【三養基郡基山町園部】

現地調査レポート

ILTO3019浦 加奈子

ILTO3043楠瀬 慶太

ILTO3074高瀬健太郎

ILTO3083田中真紀子

佐賀県の小字・しこ名の調査

 

<写真> 坂の途中から見下ろす小松の棚田(写真省略:入力者。以下の写真省略)

 

●調査日:平成15621日土曜日(曇天)

●調査地:佐賀県三養基郡基山町園部

●聞き取りをお願いした方:

藤田末吉さん(83)

篠原種雄さん(71)

野田泰弘さん(60)

●調査を行った者

ILTO3019浦加奈子

ILTO3043楠瀬慶太

ILTO3074高瀬健太郎

ILTO3083田中真紀子

 

●調査でわかった小字、シコ名の一覧

・小字

けんこうじ

しょうぶだに(勝負谷)

にしだに(西谷)

なか()

ひがし()

てらやしき(寺屋敷)

・カド名(屋号)

ヤクシドウ

インキョヤ

サンノジョウカ

サンノミヤコ

スキタン

ヤマド

・田についた呼び名

マタンタニ(又ン谷)

サンジュウロク(三十六)

ケンゴウジノウエ(堅固寺の上)

・滝や岩、井堰、谷についた呼び名

みょうけんさん(妙見さん)

こうぼ石

メオトイシ

ムカイヤマダ

オイデ()

スズレイシ()

オノダニ()

フルヤシキ()

 

●天台宗別格本山"つつじ寺"大興善寺住職の話

@寺の歴史

大興善寺は奈良時代養老元年(717)行基菩薩がこの地に草庵を結び、一刀三礼にて十一面観音菩薩を刻み、安置されたことをもって開創したと伝えられている。承和二年(835)寺は火災に遭い、建物は殆ど焼けたが、本尊だけは炎の中に焼けずに立っていたことから火災よけ霊験あらかたとして崇信されている。承和十四年(847)等から帰国した慈覚大師円仁により再興され以後比叡山延暦寺の末寺となり、今日に至っている。昭和五十三年、九州で最初の別格本山となる。つつじ園は大正十二年に開設し、昭和三十二年、久留米ロータリークラブからつつじ寺の愛称を送られ、全国的に知られるようになった。春にはつつじ、秋には紅葉を見に大勢の見物客が訪れる。

 

<写真> 大興善寺前でお遍路の人たちに遭遇

<写真> 大興善寺

<写真> 大興善寺仁王門

A大興善寺

寺は、私たちが調査に行った基山町園部小松地区の小高い山の上に建っています。寺の石段の前では大勢の真言宗のお遍路の人々が、寺に上がらずにお経を上げて参拝しているのに遭遇しました。長い石段を登ると仁王門があり、門の両側に草鞄が掛けてありました。住職さんの話によると、仁王門に草鮭を掛けるのはよくあることで、足が強くなるように、つまり足腰が丈夫になるようにと願を掛けているのだそうです。今で言う交通安全のようなものだと住職さんは仰っていました。昔は草鮭も自分の家で作っていて別に珍しいものでもなんでもなかったそうです。また現在仁王門は山の上にあるけれども、昔は石段を

下りた前の道の小川にかかった橋の横に立つ、庚申尊天の石碑の建つところに門があったそうです。門を入ると小松内府(平重盛)の塔がたっています。これは小松内府の遺髪を埋めた供養塔ということですが、住職さんによるとその話には余り信慧性が無く、西国に多くの荘園を持つ平家の遺臣が、病死した重盛を奉ったのではないかということでした。しかし、大興善寺は"小松山"に建っており、この周辺が"小松"という地名で呼ばれているのは小松内府の"小松"から由来しているそうです。

<写真> 小松内府の供暮塔

<写真> 小松内府@

 

寺の横には大きな鳥居があります。熊野神社という古びた神社の鳥居です。神社は熊野権現を奉ったもので、神は仏の仮の姿であるという本地垂遊説による神仏習合の名残だそうです。現在ではきれいに手入れされた寺に比べ薄汚く、放置されているという印象を受けました。神社の後には神教に関する石碑がありました。また寺内には国指定重要文化財に指定された多聞天、広目天を安置した国宝殿、薬師如来、十二神将を安置した薬師堂、太宰府天満宮本尊本地仏を安置した本堂や旧藩主宗家御霊廟、マリア観音、十羅刹女、茅葺き屋根の庫裡、平和の鐘、戦没者慰霊碑などがあります。

<写真> 熊野神社

<写真> 庫裡

<写真> 国宝殿

<写真> 仁王門。写っていないが草鞋かっていた

<写真> 旧藩主御霊廟

B寺の昔の生活

明治時代の廃仏段釈によって多くの寺が影響を受けたが、大興善寺は影響を受けず、周辺住民の信仰の対象となった。昭和2030年代まではそれぞれが自分の山を持ち、山の管理を行い、竃を使っていたため、住職の家の二階が薪小屋となっており村の人々が区役として薪を持ってきていてくれた。昭和3040年代からは生活が大きく変化し、プロパンガスカ普及するようになり、山を管理する人も無くなって山は荒れていった。一方小松地区は水(硬水)が豊富だが、赤水が出るような所などもあった。昭和30年代からつつじ園を徐々に大きくして現在に至っている。

