平成15年 地名調査 基山町5

 

調査日  平成15621

 

調査者  三蔭 純子  藤田 恵理子  森田 朱音

 

話者   丸山 秀美(S10年)  井上 伴造(M44年)  中村 幸枝(T8年)

      平野 三吉(T9年)   有家 初子(T14年)  平野 芳秋(S3年)

      酒井 厚吉(S11年)  山本 茂夫(S 年)  井上 敦美(S14年)

                                  敬称略 ()内は生年

 

資料(『栖』すみか とす・きやまの地名)より、明治7年の小字一覧を参考にしていただき、明治7年の小字の位置と名称を特定した。明治7年の小字が、現在のどこの小字の中に含まれているかを下に記す。

明治7年の小字

現在の小字

備考

オシキダ(尾敷田)

長田(ナガタ)

・資料では押木田と表記されている

 

 

・資料ではナカタと表記されている

テンジンヤマ(天神山)

伊勢ノ前(イセノマエ)

 

ヤクシドウ(薬師堂)

尾崎(オサキ)

・資料では尾先と表記されている

スギノシタ(杉ノ下)

川辺(カワベ)

 

カワコベ(川小辺)

川辺(カワベ)

・川辺と同義ではないかと思われる

オオヤマ(大山)

道東(ミチヒガシ)

・現在は小山(オヤマ)として残っている

ヒガシバタケ(東畑)

道東(ミチヒガシ)

・畑のあった場所

ニシノクチ(西ノ口)

道西(ミチニシ)

 

ハチノツボ(鉢ノ坪)

道西(ミチニシ)

・資料でクチノツボ(口ノ坪)と表記されて

 

 

  いるものと思われる

カドタ(門田)

灰塚(ハイヅカ)

・資料ではカトタと表記されている

オオギ(扇)

千代(チヨ)

・扇の形をした地区であったため

 

 

・現在は大城となっている

 

 

・資料ではチジロと表記されている

シャカマチ・サカマチ

野入(ノイリ)

・資料では釈迦町と表記されている

 

 

 

教えていただいた、あざな・屋号・用水路の通称(呼び名)など

通称名

種類

現在の小字

由来・備考

イッポンスギ(一本杉)

あざな

道西

・一本の杉の木があったため

オテヤ

あざな

道西

・三叉路をさした呼び名

イシバシ(石橋)

橋の名

道東

・高原川にかかっていた石の橋のこと

セトグチ

田の名称

尾崎

・資料では小字名として表記されている

ドジョウダ

水路名

道西

・ドジョウがたくさん泳いでいたため

ザアザアオテ

水路名

道東

・水がザアザア音をたてながら、落ちていたため

ハコマチ

道の通称

道西

・資料では小字名として表記されている

ウエノクルマヤ

屋号

長田

・水路沿いの家で、水車があったため

オック(奥)

屋号

長田

・奥まったところにあったため

キタノソノ

屋号

長田

・資料では小字名として表記されている

マガリメ

屋号

道東

・道の曲がり角にあったため

ミヤノワキ(宮の脇)

屋号

道東

・老松宮の隣にあったため

 

 

 

・資料では小字名として表記されている

オコッチャメ(お腰休め)

屋号

道西

・休憩所となっていたため

オック(奥)

屋号

道西

・奥まったところにあったため

シタノクルマヤ

屋号

灰塚

・水路沿いの家で、水車があったため

 

5区以外の場所で、教えていただいた小字名

明治7年の小字

現在の小字

備考

マゴサダニ(孫佐谷)

桜町(サクラマチ)[10]

 

 

城の上(ジョウノエ)[10]

・資料ではシロノウエと表記されている

タナダ(棚田)

野添(ノゾエ)   [10]

・資料ではタナタと表記されている

ムカエダ(向田)

割田(ワリタ)   [8]

・田はムカエダ、畑はムカエバタケとそれぞれに

ムカエバタケ(向畑)

 

