【三養基郡基山町4区】
現地調査レポート
担当:村山千咲、山木涼子
調査日
平成15年6月21日
お話をしてくださった方
大山常次さん 大正2年1月 90歳
坂口伊三郎さん 大正7年5月 85歳
久保山辰美さん 昭和3年1月 75歳
内山幸夫さん 昭和11年2月 67歳
大山軍太さん 昭和13年6月 65歳
木原てつおさん 昭和19年2月 59歳
松石信男さん 昭和21年4月 57歳
ありがたいことに、内山さんが呼びかけてくださったことで、7名の方から色々なお話を聞くことができた。最年長の大山さんは、ゲートボールをやっておられて、私たちはその元気さに驚きを隠せなかった。皆さんがこの調査依頼を快く引き受けてくださったことに、大変感謝している。
基山についての説明
●基山は「きざん」、「きやま」のどちらで呼ぶのか。
「きざん」は山名、「きやま」は地域名である。
日本の地名の場合は、原則としてその土地に住んでいる人が、その場所をなんと呼ぶかということが一番尊重されることになっている。
●山名「きざん」の由来
1基山の「き」は古代民族の種族を表すもので、この山に朝鮮からの異民族の集団が住んでいたことから名づけられたという説。
2日本書紀の文献『新羅の国から樹木の種を持ち帰り、植林したので、木の山になった』という木の山から基山になったという説。
3天智天皇の四年(六六五)、新羅および唐に対する防備のため、この雌こきい城を築いたことから、城山(きやま)と呼ばれたという説。
以上のように、基山「きざん」の由来には多くの説,があったようだ。
なお、参考文献として『佐賀豆百科』、『郷土史事典佐賀県』を利用した。
地図の説明 (地図省略:入力者)
小字としこ名を別々の方からお聞きしたので、地図は二部に分けて提出している。
5000分の1の地図にはしこ名を尋ねて記入した。3000分の1の地図には小字を尋ねて記入した。その際、しこ名も出てきたので、それを二重線で囲っている。
地図に記入する際の様子
「適当でよかちゃろ?」そう言いながらも、「○○の範囲はここまでじゃなかとね?」「いや、ここもじゃろうもん。」「ん? ここは入るじゃろうか。」と議論を交わしながら、真剣に私たちの調査に協力してくださった。
基山四区は範囲がとても広いため、分からない小字もあったようだ。「先祖がもっと昔に、こんなふうにして、地図に残してくれとったら、よかったのにのお。」と言う意見も出た。「長生きしとるばってん、昔んことじゃけん、はっきりとした正確な情報じゃなかよ。そこんとこは、勘弁してくれな。」とおっしゃった。それでも、私たちにとっては貴重な情報だと感じた。
地図の小字について
・小字サンショダン(産所谷)について
基城には大勢の侍が仕えており、その妻にあたる入たちが、ここで子供を産んでいた。お産を助ける所であるから(産助谷)と字を書くという説もある。
・小字ジンヤ(陣屋)について
陣屋は、昔戦争で亡くなった方のお墓を多く祭っている。
小字やしこ名の由来には、基山を中心に見て付けられた地名や、城の影響でできた地名が多く目立つように思った。
しこ名 |
由来 |
参考・特徴など |
ナナマガリ(七曲) |
くねくねと曲がった道があった。 |
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シロミチ(城通) |
城山に通じる道があった。 |
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フケ(不毛) |
不明 |
昔は不計という字だったようだ。 |
ハチリュウ(八龍) |
不明 |
本当は「ヤツタツ」かもしれないが、地元の人は「ハチリュウ」と呼ぶ。 |
シマトノヤキ(島殿屋敷) |
城の持ち主の土地だったよう。 |
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タンナカ(田中) |
田の中心だった。 |
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クウズイシ |
川にクウズ(亀の石)に似た石があった。 |
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ミヤンマエ(宮ノ前) |
お宮の前に位置する。 |
お宮が木山の頂上にあった。 |
ミヤンシタ(宮ノ下) |
お宮の下に位置する。 |
お宮が木山の頂上にあった。 |
オヤマデラ(小山寺) |
不明 |
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サカンシタ(坂下) |
不明 |
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ミツエダ(光枝) |
不明 |
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マツラゾン(松浦園) |
松浦という人が住んでいた。 |
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センド(ウ)(千塔) |
塔=墓があった。 |
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ミナミダニ(南谷) |
木山から見て南にあたる。 |
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ミャーダシ(馬出) |
不明 |
城に関係した地名であろうとのこと。 |
テイバ(定馬) |
城の馬を置いた。 |
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ヒタンハル |
不明 |
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ダイギョンザン(大行司様) |
不明 |
大きい石の神様を祭った。 |
ミフネ(御舟) |
不明 |
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ヲノノタニ(小野ノ谷〉 |
不明 |
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シイナカ(椎長 |
不明 |
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聞き取り調査の結果
・古い道や川に名前は付いていましたか?
基山の角に泉が湧いていた。そこには小さなサンシュウウオ(サンショウウオ)がいたらしい。その泉を、平助という人が掘ったので、“ヘイスケが池”という。この泉を見つけた人の名は不明。昭和14年まで水が出ていた。
・田植えの水はどこから引いていましたか?
