【三養基郡基山町8区】
歴史の認識現地調査レポート
調査者:安東智士
稲光康平
栗山雅央
「基山8区・基山8区長 松石和昭氏」
はじめに
私たちがバスから降りたのは、高速道路沿いの、田舎によくある見通しのよい広い道路だった。交通量は少ない。とりあえず私たちは、地図を広げて現在地を確認すると、調査地・山8区に向けて歩き出した。
基山8区は、明治29年に基山3区として成立し、後、昭和21年の基山東8区を経て、昭和51年に現在の名称となった。その景観は、田畑が広がる村落と言うよりは、街のようである。私たちが現地へ近づくにつれて道は広くなり、交通量も増えていった。基山8区は、基山駅から東へ広がる町で、大字を小倉という。鹿児島本線と甘木線のはしる陸橋をくぐるとそこは基山8区であり、国道3号線がこれを横断している。田畑は見当たらない。
私たちはわき道に入り、訪問先である松石和昭さん宅へと向かった。不慣れな土地ということもあり、無事にたどり着くことができるかどうかおおいに不安であったが、案外、あっさりと松石さん宅らしき家の前までやってくる事が出来た。松石さん宅前の路地の脇には、舗装された水路が通っており、近くには水田も見うけられた。予定していた時間よりもずいぶん早く到着してしまったため、私たちは、碕間つぶしもかねて近所を見てまわろうと、松石さん宅を通り過ぎたのだった。そのとき、一人の老人男性とすれ違った。彼は私たちの事を見つめていた。私たちは「こんな所に若者3人がいるのが珍しいのだろう……。」と、思っていたが、この老人から発せられた一言でそれが思い違いであった事を知った。「九州大学の方達かね。」彼が松石さんだった。
私たちは予定よりもずっと早い時刻に松石さん宅に招き入れられた。松石さんは、私たちが若いからといって私たちの事を軽く見ることなく、丁寧な応対で私たちを迎えてくださった。
松石さんは昭和9年の生まれだそうだが、外見はとても若く見えた。少し緊張した様子に見えたのは、私たちのお願いにできる限り応えようと気負っているからであったのだろう。その人柄がうかがわれた。また、松石さんは8区に住む老人を二人呼んでくださった。一人は細身のおとなしそうなおじいさんであった。もう一人はおばあさんで、私たちの大先輩であるそうで、しかも医学部を卒業したとのことだった。二人とも8区に長く住んでおり、松石さんとは同年代の方々であった。この老人方3名と私たち3人の計6名で聞き取り調査は始まった。
1 地名
(ア)あらかじめ送っておいた基山の地名を載せた資料について、また、そのほかに知っている地名はないか伺ったところ、松石さんは、「よう調べとるけえ、私との知らんともあるごたんもんな。」と、苦笑いだった。しかし、他の二人の協力を得て、少しではあるが、資料にあった地名の他の読み方をいくつか聞くことができた。
・松浦園(マツウラソノ)→マツラドン
・宮の脇(ミヤノワキ)→ミヤンワキ
・才の上(サイノウエ)→シヤーノウエ
・寺の谷(テラノタニ)→テランタン
ナ行の音がん音に音便化される傾向があるようだ。これは私たちの日常会話の中にもよくあるように「僕の家」を、「僕ん家」というのと同じことであるだろう。
(イ).さらに、地元で使われていた通称のような地名はなかったかどうか尋ねると、松石さんたちは互いに思い出を語りながら少しずつ思い出して言ってくれた。
・ガッコウデン→学校の経営する水田で、生徒の実習地として用いられていたようだ。地図記載(地図省略:入力者)
・シンドロ→新道路という意味。今の国道3号線(写真1) (写真省略:入力者)
・新国道(左図)と旧国道(右図)
・イッチョウグルマヤ→国道3号線沿いにあった家の屋号のようなもの。当時、その家に木製の一輪車が置かれていたためにそう呼ばれるようになった。(地図記載)(写真2) (地図、写真省略:入力者)
・タテバ→バスの停留所。今の甘木線と国道3号線の交差点近くに位置し、イッチョウグルマヤの道を挟んで反対側にあったと思われる。(地図記載)(写真3) (地図、写真省略:入力者)
