基山町宮浦の調査レポート
1AG02174 福地晋輔
1ED03002 有田啓吾
1ED03024 瀧本伸一
六月二十一日、佐賀県基山町宮浦の木原さんのお宅に伺いました。
木原さんのお宅に以下の五名の方々に集まっていただき、お話をして頂きました。
木原賢治さん、昭和11年生まれ
宮崎 寿さん、昭和 2年生まれ
天野 広さん、大正15年生まれ
佐藤 豪さん、昭和13年生まれ
中村政一さん、昭和 7年生まれ
【宮浦地区】
木原さんは20歳の時、同じ基山町の山の方の地区から、宮浦地区に移ってこられた。その当時は中学校と木原さんのお宅と三軒ほどの家だけで、その後10軒ほどが引っ越してきて、小中学校が在ることから「文教通り」ができた。この地区は基山町の住宅地としては最初の集落であり、今は9丁目まであり、一丁27〜10軒で構成されている。
【地名】
資料から確認された明治七年時の小字名は以下の通りであった。
旧仮名遣いで多くの濁点が省略されている。
昭和四十年頃にも確認された地名に関しては、枠線を施した。
実松(サネマツ)、秋光(アキミツ)、外浦(ホカウラ)、三十六(サンシウロク)、宿(シク)、野間(ノマ)、千搭(セントヲ)、木山口(キヤマグチ)、関屋(セキヤ)、東町(ヒカシマチ)、箱町(ハコマチ)、上ノ組(ウエノクミ)、下ノ組(シタノクミ)、野添(ノソエ)、町下(マチシタ)、龍頭(タツカシラ)、鬼木(おにき)、真尻(マシリ)、三十六(サンジウロク)、向平原(ムカイヒラバル)、畑田(ハタケタ)、久保田(クボタ)、玉虫(タマムシ)、白土(シラツ)、片山(カタヤマ)、野添(ノソエ)、堤脇(ツツミワキ)、北田(キタタ)、車路(クルマジ)、中尾(ナカヲ)、平原之谷(ヒラハルノタニ)、藤川峠(フジカワトヲゲ)、藤川(フチカワ)、谷口(タニクチ)、万本山(マンホンヤマ)、平原(ヒラバル)、辻(ツシ)、林添(ハヤシソエ)、京ノ坪(キョウノツホ)、塚原(ツカバル)、津具田(ツクタ)、向鬼木(ムカヘヲニキ)、牛会(ウシアイ)、七五三立(シメタテ)、下ノ原(シモノハル)、脇田(ワキタ)、井手(イデ)、才ノ上(サイノウエ)、柿谷(カキノタニ)、上ノ原(カミノハル)、旧塚原(キュウツカハラ)、八把畝町(ハチワセマチ)、猪ノ尾(イノヲ)、竹入(タケイリ)、辻(ツジ)、鰌の原(トチヨノハル)、小園(コソノ)、黒谷(クロタニ)、浦郷(ウラゴウ)、日ノ口(ヒノクチ)、鳥越(トリコシ)、長浦(ナガウラ)、八ツ枝(ヤツエ)、黒岩(クロイワ)、高嶽(タカタケ)、一井木(イチイキ)、貴ノ谷(セメノタニ)、上ノ屋敷(カミノヤシキ)、大園(ヲヲソノ)、水上(ミツカミ)、長田(ナカタ)、御船(ミフネ)、柱松(ハシラマツ)、牛死(ウシジニ)、不動寺(フトウジ)、水上薮(ミツカミヤブ)、男手矢(ヲテヤ)、弓場前(ユバマエ)、宮ノ後(ミヤノウシロ)、蟻ノ山(アリノヤマ)、宮ノ上(ミヤノウヘ)、修留毛(シュルゲ)、長底(ナカソコ)、石ノ元(イシノモト)、上人原(ショニンバル)、西畦(ニシアセ)、中山(ナカヤマ)、芳ヶ谷(ヨシカタニ)、岩瀧(イワタキ)、竹山(タケヤマ)、猿渡(サルワタリ)、小野久保(ヲノクボ)、寺ノ谷(テラノタニ)、産所谷(サンショタニ)、尼ヶ谷(アマカタニ)、松本谷(マツモトタニ)、仁蓮寺(ニレンジ)、八龍(ヤツタツ)、小仁蓮寺(コニレンジ)、宮ノ脇(ミヤノワキ)、松浦園(マツラソノ)、深底(フカソコ)、地正院(ヂショウイン)、光枝(ミツエタ)、松保窪(マツホクボ)、浦谷(ウラタニ)、内薗(ウチソノ)、古賀蔵(コカクラ)、御船(ミフネ)、大行司(ダイギョウジ)、塔ノ本(ツカノモト)、塚前(ツカマエ)、宮ノ前(ミヤノマエ)、潮井川(シヲイカワ)、馬出(ムマタシ)、定馬(テイバ)、崩ノ下(クヘノシタ)、砂壱(スナイチ)、六ッ出(ムツデ)、白木上(シラキカミ)、中久保(ナカクホ)、白木谷(シラキタニ)、城山(シロヤマ)、島殿屋敷(シマトノヤシキ)、城通(シロミチ)、不動寺(フトウジ)、八城谷(ヤシロタニ)、七曲(ナナマカリ)、南谷(ミナミタニ)、小山寺(ヲヤマデラ)、活保(カツホフ)、不毛(フケ)、上田代(カミタシロ)、猪ノ目(イノメ)、椎長(シイナカ)、大平(ヲヲヘラ)、大久保(ヲヲクボ)、中谷(ナカダニ)、北陳屋(キタチンヤ)、風呂ノ原(フロノハル)、椿尾(ツバキヲ)、浦郷(ウラコヲ)、小野ノ谷(ヲノノタニ)、高嶽(タカタケ)、木別当(キヘツトウ)、初鍋(ワサナヘ)、一ノ宮(イチノクウ)、木別当浦(キヘットヲウラ)、最所(サイショ)
資料より確認された昭和四十年頃の小字名は以下のとおりであった。
実松、宿、箱町、真尻、玉虫、車路、藤川、辻、牛相、下ノ春、才ノ上、旧塚原、猪ノ尾、黒谷、長浦、高嶽、一井木、御船、宮ノ後、中山、寺ノ谷、仁蓮寺、宮ノ脇、宮ノ前、白木谷、不動寺、南谷、猪ノ目、北陳屋、南陳屋
「牛相」、「南陳屋」以外は、どれも明治七年時の小字名にあるものだった。
「牛相」に関しても「牛会」地名と「牛逢」地名がまとめられたものと思われる。
詳しい地名の由来などを聞こうと試みたが、やはり皆さんが生まれる前からあった地名がほとんどらしく、「さぁ〜、わからない」とのお答えだったが、「関谷」地区に関して、かつて長崎街道の「関所」があり、その周辺には宿屋もあったので、この「関谷」地名も「関所」に由来するものだろうというのが、みなさんの考えであった。ちなみに街道沿いの休憩所には松の木が植えられていたそうだ。六本松もこれに関連する地名なのか。
宮浦地区と園部地区は田んぼに入る水の元になる川の違いで分けられており、実松川の水を利用しているのが宮浦地区で、秋光川の水を利用しているのが園部地区だそうだ。村や県のレベルでも境界線は山の尾根(分水嶺)になっていることが多く、地区内では溝で分けることもあるなど、「水別れ」が境界線になることが多いことを教えていただいた。
夜中にこっそり水を引かねば、稲が育たないような田んぼ(土地)を「夜水」と呼んでいた。
また、部落によっては、特定の姓が多い部落があり、中村政一さんの部落では、
「中村」姓が多いことがわかった。
宮原地区にある木原さんのお宅周辺の地名は「牛会」であるが、これに隣接する園部地区の「牛逢」地名もあり、ともに地元の人には「ウシヤ」と呼ばれている。
【家畜】
昔は一家に一頭は牛を飼育しており、昭和22年くらいまではほとんど牛にすきを引かせて、田を耕していた。牛の餌の草は、一食分がドラム缶半分程度の100リットルほどで、男性が朝食前に自分の田んぼのあぜや川原まで行って草を刈っていた。冬場は乾かしておいた草とわらを混ぜて食べさせていた。わらは敷きわら、他の飼料と混ぜて食べさせるなど重宝されていた。馬は主に運搬運送などの営業用に使われており、民用ではほとんど飼われていなかった。
牛の世話は強い刷毛で掃いたり、バケツで水をかけたり、川原に連れて行って洗うなどしていた。えさは川原やあぜの草が主だった。
牛の扱い方、動かし方を教えてもらった。右へ曲がるときは「ヘシェ、ヘシェ」、左は「サシ、サシ」、止まらせるときは「ワー、ワー」と言っていたそうだ。子牛のころから調教するが、牛は頭が良く、覚えが早いらしい。
牛は病気も少なくてまかないやすく、すきを引かせて田を耕す他、山から切り出した木を「かんぬき」で2,3本にまとめて大きな道まで運ばせたり(どうびき)、米(地主に納める上納米も)を運ばせるほか、牛フンは製材所からもらってきた「おがくず」と混ぜて肥料にするなど汎用範囲が広かった。40年くらい前から宮浦地区から牛はいなくなった。
牛は賢く、木原さんが街まで荷物を載せて行き、街の酒屋さんに呼ばれて、一杯ひっかけて、牛のことを忘れて放っておいたところ、牛は一人で(一頭で)自分の牛小屋まで帰っていたという逸話も聞くことができた。
