6月21日調査レポート 基山六区
<地名とそれに関る伝承>
・ チダシミチ 昔の里道のことらしい。
・ ドンドン 井堰で水が上から下に落ちているところ。その落ちる様をたとえているらしい。
・ 三国坂 筑前、筑後、肥前三国の境であるためつけられた。今でも境の石が残っているとのこと。
・ フサマツ 屋号カ。
・ フサマツ屋敷 もとフサマツがあったところ。フサマツ屋敷にいた一家は現在地(フサマツの屋号のある家)に移っている。
・ ゴジュウメノカケダシ 草原である。もと草刈場だった。草は牛の肥料などに使っていた。草刈には朝行く。朝露がないと草を切ることができなかった。草刈には牛を連れて行く。牛には片方に三把ずつ担がせる。牛は合計六把担いでいた。牛に荷を担がせることをこの辺りではウセルという。人間は前後ろ二把かつぐ。担ぐときは、オーコという担い棒をつかう。オーコの先はとがっている。とがった先を草の束に突き刺し、持って帰っていた。オーコは古くて太りそこなった杉で作っていた。これはわざわざ持っていくものではなく行った先で作っていた。
・ クルマミチ 昔、お城にお米を運ぶ道だった。牛で運んでいた。お米は熊本のほうから来ていたらしい。
・ メクラオトシ ここは道が狭くなっていたらしい。石の採取場であった。石は水車で穀物をつくときに使う。硬さは粘土の固いやつくらいとのこと。これを精米のときにうすの中に入れる。裸麦をつくときによく入れていた。一俵分の穀物につき茶碗一杯くらいの石を入れていた。うすはフンガラウスと言っていた。うすでつくのは子供の仕事だった。本を読みながら、又は英単語を覚えながら足で踏んでいた。このうすは、昭和四十年ごろまで使われていた。
・ 水門 城を守るためにあった。ここで上流から流れてくる水をせき止め、敵が来たときに門を開き、敵を押し流すためのものだったとのこと。しかし実際に行ってみてみると思った以上に小さい水門であった。
・ モンノミチ ここに敵が来たときに知らせるための烽火があったらしい。
・ 耕地 耕地と呼ばれているところの一角に昔の祭り田があった。おおよそ四反くらい。ここでとれる米や麦の収入で祭りをおこなっていた。
・アカムタ 六区の中には、鉄分を含んだ赤い水を用水に使うところがある。そうした
ところは米のできも悪い。ほかでは大体十俵くらいできても、そうした水をかけている
ところでは、おおよそ四俵ぐらいのできだった。地名アカムタのところもそうした水の
かかる湿田だったのかもしれない。
<子供のころの遊び>
とがった木を土に打ち込んでおいて、それをめがけて木の棒を投げる遊びがあった。相手の木を倒せば勝ちだった。
メンコでも遊んでいた。メンコのことはパッチリといっていた。
こまは昔もあった。使うこまは喧嘩ゴマと呼ばれるもの。鉄の輪をこまにまきつけていた。相手のこまに自分のこまをぶつけると、鉄の輪で相手のこまを割ることができた。こまが長持ちするし、長く回る。子供たちはみなこれを使っていた。
水で魚をとったりもした。川にいた魚は、ドンポ、コマツカ、川エビなど。
<村の祭り>
ジンガ(神賀)が祭りを取り締まる。神賀は、全部で十五軒。丸林三軒、坂戸九軒、白坂三軒。神賀の組に十人ずつくらい宮座が編成されていた。それで祭りを世話する。宮座へは六区の戸主が一人ずつでる。全体で百五十人くらいいた。その人数で祭りをおこなう。しかし、実際祭りに行くのはその三分の二くらいだった。
祭りの準備には一年くらいの時間をかけていた。まずトウケトリといって十一月二十日に次の人に祭りに使う道具を一式渡す。そのときは道具を筵の上に広げておく。次の人は道具を自分の家に持っていくのだが、道具の量が多かった。運ぶのに一トントラックで運ばないといけないくらい多かった。準備は麦まきから始められたという。麦は裸麦でないといけない。(祭りで使う麦のことヵ)
祭りでは、まずクチアケと呼ばれる儀式で始められる。ここで、料理や酒が宮座に使われる前に議員さんや組合長さんなどが毒見をする。濁酒などがよくできているかどうか味見をするのである。そのときは全員紋付袴で来ていた。酒は全部自分たちで作っていた。だから現在七十以上の人は皆酒造りができる。しかもうまい。
