手伝いの女の人は多かっ

た。というのも、男たちは戦争に行っていて男手が少なかったからである。男

たちは主に、駄使い(馬や牛を使う仕事のこと?)や車で力仕事をすることが

多かった。

◎田植え歌はありましたか?

----------この頃にはもうなかった。それどころではないほど忙しかったら

しい。

◎飼っていたのは牛ですか、馬ですか?

----------ほとんどは牛で、馬は数%しか飼っていなかった。牛舎は家の隅

にあり、寝起きは人と一緒であった。しかし現在はすべて機械を使っている。

鶏も飼っていたが、卵を食べるのは祝い事があるときぐらいで、年二・三回ら

しかった。後は売ってお金にしていたのであろう。卵を産まなくなった鶏はつ

ぶして客人の食事として出したそうだ。

◎牛を歩かせたり、鋤をひかせたりするときのかけ声は?右へは?左へは?

---------右へ向かせるときの掛け声は「へせ!」で、左は「さし!」で、止ま

るときは「わ!」と言っていた。

◎どうやって手綱は操作しましたか?一本ですか、二本ですか?

----------1本だった。

◎入り会い山(むらの共有の山、村山)はありましたか。どこにありました

か?

----------共同林とよんでいたが、今はもう企業や個人に分けてしまった。

また、森林組合というものもあり、その組合によっていろいろなことが決めら

れた。切り出した木は馬で入会地(山の中)から運び出し、ある程度下ったら

今度は馬車に乗せて運んだ。

◎山を焼くこと(キイノ・切り野、切山=焼畑)はありましたか?

----------キイノ・切り野・切山とは言わず、山焼きと言っていた(陣屋地

区)。

◎かご(楮・こうぞ・かじともいう、ちがうという人もいる)は取りました

か?

----------楮と書いて「こうぞ」と呼んでいた。紙の原料で、野生であった。

◎ほか山の幸はどんなものがありましたか?

----------ぜんまい、わらび、ふき、つわ、つくし、やまいも、たけのこ、

やまごぼう、やまもも、あけび、野いちご、木苺、桑の実などが今でもなって

いるが、当時ほど進んで食べようとは思わない。

◎川にはどんな魚がいましたか?

----------はや(はえ)、うなぎ、どじょう(しまどじょう、普通のどじょ

う)、えび、どんこ(ヒキガエルのおたまじゃくしのような魚で、大きくグロ

テスク)、こもつか(ハゼ科)、ふな、こいなどがいた。こい以外の魚は食べ

ていた。毛蟹もいて、秋に谷から下ってくるものはガソという。谷ガニ(沢が

に)は炊くか、てんぷらにして食べた。はやは炊くか三杯酢にして食べた。鰻

の取り方。竹に紐をつけ、先端に釣り針を結びそこにミミズを刺し込む。そし

て、次に日見に行くと上って来た鰻が食いついていた。毎日仕掛けに引っかか

っているかを見に行くのが楽しみで仕方なかったとのこと。

◎川の毒流しはありましたか?

----------川に毒を流して魚を浮かせて捕るこの方法。たまにやってる人が

いたらしく「密漁」と呼ばれた。また子供の頃の遊びとして車のバッテリーの

「+」と「−」を川に突っ込んで魚を気絶させて捕っていた遊びがあった。た

まに、自分の手まで水の中に突っ込んでるのに気づかずにスイッチを入れてし

まい魚諸共シビれてしまったほろ苦い経験もあるとか。無論違法行為であるか

ら話してくれるのを渋ったが、実際話しているときは目をキラキラさせてい

た。

◎淵や瀬や滝には名前はありましたか?

----------平助が池という池があり、それは平助さんが掘ったからといわれ

ている。昭和13年〜14年ころまでは水が湧き出ていた。そこでキャンプを

していたが、今はもう枯れてしまっている。サンショウウオがいたらしい。

◎水路に生き物はいましたか、また今もいますか?

----------川には今も蛍がいて、季節になると見られる。陣屋に多く見られ

るらしい。

◎おかしはありましたか?

----------米の残ったものを炒って、やきごめにして食べていた。それを竹

筒の中に入れて持ち歩いていた。これが唯一のお菓子で、とてもおいしかった

と言っていた。

◎干し柿の作り方、数え方(干し柿は「連」であろう)を教えてください。

----------干し柿の作り方で、コツとして、途中で揉むことで甘くなるらし

い。数え方は1さげ、2さげと数える。1さげは2個の干し柿が付いている。

◎食べられる野草はありましたか?

