基山町宮浦の聞き取り調査
調査場所 佐賀県三養基郡基山町
調査日 平成15年6月21日
調査者 1LT03029 景山 貴昭
1LT03041 木村 祐典
6月21日土曜日の朝、私たちは佐賀県基山町に到着した。基山に来たのは初めてで、とても静かな町だなあ、という印象を受けた。
私たちはさっそく、事前に手紙を送って調査の依頼をお願いしていた上田昭盙さんのお宅へ伺った。だが、上田さんは中華料理店を経営しており、その仕事で忙しいということであった。また、上田さんは他の地域から移り住んできたそうで、基山についてあまり詳しくないということであった。
これは完全に、上田さんと事前にうまく連絡をとり合うことができなかった私たちのミスであった。
仕方なく私たちは、他に基山について詳しい方を探すために基山町役場まで向かったのだが、土曜日であったために役場は休み。行く当てがなくなった私たちは、とりあえず基山町を歩き回ることにした。
途中、歴史民俗資料館に立ち寄り、昔の農作業の道具などを見ることができた。しかし、館長が不在で話を聞くことができなかったため、私たちは資料館を後にして、再び当てもなく歩き回った。
荒穂神社にも訪れたが、現在修復工事の途中であったため、大工以外誰もいなかった。
途方に暮れていると、町民会館の警備員の方が、私たちのために、近くに住んでいる農家の方を紹介してくださった。このとき時計は午後3時をまわっていた。もう時間がなかった。
私たちは、農家の長野益美さんを紹介してもらうと、急いで長野さんのもとを訪れた。長野さんは農作業の途中であったにもかかわらず、私たちの調査にこころよく応じてくださった。
時間がなかったために、あまり質問ができなかったが、基山町に関するいろいろな話を聞くことができた。
基山の地名
昔からある地名
高下町、古寺、大城、長野、西長野、四ッ角、北奈良田、秋光、本
町、旭町、永田、栄町、白土、向平原、辻、引地、才ノ上、鎮西隅、
黒谷、金丸、三ヶ敷、正応寺、馬場、小原、皮籠石、宮脇、不動寺、
小林、黒目牛、小松、千塔、鎌浦、長谷川、小山など
白土・寿町 このあたりは昔田んぼだったが、いち早く住宅地になった。それはこの地区が湿地のため農業に向かなかったからだそうだ。
黒谷 戦時中、陸軍の弾薬のための防空壕があった。カキノハラにあった集落が土砂崩れで集落ごと引っ越してきた。
向平原 戦争中、基山駅周辺のひとが防空壕を掘っていた。
永田 軍需工場があった。
宮脇・宮浦 宮とは荒穂神社のことだと思われる。
新しくできた地名
明治町、昭和、川端通り、箱町、幸町、千代町、京町、東町、寿町、
南脇田、住吉町、文教通りなど
(主に田んぼしかなかった地域に新しい地名が多く、昔はなんとも
呼んでいなかったそうだ。その後、住宅地になった際、地名を付け
られたものが多いようだ。)
住吉町 ここも黒谷のようにジンヤにあった集落が土砂崩れで引っ越してきた。
文教通り その名の通り小学校、中学校がある。昔は陸軍病院があった。
農業用水について
基山の農業用水は3つの地区に分かれている。北から順にそれぞれ
菖蒲坂溜池、向平原池、亀ノ甲池を水源としている。基山駅周辺地域
の農業用水は向平原池の水が使われている。
麦は?
基山では、乾燥した気候のために、二毛作ができないという。麦を作ったとしても、15〜20万円ほどの収入にしかならず、採算が合わないそうである。
田や用水路や川の中の生き物は?
長野さんによると、最近はメダカやドジョウを見かけなくなったという。これは、全国各地で当てはまる問題だろう。環境破壊の影響であろうと思われる。都会でこのような生き物がいなくなるのはわかるが、基山のような都会から離れた田園地帯にも環境破壊の影響が及んでいるとは思わなかった。
一方で、エビやハヤは一時期減少したが、近年では再び増加しているそうである。長野さんによると、使用する農薬の変化が原因であるという。
また、今年はアオムシが少ないそうだ。
共同作業は?
長野さんによると、田植えが共同作業で行われているという。しかし、現在では、共同作業で田植えをしているのは住吉町周辺だけで、それ以外は、大型の機械で田植えをしているそうである。
牛や馬は?