 呼び名があった

 

シマメグリ(島巡)[8]

・最も古い小字名

 

 

・流木が発見されており、大昔はこの地が有明海の湾で

 

 

 あったという話がある

 

 

 「島」という字が使われる由縁であると思われる

キャーナギ(貝奈木)

高下(コウゲ)  [8]

・資料ではカイナキ(貝啼)と表記されている

 

千夫(センブ)  [8]

・現在も残る小字名

 

石尺(コクシャク)[11]

・現在も残る小字名

 

 

◎水利について

 

Q.昔の生活についてお伺いしたいのですが。(小倉は)田んぼがありまして、川が流れてますけど、水争いというのはありましたか?

A.それはもう、日本一(笑)

 おお、ホント。水争いでね、あの、けんかで、大審院までいったのは、まだ今に例のないこと。ここだけ。

 けんか堤ちゅうてね、あれ書いちゃろう?ここにけえ、堤があるでしょ?(地図を指差し)これこれ。これがけんか堤。通称けんか堤ちゅうとです。

 福岡県と佐賀県ちゅなされるけんたい。基山町ゆうの。

 そうそう。うちの部落と、そこが小郡の西島ちゅうところが、福岡県。こっち(小倉)は佐賀県。県境でしょ?

 そやけえ、これはね、土地は福岡県ばってん、水利権は小倉の・・・そういういろいろ争いで。

 書いとかな、水争いて。

 そりゃあもう、有名やもん。

Q.水を小倉に引いてくるという協定はいつ頃結んだんですか?

A.あれ(資料)書いちゃあ(笑)

 けんかしたけん、けんか堤になったっちゃろうか。

 そうそうそう。通称けんか堤。

 ほんな名前あったじゃろうばってんなあ。

 裁判してそげんなったっちゃけん、名前(笑)

 広牟田ん堤っちゅうなあ、ありゃ。

 上が広牟田ん堤。けんか堤の上が広牟田じゃ。

 伊勢浦堤ちいや・・・このうえの方じゃけんね。

Q.旱魃のときの思い出とかはありますか?

A.(一斉に)雨乞いした。キュウセンブザンまでね、センバダキ、キダンの峠に行ってね。

 クセンブザンにね、センバダキちゅうてね、たき物を・・・たき木を上でとるござった。

Q.やっぱり焼いて?

A.うん、焼いてね、火をたくと。1000mかなあ、クセンブザンは・・・800m。

 (一人が)いつ頃の話ですか?

 (笑)戦時中。あたしたちが確か5,6年生時分にもうあっとうとですよ。見たことはなかばってん、話は聞きよった。

 昭和に入ってすぐですか?

 昭和なあ、5,6年頃。

 ほいてあすこはドジョウタ、まじくってからな。

 堤に入ってからは、堤の中ば迷って靴も汚かったけんな。混ぜてからな、汚かったもん。臭うして臭うして・・・センバダキして、お坊さんがどんどんどんどん、お経もあげて・・・混ぜてね、それが帰ってから臭かっちゃん。

やっぱ雨乞いはあっとですね?

科学的な根拠があっとよ。雨乞いにもいろいろありよりましたもんね。

センバダキはキザンでも登ってからなあ。

水のよっぽど旱魃しよった。

あれは・・・        な、話しても口が十分じゃったじゃろ、結局旱魃のために、あの、百姓一揆がここは起こった。

(しばらく沈黙)

あすから、小郡からこめ10俵か、取りよったっちゃろ。そして小郡と懇親会てや、あるごとなったっちゃん。

西島は・・・ここはもう、小郡もありよったですね。あそこは米ばだいぶもらいよったけんな。

 

Q.そういった水争いのけんかもしたけれど、お米ももらっていたと?

A.いやいや。それはまた別。そりゃあ、自分にあれが、堤のでけたけんで、ここらからな、水ばやりよったな。やけんそこ、ちゃんと水あけがあっちろ?

