歴史の認識 現地調査レポート

 

調査日 2003年 6月21日(土)

 

調査場所 佐賀県三養基郡基山町第十

 

調査者 1LT03086 辻田 幸四郎

                   1LT03085 月野 雄貴

 

 

○初めに

 今回の現地調査で私たちは基山十区の区長である永田茂氏を訪問した。永田氏のお宅の住所は小倉となっていたので、小倉でバスを降りてみると、十区からかなり離れたところだった。そこで駅まで歩いて永田氏に電話をかけて指示を仰ぎ、タクシーで永田氏のお宅の前まで行くことになった。永田氏は家の前で出迎えてくれ、奥さんと一緒に応接間に案内してくれた。早速私たちは今回の調査の目的について尋ねると、このような話をしてくれた。

 「基山十区は、戦前までは、特に利用されることもなく、手付かずの山だった。それが、戦時中に切り開かれ、弾薬庫として利用されることとなった。

戦争が終結した後は、旭化成が土地を買い取り、住宅地を造成した。それ故に、人が住み着いたのは戦後からである。」現に、お話を伺った基山十区の区長であられる永田 茂氏も、基山十区に住むようになって十年を越さない。

元々が新しい歴史の町であるため、私たちが求めていたような、「古来より伝わっていた地名と現在使われている地名の違い」といったことなどのお話を聞くことはできなかった。なので、今回レポートを作成するにあたり、永田氏から拝借した、縄文時代〜戦国時代までの基山の歴史が記された貴重な資料である「木の国〜基山の文化誌〜 発行責任者 木原 武雄 出版 木の国文化会」を参考に、基山の歴史をレポートすることとする。

 

○基山町第十区 概略○

基山台 190世帯       新町、桜町、神浦  128世帯  

高尾マンション 26世帯   ルミエール基山 13世帯

                        計 357世帯             

 

 

○基山の歴史○

 

旧石器時代

基山地方では他の地域と同じく狩猟生活が営まれていた。彼らの日常食料は「長鼻」と呼ばれる、背丈2mを越すナウマン象の一種であった。また、ナウマン象の他に鹿もとっていた。彼らは、狩りの獲物の動きがよく見える伊勢山や金丸台地の岩陰で生活しており、その衣服は、獣の皮を獣の骨によって縫い合わされたものであった。

また彼らは、品質の優れた黒曜石を採取するために、遠く離れた伊万里にまで足を運んだ。棒状の硬い石をハンマーとして用い、割れ口の一端を打ちつけることで、細長い石片を縦にそぎ取り、剃刀の刃のような石片を作成した。それらは「ブレイド」と呼ばれるもので、獣や魚を調理するナイフとして用いられたり、獣をとる槍や鏃として用いられたりした。

このようにして栄えた旧石器時代であるが、度重なる火山の爆発や大洪水、地殻の変動などによって、彼らは生活の地を追われることとなる。これが、縄文時代の幕開けとなる。

 

 

                 縄文時代

 度重なる噴火などによってすっかり火山灰に覆われた基養父地方にも長い年月が経過し、火山灰は赤色、白色、黒色へと変色した。その地域には草木が生い茂り、鳥や獣や魚が増えた。すると、どこからともなく新人類がやってきた。

多くの学者は、アジア大陸から丸木船に乗ってやってきたと言っている。今からおよそ一万年前のことである。彼らが、基山での最初の住人である。 

彼らは旧石器時代の人々とは異なり、洞穴ではなく、台地上に数本の丸木を埋め立てて上方を組み合わせ、それに草や木の葉などで屋根を覆った「竪穴式住居」と呼ばれるもので生活していた。

彼らは住居ができると、石の矢じりや石斧などの道具を作成し、近くの野や山で鳥や獣を狩り、栗、椎、どんぐりなどを採集し、また川や池などで魚や貝を採って食料とした。このような暮らしは、自然物採集経済生活と呼ばれる。 

‘縄文’の名前の由来となった縄文土器は、やはりこの時代に発明されたものである。

そのきっかけは、「粘土の露出した場所で焚き火をしたら、その周りが堅くなっていたのを発見した」という説や、「植物で編んだ籠の内部に粘土を塗って、水が漏れないように工夫していたところ、それが偶然焼けたところ、後に残ったのが籠目の付いた土器のようなものだった」という説がある。基山縄文人が作った土器は、押型文と言って、彫刻した細い棒を押し付けて作成したものである。