・オオカン→旧国道のこと。「大きな道」という意味。当時、大きな道と言えば他になく、固有名詞化したものだろう。
この問いについて、興味深い話を聞くことができた。私たちがつい先ほど通ってきた道すがらに眺めたもの、甘木線や国道3号線の建設に伴って多くの家屋が壊され、前述した場所もなくなっていったというのだった。そのことを語るときには老人3人の語気も心なしか強くなり、私たちにも感じさせるところがあった。(写真4) (写真省略:入力者)
・現在の甘木線(写真省略:入力者)
2.農業
基山8区に水田は少なく、農業もあまり盛んではなかったようだったが、なんとか当時の農業の様子について聞き出すことができた。
(ア).「家の前に用水路のようなものが流れていますよね。あの水は田んぼに引いているんですか。」
「ナガタ川です。前はきれいかったけんね。屋敷ん炊事場やった。」話によると、この「ナガタ川」は人工的に作られた用水路で、先に述べた「ガッコウデン」へもここから水が引かれ、また周辺の人々の生活用水としても用いられていたようだ。水は大変きれいだったようで、ドジョウやカエルなどはもちろんのこと、松石さんたちがまだ若かった頃には蛍も見られたという。また、水量も豊富で水争いや、使用について特別に設けられた規則のようなものはなかったという。ただ、生活用水として皆で利用していくために、水は汚さない、ということを最低限のモラルとして守っていたのだった。
・現在のナガタ川写真 (写真省略:入力者)
旱越とも縁がなく、平成6年の旱越時のこともうかがったが
「あん時、時間断水はあったとばってん、あれは建前で、実際は何の問題もなかったもんね。」だそうだ。(地図記載)(写真5) (地図、写真省略:入力者)
(イ).基山8区では、台風による水害や山崩れなども少なかったようで、予防のための神事なども行った経験はないという。ただ、数年前の台風17,19号は凄まじかったようで、屋根のトタンが吹き飛ばされた話などを笑いながら話してくださった。
(ウ).前述した「ナガタ川」は、子供たちにとって格好の遊び場だったようで、蛍がとてもきれいだったと、3人は声をそろえた。他にも、カエルやドジョウがいたそうだ。
(エ).「田んぼの害虫駆除はどのようにして行いましたか。」
という質問に対し、松石さんは写真資料を示しながら説明してくださった。(写真6) (写真省略:入力者)
駆除剤としては、ホルドルと呼ばれる薬品を用いていたようだ。これは人体にも害を及ぼすような劇薬で、このホルドルの散布とほぼ同時期に蛍も見られなくなってしまったらしい。この農薬散布はおおがかりなもので、皆で協力して行われ、基山8区ではこのような共同作業を・カセイ、と呼んでいた。田植えは、現在よりも遅い七月頃に手植で行われ、このときにも「カセイ」はしばしば行われていたようだ。
この事と関連して、早乙女の話を伺ってみると、
「おっかしゃん、おっとしゃんの里にカセイに行きござったもんなあ。でも早乙女とかは言いよらんかったっちゃなかろうか。」
との答えだった。どうやらこの「カセイ」は親戚や近所同士で行うもので、他の土地まで出向く早乙女ではなかったらしい。なお、どの水田でも裏作として麦を栽培する事があったらしい。
・ホルドル散布の様子写真 (写真省略:入力者)
(オ).「さなぼり」について伺うと、
「"さなぼり祭り"なんちゅうてな、店が田植えの終わりん頃に大売出しする事もあったんよ。それから"さなぼり歩き"なんちゅうて、疲れた体で歩いち帰るんよ。体鍛えとか言うてな。」農業は盛んでなかったとくり返しおっしゃるものだから、「さなぼり」についての回答が得られたことは少々意外だった。やはり、田植えの後の達成感は記憶に焼きついていたのだろう。ただ、田植え唄のようなものはなかったとのことだった。
(カ)「牛や馬は飼っていましたか。jと尋ねると、