 

C住職の話を聞いて

住職さんは、宗教の歴史や日本の歴史、古典などに非常に詳しく、色々な話をしてくれました。昔は高校の先生をなさっていたそうです。近くの商店のおばあさんの紹介で、篠原さんたちよりも先にお話をうかがうことができ、小松地区に関する予備知識が得られ、後の話が非常に理解しやすかった。また、篠原さんのお宅の入り口の上に貼ってあった大黒天の元三大師(いわゆる横川の角大師)のお札が、魔除けとして大興善寺の配ったものだということも住職さんからお聞きし、寺と村の人々のつながりも理解することができました。住職さんは空海も修行したという中国の大興善寺(西安)とも交流しているそうです。

日本の歴史を理解する上で重要な日本人と宗教との関係を直にかいま見ることができ、この体験をこれからの歴史研究の肥やしにしていきたいです。(楠瀬)

 

 

●園部地区小松

小松山大興善寺の裾一帯を特に小松という。大興善寺と小松を合わせた地域は次の6(地図@を参照のこと)に分かれている。堅固寺組(けんこうじぐみ)、寺屋敷組、勝負谷組、西谷組、中組、東組。このうち寺屋敷組を中心とした。園部は基山の他の地域と違い、江戸時代は天領であった。水がよく、大変美味しい米がとれるからだ。特に小松は地主さんが多く、比較的裕福であった。

家々にはカド名(屋号)がついていた。やくしど、隠居家、三城下(さんのじょうか、さんのみやこ)すきたん、やまどなど。藤田さんのお宅の屋号は"ふるいえ"というそうだ。これは何百年という由緒のある家という意味で、さかのぼれば藤田さんのお宅は金奉行(両替屋さん)だったそうだ。

川や木に特に名はない。大興善寺に樹齢千年を越える大木があるが、名はなかった。岩は小松からくだったところにコウボ石(弘法石?)という大きな岩があった(地図を参照のこと。但し地図省略:入力者)滝では、大興善寺の辺りを峠、メオトイシ、ムカイヤマダなどといったが、これは呼び名でありそのあたりが峠であったというわけではない。

谷は小松山の左手の奥、筑紫野市側に古屋敷、秋光川をはさんで小松の対岸に小野谷(いずれも地図@参照)と呼ばれる谷があったという。

●園部地区、小松の農業

[稲作]

山がちであるから田圃は棚田が多い。かつては大興善寺にこもっていた僧兵が、山を拓いて田をつくったこともあったそうだが今では山に帰っている。また小松では集落である勝負谷組の北側にある田を又谷(またんたに)、小松山の西側の棚田を堅固寺の上(けんこうじのうえ)と呼ぶ。

稲作が主流である。水利の項に詳しいが秋光川の豊かな水量に支えられ収穫は豊かであった。三十六(さんじゅうろく)という秋光川を下ったところの豊かな田(地図A参照)では堆肥を入れて1反あたり45俵収穫があったという。

水の冷たいところでは34俵ほどだった。何斗まきかということはわからない。昔からの田なので大体の量がわかっているからだ。棚田の辺りは二俵、小作料として取られるので二俵がりといった。

田植えなどの忙しい時期には手間換えをやったそうだ。親戚や隣近所で収穫や田植えの時期をずらし、手伝いに行ったり来たりしていた。多いときには三十人ほども集まったという。

早乙女はもっと下ったところではやっていたようだが小松ではなかった。

稲作をしていて楽しいことはあまり無かったそうだ。

真夏の暑い日に田に入って雑草を刈ることや、突然の台風のときなどはとても辛かったということだ。

[稲の病気]

昔は苗田(苗を作る田)の苗に、ニカメイ虫という害虫が卵を生みつけていた。ニカメイ虫の幼虫は稲の茎を食うので卵のうちに取り除いておく必要がある。そこでニカメイ虫の卵をマッチ箱一杯に入れたものを町が一箱何十銭かで買い上げることをはじめ、子供たちが挙って卵をとったそうだ。赤土を練って粘り気を出したもので、大根にっいた黒い虫をとったりした。

また、水が冷たいといもち病がでた。

[稲以外の作物]

昔は麦は湿田以外ではほとんど作っていた。小松は湿気が少なく、乾田がほとんどだったのでほぼ全てで作られていたということだ。また、小松のあたりだけは富有柿がとれていたので、よい収入源になっていた。野稲やソバは作っていなかったそうだ。昔は紙屋があったので楮(こうぞ)をとっていた。葛は正月などの自家用。ほかには苺や桃、栗、胡桃、椎の実などがあったということだ。

[牛の話]