縄文人はまだ、金属を利用することも、また農耕を営むことも知らなかったので、食料はすべて旧石器時代のそれと同じく、鳥や獣、魚や貝、それに果実や草の根であった。そして、それらを採取するために石器、骨・貝・木器などを作成した。縄文土器の利用と住居の違いを除けば、彼らの生活は、ほぼ旧石器時代のそれと変わりはなかったであろうと思われる。

 

 

               弥生時代

何千年という長い縄文時代が終わりを告げると、日本列島に初めて稲作農耕と鉄器、青銅器文化が伝来し、新しい弥生時代へと移行した。

これは、アジアモンスーン地帯の一環である中国南方の農耕文化が、地理・気象条件の酷似した北部九州にまず渡来し、次第に東方に伝播していったことに因る。

こうした水稲・金属文化は、高原台地付近で採集経済に明け暮れていた晩期縄文の人々普及・導入され、あるいは、新たな文化を携えた渡来人たちによって、弥生式水稲文化として花開いた。

弥生式時代というのは、前代の縄文式土器と器形や装飾を異とする土器が出土した土地の名称である、東京の本郷弥生町にちなんで名づけられた名称で、一種の時代区分でもある。

この時代は、なんといっても諸々の大陸文化の伝来によって、数千年の長きに及んだ割にはほぼ文化的進展を見せなかった縄文時代とは比較にならない程の画期的な展開を見せたことに特色がある。

その一つが、採集経済農耕経済への転換であり、つまり、稲作技術の導入と発展であるが、北部北九州では縄文時代の晩期に、すでに水稲耕作が行われていた形跡が、福岡県新宮町夜臼遺跡に見られるので、新しい弥生文化の母体は、すでに育てられていたということになる。

稲作を中心とするこれらの新しい文化が、高度な技術を持ったかなりの移住者によって南朝鮮〜対馬〜北九州、という経路で伝えられたことは、確実視されている。この説を唱える学者は、その根拠として、佐賀県や山口県で出土した弥生人骨と、現代の南朝鮮人との類似性を挙げている。

こうした新渡来者は、二、三世紀の間にはかなりの数にのぼったと考えられるが、やがて原住民との婚姻も盛んに行われるようになり、原住者もまた新渡来者から分けてもらった籾種を蒔いて、この新しい生産技術を身につけていったであろうと予測される。また、水稲耕作の適地が、縄文人には不要な低湿地であったことも、水稲耕作がひろく普及したことの要因の一つであろう。

基養父地方には、弥生時代の農耕具が夥しく出土している。石包丁・石斧・木鋤・三本鍬・青銅製の鍬などであり、これらは米作りが始まったことを示す貴重な資料となっている。

米作りのためには、新しい道具と生産技術が必要である。まず、耕すための木鋤、深田での作業に必要な田下駄、収穫用の石包丁、稲穂を運ぶ籠類、これを乾かす大むしろ、籾がらを除き、精白するための竪臼・竪杵、その際に、籾がらや糠をよりわけるのに必要な箕、また、穂や籾を貯えておくための高床の倉、などである。それに加えて、水を防いだり導いたりする作業、水を保つための畦作り、雑草を除き、鳥によって虫の害を防ぎ、肥料を作る・・・などなど、稲作の肥培管理は相当な努力を強いられたことであろうと推測される。

新渡来人たちがもたらしたものは、稲作の技術だけではなかった。彼らはすでに機織りによって衣服を作り、金属器を使い、家畜を飼うなどの文化をもっていたのである。機織りは、地機、あるいは、いざり機、と呼ばれる簡単な機具で、植物繊維の糸を織った布で衣服を作っていた。

繊維の材料は、日本在来の楮や蔓で、石や粘土で作った円盤の中心の穴に軸棒を挿して、コマのように回転させ、繊維を軸棒に巻き取りながら撚って作った。この道具は紡錘車と呼ばれるもので、基養父地方の弥生遺跡ではかなりの数が発掘されているので、機織りが盛んに行われていたことがうかがえる。

縄文時代に一般的であった打製石器は影をひそめ、かわって、あまねく見られるようになったのが、生産用具としての磨製石器である。凝灰岩質の貢岩を用いた磨製石斧、抉入石斧、石包丁、石鎌などが、その例である。石包丁は背部が直線形、刃部が弧状をなすもので、弥生全期間を通し、稲の穂刈りとして一般的に多く使われた石器である。

