6/21 基山町六区 「歴史の認識」レポート
1LT03104 長嶺哲郎
1EC02200片山陽介
1.序文
私たち、長嶺哲郎、片山陽介は、6月21日に授業「歴史の認識」の一環としてのフィールドワークで、服部研究室の渡辺太祐さんと共に、佐賀県基山町六区の周辺の地名について、区長である友永豪さんからお話をお聞きすることとなった。また、その聞き込みの際には、老松宮にて、集まった計九名の老名士からお話をお聞かせいただいた。これから記すのはその際の話の抜粋であるが、その前に基山町のデータを記すことにする。
2.基山町について。
基山町は、基山(きざん)を走る県境によって福岡県と隣接している。面積は22.14km2で,人口は18,895人、人口密度は853人/km2であり,佐賀県全体での人口密度は361人/km2 なので、佐賀県内ではどちらかというと人口が密集している地域と呼べる。ちなみに、人口増加率は±0パーセントであり、今後村内で高齢化あるいは過疎化が進むかは、一概には断定できない。
また、農村地域としても知られ、全体面積の16.7パーセントを耕地が占める。その耕地の大部分(86.7パーセント)が水田である。全体人口の13.6パーセントが農業に従事しているが、その大半が65歳以上である。
基山(きざん)を中心として林業もある。全体面積の38.1パーセントを林野が占め、その多くがスギ、マツなどの人工林である。
これら農業、林業については、お話をたくさんお伺いしたので、後に記す。
基山町の歴史について。天智4年(665年)に、大宰府防衛のため基山(きざん)に日本最古の朝鮮式山城の基肄城が築かれた。天正15年(1587年)に基肄郡と養父郡の東半分が小早川隆景の所領となり、領域的な基礎が形成された。さらに、慶長4年(1599年)には対馬藩宗義智の所領となった。明治維新後は、廃藩置県の実施により明治2年(1869年)の園部村・宮浦村・小倉村・長野村が設置されたが、同22年(1889年)に市町村施行令により4か村が合併し、基山村が誕生した。その後、昭和14年(1939年)1月1日に町制を施行し、現在に至る。
3.基山町での聞き取り
さて、ここから御老名士たちからの聞き取り調査の成果をしるす。
聞き取りは、基山町の老松宮で行われた。長テーブルを囲んで、地元の名士9名と、私たち3名による、白地図をはさんでの会話が主となった。さすがに9名も集まったというだけあって、聞き取りはにぎやかで楽しいものとなった。
もっともにぎやか過ぎて、後でテープから発言を落とす際に多少の苦労をすることとなったのだが。
御協力いただいたのは、以下の九名である。心からの感謝を申し上げる。なお、敬称略である。
・友永豪(昭和13年生)
・天本昭来(昭和13年生)
・柳井忠(大正8年生)
・大久保茂晴(大正15年生)
・酒井重徳(昭和8年生)
・酒井忠雄(昭和3年生)
・柳井一郎(昭和5年生)
・酒井恵明(大正10年生)
・林博文(昭和18年生)
また、午前中の調査が終わったあとの急な聞き取りに応じてくれた木工の吉松経治さんには心から感謝している。
4.基山町のしこ名について
しこ名とは、行政で定められている通称以外に、そこに住む人々の間で使われる地名のことである。川(瀬、淵、滝)や山、道などにつけられ、大木や岩などにつけられることもある。また、家に屋号という形でつけられることもある。
(堤の名前)
・ウサギノツツミ・・・不明。おそらく他の堤に比べて面積が小さかったので、この名がつけられたと思われる。
・ ケンカヅツミ・・・福岡県と佐賀県の県境に位置し、田んぼに水を引く際に福岡県の人と佐賀県の人がよくけんかをしたのでこの名前がつけられたとのこと。
・ オヒメサマヅツミ・・・不明。おそらく、本当に小さいのでこの名前がつけられたと思われるが、天本さんが「雨乞いの儀式」について話してくれたときに、巫女さんがこの中に入って祈祷を唱えたらしいとのことをおっしゃってくれたので、もしかすると本来の語源はそこなのかもしれない。
・サクラヅツミ・・・不明。おそらく土手には桜が植えてあったのだろう。
なお、堤というものは個人が勝手に土や岩、砂などを積み上げて作ったものが多いそうなので、ほとんどの堤には名前がついていないとのことである。
