「歴史の認識」レポート

                       

                   調査者:岸川惇見(1LT03036)

                                              野口綾子(1LT03110)

  調査地:佐賀県三養基郡基山町長野

 

お話をうかがった方々

毛利寿秀さん (昭和14年生まれ)

藤野さん(大正14年生まれ)

 

 現地調査当日、私たちはバスを降りたすぐに目的の家があると思っていたのだが、そこは目的の長野とは程遠い秋光というところであった。やむなく国道三号線にそって、鳥栖市方向に移動することになった。

 三号線を歩いていたら私たちはあまりの車、特にトラックの多さにびっくりしてしまった。そして沿線には多すぎるほどのガソリンスタンドと工場が林立し、基山町が福岡と、佐賀、長崎、熊本、鹿児島各県を結ぶ交通の要所であり、各県に物資を供給するための基点であると私たちは思った。しばらく行くと秋光川を越えて長野へとはいった。そのあたりにまで来るとあらかじめゼンリン住宅地図などで確かめていた工場などが出てきて私たちはひとまず安堵した。しばらくいって適当な曲がり角を曲がり三号線から九州自動車道方面へ曲がり集落に入ると、さきほどの喧騒とはうってかわって静かでのどかな田園風景となった。

 しばらく歩くと目的の家を見つけたのだが、約束の時間までかなり時間があったので質問事項の最終確認をした。それからまだ時間が余っていたので辺りをぶらぶらする事にした。お話をうかがった毛利さんからは、付近の公民館の近くに店が一軒あるとの事だったので、公民館を探すことにした。ほどなくして公民館をみつけた、と思ったら、何やらお宮らしいところについた。そのお宮はなんとも不思議なつくりのものでちょっと見ただけでは、まるで鳥居を持った民家のように見えた。よく近づいてみると、それはどうやら、集会所のようだった。

 やっと約束の時間になり、目的の家にむかった。やはり目的の家は昔ながらの農家のようで、母屋といくつかの小屋に分かれた家の構造をしていた。

 お話をうかがった毛利さんはとても元気そうな方だった。お座敷に通された後、毛利さんが、「私は、若いから昔の事はあんまり分からんけん、先輩ばよんどるけん、もうちょっと待って下さい。」と言われたので三人で、その方を待った。ほどなくして到着された藤野さんという古老の方は、毛利さんよりもかなり年配のようだった。

 こうして全員がそろったので、互いに自己紹介をして、まずは小字の調査にとりかかろうとしたところ、私たちは、事前に先方に資料を送ったさいの、封筒に書いた宛名の間違いを指摘された。というのは私たちは宛名を「佐賀県基山町長野何番地」と書いていたのだが、実際は「佐賀県三養基郡基山町長野何番地」というのが正しいそうだ。なんでも三養基郡というのは明治29年に、三根郡、養父郡、基肄郡の三郡が合併してできたそうだ。基山町のあった基肄郡は明治初期の廃藩置県の時は長崎県であったらしい。これは江戸時代、基肄郡が米をほとんど作ることのできない対馬の米の充足のために、対馬藩にあたえられたかららしいのだ。私たちは、調査の序盤から町の歴史に関することを聞くことができて心躍る思いがした。その興奮も冷めやらぬまま、改めて小字の調査に入ったのだが、最初にこのあたりでは小字をほのぎと言うんだと、告げられた。事前にお渡しした資料をもとにほのぎの調査をすることにした。その中で地名の由来についてとても興味深いことを聞くことができた。お二人によると、例えば日渡という地名は、そこはやはり渡し場であったらしい。しかしなぜ渡し場なのだろうか。実はかなり昔基山は大部分が海の中であってそこからついた名らしい。ということは日渡しという地名はかなり昔からあるようだ。私たちはそこに太古に対するロマンを抱いた。まだある。弓場のした(ユンバノシタ、ユバノシタ)という地名は昔そこはやあい田で弓を打つ場、すなわち弓場からきているそうだ。この弓場の下一帯は昔は湿地になっていて、そこに田畑を荒らすいのししを追い込んで弓でうったそうだ。また田畑に使う水についても熱く語ってくださった。毛利さんと藤野さんの話によると、水には使用権が定められていて、その使用権は県の管理との事だった。その使用権のおかげで他の井出からは水をとれないようになっているそうだ。今は井出はコンクリートで固められた川のなかの堰にすぎないそうだが、昔は杭をうって、竹をさいて網をつくり川の水はくねらせたそうだ。これは田に直接冷たい水が入らないよう水温を調節するためだったらしい。なぜ水温調節をするかというと、稲は冷たい水にいれたらいけないからである。話が盛り上がってきたところで我々は規定の質問に入った。

  質問

田にひく水について

田んぼの水はどこからひいていますか

    (前述したように)田んぼの水は近くの秋光川からひいているそうだ。

    ちなみに井出には

      新切井出(秋光川、高嶋団地、基山駅方面)

      中井出(秋光川、線路と国道のちょうど中頃)

      小深井出(山下川、長野公民館のあたり)

   ・50年前も(井出は)同じですか?

