コア教養科目『歴史の認識』
(水曜1限 ・ 教官:服部)
現地調査報告書
調査地 : 基山11区
調査員: 小原 保之(教育学部 1年)
児玉 賢二(理学部 2年)
妹尾 昌尚(工学部 2年)
2003年6月21日(土)
私たち3人は眠い目をこすりながら、六本松へと向かった。今日は佐賀県基山町への現地調査の日。当然の様に3人とも今まで一度も行ったことのない土地である。初訪問の地への期待と若干の不安を胸に、私たちはバスへと乗り込んだ。メンバーの一人が前日の大千(中華料理店)にあたったようで、便所で待っていると少し時間をとられたようで、バスの中はもう既に満員に近い状態に・・・泣く泣く補助席へ。とても快適なドライブとは言えなかったが、バスが都市高に乗り、だんだんと周りの景色が福岡のコンクリート色の林から美しい緑の木々へと移っていく様を見ているうちに気分は昂ぶっていった。そうこうしているうちにバスから次々に担当地域の違う人たちが降りていった。そして私たちの地区に着いた。印象ははっきり言って「田舎やなぁ」だった。そこから地域の方々と約束している公民館へ行かなければならない。地図を広げてみたものの、地図を活かすことにあまり慣れていない私たちは呆然と立ち尽くしてしまった。しかしここでずっと突っ立っていても仕方ない。そこで私たちはとりあえず視界に入った八百屋に入ってみた。「バナナが安い!!!」思わず買ってしまった。その代金を払う時、いかにも世話好きそうなおばちゃんの顔を見た時、次の瞬間には「基山の11区ってどう行ったらいいんですか?」と聞いていた。予想通りおばちゃんは親切に道を教えてくれた。その通りに道を進んでいくといとも簡単に公民館に着くことができた。第一段階突破である。こういうところにいるおばちゃんはやっぱ優しい。おばちゃんの優しさに包まれて私たちは公民館の前に立った。その時思ったのは(??これが公民館?小さくない?)だった。それもそのはず公民館は周りの民家より少し大きい程度の建物なのだ。多少の安堵と落胆を味わった。約束の時間までは余裕があったので公民館裏のグラウンド(空き地!?)で昼食を摂った。その日はうす曇りで暑すぎもせず、寒くもなくとても快適だった。その気候のせいもあり私たちはベンチでうつらうつらしていた。どれほど時間がたっただろうか。かすかだが声が聞こえてきた。「九州大学の学生さんですか?」ハッと目が覚めた。(そうだ、今日は現地調査に来てるんだ。のんびりしに来てるわけじゃない。)「はっ、はい!そうです!」多少ふらつきながらだったがなんとか立ち上がり返事をした。向こうにとっては決していい印象はではなかっただろう。(でもまだ約束の時間までだいぶあるなぁ)と心の中でつぶやきながら、この日の話し手の方や場所の手配をしていただいた天本雅巳さんのあとに続いて公民館に足を踏み入れた。やはり中も外観から見たイメージとほとんど変わらないこじんまりとしたものだった。まだ話し手の方々はだれもいらっしゃっていないようで、天本さんと机やイスのセッティング作業に移る。狭い部屋や低い天井、薄暗い照明のせいだろうか。一種独特の緊張感のある部屋だった。そうこうしているうちに話し手の方々が次々と定刻通りに公民館に駆けつけてくれた。ドタバタした雰囲気のまま、話し手の方々に対する聞き取りに入った。
「こんにちは。今日はわざわざ集まっていただいてありがとうございます。」
(皆さん、やや固い表情のまま頭を下げる。)「今日は講義の一環としての現地調査のため、ここ基山11区に参りました。どうぞご協力のほど、よろしくお願いします。今日はこの地域の昔の様子、暮らしをうかがいに参りました。ではいきなりですがここに昭和44年のこの地区の地図があります。まずここに書かれた地名、小字やあだ名はご存知ですか?」