基山では馬はあまり使われなかったそうだ。山の切り出しに使うこともあったが大変珍しかったという。農耕や林業で活躍するのは牛であった。山から切り出した木を牛に引かせ、途中からそりでおろしたという。農耕においては田畑の耕作に使われた。牛の鼻輪には右側に一本だけ手綱を通した。牛を操るのに右へ行かせたいときはヘシュヘシュと言って手綱を振り、左へ行かせたいときはサシサシと言って引っ張った。とめたいときはワーワーと言ったそうだ。戦前は青年団の鍬引きの大会があったという。雄牛(こって牛)は去勢していた。やるのは獣医さんだが、暴れるのでみんなで手足を縛り、鼻を押さえ込んだそうだ。切ったものは焼いて食べると風邪薬になるとされ、食べられていたらしい。牛に与えていた飼料は残飯や、米のとぎ汁、米ぬか、麦の皮、夏は青草、冬は干草や稲わらの乾燥わらなどだった。わらは、わら切りで短く切った。わら切りは子供の仕事で、余所見をしていて指に大怪我をすることもあったそうだ。

<写真> ↑わら切り

青草は盆山(草きり山、入り会い山)でとった。誰でもとってよかったところが多かったが、野田さんによると田の畦(棚田なので広い。土手のようになっている)の青草を飼っていたウサギのため勝手に刈っていたところ、滅茶苦茶怒られたことがあるそうだ。また、豊作願成就のさなぶりのときには牛つくらいといって牛のツメを切ってやったりしたそうだ。

 

園部地区小松の水利

特に名前の付いている滝はミョウケン(妙見)の滝(みょうけんさん)。橋はムラクモ橋(村雲橋)ゲンタ橋く源田橋)(いずれも地図@参照)

小松では、田から浸むみだした水が流れており、園部地区は全て水量豊富な秋光川から田の水を引いている。農業用水のために井戸を掘ることはなかったそうだ。そのため水争いや干魎は得になかったという。

<写真> 水の豊かな小松

大きな井堰は秋光川を下ったところにあるスズレイシ、オイデ(大井手)である(いずれも地図A参照)。杭を打ち込んで水をせき止めてある。その杭の材料である木を切り出すための山を、大井手の組合が所有していた。これをオイデ山という(地図A参照)

秋光川ではどじょう、はや、なます、うなぎ、さわがに、タニシ、タガメ、ゴビナ(蛍のエサ)がとれる。かっては香港ガニのような毛ガニもとれたそうだ。

現在は、ホタルを育てて放流しており、田原橋の辺りに飛んでいるホタルがよく見られるという。源氏蛍発祥の地という看板もあった。

美しい秋光川の水質を保っために、自治体が特に浄化槽の購入の助成金を出してくれるそうだ。

秋光川下流にある湯谷(ゆだに・・地図A参照)という場所にはかつて二日市温泉と同じ湯道の温泉があり、武士の湯治場だったという。しかし鉄砲水によりお湯が埋まってしまった。50年ほど前に掘ってみたがその時はお湯は出なかったので、これからでるかもしれないということである。

 

●祭りや神事の話

大きな祭りは火除けの祈願祭、豊作願成就(さなぶり)風除けの祈願祭。このうち6月に田植えの後行われる豊作願成就は御神酒を飲み、ツメを切ってやったりして牛の手入れをしてやった。牛の手入れは収穫の後もう一度行われたそうだ。

水が豊かで干越などの少なかった基山でも、雨乞いの千把たきを何度かやっていたという。藤田さんが高校生のころのことだ。場所は大興善寺の上の山だということだが地図ではよく分からなかった。

また、他の祭りでは春祭り(子供や大人が集まって鶏をつぶして食べたりしたそうだ)や仁王祭(大興善寺の仁王門の祭り。昔は仁王門は山の上でなく坂の下、篠原さんのお宅近くにあった。そのためこの祭りは門の周辺、けんこうじ(堅固寺)組と勝負谷組とでおこなったそうだ)、村社宝満神社の社祭(社神は弟橘姫と玉姫)など。

祭りの時の持ち回りは部落ごとに振り分けた(:〜祭りのときは〜組から子供を〜人というぐあいに)この持ち回りは平等になされたそうだ。

●歌の話

もみすり歌などは無かったそうだが石つき歌はあった。これは家を建てるとき、柱の足下に基礎となる石をつくとき歌われた歌だ。石つきには小松の人たちみんなが集まったという。女の人たちが組長さんのところでご飯をつくり、男の人たちが食事をしているときに交代で石をついていた。その石つきのときに歌われた歌だそうだが、残念ながらどういう歌かは分からなかった(※一節だけ教えてくださった歌詞はかなり面白かったが)

●村の暮らし

[目常生活]

ガスは大興善寺の項で述べたように昭和2040年に通ったそうだが、電気が通ったのはかなり早く、90年前に1つの電灯につきいくらで入っていたそうだ。

ガスが入ってくるまでの燃料である炭だが、園部では炭焼きを生業にはしていなかったそうだ。だが、田圃の一隅でもみがらをかぶせて木を蒸し焼きにし、自家用の炭をつくっていたという。また、夏には使い差しの炭を素焼きのほうろくに入れて消し炭にし、冬に使っていたそうだ。他には釜戸と釜戸の問にどうこう”という細長い鋳鉄をはめ込みそこでお湯を沸かしたという。

暖房は火鉢、掘り炬燵や火箱。火箱は、小さな穴を幾つか開けた素焼きのツボをひっくり返したものに引き出しが付いたもので、その引き出しに炭を入れ布団の中に入れて使ったそうだ。