 昔はね、水は大切やったけん。

 明治37年にですよ、小郡・・・こっちも資料はいっちょんなかばってん、37年が小郡、旧小郡ですたいね、今の小郡市じゃなくして、旧小郡町が大旱魃に見舞われて、小郡市の人が頭ん良かったんか、小郡市に知恵者がおったんか、基山町を仲介に水路を掘って、高いとこから低いところが、後は土管を置いてって、水を、冬場のいらん水をこの部落から小郡市に送りよったです。それは、文章的な資料は残っとらんばってんですね、昨年・・・平成13年まで、こめ10俵のお金をもらいよったです。現在はもう、小郡が水がいらなくなったちゅうことで(笑)素掘りの水路やったとこを、清掃しやすいようにちゅうて、三面側溝をして、その契約を破棄してくださいちゅう小郡市んとの覚え書きを交わして、13年まで続いとったわけですね。

 工事がいつあったかはよう知らんけれども、向こうの区長が言われるのには、明治37年に大旱魃があったと。

 あれ(水路)はね、すごかもんな。だいぶん長か、トンネルっちか。

 水路のあとはまだ残っとると。こっから水を送ってダーッとこう落とし込んで、そいで下の、地下の土管がいってね。

 川の底にゃ、吹き上げあったが、通ったが、今では(笑)バーッて吹き上げてから。

 エビもおったもんな、あそこは。

 コイやらな。

 エビやら。水のきれいかったけんねー、エビがいっぱいおったとよ。

 小郡がやっぱ頭の良か人がおって(笑)サイホーンちゅうてですね、ますを作って、こっちが高いますを作って、3mくらい高低のあるますで・・・これにいっぱい(水を)ためて、押水で送りよったわけですね。

 やけん、水に関してはもう、この辺はとっても厳しかった。

 前ん川も、その、小倉の人が作った川かなんかち言いよったの聞いたことあっとですよ。

 そりゃそうでしょうね。例えば、小倉の用水路で、生活用水でな。

 それで、昔は井戸も1軒1軒じゃなかったげなけですね、そって、もう野菜洗うたり、米洗うたり。

 茶碗洗うたり、顔洗うたり・・・。

 川が生活用水でね。井戸ん代わり。

 正月前にはもち米洗い、川でばっかりさな・・・。

 この川のちょっとばかり上やけど、あたしが子供の頃までは、井戸の水よりか、川の水がきれいかったけんね、川の水を飲み水に使いよった。

 食べもんばな、野菜でなんで・・・。

 風呂の水も大体川から。野菜洗うのは。米もあらいござった。そうめんみたいな、そうめんも川で(笑)

 もう正月頃は水の枯れますけんでな。

 米も洗いござった。おしめちゅうと、分かるね?

 昔は輪になったね、木綿で作ったおむつやったけん、その洗濯も・・・米も洗いござった、おむつも洗いよった(笑)

 (口々に)ただ、洗う場所が決まっとった(洗う場所を次々に言う)

 一番下んで、おむつは(強調して)おむつ洗い場てあった。

 甘木線の下とか、あそこさいかにゃあ。

 北側で洗いよった。

 おしめじゃなかばってんが、そぎゃんと、何かきれいなちょっと洗いござったげなら、  さんから怒られたち(笑)

 そりゃ生活用水のためにね。

 今はパンパースやけえな、洗うこともなんもいらんばってん。

 

※小倉の人々にとって川や水路は農作業に使用するだけでなく、毎日の生活にも密着したものであったようだ。そのため争いが続いていたようだ。水が無くなってしまった旱魃の際は、苦しかったのであろうと思われる。

 

◎害虫駆除・稲の病気について

 

Q:害虫とか稲の病気とかもあったんですか?