山水から湧き水(清水)が出て、そして田へ。これらが川になる。同じ川から水を引いているが、場所によって“〜用水路”と名前が異なる。この湧き水を利用して、水路をつくった(位置は50000分の1の地図に記載)。山水を利用できない人は、雨水を利用して自ら池を掘る。この池を“ビールダン”“サンジュウダン”と呼んだ。陣屋に何ヶ所もあるという。
・水争いはありますか?
わりとない。ただし、水の番“リツバン(立番)”はいて、田から水を盗まれないように気をつけてはいた。
・早越のときの思い出はありますか? 雨乞いの経験はありますか?
基山の頂上で、雨乞いをした。たくさん燃やすことで、気流が変わり、雲が発生することを利用して、雨を降らせた。この雨乞いは種の神事であった。この雨乞いを“センバタキ(千束炊)”という。このとき久保山さんが、「“火事の時、雨が降る”と言うじゃろうが? それを利用したんじゃ。」と言われ、ああなるほどなあ……と感心した。
・麦を作れる田と作れない田はありましたか? 村の等田はどこでしたか?
麦が作れる田と作れない田があった。湿気・湿田では麦は向かない。麦を作っている農家は、全体の2%または3%であった。一等田は1反当たり、8〜9俵であった(位置は3000分の1の地図に記載。)
・田や川の中にはどんな生き物がいましたか?
川の中に魚がたくさんいた。……アブラハヤ、シラハヤ、ベンバヤ(これら3種のハヤを食べたらしい)、うなぎ、どじょう、えび、ドンポ{(どんこ)←ムツゴロウみたいで、よく食べたという}、コモツカ(ハゼの種)、なまず、ギュギュタン(人を刺してくる悪いやつ)、ぶな、ガソ(ママ)(毛ガニ)、サワガニ(麦の頃にいた〉など。
これを話している最中の久保山さんたちはとても楽しそうだったので、幼い頃に山を駆け回っていたんだろうなあ……と想像できて、微笑ましく思えた。
・昔はどんな肥料を使いましたか?
牛のフンや尿を使っていた。人や馬のフン(馬屋の肥え)も用いた。ほとんどの家庭で牛を飼っていた。馬はそれほど多くなく、鶏も飼っていたが、卵を食べるのは祝い事があるときくらいで年に2〜3回程だった。後は売ってお金にしていたのであろう。現在は肥料を使っている。
・稲の病気はありますか? 害虫はどうやって駆除しましたか?
稲病気はあった。油で虫を駆除しでいた。竹の筒の中で細い竹をさして虫を落とした。
竹筒と棒の間の空気の量で、うまく調節をしたらしい。菜種油(食用である)を用いていたが、多すぎるとひどい時は稲が枯れた。この油を“くさあぶら”と呼んだ。稲がまだ苗のときは、蛾が卵を産みつけていた。子供たちは、この幼虫の卵と親の蛾を集めた。これを区長さんのところに持っていくと、その集めた数によって学校で表彰された。
・共同作業はありましたか?
お互いに手が足りないときに、加勢に行って奉仕作業をした。この地方では“手間換え……てまがり、てまがい、ゆい”という。山の上の方から順に行われていった。だいたい親戚同士で行っていたが、村の人同士での共同作業もあった。人を雇う場合もあったが早乙女はいなかった。
・田植えはいつでしたか?
6月から7月の梅雨入りであった。水温が関係して、上の濁の方は5月20目頃から植える。ぬるい水が良い。植える人は女が多く、男は徴兵されたり、牛を使うなどの力仕事をしたりしていた。これを“駄使い”という
・田植え歌はありましたか?
この頃にはもうなかった、忙しくてそれどころではなかったという人もいる。
・どうやって牛の手綱は操作しましたか?
手綱は牛の場合1本で、馬の揚合2本であった。牛を動かすとき、右に行くときには「ヘセッ!」、左に行くときには「サシッ!」、止まるときは「ワッ!」と言った。牛が馬よりも大事で、家の隣に牛小屋を建てて、一緒に暮らしていた。
・入り合い地はありましたか?
あった(今はしこなだが)。切り出した木は、馬で入り合い山の中から運び出し、ある程度下ったら、今度は馬車に乗せて運んだ。
・山を焼くことはありましたか? それを何と言いますか?
あった。“山焼き”と言った。陣屋でよく行われた。
・山にはどんな幸がありましたか?
ぜんまい、わらび、ふき、つわ、つくし、山芋(いのししが食う)、たけのこ、ツワ、山桃など。
・川の毒流しはありましたか?
たまにあった。密業者がいて魚を採ったという。
・おかしはどんなものがありましたか?
田植えの前、苗の余ったもみくずを焼き米にして食べた。これは噛めば噛むほど甘く、おいしかったらしい。これを竹筒に入れて腰に下げ、人に自慢していたという。また、干し柿も食べていた。干して途中でもむという作り方である。干し柿の数え方は2つずつを、1さげ2さげと数える。
・食べられる野草にはどんなものがありますか?