(田んぼの名前)
・ シモダ・・・不明。おそらく、米があまり取れない田んぼ(下田。ゲデンと読む)だったのだろう。
・ ウラダ・・・不明。
・ イッチョウダ(一町田)・・・不明。おそらく、田んぼの長さが一町(109メートル)ほどあったのだろう
・ ハッタンダ(八反田)・・・不明。おそらく、田んぼの面積が八反(約80アール)あったところからきていると思われるが、昔は三や八といった数字が大きいという意味を表したので、広い田という意味でつけられた可能性もある。
・ アカムタ・・・基山六区の中には、鉄分を多く含んで赤くなった水を用水に使うところがあり、そういったところでは米のできも悪かった。おそらくそこから来た地名だと思われる。
なお、堤の場合と同様田んぼもほとんどが個人の所有物であるため、多くの田んぼには名前がついておらず、また、最後にお話をお聞きした天本さんによると、田んぼの名前について一番よく知っているはずの人が、足が悪いため来ることができなかったとの事で、非常に残念であった。
(山の名前)
・ ゴジュウメノカケダシ・・・草原。元草刈り場。
・ ミクニトウゲ・・・筑前、筑後、肥前サンゴクの境界にあったことからこの名がつけられたと思われる。
・ カネツキドウ・・・昔ここに時刻を知らせるためのカネツキドウがあり、そこからつけられたそうである。
・ マッチヤマ・・・語源は不明だが、「松山(マツヤマ)がなまってこの名前になったと思われる。
・ ドンズレ・・・崖の名前。語源は不明。
・ シロクヤマ、マルヤマ、ナガハヤマ、アタゴサン、キタミカド、ボウジュウ(坊住)、カジヤノトウゲ
(谷の名前)
・ オオスギダニ、コスギダニ、フウヅキダニ、ショウガダニ、ホトケノタニ、イノウラダニ
(川の名前)
・ シタンカワ
(道の名前)
・ チダシミチ・・・昔の里道。語源は不明。
・ メクラオトシ・・・ここは道が狭くなっていたらしい。通るのが難しいという意味をこ
めてこの名前にしたのだろうか?
・ モンノミチ・・・昔には敵のきたことを知らせる烽火があった道らしい。
・ ウーツカ・・・語源は不明だが、大塚(オオツカ)がなまってウーツカになったらしい。
・ サンゴクザカ(三国坂)・・・筑前、筑後、肥前サンゴクの境目であるために、この名がつけられた。現在でも境界線に用いられた石が残っているとのことである。
・ ゼゼリノトバナ、フガノウシロ、クライノデインニャク
(地区の名前)
・ ヨシハラ(吉原)、シミヅガウラ、カリマタ、ボンノクチ、サクラマチ、ゴツジバル、クラタニ(倉谷)、ニタ(仁田)
(屋号)
・ タバコヤ、インキョヤ、カサヤ、ウシヤ、シンヤ、ナガラヤ、イセヤ
これらは、そこに住んでいた人の職業などから名づけられた、比較的新しい地名だと思われる。
・フサマツ・・・屋号。もともとフサマツの屋号がついていたところは現在はフサマツ屋敷と呼ばれており、もとフサマツ屋敷に住んでいた一家が現在住んでいるところでもある。
なお、この地名の聞き取りの作成ついては、服部研究室の渡辺太祐さんに多大なる協力を
いただいたことをここに感謝の意を込めて記す。
5.基山町の昔の暮らし
(@)米作りの生活
・田んぼに水を引いていた川・・・・城戸川、高原川
堤・・・・菖蒲坂堤、丸林の堤
井手・・・丸林の井手、石田川井手、中井手、茂野井手
・ 水を引くときの争いについて
(会話)
「昔はあったかもしらん」
「足らんときはね、鍬投げつけたりいろんなことありよったけんね。今はない」
「夜水引くゆうてね、夜中に水を引く、これはね、見つかると鍬投げつけられた」
私「そういったものを管理するルールとかありませんでした?」
「ルール?それはやっぱし上の人から下に流れるという、それが基本的な
ルールばい」
「上のほうがいっぱいたまっとるけんね。水口ゆうて。それをガバッてはずして自分のところに(水を引くこと)、これを我田引水いうけんね」
・ 田植え歌などについて
私「田植え歌とかありませんでした?」
酒井(忠)「田植え歌?田植え歌はないナー。石つき歌(家を建てるときに、土台となる石を突く際に歌う歌)はあった。」