      ずっと同じである。

・水の量は潤沢ですか?

      昔も今も潤沢である。

   ・水争いはありますか? 

・水を分ける上での特別なルールは?

      (これも前述したように)水には使用権(整理権というらしい)があり

      その使用権を認可するのは県知事である。だから水争いの記憶は無いそうだ。

・旱魃のときの思い出は?

      旱魃で水が足りないときは回り水をしたそうだ。これは昔の井出

      だから出来たことらしい。どういうものかといえば上から水を入れていきそれを全ての田に循環させるらしい。流すときはながれやすいように畔を切るらしいが、このきる場所も計算されていて

      決まっているそうだ。また上の田のほうが有利とおもわれがちだがそうではないらしい。というのは上の田は冷たい水が直接入ってくるが下の田は回ってきた水が入るため、有利であるそうだ。

・雨乞いなどの経験は?

      雨乞いは山の上に登り火をたくそうだ。これは科学的に根拠が全くないという話ではなく、火によってあたためられた空気により雨を降らせようというものであったらしい。

   ・台風予防の神事などはありましたか?

      台風は仕方ないものとされていたようで、特にそういうことをした記憶はないそうだ。また災害では昭和38年の600-1000ミリの大雨による堤防崩壊が顕著なものである。

・用水路の中にはどんな生き物がいましたか、昔も今もかわりませんか?

      メダカ、エビ、ザリガニ、イモリがいたそうだ。今はまったくいなくなったそうだ。工場・家庭の汚水で駄目になったらしい。汚れる前は小さいエビもいたらしい。終戦後にはらいぎょが多くなり、3、5年でいなくなったらしい。らいぎょは「他の魚を食べてしまう」らしい。昔はざりがにを煮て食べていたらしい。

      かえるもいなくなった。

・田の中にはどんな生き物がいましたか?

      田んぼのちょっとしたところにハヤ、フナ、なまずなどがいた。白と黒の模様の小エビもいて、草があるところをちょっとすくうと何十ぴきもとれ、せからしいからほっといた。工場のインクのせいで魚が変形、尻尾が曲がって水俣病みたでもう食べれない。

      そういうところで米をつくってるのはちょっと怖いなと思った。

・麦を作れる田と作れない田はありますか?

      「もちろんあったさい」〜麦は湿田(年中水気のぬけない田)だと麦が腐ってしまい作れない。乾田であれば大丈夫であった

・むらの一等地はどこで、むかし(化学肥料の導入以前で)米は反当何俵

    でしたか。悪い田は反当何俵でしたか?麦、そばは?

      一等地・二等地はもちろんあった。小作田は等級でまったくっ小 作料がちがった。よい土地だと反当4,5俵はとれた。そのうち2,3俵が小作料としてもっていかれた。「地主は煙草をふかしていても小作が働くからかねになる」田であったらしい。麦の種類には大麦や小麦、からす麦がありそれぞれが違う収穫高であるらしい。そばはあまりつくっているところをみかけなかった。
・昔はどんな肥料をつかいましたか、いまは?
      昔は今のようにかってくる肥料などなかったから、牛や馬の糞と            

      土とわらを混ぜ合わせたものを発酵させて、たんぼの土に混ぜた。

      今はそれこそ、店で買う肥料である。

・稲の病気にはどんなものが。害虫はどうやって駆除しましたか?

      稲の病気にはいもち病などがあったが、薬がないのでどうしよう         

      もなかった。予防の段階として、水温が冷たくならないようかけ流しせず水をいったんためて、太陽の熱でぬくめた。害虫は「めいちゅう」というものがいてよく苗に卵を産みつけた。この卵をとる仕事は子供の仕事で、「たのむしとり」といった。この作業でとった虫を区長に見せにいって多いとほめられた。またうんかは田に種油などを巻き稲の上から油の上に落として駆除した。その作業は朝露のあるうちからした。父親が竹の筒(「こまい」穴がついている。)で稲をゆすってうんかをはたきおとした。

   ・共同作業はありましたか?ゆいといいましたか?かせいといいました 

    か?田植えはいつでしたか?ゆいでしたか?お手伝いの早乙女はきま

    したか?あるいは早乙女に行きましたか?

      共同作業はもちろんあった。なんといったかはさだかでない。田植えは共同作業もしくは個人でした。個人の場合はお金でお手伝いを雇った。田植えの時期は年によってまちまちだが、川は山がわから流れるから田植えも山側から行った。朝5時頃から苗田から、本田に持って行き植えた。

      早乙女はよその町から来たりこっちからよその町に行ったりした。

   ・さなぼり(さなぶり・田植えの後の打ち上げ会)はありましたか?その思          

    い出は?