主食は米だが、芋飯や麦飯、大根飯にして食べた。大根飯はひどく水っぽかったらしい。

米は家の中にモミの部屋を作り、モミのまま櫃に入れておき、121月の暇な頃に回ってくるもみすり屋さんに精米してもらったそうだ。精米は缶にいれて鼠を防いだ。麦は人が入れるほどの大きなカメを土中に2/3程埋めたモノに入れて密封した。600キロも入ったというから巨大なカメである。

味噌や醤油も自給自足だった。魚などは行商のおばさんが時々持ってくるのを(主に塩クジラ、アジ)、米や、たまに現金で交換して得ていたそうだ。黒砂糖や、塩も同様に買い入れたという。買い出し部隊もあったそうだ。

基山には大きな製薬会社の工場があるが、昔から原材料を仕入れての製薬が盛んで、藤田さんたちが子供の頃は頭痛を起こしたりすると、すぐ近くから薬をもらってきて飲んだそうだ。医者を呼ぶことは滅多になかった。

村には麦藁でわら屋根を葺く“ばあじゃどん”(屋根屋さん)がいた。一年の収穫のわらで葺くのだが、大きい家の人は1年分ではわらが足りないので半分ずつ葺きなおしたそうだ。外から来る人は竈の神様(荒神さま)を祀る人や、ものもらいの人たち(旧仁王門の所に集まっていた)があった。

おやつには・サツマイモを煮たり蒸したりしたモノを干しておいてそれを焼いて食べるもの・正月の餅をサイコロ形に切って揚げて砂糖をまぶしたアラレ・かき餅・モミ種の残りを妙ってついて、がらをのけて食べる“やっこめ”などがあった。とくにやっこめは竹の筒の片方の節に穴を開けて筒の中に入れ、首から下げて遊びながら食べたそうだ。

野草には、げんのしょうこう(腹痛に効く。紫の花を干して煎じる)、どくだみ、よもぎ(傷薬)、つくし、ずばな、かやの芽、むかご、あけび、イタドリ(湿布)、タフの芽、ふきのとう、ヤマブキ、つわ、ワラビなどがあった。

●青年たちについて

園部の青年団の中心は専念寺(地図A参照)だったが、小松は空の派出所の2階を集合場所としていたそうだ。お三方はやったことはないらしいが、寝泊まりをすることもあったという。干し柿やスイカを盗ったりしたこともあったらしい。盗った桃の産毛がチクチクしたという妙にリアルな体験談もお聞きした。

力石もあったそうだ。使われていた大きな石が残っていたそうだが今では無くなってしまったそうだ。夜這いの風習はなかったらしいが、青年団の中では恋愛もあっという。喧嘩もよくしていたが、特に隣の筑紫野市とは県境を接していたこともあって激しい喧嘩がなされていたそうだ。

●戦争について

基山では戦争で300数十人が亡くなっている。これは佐賀県全体の戦死者の1/10にあたる。何故こんなに徴兵されたのかは分からないが、基山は大正10年の大規模な小作騒動までは近衛兵を第一師団にとられていたというから中央との結びつきが強かったのかもしれない。“佐賀んもんのとおった後は草もない”(確実な仕事をする)と言われているという。

遺族会があるそうだ。

 

3時閲半の間にお聞きしたことは昔の話なのにハッとさせられるような新鮮味を持ったお話ばかりだった。

今回お話を伺った小松は、比較的よい環境に支えられていたので、聞くお話も穏やかなものがおおく、聞いていてとても楽しかった。しかし他の地域では多くのものがちがってくるだろう。

土地が変われば色々なモノに対する認識も、共通概念も大きく違うのだと言うことを身をもって体験したように思う。小字一つとっても、私の知っているものと全く違う。人や家にっいたカド名も意味の分かるものから全く意味の分からないものまで(ばあじゃどんなど)漢字がわかるものから漢字のないものまで。特に漢字のないものはこれからさき徐々に無くなっていくだろう。今回お話をきけて良かったと思う。

また、同じ土地でも10年年代がちがえば認識が大きく違うということもわかった。今後に大きく貢献する大変貴重な体験だった。快くお話をしてくださった園部の方々、本当にありがとうございました。(田中)

 

私にとって昔の暮らしや農業など全然知らないことが多くあり、非常に勉強になりました。一番印象に残ったのは園部地区の水の豊かさです。

人々の暮らしにとって水が豊か、そうでないかというのは干ばつや水争いの有無など重要な意味を持つということを感じました。園部の皆さんは私達に色々と教えてくださり、とても親切にしてくださいました。本当にありがとうございました。()

<写真> 大興善寺の項にあった角大師

 

●村のこれからについて

この先小松地区はどうなっていくかと思われますか? その展望は? と尋ねたところ、篠原さんは『下の方(※篠原さん宅は坂の途中にある)ではまだ頑張っている人もいるが専業儂家)はもう3人くらいしかいない。作業用の機械にもお金がかかり、後継者の問題もある。この先は農業は無くなってしまうのでは……』とどこか寂しげな様子だった。藤田さんも同様に肩を落としておられ、心なしか一段と小さく見えた。この1目お話を聞いている間、昔の話となると目に強い光をもって熱弁しておられたのが印象的だったのだが……。報道で取り上げられる農村の現状というものを肌で感じた時間だった。(高瀬)

 

 

【聞き取りの様子1

これはテープに録音Lた聞き取りの様子を、佐賀県出身の高瀬君が文字に書き起こしてくれたものです。そ

の場の雰囲気が伝わればと思い、添付しました.,

(※藤:藤田さん。篠:篠田さん。野:野田さん。田:質問者田中。楠:質問者楠瀬)

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

)「昔は家に対してカド名ちゅうとのあったとさな。」

)「それは屋号ですか?