「牛は農業するところは飼っとったけれども、馬は飼うとらんかったですよ。ばってん、うちは製材所やったもんやけん、材木ば運ぶときに馬ば飼っとったですけどね。」とのことだった。餌は、草に麦などを混ぜ、冬には干し草などを与えていたという。洗い場というものは特になく、草で体をこすって汚れを落としていたとのことだった。
(キ).牛を操るときの掛け声を尋ねたところ、
「大人の人がなんか言いよんしゃったばってんなあ。セッセッとかなんとか。」と、松石さんが記憶たどり始める。細身のおじいさんが、「サッサち言うと、左さ行けち言いよった。で、セッセち言うと右やった。」と言い、思い出した松石さんが、「そうやった。」と、歓声のような声をあげた。
牛に繋ぐ手綱は一本で、右へは「セッセ」と、声をかけながら手綱を引き、左へは「サッサ」と声をかけながら手綱で牛の右半身を打つ、,このようにして、牛をあやつり、耕作していたのである。
また、基山では雄牛を「コッテ牛」と呼んでいたが、やはり扱いづらいので、飼ってい
る人は珍しかったという。
(ク).薪の入手は、親戚から分けてもらうなどする人が多かったようだ。これは街に住む人々の共通の特徴であるということができるだろう。
水田や山について、マニュアルには他にもいくつかの質問事項があったが、基山8区は街であったので、実際に回答を得ることができた事柄は限られた。しかし、その少ない解答のうちにも大変興味深い事実は多かったように思う。
3. 基山8区、街の生活
本項目では、街ならではの話を聞き、基山町の意外の一面を見ることができた。
(ア)基山8区では勝ちくりは作っていなかったが、干し柿は今でも作るとのことだった。今のビニール紐の代わりに、昔は頑丈なショロウの葉の茎を用いていたそうだ。
(イ)米の保存についてだが、米は食べる分だけ購入していたので、保存のことやネズミ対策などは特に気を配る必要はなかったようだ。今とそれほど変わらないと言うことができるだろう。
(ウ)昔は、暖房器具として湯たんぽを用いていたようだ。それが、次第に火鉢や掘りごたつへと移行していったらしい。
(エ)村には、干物、塩あみや塩くじらなどの塩物を売りに来る者があり、戦後には柳川からアサリなども入ってきていたようだ。他にも、かまどのお経をあげるザトウさんもいたという。
薬売りは来なかったかという質問に対しては、面白い回答が得られた。基山町付近では、薬を売りに出ていたというのだ。話によると、多くの家で薬売りを商売としており、薬を売りに行くことを、「旅に出る」と表現していたらしい。この街の意外な一面を垣問見たよ
うだった。
(オ)当時は往診が主で、定期的にやってくる巡回医に病気を見てもらっていたらしい。急病の際にも、病院へ行くのではなく、医者を呼びに行っていたそうだ。
「昔はお医者さんのよう周ってきよんしゃったもん。」、現代の医者を非難しているかのような口調だった。
(カ)蓑を購入したような記憶は特にないようだ。ショロウの葉の茎を用い、自分で蓑を作っている家が多かったという。ただ、当時、農作業中に衣類が濡れたり汚れたりするのは当然だということで、蓑を使用している人自体が少なかったようである。
(キ)米と麦は混ぜることは日常的にあったという。その比率までは分からなかったが、米の方が少ないということはなかったそうだ。無論、戦後の食糧難は厳しかったが、戦前の基山町は割合に食料は豊富で、当時まだ幼かった松石さんたちには何が自給できて、何が自給できなかったかははっきりしないようであったが、食べれない物があったような記憶はないとのことだった。
ここでは、基山の実生活を見てきたが、現代の我々の生活と共通する所も多い。だが、時折見られた時代の移ろいや基山の独自性から、今回の調査の手応えが感じられた。
4.風俗
本項では、この地域の当時の風俗について記録する。基山という土地柄を、最もよく表すものとなるのではないだろうか。