石斧は玄武岩、あるいは、安山岩製の磨製石器で、木を切ったり、魚や獣の調理の際に使ったりなど、万能の道具であった。石鎌は、縄文式時代後期以来の、三角形の底辺のくりこみが小さい形式で、狩りの矢や、戦いの場での武器としてした。石斧、包丁は、基養父地方の弥生遺跡から万遍なく出土している。

金属器が日本に伝わったころの中国では、紀元前四千年から青銅器が鋳造され、三千年ほど前から鉄器が造られたと言われている。日本が弥生時代だった頃、新渡来者の故郷である南朝鮮ではすでに金属器が普及していたので、彼らが渡来する際に他の文化とともに携えてきたのである。青銅器とは、銅剣、銅矛、銅戈などの武器や、銅鏡、銅鐸、銅の腕輪や銅のスキサキ、ごく少数の銅の鍬などで、日曜生産の道具はほんの僅かであった。

青銅器にともない、鉄器もかなり伝来したようであったが、鉄は腐食が早く、消滅したものと考えられる。現代に残っていない鉄器の存在の根拠は、現代に残った木器などの鋭利な加工跡である。

農耕生活から生まれた道具で、もっとも一般的で、基本的な資料は土器であり、日常生活の上で欠くことのできない生活必需品であった。土器には甕、壺、高杯という三種の基本形態があり、甕は農耕生活上、主食を煮る釜や鍋の役割をはたし、壺は米や水を貯えたりする容器として用いられ、高杯は食物を盛るための供用の容器であった。

基養父地方の弥生遺物の中でもっとも多いのが、この高杯である。

家族生活の場である住居は、縄文式時代には丘や山の高台などに設けられていたが、この時代になると、一般的には平地に移っていた。それまでは、狩りや採集に便利な場所を選んでいたが、弥生式時代になると稲作が中心となったので、このようなこととなったと思われる。

その構造は、縄文式時代と同じく竪穴式で円形や方形であるが、屋根は入母屋造りか、四阿屋造り、時には切り妻造りのものもあった。そして、この時代に特に注目すべきなのは穀物倉庫である。一本はしごで昇り降りし、時には、ねずみ返しなどもつけられていた。広さは七坪前後あり、十五畳敷きあたり一部屋という造りが多かったようである。

当時、稲作は共同作業が必要であったため、住宅が固まって設けられ、いわゆる「集落」を形成していた。多くは五、六個の場合が多く、その周囲に溝をめぐらせた‘環壕集落’というものであった。

稲作が進むにつれて、集落は共同体化し、その中に指導者と非指導者との階級社会が生まれ、やがて族長の出現となり、そうして生まれた族長は幾つかの共同体の支配者となった。このようにして、原始的小国家が各地に形成されていった。

基養父地方には、二千年前の遺跡や遺物が各所に点在している。当時の墓地である弥生式甕棺群集地をはじめ、青銅の鍬・鉄製の三つ又鍬・石斧・石包丁や、その他水田の跡などから、郷土の祖先たちがこのころから米作りをはじめていたことが知られる。

 

 

                古墳時代

 小山のように盛り土したお墓は‘古墳’と呼ばれ、日本では大和を中心におこったが、その大和政権の拡大にともなって、古墳文化は全国へとひろがっていった。

 基養父地方では、この古墳のことを俗に「塚」と呼ばれ、昔は、「塚」は鬼の岩屋である、ということや、「塚」には大蛇が住んでいる、あるいは、「塚」は昔の住みかだった、などと信じられていた。

 古墳には様々な種類がある。前方後円墳、円墳は天皇や大豪族の墓である場合が多く、横穴式石室墳は、地方小豪族や一般庶民用のものが多い。

 基養父地方の主なものとしては、上の剣塚や柚比の甲庚堂塚は、いずれも前方後円墳であり、彩色で有名な太田のものは円墳であり、これらは基肄郡の大豪族クラスのものと考えられている。

           

〜基山町内古墳文化遺跡概要〜

 ・千塔山古墳群 所在地 基山町大字宮浦字千塔

 基山町のほぼ中央に突起する千塔山は、仏教文化の名残である「平安期の板碑」を止めていたが、ここには、古墳も数多く残されていた。親しみをこめ、「大塚どん」と呼ばれたものや、多くの横穴石室墓もあったが、昭和五十年の開発によって消滅してしまい、現在には残っていない。