A:ありますよ。昔はね、ミカメイチュウとか、ウンタカとかおったけども、このごろはですね、植ゆる前に苗にいっちょしまっしょうが(田植えの際に、苗といっしょに防虫剤を植え込む)、そうすると盆頃まで何もせんでええわけですよ。そん代わり(その防虫・防菌剤は)高かばってんですね。

Q:昔はどのように(虫や病気に)対処していたんですか?

A:昔は油をね、田んぼん中に、ちょんちょんちょんちょんして、上をこう(手で前をはくようにしながら)はわいてね。稲をたたいてまわるとね、虫が落ちて油にまみれて死ぬ、ということですよ。

Q:それはどんな油ですか?

A:何でんよかったい。くさーい油ばね。除虫菌の入った油もあったですね。

  昔は共同防除てしよったですね。小倉は小倉中集まって手分けしてね。一斉防除なんですよ。同じ日に。3日位かかりよったですね?(「そうそう」)虫がよそさん逃げて行かんように一斉に。コリドールという薬を。ちょっと飲むと人間もころっと死ぬ。今なら大ごつ(大変なこと)ちゃなあ。ぬっか(暖かい)時は一番前でしよっと、具合が悪くなりよったですもんね。(相槌を打ちながら「においがなあー」)

 

  やはり昔は油を使った防虫が行われていたようだ。薬が強かったので共同防除の先頭に立つのは、男性の役割だったらしい。油を使っていたのは、薬を使うよりももっと前のことであろうと思われる。

 

◎田植えの共同作業について

 

Q:お家の田んぼによその方がいらして、共同で田植えをすることはありましたか?

A:あった、あった!テマガエって。

Q:ゆいとかもやいとか言いましたか?

A:いや、テマガエのこっちゃろうねー?結局、早よ植えるとこと後にされる所があって。この辺は極端に言えば、山のほうが半月ばかり早いでしょ?そうしたら、この辺から応援に行くわけ。そして終わったらね、今度はずーっと下ってくるわけ。(山のほうから、順番に田植えをしていたそうだ)今まで加勢受けた所に労力でね、返しに行くわけですよ。今はお金でするばってんが。一人つけば一人行くだけで。百姓しとんなか人は、お金ばもろうて行きよんなったけんな。(自分は)山つきは、筑前さんばっかり行きよった。筑前の方が高かったもん。

Q:それはやはり女性、早乙女さんでしたか?

A:うん、そうそう。だいたい女性が多かった。田植えは、男性女性はなぁ、同じこっちゃけん。男は田植えの準備があるけですねぇ、よそにはあんまり行かん。

  そして(男は)植えきらんもん。辛抱しきらんもん。(笑)

  (女性2人が)男も上手な人おんなはったよー。

  大石あつしさんたちは上手じゃったですねー。

  松田げきぞうた、あれが早かったなぁー。一反いくらで請け負って植えよったて。(一同「あー」)苗ん足らん時は半分にちぎって植えよったて。(一同爆笑)早いなぁ思うて後から見たら、枯れとる。(さらに大笑い)

  自分で苗とって植えないけんとだけなー、請け負いは、苗取りが大ごつでしたもんなー。苗の、よかんなとれるごつ立派な苗ができとってたって硬かったり、いろいろしとんなら、もうとれんとつん切れてですね、(苗の状態が悪いと、腹が立って)加勢して来た者の文句ばっかり言いよったじゃ。(一同口々に同意)

Q:苗とりもやはり共同だったんですか?

A:だいたい家族。それは朝からね。前ん日に苗とって植えてもろうたりしよりましたたいな。今は田植えん機械のでけた。消毒までせんでよかごつなった。(口々に)草取りまでせんで。今はジャンボタニシでとってくるるけん。あんたたちは知らんめい?紅色をしたね、めんたいのごつしとる・・・。(「あっ、さっきそこで見ました。」)だいたい、誰かがね、食用に輸入して養殖をし始めとったけど。タニシの格好はしとるけど、美味しくはないわけ。昔のタニシはもう負けっしもとるもん。農薬ふったりするけんですね。でもジャンボタニシはのうならんもんなぁ・・・。ひとついいことはですね。水田の雑草を食べるわけ。昔は除草剤のない頃はですね、田んぼの中ばはおうて(這うようにして)草とって回りよったです。ぬっか時にですね、虫はおるし・・・。昔はヒルもおるし・・・。今はもうジャンボタニシのおかげで。

