【三養基郡基山町園部】

基山町園部に関する調査 〜村のお話を聞いて〜

調査者 能野靖弘1LT03109

西田智裕1LT03107

 

調査日20036.21()

調査地域 佐賀県三養基郡基山町園部

話者     久保山久さん(基山一区区長、青年団長)

安永恵一さん(明治36年生まれ。今年で100)

 

私たち二人は、基山一区の担当と言うことで、基山一区の区長である久保山久さんにお話を伺う予定であったが、私達は久保山さんにはあまり取材を行わなかった。それはなぜかというと、取材の前日に久保山さんに連絡した際、久保山さんから園部の歴史に一番詳しいであろう方を紹介してもらうこととなったからである。

「えっその人の年齢は百歳ですか!!

驚きと不安を隠せない中、6/21にバスに乗り込み、私たちは佐賀県三養基郡基山町へと向かった。

園部ICでバスを降り、久保山さんと合流。そして手土産を抱えて老人ホームへと向かった。私たちは、九州大の銘菓「いも九」を手土産にするつもりだったが、売店が閉まっており、久保山さんから薦められた基山のお菓子屋さんで手土産を購入した。

久保山さんの車に揺られること十分少々、最近出来たばかりのように思われる老人ホームへと足を運んだ。エレベーターで上に上がり、そこで、前日に久保山さんから紹介のあった園部に一番詳しい人である、安永恵一さんと対面した。

安永さんは、今年の九月で百歳になる。今ではもう数少なくなってしまった明治生まれである。だがとても百歳とは思えないほど、口調は滑らかで、声も大きく、肌のつやもよくて元気のいい方であった。

私達にはあまり時間がなかったので、能野がインタビューを行い、西田がそれを記録するという形で早速質問を開始した。

 

「さなぼりっていうのはありましたか?

「ん? ああ、さなぼりね。あった、あった。昼ごろにお風呂にはいったりした。まあ、休養のようなものでな。自分の田の収穫が終わったら他の田へ手伝いに行ったもんだった。給料が良かったからな。いつもキザトって言う、自分の所より低い地域のたんぼの稲刈りが遅く、自分らはよく雇われたよ。自分のところは先に終わるからね。」

さなぼりという言葉をはじめて聞いた私たちにとって新鮮な内容だった。

「飼っていたのは牛でしたか? 馬でしたか?

「馬じゃなくて牛を飼っていたよ。そうそう、トラクターは村の中で1番最初に買ったんだ。ちょうど機会に恵まれてな。けれど、しばらくしてそのトラクターは調子が悪かったので買い換えたよ。」

「牛のえさはどこから運んだのですか?

「牛のえさは、夏はそこら辺の草、冬はきぬわらっていって米ぬか麦ぬかを混ぜたものを食べさせたよ。牛はしっかり食べさせないと見栄えも悪いし、人格まで疑われるから。それに力もつかなくなるので栄養はしっかりつけさせた。子牛はちゃんと育てると品評会にかけるたら結構高い収入源になったもんだから、農業以外にもこの牛の育成でお金を稼ぐことが出来た。その収入で立派な牛小屋を立てることも出来たんだよ。」

安永さんは質問した以上のことを話してくれるのでとても参考になる。しかもその内容にとても興味をひかれる。いっそのこと、先生が用意した質問事項なんか放っておいて、自分の聞きたいことを聞こうという衝動に駆られるが、単位がかかっているだけにそういうわけにもいかない。プリント通りの質問を続けていく。

「どうやって手綱を操作しましたか? そして手綱は何本つけていましたか? それは一本? 二本?

「紐を牛の鼻に付けていた。『サッサ』と言うと牛は右に、『ヘッシェ』と言うと左に、<わっ>と言うと止まるように躾けられていた。ちなみに馬は、<どっ>と言うと、止まる。牛はほんとうに利口で、ちゃんと飼い主の言うことを聞き、しっかり仕事をしてくれてとても助かった。農作業になれた牛は、掛け声をかけなくても自分で進む方向を理解しているよ。牛は頭がいい動物だよ。それだからね、たいした強制もせずにしっかりと仕事をしてくれた。」

「へえー、安永さんの牛はかなりいい牛だったんですね。」

そういうと安永さんは心なしか喜んでいるようだった。私たちからすると牛はのろくてとても頭がいいイメージには思えないのだが、この話を聞いてそのような牛に対するイメージが崩れた。

「牛に付ける綱は、口綱と言うんだけど、右の方に一本だけつけていた。ヒジキと言うものを牛に取り付け、紐を引っ掛けて。人は綱を手に一回だけくくり付け、牛が突然暴れたりして危険な状況になったときにすぐに手放せるようにしておいた。」

「当時の年貢などについて教えてください。やはり年貢を納めるのはきつかったですか?