 ・片山古墳群 所在地 基山町大字宮浦字片山 畑

 基山駅の北北西九百メートル付近に小丘陵があって、十数基の横穴式石室古墳があり、須恵器などの副葬品を止めていた。しかし、先に述べた千塔山の開発にともない、消滅した。

 ・神の浦古墳群 所在地 基山町大字小倉字神の浦

 現在の神の浦団地周辺に存在した横穴式石室古墳で、須恵器などの遺物を残していたが、現在ではそのほとんどが消滅している。

 ・金丸古墳群 所在地 基山町大字園部字金丸

 南を鳥栖市と接する金丸丘陵一帯は、弥生遺跡であるとともに古墳遺跡群でもある。大型の横穴石室もあり、鉄刀などの副葬品も出土したと言われている。

 ・中隈古墳群 所在地 基山町大字園部字中隈 山頂

 小独立丘陵に十数基の横穴式石室墳があったが、戦後の開墾の際に消滅した。

 ・黒谷古墳群 所在地 基山町大字宮浦字黒谷 畑

               大字園部字浦田・水呑

 黒谷・水呑・浦田一帯には数十基の横穴式古墳があり、須恵器、土器などが出土しているが、古墳自体は開墾により消滅している。しかし、昭和六十一年テクノポリス開発の際、町教育委員会による埋蔵文化財調査によって、同地区の未開発区から十数基の古墳の存在が明らかになった。内部構造は横穴式石室墳で、羨道・玄室からなり、南側に開口する仕組みになっていた。

・仁王寺古墳群 所在地 基山町大字園部字岩坪 山林

鳥栖市との境、杓子ケ峰の北東麓に吉祥寺があり、この寺の周囲一帯に十数基の横穴式石室墳が構築されていた。しかし、現在にいたるまでにほとんどが盗掘にあい、開口されたため、遺物は残されていない。

・篠林古墳群 所在地 基山町大字園部字三ヶ敷 茶畑

正王寺集落の南方に、東に伸びた低丘陵があり、その突端部に数基の横穴式石室が構築されていた。その形態が一列に並んだものであることから、「並び塚」という別名を持つ。全てが開口・盗掘されており、その中の一基から直刀・馬具・須恵器などが出土されたとされているが、その所在は不明である。

・馬場古墳群 所在地 基山町大字園部字岩坪 畑

杓子ヶ峰の北麓、馬場集落の南に接する低丘陵にある横穴式古墳であり、明治のはじめまでは十数基あったと伝えられているが、現代に残るのは一、二基で、中に収められていた副葬品も、盗掘のために散逸してしまっている。

・鎌浦古墳群 所在地 基山町大字園部字鎌浦 畑

鎌浦集落の北、南丘陵突端部には、明治に初めまで、十数基の横穴式古墳はあった、と言い伝えられているが、今は僅かに一・二基を残すのみで、その残ったものも上部の石は持ち去られており、腰石のみの状態となっている。

 

 

以上に挙げた古墳群の他にも、その大多数が消滅したり、大部分がなくなっていたりするものであるが、皮龍石古墳群・小林古墳群・黒目牛古墳群・小松古墳群・柿の原古墳群・御仮殿古墳群・塚原古墳群・嶽古墳群・浦田古墳群・水上古墳群・仁蓮寺古墳群A.B・宮の脇古墳群・不動寺古墳群・南谷古墳群・白坂古墳群・八辺古墳群・上原古墳群・老松宮古墳群・池の坂古墳群・二谷寺古墳群・天台寺古墳群・桜町古墳群・一庵山古墳群・上野古墳群、などがある。このことから、基山には非常にたくさんの古墳があったことがわかり、古墳時代には数多くの人々が生活を営んでいたということが予想される。

 

 

飛鳥時代

 飛鳥時代は新羅征討の失敗、蘇我氏を代表とする豪族の台頭等、内憂外患の時期であった。蘇我氏の専横に対して憤った中大兄皇子が、藤原鎌足らと図って蘇我氏を倒し、唐の政治に習って政治の改革を行った。これがいわゆる大化の改新である。この改革では班田収受のための条里制や軍団の設置、国郡制の実施等の刷新が行われた。基山町にもこれらに関する資料が残っていた。

 