牛にエサをやっていたドラム缶。容積は約100リットル。近くに「子牛用」と書かれた、一回り小さいドラム缶もあった。
牛小屋跡。かつては2頭の牛がこちらに向かって顔を出していた。今は物置になっている。二階もあり、わらを保存するのに使われていた。写真では見えないが壁の内側にはかつてここにいた牛のフンがたくさんくっついて乾いていて、昔の牛小屋の様子が想像された。
【米作り】
「田植えの時は田植え唄を歌っていましたか?」と尋ねたところ、「歌どん歌いよっても間に合わんと。競争のごとして植えよった。」との答えが返ってきた。
田植えは、近所の人の田んぼの田植えを手伝い、自分の家の田んぼの田植えも手伝ってもらう「てまがえ」が行われていた。箱を使って植える植え方や腐りにくいシュロの縄を目印にする植え方があった。どんなに田植えがうまい人でも一日一反(約5000株程度)が限度であった。
また、久留米より南の方から「娘の手伝い」がやってきたが、彼女らは「早乙女」とは呼ばれず、献上米などを植える場合「早乙女」と呼ばれていたようだ。この早乙女たちは、久留米がすりの着物とすげがさを身に付けていた。
やはり田植えは重労働であったらしく、「苗植えるより、座敷でなえとる(萎えとる)方がよか」と昔は言っていた。田植えは毎年六月十五日前後に行われ、私達が訪れた六月二十一日には木原さんの田んぼでは田植えは完了していた。
水に関しては、田植えの時分に山あいの高いところにある溜め池から水を引いてくる「堤の水出し」を行い、田植えに必要な水を確保していた。
川の水の分配は各堰を開く時間によって決めていたが、土地によっては夜中にこっそり水を引かねば、稲が育たないところもあった。水がかからない田を畑田と言い、そのような所では麦が栽培され、中学校も水周りが悪かった土地に建設された。
裏作で麦を作る田もあったが、苗代を作る田ではレンゲなど肥料がなくても育つマメ科植物を植えていた。
川には水車が設置され精米やそうめん作りをしていた。かつてはホタルも見られたが、最近まで下水道の整備ができておらず、生活廃水のせいでホタルは姿を消している。しかしホタルを再び呼び戻そうという動きもあるということも聞かれた。
地下水は豊富にあるが農業には使われず、もっぱら生活用水に用いられていた。今では地下水の過剰採取は地盤沈下を引き起こすため、制限されている。
水害に関しては、昭和28年の水害(=28災)がもっともひどかったらしく、もう一度田植えをやり直すところもあった。とくに久留米でひどく、水に流された人が電柱や立ち木に捕まろうとすると、ヘビがすでにまきついていて、怖くて捕まることができずに、そのまま流されて命を落とした人も多くいた。
昭和38年にも水害があったが、今はダムや河川改修など治水工事がしてあるため昔ほど深刻な水害は少なくなった。
渇水のときは、雨乞い神事をおこなっていた。神主を呼んで、千束焚きを行っていた。
また、以前は毎年五月に、五穀豊穣を願って、近くの山の中にある荒穂神社から、堤まで、神輿を担いで、神様の「お下り」が行われていた。以前は荒穂神社の周囲には松林があったそうだが、マツクイムシや落雷によって、今はなくなってしまった。今でも木原さんが区長の仕事として、昔よりは簡素化した形ではあるが、五月に五穀豊穣を祈って荒穂神社で神主さんを呼んで神事を行っている。
木原さん宅のシュロの木。幹の周りに繊維があって、これを編んで腐りにくい縄を作り、田植えの時に目印にしていた。高さは5メートルほど。
【結婚】
昔は両親の「やたら親戚を増やしたくない」(冠婚葬祭が面倒)もしくは「素性がしっかり分かっている相手と結婚させたい」という意向がはたらいて、一(ひと)いとこ、二(ふた)いとこどうしなど親類縁者内の血族婚が多く、七人いる木原さんの兄弟でも上の三人は血族婚であった。その後も両親の縁故によるお見合結婚が多かった。