「自分は小作人であったが、小作料として一反当たり五俵も地主にやらなければならなかった。良くて一反当たり六〜七俵しか取れなかったのに、五俵も持っていかれるのはとても重たい負担だった。地主一人だけが肥えていくという不公平な世の中だった。」

明治時代から戦前まであった寄生地主の横行は基山でもあったということがわかった。私たちが歴史の授業で学ぶようなことを実際に経験している安永さんの話は本当に面白い。

「当時の勉学とかはどうでしたか?

「学校はねえ、小学六年のときに高等小学校に上がる仕組みだった。自分は家ではあまり勉強はしなかったよ。昼間は当然働いていたし、夜に勉強なんてしようものなら、『油がもったいない!早く寝ろ!』って怒られたよ()

当時は、明かりは、畳の原料でもある、い草の芯に油をしみこませて、それに火をともすものだった。行灯だった。地域であるお祭りには、一銭のお小遣いをもらって遊びに行った。二銭ももらうと、それは大金となる。結局使わないでそのまま……、っていうこともあったよ。祭りに着ていく着物を買うようなお金はなくて、原料を購入して手作りの着物を作った。コウヤというもので糸に色を付けた。桃や木の皮などを染料として使用した。『木の皮染』などと言った。もんめん車と言う機械を使って着物を作った。このような仕事は全部女の人がやっていたんだよ。日頃の家事にそういう作業もしなきゃいけないから女の人はとても忙しかったもんだった。」

明治のころは、まだ男尊女卑の世界。男は表での仕事、女は裏方ながら非常にきつい仕事をやっていたのだなあということがうかがえた。ここで話を明るい方向に転換してみた。

「お菓子はどんなものを食べていたんですか?

「ん? ?

ここで久保山さんが通訳のような役割を果たしてくれた。どうやらお菓子という言葉は新しいらしい。意外だった。

「三時ごろに食べてたお茶受けってあったでしょ? あれは何を食べていたんですか?

「ああ、お茶うけ! 昔はお茶うけのことを『茶のこ』って言っていた。

田んぼに直接持ってきてた。お茶受けには、『いもまんじゅう』なんかが出されていたかな。いもまんじゅうっていうのは、芋を粉にしてそしてそれを、むっこっていうもので作った粉を原料にした皮にとって包むんだ。ま、そんなものだったわけだな。」

「どうやって粉にするんですか?

「昔は水車が十数台あって、その水車で小麦を粉にした。挽き臼は家で作った物を使ったよ。挽き臼の石はやわらかい石が最適なんだ。だけれど、村の近くにはそのような石が無くて、自分たちは遠くの山まで行って挽き臼用の石を探して、そこから自分の村まで重たい石を担いで帰ってきた。あれはきつかったなあ。(苦笑)それからいつも朝ご飯の前には草切を行っていた。薪も近くには無いから、高い山を登っていって、薪を担いで山を降りてきていた。

あのころは米なんかを数える単位は斤とか貫で、100=8=60キロであり、わたしはこの重さの物を担いで運んでいたもんだ。今の人はこんなことしないだろうね。昔の人は本当に丈夫だったよ。」

野球部に所属している西田が、ベンチプレスで55kg挙げるのが精一杯だったのを考えると、当時の人の力の強さが相当なものに感じた。恐れ入った。

「物品の取引の時には、仲介人っていう人がいて、そういう人はよく計算をごまかしたりしていた。分銅を引っ張ったりして重さをごまかしている人もいた。その時に使われるさおばかりのさおは、長さが1m50cmもある大きなものだった。」

商売における卑怯というか、ずるがしこさというのは今も昔も代わらないといったところであろうか。しかし分銅を引っ張ると言うのは少し幼稚な感じがして、よくぞばれなかったものだなあと変なところで感心してしまった。続いて私たちは当時の村で起こった災害についてたずねてみた。

「災害はありましたか? どんな被害がありましたか?