〜基山における条里制〜

 大化の改新では豪族たちがそれまで持っていた私有の土地人民は全て国家のものとして収められた。そして、班田収受といって人民に平等に分け与え、租税も平等になった。

班田を行うにあたっては、人民を調べる戸籍計帳が作られた。また、土地を分け与える上での利便性から耕地の大整理が行われた。これが条里制で、1町(108メートル)四方の土地を基準としていた。さらにこの区画を長さ30間(1町は60間)幅12間の10区画(A)に分けるようになっていた。また、平野部では、長さ60間に幅6間という長い形(B)が普通となっていたようである。これは一般に長地制と言われ、基山地方では永田、割田などの地名が残っており、佐賀県東部地域では一般的に長地割の遺構が多く残っている。Aの形は主として人力による耕作に適し、Bの形は家畜の力を利用するようになってから普及したものと思われる。

地番としては、これに坪という名前を与えている。そして郡ごとにその東端から南北に6町巾のところを一条とし、西に向かって6町巾を二条、三条と呼んでいたようである。文献によると、

基肄郡 三町 竝上

二条基肄田 二五 比(此)田九反壱畝

       四十四歩

 三十六 土由田    壱反七十二歩

        尾張田 九反百四十四歩

        二此田 壱町

などとある。この基肄田は現在の基山駅付近にあったとされる。肥前筑後国境界を基準とすれば、まさに二条の地点となる。

 

〜里と坪〜

 各条ごとに方6町(6町四方)の里にも数字によって1里、2里と番号がつけられている。里は方6町だから里の中には6×6つまり36個方1町の区画があることになる。これに番号をつけるために方1町区画を坪と呼び、一の坪から三六の坪までの番号をつける。現在、基山地方には、七の坪、八の坪、京の坪、岩坪などが残っており、千数百年前の耕地整理の後を偲ぶことができる。

 

〜国郡制と郷と里〜

 大化の改新では国郡制も整備された。全国を62国2島、さらに国をいくつかの郡に分け、国には国司、郡には郡司をおいた。

 肥前の国には東から基肄、養父、三根、神埼、佐嘉、小城、松浦、藤津など9郡とされ、郡はさらにいくつかの郷里に分けられた。

 肥前風土記によると、

肥前国 郡一一 郷七〇 里一七八 駅一八

    烽二〇所    城一所  寺二所

  基肄郡 郷六所   里一七  駅一所

  養父郡 郷四所   里一二  烽一所

   以下 略

 

 

奈良時代

 この時代は国家隆昌の時代であり、一握りの貴族たちによって構成されたいわゆる律令政府の権力は地方の隅々にまで行きわたっていた。また、仏教文化を中心に、天平文化が開花したのもこの時期で東大寺の建立に続いて、全国に国分寺、国分尼寺が建てられた。しかし、そうした隆盛の影では、農民たちが租・庸・調・雑徭・兵役などの課役に苦しんでいた。

 

〜寺社の建立〜

1.荒穂神社

この神社ができたのは、実際には飛鳥時代だと考えられている。「延喜式」という古文献に記された古社で、創建の時代ははっきりしていないが、貞観二年(860年)頃の文献ですでに肥前四大古社の一つに数えられており、それ以前からの古社であることには間違いないようである。その後、昭和元年に県社に昇格したが、第二次大戦後は神道主義の廃止によって県社の神位も旧に復して現在に至っている。なお、当社祭典の奉納芸は有名で、中でも獅子舞は1970年大阪万国博覧会に郷土民芸佐賀県代表の一つとして出場した。

 

2.大興善寺

 小松山観音の名で知られる大興善寺は最近はつつじ寺の名でも有名になっている。開山は奈良時代の高僧行基で、慈覚大師円仁の中興と伝え、秘仏観世音菩薩を本尊とする天台宗の古刹である。当寺は戦国時代に至って荒廃、衰退した時期もあったが、今なお2体の天部像を残し、各々重要文化財に指定されるとともに、境内に栽植されたつつじによってその名を響かせている。

 

 

平安時代

この時代では、前代に華やかだった唐風文化は日本的な文化、いわゆる国風文化となった。一方では律令政治は廃れ、口分田を捨てて逃亡、流浪する者の数は一層増えていった。貴族が私有地を増やしていき、中央では藤原氏が実権を握っていたが栄華な暮らしをして政治を省みることなく、国司たちも地方に赴任せず、治安はいっそう乱れていった。

 

〜基山地方の荘園〜

貴族が所有していた私有地を荘園というが、基養父地方にもいくつかの荘園があったようである。平安時代初中期のものとしては、小倉庄、奈良田庄、神辺庄、鳥栖庄、村田庄などで、いずれも太宰府天満宮の神宮寺安楽寺の荘園である。