 

  ゆい・もやいという言い方はせず、テマガエといういう言い方をしていたそうである。やはり田植えというのは一大行事でかなり大変だったので、男も女もなく携わっていたようだ。現在は全てが機械作業となり、ずいぶん楽になったと皆さん口をそろえておっしゃっていた。苗を半分にちぎったというのは、冗談話であろう。辛いばかりであろうと思っていた田植えの中に笑い話があったことに驚くと同時に、少し安堵した。なお、田植え唄についても伺ったが、唄を歌うような余裕はなかったそうである。取り立てが大変厳しかったらしい。話を聞く限り、ジャンボタニシは田んぼにとって良いものであるようだ。調査に行った際、ジャンボタニシの幼虫が水路にたくさん見られた。

 

◎田植えに利用した牛馬について

 

Q:飼っていたのは牛ですか、馬ですか?

A:牛。馬は全然おらん。昔は必ず馬か牛、おいとったですね。しかし今はもう・・・。

Q:その牛を操るやり方はどうですか?

A:左は「さし」、右さんは「へせ」、止まれは「わ・わあわあ」。(女性が)私は(牛を)使いよったげな。戦時中は、父ちゃんが戦争に行きはるけんですな、女の人が牛を使うたいですね・・・。女郷里会(ごうりかい)やらありよりましたけんな。

Q:暴れ牛はどう扱いましたか?

A:男ん牛は使いよりませんでした。おなごん牛ばかり。暴れる牛には酒を飲ませる。(酒を飲ませると)おとなしゅうなる。子牛ば買うてきたなら、なくでしょうが。うちの親父は酒ば飲ませよったですたい。そうしたら、おりこうさんに寝るもん。ハハハハ・・・。口くわえて、牛にはちょこっと飲ませて(笑)牛よりこっちがおとなしゅうなって(笑)

 

  オス牛は去勢することもあったらしい。酒を飲ませていたというお話をされている時は、昔を思い出されてとても楽しそうに話していらっしゃった。牛に飲ませるついでに自分もお酒を楽しまれていたのだろう。

 

◎稲作の状況について

 

Q.昔も田んぼがたくさんあったと思うのですが、田植え歌はなかったですか?もみすり歌は?

A.知らん・・・。とうすでしよったけんな。もみすりっちゅうのは、とうすっちゅうてね、木でね、二重でなってぐるぐる回る。

 そして、泥ばつめてね。

 むしろにこしてね、今、乾燥機じゃなくて、昔は家の周りにむしろをひいて、それに乾かしてね、乾いたらとうすちゅうて、1軒の家にね、刃のでたうすじゃね。

 とうすっちゅうのとは、この太かっとでしょ?

 そう、そしてこうぐるぐる回して・・・。

 もみすりや、あれ。

 そん時、昔、回されんけんな、歌があったかも分からんですね。

 見たことはあるけど、手伝いしたことはない。

 3人くらいで回して。

 ここにげねえ、そげんたぁ、田植え歌ん歌ごた悠長なとこやなかった(笑)

 きつかばっかり。

 本当、対馬藩の米どころでね、禄米とりあげで、ものすごう厳しいときやったけんね、結局、窮々とした生活しかできてないとよ。

Q.税金はどのくらい取られましたか?

A.税金、そりゃちょっとあたしたちよく分からない。

Q.半分以上は(取られていましたか)?