友永「(田植えは)とじてから次〜って、そうせんと追いつかん」(筆者注・次々と植え続けていないとノルマがこなせないという意味だと思われる)
酒井(忠)「早よ植えて、手の早い人がこっちって」
これらの話からは、米作りの大変さが伺えた。
・ 米の保存法について
私「お米はどうやって保存しましたか?」
酒井(忠)「カメに入れて、半分ぐらい庭に埋め取った」
私「あと、ねずみ対策はどうしましたか?」
酒井(忠)「松の葉を周りに撒いて、ねずみが来れんようにした。」
また、ふとした拍子に栗は箱などに入れて土の中に埋めたという話も聞くことができた。
・ さなぼりについて
さなぼりとは、俗に田植えや稲刈りの後に行われる宴会のことである。
私「田植えのあとに、さなぶり(後にさなぼりに訂正される)はありませんでしたか?」
友永「あったよ」
私「それはどのようなことをやるのですか?」
酒井(忠)「サンマナイゆうてね、田植えの機械があるけん、長いったな、それを大きめに三つ作って、かまどに備えて、やっと田植えが終わったってね。」
友永「田植えがみんな終わったらね、近所近辺に重箱に自分の作った穀物入れて家を回ってから。労いたいね。今年も豊作でありますように。
箱には、五穀豊穣やら書いてあるたい。それやっぱ祭りごとで、夏祭りとかそういうのはやっぱり労いやろうね。」
酒井(忠)「だけん今も、やっぱさなぼりゆうたら、大体七月一日。六月いっぱいで田植えは終わるけん。」
(A)農家と自然災害、その対策について
・ 干ばつ
昔は干ばつしている時は、神頼み、すなわち雨乞いをした。
(会話)
酒井(忠)「そげん、さっき地図にあったろうが。それのな(中略)ここに小さか池があったばい。これが、お姫さん堤いうたんよ。ここで、小倉官の人が雨乞いしたばい」
友永「雨乞いは、池の中に入って、どーのこーのして(行った)」
(中略)
友永「小松宮ゆう家で、神主さんたちだけで火燃やしてやった。」
・害虫駆除
(会話)
酒井(忠)「前は、大地を良うするに、油を落とすばい。前は農薬なかったでしょうに。そしたら竹箒ではく」
・台風
(会話)
私「この前みたいに台風が来ることもありますよね。そういったときにどうしたんですか?」
友永「昔は、今と違って五月六月とか早くに来なかったけんね。稲が成熟しよったころに来たから。田んぼに水をいっぱいためたんよ。そうすれば稲が倒れないかんね。」
酒井(忠)「風除けとかはせんかったね。」
私「台風はどのようにして予測していましたか?」
酒井(忠)「台風の多い年は、アシナガバチとか刺す蜂が巣を下のほうに作るとか言われとった。」(蜂が台風を予測し巣を安全な場所に移すということ)
(B)家畜との生活について
基山町で家畜として主に飼われていたのは牛で、馬はほとんど飼われていな
かった。
また、基山(きざん)には牛のえさをとる場所として草刈場があり、管理する
人もいた。なお、基山(きざん)一体に草刈場はあったとのことである。
また、牛舎には岩塩がおいてあったそうである。牛は塩が好きだそうで、こうやって
置いておくと自分から舐めたそうだ。また、牛に与えるえさに塩を混ぜておくこともあ
った。
(会話)
柳井(一)「草とか何かは、たい肥(草などを積んで発酵させた肥料で、牛や馬などのえさになる)にしちゃ。」
酒井(忠)「食べんとはそんままきゅう肥に」
牛も動物である以上時には人間のいうことを聞かないことがある。
(会話)
私「牛を引くときの掛け声には、どんなのがあったのですか?」
柳井(一)「『ワー!ワー!』ゆうてな、牛を止めよった。ストップをかけよった。」
酒井(重)「左にやるときは『サシ!サシ!』で、牛も、一本綱でやったっちゃ。右(にやるとき)は『セー!セー!』ゆうよった。」
大久保「それで言うこときかんときは、鍬を投げつけよった。」
(一同笑)
酒井(重)「鼻ぐり・・・。牛は鼻が弱かったな。言うこと期間時には鼻輪をギューっと引っ張ったり、鼻に指突っ込んだり。」
長く使った牛は、バクリュウサンという人を通して新しい牛と交換されたそうである。
古い牛はつぶされて、牛肉として食べられたそうである。なにやら残酷な話だが、長い
間使ってきた牛を手放すのはとても心苦しいことだったと語ってくれた。