-------ぜんまい、わらび、ふき、つわ、つくし、やまいも、たけのこ、やま

ごぼう、やまもも、あけびなどは食べていたが、どんぐりは食べなかった。よ

もぎ、せり、みつば、うど、たらのめ(だらのめと発音していた)などが主な

食用草であった。

◎米はどういう風に保存しましたか?ひょうろう米(兵糧米、はん米・飯米)

は?

------------大きな米びつに入れて保存。トタン製の米びつも在り、一つ十

俵ぐらい入ったという。(一俵=四斗=18リットル)モミの付いたまま保存

する「もみびつ」というのもあった。もみのまま保存するのは、虫が付きにく

いためである。炊いた米飯を「じょうけ」と呼ばれるザルのようなものに入れ

て風通しの良い場所に吊るした。「吊るこじょうけ」と呼び、米の腐敗を防い

だ。電子ジャアがない時代で、一度米を炊いたら後は全部冷やご飯が当たり前

であった。

◎ネズミ対策はどのようにしていましたか?

-----------米びつに入れるのが鼠よけになった。

◎米作りの楽しみ、苦しみはなんですか?

----------作業後(田植えや収穫の後)の宴会や、九月一日に「がんじょう

じ」と呼ばれるお祭りもある。また苦しみは田植えの腰の痛さや台風や大雨で

収穫の稲が台無しになること等だ。収穫した後、切り株の中に虫がいるため、

かぶ切りといって地面とかぶのすれすれのところを鎌で刈っていた。かぶ切な

どは、戦時中の人手が少ないときなどは子供たちも手伝ったということ。

◎むらにはどのような物資がはいり、外からはどんな人がきましたか?行商人

は?

---------- 「塩鯨」「塩さば」を売りにくる行商人、「花茣蓙」売りの行商人も

いた。服の仕立て屋のような人もいた。しかし専ら自分たちが町まで売りに行

くのが当たり前であったとか。行商人ではないが紙芝居もあった。ただし村の

ほうまではこなかったが。ぼろ買いと呼ばれる廃品回収も来た。基本的に自給

できない食料品は、外から持ち込まれていた。

◎むかしは病気になったときはどこでみてもらいましたか?

----------病気になったときは、町の医療施設に行った。しかし、基本的に

は我慢で、どうしても我慢できないときは往診で診てもらった。その際は、自

転車で医者を呼びに行った。また祈祷師が来ることもあったが、これといって

効果はなかったとさ。

◎薬草などはありましたか?

----------よもぎの薬草はよく使われた。ほかにも、ユキノシタは中耳炎に

効くとか、センフリ(センブリ)が腹痛に効くといったことを教えてくれた。

 

当時の食生活について

◎自給できるおかずと自給できないおかずはなんですか?

----------しょうゆと味噌は自給していた。魚、肉は珍しく、めったに口に

しなかった。塩鯨はよく食べたそうだ。鶏も祭りや来客のときに食べるくらい

だった。

◎村独特の料理はありますか?

----------「がめ煮」という、筑前煮みたいなものだが、それと比べて汁が

多く、野菜の切り口の角が丸くなるくらい煮込んだものがある。あじのほう

は、もちろん「おいしい」ということ。

 

◎結婚前の若者たちの集まる宿(わかっもん宿・若者宿・青年宿)・青年クラ

ブはありましたか?

----------青年団というものがあり、集まる場所は有ったが、当時は電気が

きていなかったため、特にすることはなかったそうだ。

◎「よばい」はさかんでしたか?よその村からくる青年とけんかをしました

か?

----------話を伺った方々の世代にはもうそういう風習はなくなっていた。

青年団の様なものはあったが、集まったとしても特に何もしなかったそうだ。

この方々の祖父のころまでは有ったが。

◎盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつありましたか?

---------・おみき〜九月二十三日で氏神様のお祭り。荒穂神社で行われる。

   ・夏越祭り〜七月二十九・三十・三十一日に行われる。

   元日に有る風習〜若い衆が山から家の屋根ぐらいの高さのシイの木

を切り出してきて、家に立てかける。

   宮籠り〜十二月一日に青年たちが集まって夜通し火を燃やす。中に

は子供たちも参加していた。

◎格差のようなものはありましたか?

----------庶民の間に格差というものは存在しなかったようだ。

◎むかし神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?

----------祭りの運営は各地にいる氏子という役の人に任され、交代で受け

持っていたようだ。また、神頭(じんが)と呼ばれる世話人がいた。このよう

なことから、祭りへの参加・運営は平等であったといえる。

◎子供のころはどんな遊びをしていましたか?