A.(声が大きくなって)ああ、そりゃあ半分以上。

 そやけん、そういう風な田植え歌とか、そんな余裕は(笑)

 結局、良かとこ田に小作料が4俵くらい出しよったとこもあった。

 昔やけん、でも4俵藩に納めやるけんとか・・・昔は6俵くらいしか取れよらんやったと。

 5俵か6俵くらいしか。それで4俵か5俵くらい藩に出さにゃいけんやったじゃろ。

 米はあんまりなかけん・・・。

 米銭禁止(笑)

 粟作ったり・・・。

 麦がね、半分くらい入っとったもんね、ドウガヤシ。米1升に麦1升、入れて炊きよった。

 そしてヒラカシ麦。ドウガヤシしよったですね。

Q.ドウガヤシとは?

A.米も麦もおんなじ量入れます。米1升に麦1升入れてね、炊いて食べよった。

 そしてね、昔を多少調べてあった人の言わっしゃることは、私、その人のちょっと付き合いがあったけんね、基山がいかに貧乏人であったかということはね、結局あの、庄屋さんとかそういう風なともおって、じゃけれども貧乏村。それで、基山から貧乏の証拠に、小判が出てきたことない。

 (皆驚く)

 それで1回、出てきたらしいとですよ。ところが、それをね、そこの家の人がどっか福岡のその、そういう風な商売人のところへ持っていって、両替しようと思ったところが、それは明治の初期のね、大判小判の学校の教材だったそうな。たったそれが出てきただけで、本当の大判小判は出てきてない。それだけあたしは昔の人から聞いたことのある。

 取らるるのなかはずじゃ(笑)

 やけん、粟とか食べた。昔は畑にノイネちゅう、作りよった。

 

※「窮々とした生活」という言葉が印象深い。ただでさえ辛い農作業に加え、納税などによって生活を切り詰めるよりしかたがなかったようだ。

 

◎米以外の食生活について

 

Q:他に(米以外に)なにか作ってらしたんですか?

A:トイモにカボチャ、カライモ、サトイモ、それにソラマメとかも作りよった。麦のとれたなら、小麦粉ひいてなぁ。にゅうめんばっかり。うどん食べたり。たんめんてな、小さかの入っとりました。くずのごたる。おいしかろうもん、くずの。やっぱねー、(今の)生活はようなっとるですよねー。(皆さん一斉に「そらーもう!」「今は良すぎる。」)昔はくんちやら楽しみにしよった。そん時くらいしかごちそうはなかったですよー。今ん百姓はとてもー(恵まれている)。今は毎日くんちのごたる。昔は学校行く時ですね、弁当のおかずはみそづけか、塩いわしか塩くじらか持って行くとよかった。しょうががしでん入ると、良かっちゃ。

Q:山のほうですが、魚はどうやって手に入ったんですか?

A:魚屋さんがおってね。生魚は普通食べきらんけん、保存食の塩魚とかね、塩いわし、塩くじら、かわくじらちゅうて。今は塩くじらはもう高かばってんですね、元は安かったけん。ちょっと味出しにつこたりねー。生魚食べることはな、そらー、ちょっと何かお祭りか、くんちか何かなからにゃ。

 

 

※野菜やイモ類・麺類をつくって食べていたらしい。周辺の川にいる魚は食べなかったとのことだが、保存用の塩魚は食べていた。食事についても農業と同様に、今があまりに豊かすぎる、と皆さん口をそろえておっしゃっていた。現在の食生活は昔では考えられなかったものなのだろう。

 

◎青年団について

 

Q.結婚前の若い男女が集まる青年クラブみたいなものはありましたか?

A.ありますよ。昔はね。今はもう・・・。

Q.どんなことをされてたんですか?

A.いろいろ、もう。社会活動、奉仕なんかも多少あったしね。

 (女性が)夜遊びもしよんなはったろう(笑)

 夜遊びの勉強も。ハハハ・・・(皆笑う)

Q.やっぱり上級生の制裁とか厳しかったりしましたか?