(ア)青年団はあったようだ。その構成は男女混合で、軍国主義的な厳しいものでは決してなく、意外と和気に包まれた団体だったようだ。お宮の集会所に集い、運動会や敬老会などの企画・運営を行っていたという。
(イ)力石というものはなかったそうだ。ただ、樽を持ち上げたり大食いをしたりして男を競い合うことはあったという。また、戯れに干し柿や西瓜を盗むのはよくしたことのようである。松石さんたちは、はにかみながら答えてくれた。
(ウ)「夜這いはありましたか」と尋ねると「うちではなかったんじゃないかね」と、おっしゃっていた。隣村からくる青年たちとは、何かしら対立はあったようで、基山町は福岡県との境にあるということもあり、福岡県の青年たちに対しては特に強い縄張り意識を持っていたという。
(エ)もやい風呂は、基山8区にはなかったが、田舎のほうにはあったという。もやい風呂は利用者の社交場のように機能し、村人の情報源であったようだ。
(オ)「盆踊りや祭りはありましたか」と尋ねたところ「ミュキがあったなあ。ドンキヤンキャン言うんですよ」とのことだった。聞くところによると、荒穂神仕において、御神幸祭りというのがあるらしい。この祭りでは太鼓が打たれ(ドン)、鐘が鳴らされる(キャン)ことから、地元の方は御神幸祭りを「ドン.キャンキャン」と呼ぶのだそうである。
この御神幸祭りでは、各区の青年団に役割が平等に振り分けられている。赤獅子や青獅子を演ずるのも分担で、基山8区の青年団は笛を担当するのだそうだ。
・獅子舞の様子写真 (写真省略:入力者)
・ドンキャンキャンの様子写真 (写真省略:入力者)
(カ)自由恋愛というものは、当時は、やはり珍しかったそうだ。あるとすれば、青年団の中でだったという。結婚も親戚同士ですることが多く、他の村人との結婚はまれだったらしい。
やはり、風俗というものが最もその土地の特徴を表しており。調べていくと基山の表情のようなものが見えてきた。祭りなどには、地元の方々の思いが・色濃く反映されている。大変参考になった。
5.戦争の影響
戦時中の食事状況は、先にも一寸触れたが、やはり厳しかったようだ。基山では犬を食べるようなことはなかったそうだが、飯塚辺りではあったらしい。また、基山では牛泥棒まで出たという。せっかく収穫した米も供出していたらしく、手元に残るのはわずかだったそうだ。米が足りないときは、大根やサトイモを混ぜて食べていた。話によると、兵隊として徴発されたのは独身男性が主だった。したがって、基山町では戦争未亡人よりも、いわゆる靖国の母が多かったようだ。また、近辺に兵士の訓練場があったために空襲が激しく、警報が鳴ると共同の防空壕へ逃れたそうだ。ただ、この警報は終戦間近いにはほとんど機能していなかったとのことだ。今回話を伺った細身の老人は、兵隊として一年間の訓練を受けたという。大変厳しいものだったようで、訓練巾に逃げ出そうとして叩き殺された人もあったというのだ。戦争は、目に見えるものだけでなく、それを経験した人の心の中に見えない傷を残している。訓練場の様子を語る彼の口調は、こちらの調子が狂うほどあっさりしたものであったが、その表情には微かなかげりが伺えた。
おわりに
今回の調査は、マニュアル通りに質問することができなかったところが多く、質問の数自体は少ないものとなってしまった。しかし、その中で得た情報は質・量共に満足のいくものとなったと思う。最後に、この町の今後について伺ってみた。「こんだけ変わったっちゃけん、これからも変わっていくんやなかですか。」町とそこに住む人は、時が流れるにつれて様を変え、失われるものも多い。だからこそ、わざわざ時間を割いて伝えていただいた事実をしっかりと記録、保存する義務が、私たちにはあると思う。松石さんたちのお話、昔の街の姿や表情は大変興味深いものであり、そのすべてが参考になるものだったが、全てを紙上に記録するのは困難である。そこで、田植え歌を録音する必要がなかった代わりに、会話をテープに収めた。そのテープをもとに更なる分析を加えていきたいと考えている。