基山では、馬が主体であったという。子を産ませるために、2頭ほど飼っていたところもあったようだ。しかし、トラクターの普及により、牛はいなくなったという。
また、昭和15年くらいまでは、蚕を飼って養蚕をしていたという。
食べられる野草は?
つくし、ふき、つわなどで、つわは野生のものを畑で生産していたという。
また、昔はよもぎもちを作っていたが、今ではそれも作っていないそうである。
米の保存は?
昔は、米を甕に入れて保存していたという。その後、1俵ほど入るブリキの缶に入れて保存するようになったそうだが、現在では、15℃くらいの温度に保った冷房で保存しているという。
ネズミ対策は?
昔はネズミがたくさんいたそうだが、現在では、家の建築様式の変化、下水の整備などにより減少しているという。
以前は、粘着性のネズミ捕りをネズミの通り道に置いて、ネズミを捕まえていたそうだが、現在は専門家に駆除してもらっているという。ネズミの駆除に年間8〜9万円ほどもかかっているそうである。
今でもまだまだ、ネズミは人間を悩ませているようだ。
車社会になる前の道は?
昔は、牛や人が通れるほどの小さい道ばかりであったという。道路はまだ舗装されておらず、車輪によって道に窪みができていたそうである。
また、みんなで土地を出し合って、荷車が通れるほどの道を数本作っていたという。
むらに行商人は?
基山は海から遠く離れているため、魚や塩もの、あさりなどの貝を売りにくる行商人が多かったという。
また、12月18日には安売りの市でにぎわっていたようで、正月にも市が多かったという。
むかし病気になったときは?
基山には昔、病院が2軒、歯医者が1軒ほどあったという。病気になったときは、そこで診てもらっていたようだ。ただ、現在と比べると医療技術もそれほど発達していなかったように思われる。
結婚前の若者たちの集まる宿・青年クラブなどは?
農青連という、若者たちの集まりがあったそうである。社会運動が主な活動で、役場に申請して道路を作ったりしていたという。
そのほか、演芸会を開いたり、老人の慰安のための劇や踊りを1週間近く練習していたそうである。
犬を捕まえて食べたことは?
長野さんによると、犬を捕まえて食べたことはないそうである。いのししも昔はいなかったという。
昔は、にわとりをよく食べていたようで、どこの家でも、にわとりを10〜30羽ほど飼っていたという。
お祭りのときも、にわとりが料理の中心であったそうである。
お祭りは?
昔は、荒穂神社のお祭りが毎年5月に行われていたが、その祭りのために、5〜6部落の若者が60人ほど集まって、1週間かけて獅子舞の練習をしていたという。
また、荒穂神社から才上まで、鐘を叩きながらおみこしを担いでいたという。
しかし、5月は野菜の植え付けで忙しいという理由で、40年前から、荒穂神社のお祭りは毎年9月23日におこなわれるようになったそうである。
なお、むかしは浪花節を雇って演奏させていたが、それも青年団の劇に取って代わっていったそうである。
戦時中の様子は?
基山駅周辺で防空壕がたくさん掘られていたそうである。現在の東明館高校がある辺りにも、防空壕がたくさんあったという。
また、黒谷には、陸軍の弾薬を保管するための防空壕があったという。
当時、基山には陸軍病院が来ており、また、基山駅のうらの昭和町に航空機を製造する軍事工場が建てられていたそうである。
基山の男性のほとんどが兵隊になったそうで、長野さん自身も海軍に入隊していたそうである。飯が硬くて食べられないほどで、毎晩叩かれていたそうだが、入隊して3ヶ月ほどで終戦になったという。
戦時中、農作業は、朝か夜に男性がするか、女性や50代以上の年寄りがしていたそうである。米も6〜7俵ほどしかとれなかったそうで、その頃の生活の苦しさがうかがえる。
拝啓
先日は貴重なお時間を私たちのために割いていただいてありがとうございました。突然の訪問で迷惑されたことと思います。それでも親切に私たちのお願いに答えてくださり、本当に感謝しています。帰りの時間を気にして慌しく質問をしてしまいましたが、一つ一つ丁寧に説明してくださったので昔の農業や生活の様子を大変よく感じることができました。昔からの基山を知る方から基山の移り変わりなど、生きた記憶や知識を知ることができ、短いながらも有意義な実地調査にすることができました。今回の実地調査を無駄にしないためにレポートを製作しましたのでお送りします。本当にありがとうございました。
敬具
九州大学 文学部 一年 木村祐典
景山貴昭