A.制裁とかそやんことはなかったなー。(あんま聞かんですねー。)

 私たちが若い時分なんかは、お宮に来たらね、力石ていうて、それをかついだり。相撲をとったり。今の遊びの形態と違うもんね。そんなこつなっとせんならね、体ばもてあましとったつ。

 瓦倒したりね、おなごは石けりね。

 あの横(この公民館の横)にある建物が、大体青年団の活動用に村から建ててやったやつ。

 昔はね、ここにお堂があって・・・。

Q.それはやっぱり、夜皆さんで集まって、輪になって寝る、みたいなものですか?

A.そうそう。急激にこういう公民館とかね、建ったけどね、昔はお宮の拝殿を利用して。

Q.その青年団で火の用心とか、夜の自警団みたいなものはなかったんですか?

A.それは戦時中には自警団ではあったけどね。

 年に1回敬老会もありましたげなー。青年団で。ここで。演劇ばして。わあわあ言って、みんなで。

 青年団活動は割合ここは盛んやったですよ。それに地区同士競争の運動会があって、そんなつで、各、あれの競争したり団結したり、しよったとですよ。

 まあ、昔はね、田んぼを耕す競り会があったり、草切るとの競争とかね。町全体でそういうのの競争があってたんですよ。もう今はほとんどね。今はもう、加入する人がおらんもんね。

 青年に入れてもらうには、酒もって、お願いに行かにゃ、ならんかったのに・・・。昔は。

 昔は少し半強制のような感じでですねー、

 まあ、青年団に入るとが当たり前というですね・・・。

 今は娯楽もいっぱいあるし、勤めも厳しいし・・・。

 昔は川魚で料理ばしよった。青年団に入った者が炊事当番せにゃならんかったもんな。それ、こう、魚とってね、戦時、入る前でお砂糖やらなかったったい。それでね、金平糖を買うてきてね、味付けするとき入れて、ふた開けたったい。そしたらもう、魚の顔が青とか赤とか、もう(笑)、なんてね――、こりゃしもたて私たちは経験があるけどねー。

 川魚がたんぱく源で、いっぱいおったけんですねー。

Q.どういうお魚が?

A.フナとかなまず、どじょう、ハヤとかカニとか。ホタルのえさになるゴウヒナ(カワニナ)はおいしかったですよ。

 

※小倉区は、青年団の活動が非常に活発だったようである。小倉の青年団は、地域に対して奉仕をしていただけでなく、仲間同士で演劇や競技をするなど、遊びの面でも、青年団は仲間の絆を深めるという重要な役割を果たしていたようだ。

 

◎昔の生活について

昔はね、七夕さんの時は、この川(生活に利用していた水路)、もう今はちょっと石もなくなったけど、むくげって知ってる?木の・・・それを取ってきてね、そしてコツコツコツコツたたいてね、そうすっと、ドロドロんなるちゃ。それで、七夕さんの時は髪を洗う。川で。

 (むくげは)今きれいか花が今頃、夏咲くと。

Q.ピンク色とか?

A.そうそう。白かすとか、紫んととか。

Q.(たたくのは)葉っぱですか、木の枝?

A.葉っぱ。葉っぱ取ってから木でゴトゴトたたくとな、ドロドロなるでしょ。そして髪洗いよった。

 ホタルやらおったですもんね、昔は。

 (一斉に)ああ・・・。

 こん川にもおったでしょうが。

 九州大学のホタル研究所、ここやったけん。ゲンジボタルのね。

 麦取りが終わったら、ホタルかごは麦わらで作ってね。そして前の川でバタバタって。

 ああ、すごかったよ、ここのホタルのあれは。

 基山口からあそこの湧き水がな、電気ばつけてから。

Q.麦っておっしゃいましたけど、麦もやっぱり作っていましたか?

A.もうずっと。今はだいぶ減ったて今でも作りよるばってんですね。麦は作りよるです。

 麦とか米とか。

 その麦わらで昔ホタルかごちしから、編んでもろうて、ホタルばとって。

 

Q.山野草などは食べていらしたんですか?