→『そりゃあしっとうよ。わしらあんたらよりずっとなごういきとるんやけ』(一同オヤジっぽい笑い)
「そうですよね(苦笑)じゃあ、ほかに小字の地図には書かれてはいないが、みなさんが使っていた地名(通称)はなかったでしょうか?」・・・
【このような感じで地図への記入がはじまった。聞いた話も可能な限り地図に書き込んだので、こちらのレポートでは割愛することにさせていただきます。】
・・・「ではこちらで質問を用意してきたのでうかがわせていただきます。」
(地図の書き込みのとき皆さんやる気を出しすぎたようで少し疲れたような雰囲気)
「水争いはありましたか?」
→ 『そりゃあったったい。』(素っ気ない・・)
「水を分けるうえで特別のルールはありましたか?」
→ 『昔はね、水まわりゆうんを雇ってから、順番にかけとったっちゃんね』
「旱魃のときの思い出は?雨乞いとかの経験はおありですか?どんなことをしましたか?」
→ 『昭和14年に雨乞いはしたね。大干ばつやったけんねぇ。旱魃のときはまず井戸をほるんよ。日明井堰の南とかにほったっちゃけどね。でもでたかなぁ』(一同苦笑)
「台風予防の神事(風切り)などはありましたか?」
→ 『風祭りというのが昔、荒尾神社で8月にありよったよ。昔の話っちゃけどね。やけど最近は特別には・・・』(皆さん困ったような顔)
「麦を作れる田と作れない田はありますか?」
→ 『この辺は完全な二毛作やけん、麦もつくりおったよ。でもところによっちゃあ作れんとこもあるんよ。そういうとこじゃあナタネをつくっとたね。水田を乾かす方法としては、田の周辺あたりを掘りおこし、その土を中央に高くつむんよ。そしたらそこがかわいてくるけんが、畑作が出来るっちゅうわけ。他には竹なんかを入れ、乾田にしたりもしたね』
「村の一等田はありましたか?」
→ 『この辺はA・B・C・Dで評価してたよ。でも11区はてきしとったよ。水害が少ないけんね。ちょっと話は変わるけど、米は収穫少ないとこのほうがおいしかったりするよ。久留米の寿司屋は山手の方の米を使ったりしよるぐらいやけんね。』
「昔はどんな肥料を使いましたか?」
→ 『昔はやっぱ家畜の糞やらを発酵させてつかいよったね。ばらまいて。(微笑)化学肥料は高くてつかえなかったね。でもみんなが使えるようになってからはほとんどが化学(肥料)。今じゃほとんど堆肥はつかわんね。堆肥はかつての三軒小屋でつくっとったよ。』
「稲の病気にはどんなものがありますか?あと、害虫の駆除はどうやってしましたか?」
→ 『箱ナエ(?)害虫の卵取りに小学生まで駆り出されたもんよ。方法としては水田の表面に石油を薄く張り、稲をはらうと、虫が落ちて死ぬ。といった感じ。(笑い)特別な薬はなかった。それぐらいしかできんかんったよ。殺虫剤とかいうもんは戦後になったからったい。』
「田植えはどんな感じですか?共同作業でしたか?」
→ 『そりゃみんなでよ〜労働力の交換ってもん。灌漑用水の上流からしていきその時は中、下流の人が手伝いに・・順々に協力してやっていきよったね。やっぱ大勢で一気に。おわるとサンバ苗をかまどに捧げ感謝のあかしになっとたったい。いまはかまどそのもんがないけん、せんけどね。』
「馬やとりのえさは?」
→ 『米のとぎ汁、草、米ぬかなんかを混ぜて食わしたね。』
「ごって牛をおとなしくさせるためには?」
→ 『鼻輪をつけたり・・・ぐらいかいな』
「馬はどこで洗ってましたか?」
→ 『山下川(地図参照)夏は特に馬洗いながら自分もね(ニヤリ)』
「草切山は?」
→ 『秋水川の堤防とかやね』
「自然の幸とかは?」
→ 『山菜とかがこの辺にはないけんね・・・ヤマモモくらいかいな』
「川にはどんな魚が?」
→ 『フナ、ドジョウ(シマー、キネー)ウナギ、コイ、ハヤ、ヨツメ、ナマズ,ドンポ、ギュギュタン、カニ(毛)ゴヒナ・・・(などなどきりがない様子)