(C)山での生活について
・ 薪の入手法
(会話)
私「薪はどうやって入手したのですか?」
酒井(重)「自分の山を持っている人は、自分の山でとって、持っとらん人は買った。」
友永「(山の林は)雑木林ばっかや。」
また、薪を運び出す方法について聞いたところ、馬車を使うのが主だったとのことであっ
た。川に流す方法は、川幅が狭いため途中で引っかかるので無理とのことだった。
・自分の山と人の山との区切りについて
個人の山といっても、時に見分けがつかなくなることがあるのではないか、そう考え
て、たずねてみた。
(会話)
友永「今はちゃんとコンクリートなんかで区切ってあるけど、昔は普通の石で(区
切ってあった)。」
酒井(忠)「こっちは平成十五年に切ったけど、向こうは平成十四年に切ったとか
で、木の伸びた長さによって区別しよった。」
・開墾畑について
(会話)
酒井(重)「開墾したときなんかは、山かっさばいて(焼畑のことらしい)作ったり。」
柳井(一)「それは大昔やろ。」
酒井(忠)「ただ、今はコリュウショウバイあたりは植林されるでしょうが。あの前のときは全部焼いたっさね。焼いたあとに植林した。」
柳井(一)「(植林始めたのは)22,3年ごろたい。」
天本「昭和のはじめころはやっとった。」
酒井(忠)「開墾はあっちこっちであるよ。農地を広げるために。」
また、老松宮での聞き込みのあと、友永さんは、この地域の水は鉄が多く含まれて
いるので赤く、そのため作物がよくできないのだとおっしゃってくれた。私たちが訪れた6月下旬は、高いほうにある田んぼは水が干上がっていた。
・紙すきについて
話を伺ったところ、興味深い話題が出てきたので以下に記す(以下会話)
私「紙すきはありましたか?」
柳井(一)「紙作りよったと。カミヤとか。」
友永「あすこ。あのー、今トシユキさん。それとその前は・・・・(聞き取り不能)。あすこもそこで紙すきやっとった。」
酒井(忠)「丸林ってとこも。」
天本「紙屋ってのは、この部落にもおった。屋号も残っとる。」
友永「カミヤはあれ、火災のあったときに焼けたんじゃなかと。」
天本「そんころはもうしよってなかったんじゃなかですか?」
柳井(一)「イトスさんの代。」
酒井(忠)「イトスさんの代やったっけ。」
友永「イトスさんの代はまだやった。」
天本「オオクボカクゾウさんよ。」
酒井(忠)「カクゾウさんは紙をしよったでしょ。」
友永「あすこは火災のあったでしょう。そうそうそう、やめちゃったのよ。」
私「紙の原料には何がありましたか?」
柳井(一)「あれはね、あのー、ラーミ」
酒井(忠)「紙の原料の木あったでしょうが。あれ、なんて言うと。」
友永「カゴノキ」
酒井(忠)「カゴノキ。カゴノキいっぱいあるよ、この辺は。」
・山でとれる食べ物について
(会話)
私「山で取れる食べ物に何があったのか知りたいのですが。」
酒井(重)「アケビ・・・」
柳井(一)「野いちご、山栗やらあったろうね。」
酒井(忠)「ああ、それから、ヤマモモやらミソッチョ。」
酒井(重)「(ミソッチョは)口の中がこう・・・なりよったろ。」
柳井(一)「大体、子供が遊びで食うもんで、実際に食べたりはせん」
酒井(忠)「昔はお菓子がなかったけんの」
私「山草は食べたのですか?」
酒井(忠)「ミツバナ、カヤツバナ、クサツバナ」
大久保「ぬかん中に入って(とった)」
柳井(一)「あれも、ゲシゲシ」
酒井(忠)「あれも食いよった、麦の黒いもんも食いよって」
柳井(一)「あとドングリとか」
酒井(忠)「ドングリは食わん、シイノミとか(そういうのも食わん)」
・ 山菜について。
食べられる野草には、タラノメ、フキ、セリ、パゴがあり、食べられないものには、ゲシ、ドクゼリ、ヒガンバナがあった。食べられる野草と食べられない野草の見分け方について聞いてみると(以下会話)、
酒井(忠)「食べられるものを知っとくってことっちゃね、先人たちから聞いて」
柳井(一)「食べられるもの以外は食わん」
(D)生活と川とのかかわり
・川の生き物について
私「川にはどんな生き物がいました?」
酒井(忠)「アー、川は・・・、ガソに、それからドジョウ。」
柳井(一)「フナはおらんかったよね。」