祭りでは、酒を木の椀で腹いっぱい飲みきり。ご飯の椀か吸い物の椀で飲んでいた。みんな帰るときはしっかりと酔っぱらって帰っていた。せっかく買ったものもスリに遭っていた。
祭りでは神主さんがお神楽を舞っていた。そのお神楽にハナヨネと呼ばれるお米を贈っていた。お米は一軒につき三合くらい。全部で一俵半くらいになっていた。魚も一緒に持っていくこともあった。お米はコンツミと呼ばれる小さな袋のようなものに入れて持っていく。この袋には名前の札が下げられている。その袋を祭りの世話人に渡すのだが、その時に世話人が札を取る。そして札を取っておく。そうすると誰が参っていないかがわかったという。しかし大概の人が参っていたから、特別参らなかったといって問題が起こったことはなかった。祭りは豊作のお祝いの行事だった。
祭りのときは市がたっていた。頭役の神賀が居る所に市がたつ。白坂の神賀が頭役であれば白坂に市をたてるというように。取入れが終わってから祭りはおこなわれ、市は田んぼの刈り跡にたてられていた。田の中に二〜三m幅の道をつくり、その両側に店が並んでいた。店を出すには出店料が要った。世話人が赤い鉢巻を首にまいて、お金を集めるために店を回っていた。寺銭取りのようなもの。こうして集めて回ったお金は祭りの費用としていた。
市で売られるのは塩鯨、塩いわし、皮鯨などの魚もの。当時は皮鯨がとても安くこれをよく買っていたとのこと。皮鯨は野菜と一緒に煮ていた。ダシの代わり。馬鈴薯と一緒に煮ると、とてもおいしかった。現在ダシとしてよく使われるイリコは当時高級品だった。イリコは一般の人が手に入れることのできるものではなかった。皮鯨のほうがはるかに安かった。「だけど、今じゃ皮鯨のほうがたこうなって」と言って笑っておられた。
当時の塩魚は「魚を塩に活けているようなもん」だった。魚は藁スボにいれられていた。福岡県の人が売りに来ていた。魚売りの人は魚を棒の前後に担いでくるので、背中は塩だらけになっており、その姿がおかしかった。こうした人は市で魚を売りつつ、市に来ている一杯飲み屋で酒を飲み、酔っぱらって帰って行った。
<水車>
村には水車があった。城戸だけで八軒〜九軒くらい。一軒につき一ヶ月に三日くらい水車を使っていた。一俵うすと半俵うすの二つがあった。三斗四升くらいの米を一俵うすでつくとおおよそ一日かかっていた。水車がよく回っているときにやるのがベスト。旱魃などで水が少ないときは水車の回りが悪く、三分の一くらい遅いときもあった。
<共同風呂>
城戸には五つ、白坂四つ、丸林二つあった。共同風呂は回り番だった。水はポンプで井戸から上げたり、釣瓶であげたりしていた。風呂をたくのは子供の仕事だった。子供にとってはとても重労働だった。風呂は二十人くらいの混浴だった。皆一緒に入っていた。肩と肩をくっ付け、ギュウギュウになって入っていた。子供はみんなの真ん中で浮いているようなものだった。脱衣場があって、風呂に入る前はそこで待っていた。気温が高いとパンツで待っている人もいたし、家からそのままパンツ姿で歩いてくる人もいた。
<おこもり>
十一月三十日は老松宮に籠もっていた。これにはいわれがある。神様は神無月になると皆出雲に出かけられる。その神様が神無月の終わりとともにお帰りになるので、お宮でお迎えするという。月が変わり、十二月一日の午前一時に火をつける。これで神様をお迎えするのである。このときの木などは子供たちが集めておかなければならない。
ただ思うには、この行事は旧暦を基準としたものらしい。
<牛>
昔はどこも牛を飼っていた。
牛舎には隅に岩塩を置いてやっていた。そうすると牛は自分で岩塩をなめる。牛は塩が好きなもののようで、牛にやる食べ物にも塩を振りかけてやることがあった。
牛には鋤を引かせたり、馬鍬を引かせたりしていた。
牛を洗うことが少ないのはなぜですか?と質問をしてみた。すると、牛は案外きれい好きだから、自分で体をなめている。自分でなめてきれいにしているので、それほど洗わなくてもよいのではないのか、との答えを頂いた。
お話をしてくださった方々
梁井一郎さん 大正八年四月一日生
梁井忠さん 大正十年十一月二十七日生
天本和未さん 昭和三年六月二十五日生