----------こま回し、ラムネ瓶の中に入ったビーダマ、自転車の輪をはずし

て遊んだりした。ぱっちり(メンコのこと)、イスケンパタン(パタンはぞう

りの音を表す。ケンケンパと一緒)、瓦倒し(ドミノ)、釘を打ってする陣取

りゲームなどをした。「モチの木」から「とりもち」を作り、メジロを捕まえ

て飼った。私たちはてっきり食べるものだと思っていた。今みたいに、虫取り

網がなかったころ、クモの巣をいくつも棒に絡ませて、とりもちのように使用

して、虫を採っていた。虫かごも裸麦を使って、六角形を作り、自作のものを

使っていた。でも、今はもうそんな器用なことはできないらしい。

◎この地区にガスがきたのはいつ頃ですか?

----------昭和四十年ごろから徐々に普及した。

◎電気がきたのはいつ頃ですか?

----------昭和10年くらいにきた。

◎電話線の普及はいつごろですか?

----------テスト運転として親機を一ヶ所に設置し、三十六軒ぐらいに繋い

で特定のところにだけかけることはできず、全て一度、つまり三十六軒に同時

に電話の声が届く仕組みになっていた。ただし、向こうから声は届くがこちら

からの声は届かないから果たして電話と呼べるかどうかは不明である。これが

大体昭和四十年以降からの普及になるらしい。

◎ではテレビの普及はいつごろですか?

----------昭和三十九年ごろの普及らしい。テレビは当時どこかの家に一台

だけあって、みんなしてそれを見に行っていたらしい。無論白黒テレビ。テス

ト放送(番組とは呼べない)の画面でさえ楽しみであったとのこと。今と違っ

て、一日の放送時間はとても短かった。プロレスを見るのが楽しくて、力道山

に酔いしれたとのこと。テレビを置くところがお仏さんを祀る仏壇のように、

扉を開け閉めするところが付いていた。カラーテレビは五十年以降の普及。

◎防寒対策や暑さへの対策は何かありましたか?

----------寒さ〜火鉢はどの家庭にもあった。湯たんぽを使ったり、七輪の

ようなものに布団をかぶせてコタツのようなものを作っていたが、今考えると

よく火事にならなかったもんだとしみじみ思うぐらい危険らしい。後、股を暖

めるために火鉢を股に当てていた。「股火鉢」というらしい。

    暑さ〜団扇ぐらいしかないとのこと。

 

◎太平洋戦争のことについての思い出はありますか?

----------話を伺った人曰く、小学生のときに終戦を迎えた。当時学校は軍

事工場が村の近くにあったためか、兵隊たちがたくさんいて、校庭は兵隊の食

料のための芋畑になっていた。私たちは学校に行ってなかった。機銃を装備し

た米軍戦闘機がグラウンドの兵隊たちを狙撃して行った。米軍機が去った後

に、追いかけるように日本軍の飛行機が飛んできたが、それは見せかけ立っ

た、と笑い話のように語ってくれた。日本軍の飛行場もあり、米軍機は日本の

飛行機の電波を妨害するために銀紙を落としていった。以前まで、学校にある

コンクリートに機銃の弾跡が残っていたという。山に防空壕を掘って、近所の

人たちとそこに逃げ込んだらしい。防空壕の中は暑かったり、寒かったりした

のではないかと聞いたら、えすくて(=怖くて)それどころではなかったとの

こと。警戒警報と空襲警報の2種類の警報があったが、どちらがなっても空襲

に備えた(警戒警報が鳴って、空襲警報が鳴るまもなく攻撃が始まるので)。

ちなみに、村に爆弾が落ちたことはない。

◎戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母はい

ましたか?

----------太平洋戦争に限らず、日清戦争などでも、戦争未亡人や靖国の母

はたくさんいた。戦争が与えた影響については、戦争に負けたのが良かったの

か、悪かったのかにかかわらず、民主的になったのは確かだと言っていた。

 

地図のしこ名(地名)

   タンナカ      テランキンド

   ウラゴ(ウ)       ウウゾノ

   ナガウラ      タカタケ

   キョオノ      ヲテヤ(グウズイシ)

   イノメ     10   ミナミダニ

11   オヤマ(デラ)  12   ジンヤ

13   サカノシタ 14   ミヤンマエ

15   ミヤウラ   16   マツノクボ

17   ミツエダ   18   フカソコ

19   マツ(ウ)ラゾン     20   ミフネ

21   ウソノタニ(ウソンタン)   22   ヒライシ

23   カワバタ   24   ヤニウチ

25   タングチ   26   ハチリュウ(ヤツタツ)

27   カキノキダニ(ン)   28   ドジョウバル

29   ヒタンハル 30   フジカワ

31   クルマジ       

水路

   塩井川工 ※工と書いて「イデ」と読むこの位置より北西側の田に水

を供給        フカソコ工この位置より南東側の田に水を供給

   通本工(とおりもといで)      八幡工(はちまんい

で)

   ツクダ工      アブラ工