「川の毒流し」
→ 『げらん(?)』
「干し柿はどんなかんじでしたか?」
→ 『昔からあったよ。 (数え方:下図参照)』
「食べられる野草などは?」
→ 『イナゴなんかくったね。ふろをわかす石炭なんかで焼いてね(笑い)』
「米の保存方法は?」
→ 『収穫して玄米にしたものをカメに2/3くらいいれてたね。』
「米つくりの楽しみ、苦しみは?」
→ 『たのしみっちゅうたら、もう収穫くらいよ。百姓はつらいだけ。かゆいし,暑いし、腰もきついし、雨も降るし・・・そんなんで草とったりが、えらいきついっちゃん。』
「冬場の暖房は?」
→ 『この辺は囲炉裏がなかったけん、火鉢くらい。』
「村にはどのような物資が入り、外からはどんな人が入りましたか?薬売りは?」
→ 『この辺は売薬中心なので、よく売りにきとったよ。あと魚(サンマ、イワシ)、牡蠣とかシジミもうっとたね。玄米パンとかも、ほやほやでね〜。でもわしらはあまり現金収入がなかったけん、かえんやったね。塩イワシ、塩クジラをたべとったよ。』
「米は麦と混ぜたりしましたか?何対何くらい?」
→ 『そりゃ、せんとやっていけんかったよ。米:麦=7:3くらい。6:4まではちょっといかんかったね。その麦は戦前は“ハダカムギ”が大体。小麦(メリケン粉)を入れた飯はちょっと・・・(苦笑)』
「犬などを食べたことはありますか?」
→ 『ウサギ、ヤギ、ニワトリは結構ふつうやな。なかなか犬、猫は常食にはせんよ。猫は泡がひどいっちゃんね〜』
「よばいは盛んでしたか?」
→ 『ほとんどなかった。(キッパリと)』
「よその村から来る若者とケンカをしたりは?」
→ 『それはよくあった。石投げ合戦したりしたよ。』
「このなかで戦争に兵隊としていかれた方はいらっしぃますか?」
→ 『(1人だけ、行き先は満州だそうです)』
「戦争の影響は?」
→ 『まず、働き盛りの人たちが兵役にいくっちゃろ?そりゃあ戦死者がでるわな。すると人手不足になり、即収入減につながるったい。わしなんかは労働奉仕として小学校4年生で働く手伝いさされたよ。(みなさん、やはり少し暗い表情・・)』
「今までいろいろと聞いてまいりましたが、これが最後の質問です。村は変わってきましたか?これからはどう変わっていくのでしょうか?」
→ 『この11区はわりかし最近にできた、田の中にできたまちったい。今住んでいる人もあちこちからいらっしゃってる。1時期は小・中・高生がおおかったっちゃけど、今ではちょっと年寄りが多目かな(苦笑)行政的には人口はそのままか、3,40年くらいは増えていくんじゃないかね』
「では最後に皆さんのお名前とお生まれをご記入ください。今日は本当にありがとうございました。」
松隈 嵩 S2、 白水 保市 T11、 平山 久俊 S11、 天本 雅巳 S12、 村山 英雄 S18、
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(敬称略)
このような感じで私達の現地調査は終始なごやかな雰囲気のもと、終わりました。(レポートからは伝えきれていないような気がしますが・・・)調査に協力なさっていただいた方々は皆さん、こちらが質問すると「我先に」といった感じでお答えになっていただき本当にこちらとしてもやりやすい調査でした。お答えになる時のとても懐かしそうな表情が本当に印象的でした。もう会う機会はほぼないでしょうが、2003年6月21日に私達は確かに基山11区に行き、話し手の方々からいろんなお話をきき、コミュニケーションを取り合えた、という記録をここに残し、基山11区の現地調査のレポートとしたいと思います。
1ED03015 教育学部1年 小原 保之
理学部2年 児玉 賢二
1TE02759 工学部2年 妹尾 昌尚