      あった。さなぼりといった。あらお神社(戦時は県社)にいって豊作願いをした。今でも7月の第一日曜日にある。

・田植え歌は?もみすり歌は?あったら聞かせてください。

      「よそはあったかもしれんけど基山にはなかった。疲れて歌えなかった(笑い)

・飼っていたのは牛ですか、馬ですか?

      牛を飼っていた。種牛であった。子牛を生ませて農協に売った。それは農家の大事な収入源であった。馬は仕事は速いが高かった。

・草きり場はありましたか?

      草は自分の田や田の畔からとっていた。

・薪はどうやって入手しましたか?

      薪は自分の持ってた山に取りにいった。よそからとったら怒られ     

      ていた。一度刈ったところは何年かおいて刈りに行き毎年取るこ 

      とができた。家の屋根裏で保管し乾燥させた。

         

・米はどういうふうに保存しましたか?

      かめ(1×1.5程度)に入れて2/3ほどうめた。ひとつのかめにおよ

      そ600キロははいった。

・ねずみ対策は?

      かめという保存方法のおかげでほとんどねずみ対策は講じなく

すんだ。したとしても、ねずみとりをおいたくらいであった。

・昔の暖房は?      

      暖房は火鉢などで薪の中にもんがら(もみがら)を入れて火のも 

      ちをよくした。

・車社会になる前はどんな道でしたか?

      道はあぜ道であった。大きな道はなく通るのも馬車くらいなもの  

      であった。国道でさも道に布団が干してあったり電信柱が道の真ん中にあったりした。

・むらにはどのような物資が入り、外からはどんな人が来ましたか?

    行商人は?魚売りは?どこから?ざとうさんは?やんぶしは?薬売りは?

      魚売りの行商はよいうきていた。野菜は自作していた。薬は入れ薬があった。また地主など大きい家は自家で薬をつくり売ったりしていた。蓑を売りにくる人がいた。とうみといって山のほうからきていた。一年でいろんなところをまわっていたらしい。蓑の修理は終戦後もきていた。キセル売りもきていた。

・昔は病気になったらどこで見てもらいましたか?

      病院だった。かなり重くないと入院しなかった。入院すると町中     

      の評判を集めた。お金がないのでだいたいは入れ薬でなおした。

      結核になったらお座敷に隔離されていた。偏見もあり、結核患者  

      家の前は走って通れといわれた。

・米と麦は混ぜたりしましたか?何対何くらいですか?

      もちろん食糧難の時は混ぜていた。比率は1対1はいいほうだった。ほかにもいもやさといも、かぼちゃを混ぜていた。混ぜることで量が増えた。白飯は年に1,2度あるくらいだった。それもなにかお祝い事の時だけだった。ほかにふなやきというメリケン粉を練っただけの食べ物があり、砂糖がないから味噌をつけて食べていた。

・自給できるおかずと出来ないおかずは?

      魚は自給できなかったからやはり食卓にのぼる機会は少なかった。

      よくいもを食べた。生で食べると歯が真っ黒になって「お歯黒」のようだった。

・力石は?

      あった。他に娯楽がなかった。女も力持ちで米1俵を自転車に乗ってかついだりしていた。

・格差のようなものはありましたか?

      表面的にはなかったのだが、小作人と地主の間には絶対的な格差があった。地主の権力は大きく上納する米を減らしてほしいといったりしたら「来年から(稲つくらんで)いいよ」といわれた。

・祭りは楽しみでしたか?

      とても盛んだった。その期間は祭りだけに専念してよい期間であった。「こもりたき」という祭りがあった。今ででは少子化で出稼ぎの人も帰ってこないため、役目済ましみたいな状態になっている。また基山の獅子舞は県の文化財で予算もとってある。

・戦争はこの町にどのような影響をあたえましたか?戦争未亡人や靖国の母は?

      戦争未亡人はいっぱいいた。未亡人でなくても男手が少ないので

      女が農業の中心となって働いた。女の農業技術を競う競技会なども行われた。また農繁期は学校が休みになった。また学校でも作物をつくった。学校のグラウンドは畑になって、こうしゃは軍人の宿舎と病院になり、授業は公民館で行われた。また三年からお寺で授業が行われた。

・むらは変わってきましたか?これからどうなっていくのでしょう。

      九州自動車道ができて部落同士が断絶したようになってしまった。

      これからも、自然などが減っていくだろう。

 

 

こうしているうちに時間がきてここで終わりになった。佐賀県出身の私たちにとっても初めて聞いた、ということがいくつもあり、とてもためになった。もう少し掘り下げた質問が出来れば、と思った。最後に私たちの言葉たらずな質問に丁寧に答えてくださった毛利さん藤野さんにこの場を借りてお礼もうしあげたいと思う。