)「そうそう。」

藤〉「そいで、フルイエちゅうぎ昔からの古か家んことばいうと。フルイエゆうたら、ああ、フルイエですか、ちゅうふうに意味が通っとった。」

田〉「ああ、そうなんですか」

)「どがなカド名のあっですかねえ、小松は。」

)「ヤクシド。」

)「それはどんな漢字なんですか?

(お三方、ちょっと困った様子)

)「いやいや、そいは呼び名やけん、土地じゃなか。家の屋号。ヤクシドとか……インキョヤ。」

)「インキョヤ?

)「隠居の家。」

)(相槌をうって)「ああ〜〜」

)「小松は昔は財閥ばかいおったばいな。金持ちばかい。サンノジョウカ、サンノミヤコちゅうてな。ジョウカちゅうとはミヤコ。ここらへんは地主さんも多かった。」

)「ここは……天領。」

(学生一同、驚く)

)「天領!?ここは天領だったんですか?小松地区?

)「うーん・・・・三養基地区。」

)「あのー、基山全体が天領じゃなかでしょう?野口んにきは違うやろう?

(お三方しばし話し合い)

)「ああ、園部んにきやろう。園部ん米はけっこう美味しかったげなけん、天領にあげったらしかたい。」

)「じゃ、この辺はやっぱり潤いますよねえ。」

)「そうじやね。」

)「藤田さんの所は屋号は?

)「フルイエ。何百年続いとるか分からん家やね。』

)「じやあ、結構由緒のあるおうちなんですね。」

)「そうですね。昔は金奉行しよったけん。両替屋。」

(ここで、野田さんと藤田さん昔を思い出してこられて、しばらく2人の会話)

)「山の中を拓いて田んぼとかは?

?)「そりゃああったでしょうねえ。ここら辺は棚田ちゅうね。」

)「昔の話じゃな、ここにはな、大興善寺には僧兵ちゅうとがこもったらしか。」

)「あっ、そうなんですか。すごい……。」

)「そいで、僧兵がこもったげなけん、食料が無くなってから山んなかでん田圃にしだした。」

※中略※

)「この辺は山が多いですよねえ。」

)「基山ちゅうけんねえ。」と野田さん談笑。一同の顔に少し笑みがこぼれる。

基山の小字一覧を見て、藤田さん「ためになるなあー。」

「よう調べちゃっばい。」こちらも恐縮。

)「川とかは?」※聞き取れず

)「滝とかは?

)「あのー、大興善寺の左側にちょっと登ったところに、あのー妙見さんてゆうて、妙見の滝ちゅうとがある。」

)「ため池とかはありますか?

)「ため池………は、ない。」

)「橋とかに名前はついてないですか?

)「橋?

)「なんか、そこに橋がありましたよ。」

)「あれは……うん、あそこのはムラクモノハシ。」

)「それはあのー、ちゃんとあのー、なんね橋のところのなんかに書いてあります。」

(漢字の表記を丁寧に教えてくださっている)

)「あとは……あっちにゲンタバシってあるなあ。あのー、そこのお店のとこからずーっと上さのぼったとこさいある。」

(地図で橋の位置を教えていただいていると……)

)「ありゃ、"ゲンタ"は田んぼじゃなかなあ。"太い"なあ。」

?)「そうやな、""って書いちゃんなあ。」

)「いや、でも""って書いてあるなら、そっちが間違ってると思いますよ。」

※中略※

)(地図を見ながら)もうここんたいは県道になっとっけんなあ。(隣に尋ねて)県道でしょう、あそこは?

)「はい、県道ですよ。」(地図を見ながら探す)

)「ここんにきやろう?

 (地図に書き込み中)

)「上のお寺にもおっきい木がありましたけど、大木とか岩とかに名前は?

(1200年ものの大木のことで)

)「あれくらいやろうな。」

)(隣に訊いて)「名前はついとっですかね。」

)「うんにゃ、ついとらん。」

)「カゴイシじゃいゆうのあんなあ。コウボイシか。」

)「カゴイシ?

(地図をのぞき込む)

)「ここを通って……こういって……えーと、ここらへんにね、コウボウ石ちゅう大きか石のあるもんね。漢字はどげん書くか知らんばってん。」

藤田さんがこのあとぼそっと「弘法石て書くとかもしれん……」

なるほど、と思っていると、「そりゃ分からんな」と。

思わずコケてしまい、そのあとリラックスできた。

)「そして、ここが……一ノ坂。一ノ坂てひっついとったっけ、どっか?