「私が区長をしていたころ、当時は溜池のことを堤と言っていたんだけど、堤が大雨で決壊したときがあった。水嵩がどんどん増えていったんだよ。幸いにも死傷者は無かったけど、泥水が田んぼに流れ込んでしまって、稲がだめになってしまった。あれには本当に困ったよ。農家が収入源をごっそり取られるようなものだからね。土砂崩れも各地で起こり、たて波も打ってな、一応川には堤防があったんだけれども内側の堤防は水流によってえぐれてしまって、外側の堤防しか残らなかった。」

西田の出身地の種子島でもおととしの九月に集中豪雨が起こったらしい。床上浸水も起こり、死者もでたひどい災害だったらしいが、安永さんの話と同じく農作物が一番の被害を受けて、約五億円の損失だったらしい。改めて災害の恐ろしさを痛感した。

「昔は病気になったときどこで診てもらっていましたか?

「基山には三つの病院があったかな。わたしは昔から高尾さんの病院が行きつけの病院だった。」

当時は病院は無くて、どういう人に診てもらっていたかというのを期待していた私たちにとって意外な返事が返ってきたのでびっくりした。基山にすでに三つも病院があったことにも驚かされた。ここで、安永さんの青春時代にも首を突っ込んでみた。

「結婚前の若者が集まる宿はありましたか?

「ああ、あったあった。17歳になったら青年の仲間入りをしたんだよ。働く時は、大人と同じ賃金がもらえるようになるんだ。つまり、一人前として認められるようになるってことだな。当時の賃金は45銭が最高だったんだけど、父は石屋としての経験があって、それより5銭ほど高かった。17歳くらいのころは、わたしはまだ学校に通っていた。確か、当時女の人の賃金は30銭くらいだった。」

ここでも男女に格差がみられた。私たちはここで、恋の話を聞こうとしたのだがうまく話を変えられてしまった。百歳でありながらこの話術のうまさにただ感心するばかりだった。

取材の残り時間も一時間を切ったところで、私たちは経験していないが絶対に記憶からなくしてはならないもの、『戦争』についてお話をうかがってみた。

「戦争かあ。私は元兵隊だった。大正13年に入隊したね。確か5月ごろに台湾のキールンというところに行ったよ。『カサドマ』という船に乗せられたんだけど、船も性能がよくなかったし、兵隊のほとんどが船に乗るのは初めてでね、みんな船酔いになって、みんな吐いていたね。私も吐いたけど、船の中で気分が悪くて何も食べることか出来なかったからそのうちもう吐くものが無くなってしまったね。しかし俺たち兵隊はまるで牛か豚かのような扱いだった。ほんと奴隷のようだったよ。」

私たちも船酔いの経験はあるが当時の船旅は相当きつかったということが、安永さんの口調からひしひしと伝わった。

「キールンについてからは膨湖諸島へと向かった。最初は大きい船で行ったけれども、岸までたどり着くことが出来なかったからそこで小さい船に乗り換えて膨湖諸島にたどり着いた。大きな船から小さな船に乗り換える時に、うまく移ることが出来ずに海に落ちてしまった人も何人かいてなあ。」

私たちが経験したことの無い兵隊の話。当時の人の辛さを感じながら、このような平和な世の中なのはこの人たちがいたおかげだと思った。さらに安永さんの話は続く。

「出兵のときは候文(文末を『〜候』で結ぶ文)で自分の直筆で制約文(ママ、誓約文ヵ)を書いたよ。自分の使命を書いた。台湾に行く前には神奈川の浦賀というところで兵隊の訓練を行った。私の任務は通信だったな。モールス信号や電話のメッセージを複写する仕事をした。そこで一年間教育を受けたあと、富士の裾野で実践訓練を行ったね。そこで私は一番といってもいいほど重要な任務を任せられた。自分らの周りは固い防御壁に囲まれて、敵から攻撃をされないようにしながら通信の仕事をこなしていった。他の兵隊は、様々な武器を使用して、本当に本番さながらに実践訓練を行ったなあ。」

戦争についての体験談は本当に新しい情報がいろいろと聞けてとても貴重な話もいくつもあった。そんな中、安永さんはもうひとつ戦争に対して、面白いエピソードを聞かせてくれた。

「自慢じゃないけど、兵隊の訓練生の中では1番優秀だと言われた。兵隊のなかで優秀な成績を収め、」品行方正でまじめに任務をした者においては、賞が与えられるんだ。私ももらったわけだけど、普通の賞ではないんだよ。この賞をもらってる人は「免罪」と言って万が一罪を起こしても免れることができる貴重な権利を取得できた。」