よもぎ、せり、みつば、しか(うど)、だらの芽(やわくおいしい)、野生のごぼう、野いちご(赤)、木苺(黄。甘く小さい)、しいの実、いちの実、くわの実、山桃。これらは今もある。他に食べた虫……サナギ。
・米はどういう風に保存しましたか?
大きな米びつ(兵糧米はブリキの缶、もみはもんびっ)に入れてねずみ除けとして保存していた。缶は最近のことであり、もんびつは昭和13〜15年まであった。坂口さんは、ブリキの缶のことを“ガンガン”と呼んでいた。湿気も虫も来ない、40升くらい入る大きなかめもあった。
・米作りの楽しみと苦しみは何ですか?
楽しみ……実ったとき。田植えや収穫後の宴会。お祭り。
苦しみ……手で取る草取り。腰の痛み。台風や大雨で収穫前の稲が台無しになること。収穫後に残る、かぶの中に虫が来るので、かぶ切りをして虫を殺すこと。今はこの虫殺しは焼いて行う。
米作りについて……“うっすり(臼刷り)”という精米をする。谷判の段差で水を利用し、水車で米を搗く。
・外からはどんな物資が入りましたか?
日常品(味噌等)は自給自足。魚屋やひもの屋の行商はよく来た。ボロ買い(廃品回収)もよく来た。
・昔は病気になったときはどうしましたか?
ほとんど往診。電話がないので、自転車で医者を呼びに行った。祈祷師が村まで来ることもあった。たいていは我慢をしていた。
昔の人の知恵。中耳炎のときは、ユキノシタを耳に入れるのが良い。火傷やすり傷をしたときは、よもぎなどの薬草をつける。せんぶりは苦い胃薬。
・青年クラブはありましたか?
青年団があった。宿はなからたらしい。大正10年に電気がきて、まだ設備が整ってなかったという。
・よばいはありましたか?
土地によってあった。よばいと言うほどのものではないが、人の集まりはあった。
・祭りについて教えて下さい。
“おみき”……9月23日にある氏神様のお祭り。荒穂神社で行われる。氏子がいて、その人たちが祭りを担当していた。中心人物は“ジンガ(神頭)”←この人は昔の家柄の人。
参加は平等であった。
“夏越え祭り”……7月29,30,31日に行われる。
“宮籠り”……12月1日に青年たちが集まって、夜通し火を燃やす。中には子供たちもいたようだ。
・戦争未亡人や靖国の母はいましたか?
靖国の母はだいぶたくさんいた。未亡人や戦死者も数多くいた。こうした人は基山のところに多いため、そこには墓もたくさん残っている。
・村は変わってきましたか?
戦前、戦時中、戦後と村はとても変わってきた。昭和39年(オリンピックがあった)頃からテレビが普及し、それから生活が変化したという。何よりも戦争に負けてから、階級的差があまりなくなり(うすれていき)、民主的になった。ガスについてだが、この地域ではガスをひいていない。プロパンガスを使うようになって20年くらいだそうだ。
大山さんと坂口さんは、戦争に行った経験がある。大山さんは、満州へ戦車隊として行った。このようにこの村も戦争に参加していたのだ。基山町ができたのは昭和14年。
・子供の頃の遊びの紹介
コマ回し、金輪、パッチリ(メンコのこと)、イスケンパタ(ケンケンパーのこと)、瓦倒し、魚とり、メジロ(鳥の名)とり、虫とりなど。
*イスケンパタのパタとは、草履が地面に着いたときの音を表している。
*会話の様子*
聞き手: えっ!?メジロって鳥の名前ですよね?飛んでいる鳥を捕まえていたんですか?
話し手: 自分たちで、おとりカゴを作りよったもんね。器用やったばいな。今じゃ、あげなもん作りきるやちゃ(奴は)おらんやろうな。きれいに編んでいきよったばい。今でいうところの、虫とりあみごたーとも作りよったもんな。木にクモの巣を巻きつけてベタベタにして、カブトムシを捕ろうとしよった。あんま、とれんかったけどな。(同が笑う)
・郷土料理
がめ煮……一般に作られているがめ煮と違って、汁が多く、よく煮込まれており、材料がくずくずになっているのが特徴。皆さんによると、このように調理されたがめ煮のほうがウマカそうだ。
*会話の様子*
聞き手: 肉はどのくらいの頻度で食べていましたか?
話し手: 正月やお盆ぐらいやったたいな。高級品やったもんの。弁当にはシオクジラがよ〜はいっとたがね。今じゃそっちが高級品になっとるがな。ハハハ。
シオクジラ売りがこっちのほうまで、よう売りにきよったの。
一日の行動記録。
09-:00 九大集合。
09:15出発。
10:40バスで基山4区に到着
11:00道を聞きつつ宮浦に到着。12時約束だったので、1時間洗心寮の子供たちと遊ぶ。
いろいろな事情がある子が集まっていた。
12:00内山さん宅ではなく、近くの公民館でお話を伺う。
16:00調査終了。
16:35降ろされたところでバスを待つ。
18:00九大到着。
以上
基山四区宮浦の風景撮影(平成15年6月21日) (省略:入力者)