佐賀県基山町宮浦の現地調査レポート
蛭川 覚智 山口 晋輔
私たちは基山町の宮浦における、あざな、村の水利、災害、牛馬について、食料について、田植え、米の保存、薪の入手、村の物資について、村の祭りについて、村の発達、昔の若者、について宮浦12区の区長である益田 勝俊さんにたずねた。
基山町の概要・・・基山調は、佐賀県の東端で筑紫野の西部に位置し、町の大半は福岡県の筑紫野市および小郡市に隣接している。北には背振北山県立自然公園を主峰とする筑紫の山々が連なり、南は筑紫平野につながる、丘陵地帯で鳥栖市に隣接し、町の三分の二が山や高地となり、面積22.02平方キロメートルの町である。
藩政時代は対馬藩に属し、明治22年5月町村制施行により、宮浦村、園部村、小倉村、長野村の4村が合併して其山村が誕生し、昭和14年1月に基山町となった。
・ あざなについて
今回、聞き取り調査をした益田 勝俊さんにあざなについて尋ねると、少し困った顔をして「自分もあまり分からないし、他の自分より年上の人に聞いてもあまり詳しいことは覚えてない。」とおっしゃった。分かるぶんだけでもだけでも尋ねると、小字名として其山口・筑町・栄町・桜ヶ丘・千十・東町・関屋・小松・実松・城戸などがでてきた。
・ 村の風土について
基山町は周囲を山に囲まれた山間の町で、その中心には秋光川という川が流れている。むかし秋光川には、フナ、はや、しまどじょう、こもつか(はぜのようなもの)などの生き物がすんでおり、初夏にはたくさんの蛍が飛んでいたそうである。また其山町のシンボルでもある基山には、多くの野鳥が住んでいたそうである。また、竹林やお寺も多いそうである。
・ 村の水利について
基山町では豊富な地下水があり干ばつや水争いはなっかたそうである。また田んぼの水は水利組合が行っていたそうである。今回、聞き取り調査の後、村の水門であった「基城跡」に連れて行ってもらった。
・ 災害について
詳しい年は分からないが、大水害がおき基山駅口内が水没したそうである。また大きな事故として、昭和36年の8月に弾薬をつんだ列車が脱線したそうである。幸いそのときに積んでいた弾薬は爆発しなかったそうである。その事故があったとき益田さんは、カメラを持って、その事故現場を撮りに行ったと言っていました。そのほかには、特にといって大きな災害はなっかたそうである。
・ 牛馬について
馬は飼っておらず、牛を飼っていたそうである。昭和30年ごろまで牛を使って田すきを行っていて、そのときに「ハイ、ハイ」という掛け声を使っていたそうである。また交通手段として車力を使っていたそうである。牛の餌は、基山からとってきていたそうである。
・ 食料について
宮浦ではあまり食料のことで困ったことはないそうである。しかしやはり、お米は貴重であり大麦をお米に混ぜてたべていたそうである。(お米の量より大麦の量のほうがかなり多かったそうである。)その他、基山は海が近くになかったため、ほとんどの家では養鶏を飼っていた、そのため正月のお雑煮には鶏肉が入るそうである。(ちなみに、博多ではブリ)。その他の食料として野草であるぜんまい・わらび・わさび・はくち・うどなどを取ってきて食べていたそうである。(きのこ類は獲っていなかったそうである)。
子供の頃のおやつとして、稲刈りの終わったあとの田んぼに行って落ちている穂をひろって、一升瓶にいれ棒でつついてかわをはいで食べたり、みかんを獲ってきてたべていたそうである。
また昔は、「赤犬をとってきてたべていたそうだ」ということを益田さんがおっしゃっていた。
・ 田植えについて
子供のころは、田植えなどの手伝いをしていたそうである。宮浦では、田植え歌はなく、また水不足もなく干ばつがなかったため(地下水が水が豊富だったため)雨ごいの儀式などもなかったそうである。さなぶりはあったが、たいしたものではなかったとおっしゃった。