)(小字一覧を見て)一ノ坂はここについとっです。」

)「ああ、一ノ坂ちゃ、ここらへんたいね。これはね一つの坂ち書いちゃっ。そこらへんに湯谷とかあるもんな。」

)「ああ、湯谷ね。お湯のでよった。」

)「温泉ですか?

)「うん、そして、あのー、そのお湯はね、……二日市、二日市て知っとるね。」

)「二日市温泉ですか?

)「うん、あそこの上流になるとらしか。」

)「あー…。」

)「あのー、なんちゅうね、湯道ちゅうかな、うん、昔湯谷ちね。ここらへんじゃん。ここらへんじゃん。

(地図を指す)そいでね、こいはうちのばあちゃんが言いよったばってんね、お湯がでよったって。

そいで、昔は武土の湯治場やったげなばい。ここでね、鉄砲水ちゅうて、山のさ、水害でね、ダーッとここに流れてきて、ここのお湯がね、埋まってしまったて。そいで20年……わたしどんがこまかころじゃけん、50年くらい前かね、ここらへん2ケ所掘っちゃっもんね。昔の金持った人が。冬ね、雪の積もらんとこがあるったい。昔のことじゃけん、今なら1000mとかボーリングで掘るばってん、昔やけんが、まあ何十皿か掘っちゃっとやろうねえ。30mくらいのもんやろう。」

)「埋まっとらんならまだ出よったですかね。」

)「まあ、そうかもしらんですな。」

)「このへんで、峠とか道の名前とかってありますか。」

)「峠……? まあ、大興善寺の(ところ)を登ったところは峠じゃったな。j

)「はい、はいはい。」

)「あいは、場所が峠やったけんな。」

)「ムカイとかあんなあ。」

)「大興善寺の上の方ですか?

)「いや、そこの駐車楊のところの向かい。」

)「やっぱりありゃあ、(?)が名前ばっけたっちゃなかろうか。ここんたいに弁当持ってけて言われたっちゃ分からんもんなあ。」

)「そうですなあ。」

)「子供たちにね、昔は、ご飯持ってけ、茶持iってけて言ったっちゃ、分からんとたい。便宜上(名を)つけたっちゃなかろうかて私は思う。上ん段とか下ん段とか……。どけ行け言うたっちゃカド名いうと分かるな。」

)「ここらへんの田んぼの水はどこから引いてるんですか? 川ですか?

)「そう! 全然掘っとらんよ。」

)「掘ってないんですか?J

)「掘ってない。」

)「井堰でこう……」

)「井堰に名前とかは?

)「オイデとかな。」

)「そいで、これが川やったろ? これから全部とっとっとやんね。」

)「オイデからが一番大きかったな。」

)「やっぱここんにきも秋光川ちゅうですか。」

)「そうですな、秋光川の上流やけんな。」

)「川がここは3本あるもんね、基山町は。」

)「そうですね。」

)「だいたい、同じ町に川の3本もあっとこしか。2つはあっばってん。」

)「井堰の名前ちゃあ、オイデとか……。」

)「スズレイシ。」

)「場所とかわかりますか?

篠原さんと藤田さんは2人で話が盛り上がっておられた様子。

その間、こちらは野田さんに地図で説明してもらった。

)「ヂャーバシ……ヂャーバシちゅう橋はどこね。」

)「大きい橋て書いてヂャーバシです。あっ、こけあんね。……これがスズレイシですか。何ですか。」

)「スズレイシ。」

)「スズレイシちゃあ、ちょっとどげん書くか分からんですね。」

)「オイデとかいうのはどこにありますか?

)「オイデがスズレイシ。スズレイシとオイデはいっしょ。」

)「あ、一緒なんですか。」

ところが藤田さんは「うんにゃ」と一言。

)「違うですか?

(少し2人のあいだでやりとり)

(2人とも納得した様子)

)「ああ、なら分かりましたよ。えーとね、さっき言いよったところはオイデ。オイデちゃあ、大井手ち書くとやろうね。そし.て……田原橋のあって、……こいがスズレイシ。井堰ね。これは大きかっちゃんね。

ずーっとここらへんの田んぼをみていくっちゃんね、この井堰は。」

)「すごいですねえ。秋光川は水量が豊富なんですね。」

)「豊富、豊富。基山では一番大きい。あのー、次の田代ちゅう町があるったいね。基里とか。あっちへ行って、あっちの田んぼもずーっと潤していくったい。」

)「水争いとかは? 水をわけるときの。」

)「そりゃあ昔はあったろうね。」

)「水を分けるときのルールとかは?J

)「今はもう、あのー、コンクリートの井堰が多いけど、昔はあのー、杭を打ち込んで堰き止めよったけん、そのー、組合の人で山ばもっちゃったもんな。」

)「杭をとるための山?

)「そうそう。」

)「そいでね、この山を切り開いとるったい。今、日本タングステンができとるばってんね。ここらへんよ。」

(地図を指す)

)「それとかね、三菱倉庫とか……。」

)「ああ、ありましたね。」

)「もう一つ、今度建ちよっとがある。」

)「干ばつは大変でしたか?