免罪符!? 日本にもこのような制度があったのかと思った。ただこの制度は悪用されたら怖いなあと言う印象も持った。ちなみに安永さんは大東亜戦争(太平洋戦争)には参加しなかったそうだ。ここでも太平洋戦争はどうしましたかと私たちが聞いたとき安永さんは首をかしげ、久保山さんが「大東亜戦争」のことですよ、と通訳のような形になった。

さて、最後にこのような質問をしてみた。

「これからの基山町にどうなってほしいかを教えてください。」

このことを聞いてまず安永さんは『合併』について話を始めた。

「基山町でも合併問題がおきとるようだけども、私としては絶対合併はして欲しくない。基山はこのままであって欲しいね。基山町には基山町にしかない個性がいっぱいあるからね。もし合併でもされてしまったら、基山がこれまで築いてきた伝統や文化を失ってしまうかもしれない。であるからこのような合併には反対だね。基山は基山だよ。」

全く同感である。西田の出身地・種子島でも一市二町が合併するという話が持ち上がっているが、ほとんどの島民は反対していると言う。理由は安永さんが話してくれたものと同じような内容であった。確かに合併は、経済的な面から見ればメリットはあるのかもしれないけれど、それぞれの町で築いてきたものが、その町にしか出来ないことが、すべてひとつの大きな「街」の物としてくくられることに非常に不快感を覚えてしまうのだが。

 

というわけで、あっという間に制限時間が来てしまった。安永さんは三時間弱程度、休むことなくしゃべり続けてくれた。私たちの一個の質問から話題をどんどん膨らませてくれた。質問事項に無いこともいっぱいお話してくださって私たちとしては本当にいい人にめぐり合えたと感じた。だから、午前中しかお話を聞けなかったことがとても痛かった。 しこなについて殆ど聞くことができなかったし、質問のマニュアルもほとんどこなせなかった。もっと前に連絡をとっておいたら、一日中安永さんにお話を聞くことができる機会がもらえたかも知れない。それならば、もっと内容の濃いレポートが仕上がってたかもしれないし、何より私たちがもっと貴重な体験をすることができたかもしれない。

初めてこのような取材を行ってみてやはり事前の準備が非常に大切だと言うことを感じた。

園部を一番よく知る男、安永恵一さんはあと二ヶ月程度で百歳となる(20037月現在)。安永さんが百歳を迎えたときは、この取材のお礼も込めて、安永さんにお祝いをしたいと思った。今回は、久保山さん、安永さん、本当にありがとうございました。

 

調査者個人の感想

○能野靖弘

今回の取材を終えての感想は、やはり今と昔は違うということである。家畜とともに暮らす生活というのは想像できない。また、仲買人がよく詐欺をしたというのも驚いた。僕は今までコンビニやスーパーでお釣りを誤魔化されたことはないので、なんだか現実離れした話だなあ、と思っていた。おそらくその当時は誰もが生きることに必死で、それくらいのことをしないとやっていけなかったのだろう。そして戦争の話も印象的だった。予想はしていたことだが、やはり人を人と思わないような扱いを受けていたようだ。それを耐え抜いてこれたというのはとてもすごいことだと思う。安永さんがおっしゃっていたように、昔の人は精神的にも肉体的にも強かったのだろう。ただただ感嘆するばかりだった。

最後に、今回の取材は僕のモノの見方を多少なりとも変えた、ということも書いておきたい。今、当たり前のように思えることは昔はどうだったのか、と考えるようになった、おかげ時々不思議な気分になる。このような有益な体験をさせていただいた安永さんと久保山さんに感謝したい。

○西田智裕

大学ではじめてこのような取材をすることとなって、何がなんだかわからなくて手探りの状態で取り掛かった。取材を終えて感じたことはやっぱり事前にしっかりとした準備をしておくことだった。今回久保山さんに手紙を送ったのが調査日の5日前。そして電話で連絡を取ったのが1日前であり、あたふたした状態で何をどう取材するかあんまり決まらないまま臨んでしまった。話者の方々の都合上、午前中しかお話をうかがえなかったことにとても後悔している。

明治生まれの方の話を聞くことができるのはとても貴重なことである。その機会が約三時間しかなかったことが非常にもったいなく感じた。だがたった三時間でも安永さんが一生懸命私たちに語りかけてくれたおかげ、また久保山さんがうまくサポートしてくれたおかげで、なんとかレポートを完成させることができた。

お話をしてくださった安永さん、至らないところばかりだった私たちを助けてくださり、また安永さんを紹介してくださった久保山さん、そしてレポートからなにやら迷惑をかけてしまった能野くん、ほんとうにありがとうございました。

20037