酒井(重)「フナはおった。」
私「今はいなくなった生き物はいますか?」
柳井(一)「おるよ、サワガニとか。」
酒井(重)「サワガニは田舎のほう行ったらおるよ。」
大久保「メダカ」
酒井(忠)「ドンボもまだおるよ、少なかだけで。」
・毒流しについて
私「魚をとるために、川に毒を流したりしましたか?」
友永「したよ、昔」
私「戦前ですか?」
友永「戦前やね」
酒井(重)「戦後もしたよ、魚取るために」
友永「あれ、あのー、白か汁搾って、流すと魚が浮いてくる、あれ何つったかなー?」
酒井(忠)「あ、ゲラン」
柳井(一)「(ゲランの根から)うえはどうやった?」
友永「上は知らんもん。薬局あたりで買うてから、(ゲランを使って)野菜ば消毒しよったけん」
(中略)
大久保「魚を釣るときは、あれ、バッテリ、つうか自転車。自転車をどんどんどんどんこいで、ライトをぽっぽっぽっぽっつけるんで、そしたらピンピンピンピンって(魚が跳ねた)」
柳井(一)「それはかなり後ばってん」
酒井(重)「今、山にね、細か実のなって、こんくらいの(と、言って地面から50センチ位の木を示す)ロクロギっつったか。そいつを叩いて川に流しよった。」
(E)昔の村での生活について
(@)から(D)まででも村野での生活には触れてきたのだが、ここでは便宜上
(@)〜(D)までのどのセクションにも当てはまらないものを取り上げる。
・冬の過ごし方
私「やはり冬になったら寒いわけですよね。今と違って暖房がなかった昔
はどのようにして寒さをしのいでいたのですか?」
酒井(忠)「家の中では火鉢とか、こたつ。いわゆる火をつけるこたつか。」
柳井(一)「湯たんぽとか。湯たんぽは寝るときやな。」
大久保「昼はやっぱり火鉢じゃろな。おもに火鉢。」
(中略)
柳井(一)「あとは持ってるもん全部着てね。(笑)」
友永「風呂ゆうたら、昔プロパンとかガスがなかったけん。もうみんな焚きもんたい。風呂から何からご飯炊くまで、ぜんぶ焚きもんたい。」
・交通事情
以下に示すのは、私がこの聞き取り中によく言われた、「昔って言われたっていつごろの昔かようわからん。」という問いかけに対して、便宜上「車が通っていないころ」とした後に続く会話である。
酒井(忠)「車が入ってくる前ちゅうたら昭和30年ごろ。」
友永「車(がない)のこと考えると、人間が足にするのは、自転車しかないわけね。トラックの代わりには馬車とか荷車。馬車っちゅうても、この辺には馬はあんまいないから、ほとんど牛やった。牛が引くゆうても、馬車というたっちゃね。四輪車の。米とか何かの収穫ん時はみんなそれ。」
・行商人、物々交換について
私「行商人は来ませんでした?」
酒井(忠)「行商人?来たった。」
私「どんなものを売っていましたか?」
酒井(忠)「行商人は、カゴとかテゴとかね。」
友永「市場にはねー、重荷売りっつって自転車(に乗った行商人)がおったっさね。自転車のガッチリしたやつ。それにカゴ乗してから。」
酒井(忠)「ここに老松宮があるでしょうが。基山(きざん)の城戸のところに、ずーっと(並んで)店が出とったっちゃ。それは城戸市言うた。11月18日この道のところにね、ズラーッと露店が並んだ。」
・お坊さんについて
マニュアルにあった「かまどにお経を上げる目の見えないお坊さん(ザトウ
さん)」について尋ねると、いないということだった。だが、それに続けて托鉢僧について話してくれたので、それを記す。(以下会話)
酒井(忠)「そら今でも托鉢のお坊さんはおるよ。修行僧。あまり見ないばってん。」
柳井(一)「托鉢と物乞いはちがうけんな。」
酒井(忠)「物乞いはあんまり見なくなった。そういうのは『ほいと』って言った。乞食な。」
・病気について
最初は薬売りについて聞いていたのだが、思いがけなく現在も続く風習について聞くことができた。
友永「さなぼりの時には、ワラばこうしてから、ところどころに巻きつけて部落のところの入り口に立てる。外の部落から病気がこの部落に入らんようにするまじないが今でもあるったい。」
酒井(忠)「あれは、やはり丸林の疫病のはやったあとからできたんでしか。」
・青年クラブについて
私「皆さんが私たちくらいのころに、青年クラブか、わっかもん宿はありませんでしたか?」