)「いや、ここらへんは自然水やけん大丈夫。」

)「昔は?

)「干ばつはなかったですな。」

)「あ、(?)さんとこの、焼き討ちに昔なったとは、あれは水争いやなかったですか?

(学生一同)「焼き討ち………!

)「大正10年ごろさ、地主さんのとこばさ、小作の人が焼いとったい。家庭がきつかったとやろうね。」

)「そいまではな、ここらへんは近衛兵ちゅうて、天皇陛下の守りの兵隊ば取りよったったい。基山は優秀やけん。」

)「はあー……。」

)「そいからは、基山は思想に走るてゆうて(兵を)取らんこうなった。天皇陛下の第一連隊て。」

)「じゃあ、ここに陛下がこられたり……。」

)「いやいやいや、兵隊にとられて近衛第一師団。」

)「この小作争議ちゅうとは、歴史でも有名な小作争議やんね。佐賀県のね、郷土史の中についとるよ。」

)「ついとる、ついとる。」

)「風きりの神事とかは?

)「いやいや、それはなかばってん、年間で火災とか水害とかを見る神事はあるったい。」

)「ここはね、この小松ちゅう集落ではね、火除けの祈願祭。あとは風除けの祈願祭とかね。」

)「私が若っかころは、雨乞いで千把だきちゅうてから、大興善寺にあがってから何回かあったよ。」

)「どこの山ですか?]

(地図を見る。が、範囲外)

)「藤田さんは見にいかれたんですか?

)「うん、おいも高校生やったけん、ちょっと登って……。」

)「山は登るばってん、いっしょになしたとですか?

)「千把たきはしたことなか。」

※中略※

)「六月の終わりごろはには、田植えが終わったらね、豊作の祈願祭。ガンジョウジュ。」

(一同)「ガンジョウジュ?

(漢字で“願成就”と教えてもらう)

)「で、これを大々的にやりよっとが、あのー、北茂安のやっ。あれは新聞に載ったりテレビに出たりしよったかな。」

)「さなぶりってやってましたか?

)「まあ、昔はきつかったけんな。田植えでちゃ。」

)「そしてね、今は機械で耕そうが? 昔は牛でやりよったわけ。牛つくらいてゆうてね。牛のツメを切ってね、焼いたり。農作業にかかる前に1回やって終わってからまた1回。」

ここで、篠原さん宅の時計が1時になり、メロディーが流れる。質問者田中はテーブレコーダーが壊れて変な音を出していると思ったのか、勘違い。一同どっと笑う。

)「すいませんちゅうけん、なんやろうかて思いよった。」

)「用水路とかで生き物をとったりは?

)「そらー秋光川たい。」

)「昔はいろいろおったですよ。」

)「それで、学校帰りとかにとったり。色々おった!

)「どんなものが?

)「ドジョウとか、ハヤ、ナマズ、ウナギもおった。」

)「ウナギも?

)「そいからカニがおった。沢ガニ。」

)「沢ガニとね。毛ガニもおった。」

)「毛ガニもいたんですか?

)「あんこうは楽しかったわな。」

)「沢ガニは今も多い。」

(野田さん、ふと思い出した様子で)

)「ここらへんのうえにアレがおったよ。あの、なんね、両生類ばなんちゅうね?

)「サンショウウオ?

)「あそこにも沢のあるやんね。あそこにサンショウウオ。今でもたまに。」

)「イモリのこたっこーまかとやろ?

)「そうそうそう。いや、オオサンショウウオはおらんばってん、ふつうの。」

ジャンボタニシ、源氏ボタルの話で盛り上がる。

楠瀬君が高知県出身ということもあって、四万十川の話など。

)「麦は作っていましたか?

)「昔は作りよったね。今はなかなかね、採算のあわんけんね。」

)「作れるところと作れないところは?

)「いやここらへんは全部麦もつくりよった。」

)「ここらへんはほとんど湿気がなくて、乾田。」

)「化学肥料が入ってくる前の田では米は一反あたり、何俵くらいとれたんでしょうか?1

)5俵……くらいやろうか。昔は牛や馬をおいとったけん、(糞を)発酵させて、それを田にいれよった。」

)「一反5俵てのは多いですね。うちのおじいちゃんの家とかではそんなにとれないですよ。」

)「やっぱりここ(小松)は良かったっちゃろうね。」

)「あのー、とれるところで悪い田ていったら、一反あたりそれ以下くらいなんですか?

)「まあそのー、水の冷たいところは3俵、4俵ぐらいですか。」

)「そう、もう冷たかったら稲作は駄目。」

)「うちのあたりは田んぼの広さが分からんでしょう。昔は今のこたー機械で計っとらんけん。」

)「国土調査が入っとらんけんね。今しようとたい。」

)「昔は稲の病気ってどんなのがありましたか?

)「やっぱり………イモチかな。」

)「水の冷たいとでけんとたい。」

)「害虫なんかはどうですか?