 

〜基肄郡長の謀反〜

 基養父の農民たちが苦しい悲惨な生活にあえいでいた平安時代の初めごろ、基肄郡の副郡長が謀反を企てたという記事がある。「三大実録」という古書によると、基肄郡の副郡長格である山春永が首謀者となり、藤津郡・彼杵郡・高来郡などの郡長と結託して、射手45人を輩下に置き、対馬を奪取しようとしていることを、同じ基肄郡の人川辺豊稲が大宰府に密告したので、さらに大宰府はこれを朝廷に奏上したというものである。

 彼らがその後どのようにして処分されたかは不明だが、とにかく、当時のこの地方でも政治の乱れのひどさを表す貴重な資料である。

 

 

鎌倉時代

栄華を誇った平氏は壇ノ浦で滅び、世は源氏の時代となった。鎌倉幕府は武士たちが確立した封建社会の頂点にあり、地方武士をもってその基盤としていた。

中世社会の武士は平素は農耕に従事しながら、「いざ鎌倉」の時は日ごろのご恩

に報いるという「主従関係」に結ばれていた。

 

〜基肄養父地方の地頭・御家人たち〜

1192年に源頼朝は征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いたが、その間に義経・行家追討を名目に全国の国々に守護を設置し、荘園内には御家人を地頭として補佐させた。鎌倉時代の肥前国の守護は、武藤氏・北条為時・定宗・鎮西探題兼任などであるが、一方地頭として基養父に在住した御家人は、基肄郡の曽根崎氏・養父郡の山浦三郎・藤木氏・土土呂木氏・三根郡の綾部氏・同山浦氏である。

 

〜元寇の恩賞〜

 文永十一年(1274)、弘安四年(1281)の2度にわたる元軍の襲来は、日本に与えた影響は大きく、鎌倉幕府衰退の前兆でもあったが、元寇には当然、基養父地方に在住する御家人たちも合戦に参加した。

まず、文永の役からみると、基肄郡では曽根崎氏がいる。「将軍家政所下文」によると、曽根崎法橋慶増が、文永の役に参加した恩賞として豊後国田染郷内の糸永名の地頭職を与えられた。また、同書によると、肥前の御家人綾部小次郎道明が、かつて下倉成名十六町を知行していたことが示されており、彼も慶増と同様、文永の役に出陣していたものとみられる。

また、「弘安四年蒙古合戦勲功賞肥前国神崎荘配分事」という文献の中にも曽根崎氏の名が見られ、弘安の役にも曽根崎氏は出陣していることがわかる。

 

 

吉野・室町時代から戦国時代

 元寇を撃退したものの、財政の窮乏、恩賞の不足などによって鎌倉幕府の主従関係は破綻をきたし、武士らの結託もあり、天皇側に政治が移ることになった。しかし、足利尊氏の造反によってこの新政もわずか2年で終わり、いわゆる南北朝時代が60年間続くこととなった。そして、1392年に北朝は南朝側

を合一し、やがて、応仁の乱以降は幕府の急激な衰退によって、下克上はなやかな戦国時代の時代となった。

 

〜戦国大名筑紫氏と基山地方〜

戦国時代の基山地方を支配した武将は、同期前半は九州探題今川氏や渋川氏等で一定しがたいが、後半になるとおおむね筑紫家三代の所領だった。

筑紫氏の居城は勝尾城で、九千部山の南東辺にそびえる俗称城山の山頂一帯に位置し、眼下に筑紫平野を一望におさめ、遠くは肥後、豊前の山々を望むことができる、難攻不落の堅城であった。

 

(以上、「木の国〜基山の文化史〜 発行責任者 木原 武雄 出版 木の国文化会」より)

 

 

まとめ及び感想

 今回の調査では昔の地名について、また、昔の田畑や山での暮らしについて尋ねるのが目的だった。しかし、私たちの訪問した地区では、目的に沿った調査ができずに残念だった。しかし、永田さんはそれに代わる貴重な資料を快く貸してくださり、調査に関わる話だけはでなく、いろいろな話をしてくださり、とても有意義な時間を過ごすことができた。また、永田さんが貸してくださった資料のおかげで、内容の濃いレポートが書けただけでなく、基山の連綿と続く歴史を垣間見れたと思う。永田さん夫妻には心から感謝したい。