・ 米の保存について
いくつか米倉があり、そこに保存していたそうである。
・ 薪の入手について
薪は、基山の国有林にもらいに行ったり、製材所におかくずをもらいにいってそれを種火に使ったりしていたそうである。
・ 村の物資について
宮浦には近くに海がなかったため、村のそとから(福岡などから)魚うりがきていたそうである。また柳川から川原やお宮の境内に野宿しながら箕のをなおしたり、箕のを売ったりする人がきていたそうである。
その他、宮浦から薬売りに行ったり、宮浦に薬売りに来たりしていたそうである。
・ 村での生活について
益田さんの子供のころはテレビゲームなどはもちろんなく、主に桜ヶ丘周辺で野球などをして遊んでいたそうだ。また、クスノキで鉄砲をつくったり、竹を切って刀をつくり、ちゃんばらをして遊んでいたそうだ。村を流れる秋光川には、当時たくさんの魚がいたそうで、それを捕って夕食のおかずにしたりしていたそうだ。(網ですくえるほどたくさんいて、中でも“こもつか”が一番おいしかったそうだ)。基山では鳥を捕まえていたそうで(仕掛けをかけることを“うつめをかける”といっていたそうだ)、捕まえた鳥は焼き鳥屋に売って、小遣い稼ぎをしていたそうだ。ほかにも、田んぼの苗についている害虫をとって農協に持って行き、そこでも小遣いをもらっていたそうだ。
村には特に娯楽といった娯楽はなかったそうだが、年に一度12月18,19,20日の基山市のときにサーカスがきていたそうだ(1ヶ月ほどサーカスの子供たちが転校してきて、益田さんは一緒に授業を受けたそうだ)。また紙芝居屋もよく基山駅にきていて、5円で飴を買ってみていたそうだ。
・ 昔の若者について
昔の若者はよく喧嘩もやっていたそうで、益田さんのお話によると、少年時代に同じ町内の長野の子供たちと、青年時代には小郡の人たちとそれぞれ喧嘩になったことがあるそうだ。益田さんは、「昔の方が今よりもずっと、地域地域でのつながりが強かったよ。」と、おっしゃっていた。
基山町にもやはり青年団があったらしく、そのメンバーは荒穂神社に集まっていたそうである。そこでは祭り関係の話や、地区ごとに開催される運動会についての話し合いや、酒盛りが行われていて、上下関係や規律もとても厳しいものだったそうで、逆らうことがまったくできなかったそうだ。もしもその規律を破ると、上級生から鉄拳制裁をうけていたそうである。
・ 祭りについて
基山町では5月に地区ごとで祭りがあって、それぞれ氏子が取り仕切っていて、基山口は横笛などというふうに、各小字ごとによって祭りのときの役割が決まっていたそうだ。また、町全体での大きな祭りとしては、荒穂神社で毎年9月の秋分の日に行われる「御神幸祭」というものがあるそうだ。
・ 戦時中の村のことについて
戦争中、基山には多くの空襲があったそうだ。そして基山の山裾には、今でもなおたくさんの防空がのこっているそうだ。また、益田さんの友人や親類にも基山駅から戦地に赴いたり、そこで命を落として、遺骨になってから帰ってこられた方もいらしたようだ。そのお話を聞いて、当時はものすごく戦争というものが身近にあったのだなと思い、少し背筋が寒くなるような思いだった。
・ これからの村の発達について
基山町は、ここ40年あまりで急速に大きくなっていったという。都市計画に基づいて、多くの新興住宅地が作られ、人口もそれに伴ってふえていったそうだ。しかし近年の不景気の煽りで、そういった住宅に空家が出てきているらしい。「こんな感じじゃこの先どうなるかなんてわからんよ。」
と益田さんは少し困ったような顔しておしゃった。
・ 一日の行動記録
10時〜12時・・・・・・訪問先探索
12時〜13時・・・・・・昼食
13時〜15時30分・・・聞き取り
15時30分〜16時・・・水門見学
16時・・・・・・・・・・集合場所集合