結婚披露宴は自宅で行うことが多く、まず親戚を集めた式を行い、その後、友人や知人を招いての式を行ったり、三日がかりのものもあるなど、規模が大きく、友達どうしで手伝って行っていた。木原さんの披露宴は自宅で行ったそうだが、その数年後から公民館などで行うのが主流になってきた。
「ててくりあい」(いちゃいちゃ)をしていた男女がいつのまにか「かけおち」に走る場合もあったそうだ。
【生活】
このあたりの農閑期の副業(サイドビジネス)は配置売薬の行商だったそうだ。鹿児島や島根まで行き、時には同業者の多い富山付近を越えて、東北地方まで足をのばしていたそうだ。病気に関連して、このあたりには昔からの病院が4軒あり、今も続いている。めったなことでは病院には行かず、家に配置してある薬で済ませたそうだ。
逆に、長崎街道などを通ってやってくる行商人は乾物や衣類を持ってきていた。また自分の田んぼで収穫された米との物々交換も盛んだったそうだ。終戦後は都市から着物などを持って物々交換に来る人も多かった。
ほかに副業として養蚕(「ようざん」と言われる方もいた)が行われ、中学校の裏手の山などに桑畑が広がり、「雨が降ったら、桑の葉を一枚一枚拭かんばやった」とおっしゃられていた。終戦後には効果的に現金収入を得るにためタバコの栽培が流行ったそうだ。
魚は盆、正月、お祭りのときなど特別なとき以外は食べなかった。肉は飼っているニワトリやウサギをしめて食べていた。鶏のしめ方は生きたまま首をひねるといったものだった。
共同のもやい風呂が35年くらい前まであり、混浴だったので新参者のお嫁さんが来ると、若い男どもが早くから入って、若いお嫁さんの入浴を待つようなことがよくあり、お嫁さんは困っていた。
かつては青年団が、中学校を出て入らないと世間づきあいがなくなるという背景を背に、盛んに活動して、地域の祭りなどの行事の運営の中心となっていたが、社会の変化とともに青年団も小さくなり、行事が少なくなった。
大正の終わりごろから電気が来て、電球を灯すようになった。今のように各部屋に電球があるのではなく、ひとつの電球に長いコードをつなげ、人のいる部屋に持っていって灯していたそうだ。
昔は、こっそりお酒を造っている家庭もあったそうだ。税務署の調査員が来て、ゴザの中に隠しておいた酒が、もうあと一枚めくったら見えそうだという時に、「調べるのはよかけど、ちゃんと戻してくれるとやろうねぇ」の一言で、調査員があきらめてくれたというお話も聞いた。
【戦争】
戦時中の基山の食料は自給自足の生活をしていたこともあり、豊富だったそう。福岡のほうからもいわゆる闇米を買い(もしくは物々交換し)に来る人もいたそうだ。
戦時中は小学校が日赤病院に変わり、子供は集落ごとにお寺や神社で午前中ないしは午後だけ授業を受けていたそうだ。また、爆撃機から目立たないように白い壁を黒く塗る家もあった。また、長男は兵隊に行かなくてよいので、養子に行って徴兵を回避する人もいた。
愛知の工場での勤労奉仕で友人を空襲で失われた方もいた。終戦の年の春に、朝礼で工場長から「来年の桜は見られるか分からん。だから今のうちに桜を見ておけ」と言われたそうだ。福岡には6月13日に空襲があり、「空襲の惨状は忘れない」という言葉が印象的だった。
【感想】
皆さん昔のことを思い出しながら、懇切丁寧に説明してくださった。資料とは別の字名はあまり聞けなかったが、それでもかつての宮浦地区の人々の生活の様子や生活習慣などをくわしく聞くことが出来た。農業は機械化などにより刻々と変化をし、社会構造も変化する中で、やはり、宮浦地区の生活も、地名も、今回お話をいただいたみなさんが子供のころとは劇的に変わった。しかし、このような土地に根ざした、むかしのくらしや習慣や地名を後世に伝えていくことは、後世の人々にとっても自分たちの文化の根底にあるものを知ることであり、重要なことである。
学校外にも学ぶべきことがあることを感じた。
お話をしていただいた皆さん、ありがとうございました。