)「もう減ったもんねえ、昔から(比べたら)ねえ。昔はタムシちゅうてようとれよったですね。

ミカメチュウも今はあんまりやもんなあ。昔ね、私たち小学校のころはね、苗田ちゅうて苗をつくる田んぼのあったったい。今は箱にっくるばってん、昔はもう直接田に植えて苗をつくりよったわけ。その苗田ちゅうとこにね、その苗の葉っぱにさ、ミカメチュウの卵を産みよったったい。稲のね、芯を食べる虫じゃ。それの卵ば、あのー、マッチ箱にさ、こう取ってからね、葉を取って入れて学校に持っていくとね、1個いくらちゅうことでね。町からの補助でやったやろうと思う。子供のころにさ、お金の無かったとば覚えとっちゃん。

)「いくらくらいもらったんですか?

)「いくらやろうか?

)「何銭かじゃろうね。」

)50年も昔のことじゃけん。まあ害虫を駆除する目的でね、よかアレの無かったわけ、消毒薬の。

昔は、大根についた虫でも、赤土ば錬ったこたっとでこうして取りよったでしょうが。」

)「赤土ですか……。」

)「そう、赤士のベトベトしとろうが。」

)「あの、大根の葉っぱにね、黒い虫がつくとよ。今のように農薬がなくて、それを赤土のベトベトしよろう、それを箸のようなとにこう……つけて取りよったよ。」

)「田んぼが忙しいときに、他の人に手伝ってもらったりとか、共同作業みたいなものはありますか?

)「はい、はい。」

)「手間換えちゅうてね。」

)「親戚同士がやっとったい。」

(説明する)

)「あのー、言葉で言うとこっちが先に田植えするじゃろう。そいで、うちは後でするからね、こっちを応援するわけ。こっちが終わってあっちがするときは、こっちから(応援に)くるわけ。

手間をこうかんするわけ。」

)「親戚同士(だけ)ですか?

)「いや、親戚でも、隣近所でも。」

)「勝負谷組とか西谷組とかの組内でしてたんですか?

)「そうじゃなかった。」

)「それはもう、一緒になってね、一斉にやるけん。」

)「何斗まきとかは?

)「そりゃしちゃなか。昔からの流れでだいたい分かるけん。」

)「自分が田はこれくらい撒いときゃよかろうち、ずーっと昔からの流れできとっけんね。何斗まきとか、そげんとはしちゃなか。」

)「今の機械は、11合まきとかしよるばってん。」

)「麦から稲に変わっていくじゃろう。そんとき、その麦わらでね、屋根をつくりよったったい。」

)「家の瓦のかわりにね。」

)「屋根屋さんにきてもろうてな、毎年うちんがたは……。」

)「毎年作りかえるんですか?

)「バアジャドンちゅうたね。あのー、屋根を葺き替えるひとのおったったい。で、家の太かとこはさ、いっぺんにかえきらんとたい。お金もそいだけかかるし。だから、今年はこっちの側てゆうて片べらずっね、ずらしてからしていきよったい。」

)「このへんで田植え歌とかもみすり歌とかありますか?

(ないようだが、石つき歌はあるらしいという話に)

)「うちのこの家もね、基礎がないわけよ。」

)「基礎? あのー、コンクリートっていうか……。」

)「いやあのね、小松の集落全部の人が、男の人は石つきをやるわけよ。柱の石つき。そして今度はあのー、女の人たちはね、みんな区長さんとのとこに寄って、食事作って持ってくるわけよ。そして、男の人が(茶などを)一杯飲んで食事しよる間、女の人たちがそれをやるわけ。っそして今度はまた、女の人たたちは男の人たちが食事終わったら、今度また代わって……それに歌があったとたい。」

藤田さんに歌をお願いしたが、だいぶ照れておられた。

)「あとは、神社のお祭りの歌。」

)「昔は(神社が)色々申し立てよったろうが。政治の悪かとか。あのころは(そういうのに対し)やかましかったけど、お祭りの時だけはゆうてよかった。」

「一旦休憩をいれましょうか?」というが、御三方は「いや、よかよ。よかよか。」と仰ってくださる。

本当にありがたいことだ。

)「牛のエサとかはどこから運んでくるんですか?

)「米のとぎ汁をね、牛に飲ませるわけよ。あのー、米精米しよう?そのぬかがでたとを牛に与えよる。

そいからあのー、麦の粉たいな、メリケン粉ちゅうたかな。牛に……。」

)「ほとんど麦わらが多かった。」

)「ほとんど稲わらと草ですね。」

)「夏の間はね、青草を切って……、そして冬になると青草がないけん、干し草。それと、稲わらの乾燥わらね。」

)「冬の問、わらを切ってくる草切り山とかは?

入り会い山、盆山の話に。野田さんはウサギを飼っておられたらしく、土手の草ならどこでも取ってよかろうと思い取っていたら、「どこん草とりよっか!」と怒られたそう。

※牛の話は省略。

)「山栗とか、葛とかは?

)「自家用でしょうねえ。」

)「あっ、クルミとかね。」

)「あっ、クルミとかもあるんですか。」

)「それからシイの実。」

)「シイの実はおいしいですよね〜〜。」

)「昔はなんでもおいしかった。」

)「山桃、野いちご。あとはモクの実とかな。」

)(今は)金持ってきやそこらへんにあるもんじゃけんな。」