酒井(忠)「青年団があった。」
友永「高校から、中学卒業したら入れた。」
酒井(忠)「15歳からや。」
柳井(一)「100人くらいおったな。」
友永「そして、部落で、その、奉仕活動。夜なんかね、イネをとったワラを紡いで縄やワラジ編んどった。」
酒井(忠)「あん時は、青年会館を開き、処女会とたまり場作っとって。女のほうが、処女会とか何かそういう(団体を作っていた)」
友永「餅だの何だの持ち寄って、焼いたりゼンザイにしたりした。」
私「そこでは上下関係は厳しかったのですか?」
酒井(忠)「厳しかった。厳しかった。」
私「例えば、何か制裁を受けたことはありますか?」
友永「あるよ。敬老会のときね。12月1日。先輩の言うことを、過去なら過去に、夏なら夏にきいとらんとするやろ。そしたとき、この会のときにね、ネコとネズミがチャンチキチョーチキやりよったわけ。殴られたり、蹴られたりね。辛いこっちゃ。」
酒井(忠)「肝試しとかね。墓場の灰をとってこいとか、先輩から(言われる)。」
友永「その上下のつながりは、登下校のときはズラーッと一列に並んで行きよったからね。そして言うこときかんかったら、後ろからズリーって、腿にね、膝蹴りされた。」
・昔の遊びについて
私「力石はありませんでしたか?」
酒井(忠)「力持ちね、それしよったよ。ここにはね、将棋盤で石でできたものがあって、それを下からこう(と、上下する動作をする)しなければならんたい。」
柳井(一)「それとか基山(きざん)までね、マラソンとか、頂上まで。」
友永「昔は力が最も偉かったけんね。」
私「スイカや干し柿を盗んだりしたことはありますか?」
友永「今でもある(笑)」
酒井(忠)「一応は追っかけられるよ。戒めはするわけや。捕まえて警察に連れて行ったりとか、そういうことはしなかった。」
・ 狩猟する動物について
私「戦後の食糧難のときに、犬などを捕まえて食べることはありませんでしたか?」
柳井(一)「犬は無かばってんが、ヤギやらウサギやらはあった。」
酒井(忠)「今はイノシシはもういっつも食べる。イノシシは最近の話じゃ。逆に昔は
おらんかった。」
イノシシが最近増えたことについて、聞き取り後にお話をお伺いした天本さんは、
熊本県の山が開発されたからだとおっしゃった。また、基山町の田畑の周りには微量
の電流が流れる電線が張り巡らされていたのだが、これもイノシシ対策だそうである。
・ 祭りについて
私「祭りにはどのようなものがありますか?」
天本「祭りは今は基山町一円でするものやけん。そういう祭りは昔はなかったっちゃ
ね。お宮が中心じゃったね。それが祭りごとじゃった。」
私「祭りはいつごろありましたか?」
友永「だいたい夏と秋。秋の祭りごとがどこでもありよった。やっぱ百姓につながっ
とると。田植えが終わるやろ。稲刈りが済むやろ。それがやっぱり祭りごと
たい。」
酒井(忠)「さっき言った、青年団の祭りごととはちょっと違う。」
友永「そいで青年団で、どこも敬老かいしちょったろうが。どこの部落でもそれをや
じりに行ったり、いろいろしよった。」
5.感想・反省
「『昔』って言われたっていつごろの昔かわからん。」今回の聞きだしの際に私たちが相手側から何度も言われた言葉である。19年か20年くらいしか生きていない私たちが想像する昔はあまりにも大雑把過ぎる。このことも私たちは痛感した。60,70,80と歳を重ねている人にとって、10年前も30年前も、はたまた幼少時代の頃も昔なのである。そういったことを考慮して質問することができていたらもっとうまく、重要なことを聞きだすことが出来たのではないかと思う。それが心残りである。
今回の調査で収穫だと私が思ったのは、私が常々考えていた「文系には実験がないから実践が伴わず、そのことは学問として大きなデメリットではないか」という疑問に対する答えらしきものが出たということである。今回のように、普段暮らしている土地を離れ、普段触れられない時代に触れる(お年寄りから話を聞く)ということは、今という時代を考える上でも重要であると、私は思う。
(参考) 基山町役員会ホームページ(http://www.town.kiyama.saga.jp/)