A.セリとかヨモギとか。ツクシは田んぼの土手とかで。今はね、山の手の方に取りにいかんと、この辺は排気ガス関係で。

Q.逆に食べられないものは?

A.この辺はね、牛やら馬やら置いとったでしょう?食べられんやつは皆、鼻の先でえりわけてしまうもん。そう、ひがん花あたりは・・・。

Q.(ひがん花は)全体が食べられないんですか?

A.大体ひがん花は食べんです。おできの薬には、どうにかするけどね。黄ない花の咲くツチ草とか何とかいうてな、動物がえりわけていく。りこうかですよ。ヨシミとかいう毒草は、大分でも(牛や馬が)食べんでしょうが。温床育ちにしとったらな、油断したらな、ヤギとかがな、食べて死ぬ。動物もね。

(ヨシミは)この辺ではね、畑の横に植えといて、それをとって、こう、すって、その汁で野菜の虫殺しに使いよった。今はもう、そんなこといっても・・・。

 

Q.昔はどんな肥料を使っていたんですか?

A.昔はもう、堆肥とかですね。人糞とかもね、たいて肥料になるしですね、町にもらいに行ったりしよったですね。麦とか野菜を持って行ってね。昔は(人糞も)金になりよったんですね。

 皆こえだるを肩にかけてなー。福岡近郊は15kmから20kmあるところから市内にもらい行きよったたい。歩いて。わざわざそんなしてね、苦労してしよったー。

今はね、農協が専用の肥料を作ってくれる。もう追肥もせんでよかですもんな。まあ、楽するようにはなっとっですね。しかし金んいる。やっぱりあまり利益にはならん。

 昔は草ぶきの家やったら4円で立つ。田一反買うのには米百俵はしよったかいな?3 

0円やったかいな?米一俵5円とか。7円したときもあるし、4円か、そんくらいんときもあるし。よう調べんと分からん。

今は米も安かもん。もうそしてね、ここらでは、百姓する人の専業というのは年寄りばかり。若い人は田植えのときばっかり、機械に乗って田植えしてくれるくらいが仕事。3ちゃん百姓て、それからきとっとですよ。今はかあちゃんも仕事に行ってな、じいちゃんばあちゃんばかり(笑)

佐賀におうち町ていったらね、大学あたりから農業研究生っていうのが来るちゅうて、がらくさんで、大学の講師なんかにも行きよらす人がおらっしゃるて。その人のね「農家の人が農業の後継者なんかがおらんのなんのって、やり方が悪い」っていわっしゃるのだってね。実習生として来る人やらを、そこ辺りではね、さーっと着替えさせて、カウボーイ姿にさせてしまわすてたい。そこで、その姿でトラクターに乗って、田んぼを耕すわけ。そしたらもう喜んでね。

普通農家でばい、金銭が伴わんなら、生活がやっていけんもん。普通の農家でね、カウボーイ・ハットかぶってね、気持ちは良かろう。でも、やっぱしね、生活するのがあるけんね。先生のいわっしゃること自体が矛盾しとるなあて、私はちょっと反発しよります。

(よその仕事はよかでっしょうが?)

よその仕事は喜んでするけどさー、我が家の本職ていうたら、そら厳しいよ。なんでも、そう。(皆、口々に賛成)

 

私たちが常に思うのはね、神社仏閣ばあっちこっち行って、昔の寄付金ば書いたアレがあるわけね、そうすると、1万円とかさ、54円とかさ、もうこれはなんかたいしたもんだなあって。54円とかなっとって、この記念碑の立った年代を考えたらさ、やはりもう、家も3軒くらい立つんじゃない?

 

Q.小さい頃に柿を盗んだ経験とかはありましたか?

A.あー、あったあった。青年で。なすをとったり。どろぼうという意識じゃなくて、なんか、若さの至りというかね。ぶどうをとるとか、すいかどろぼうとか。「大根引きの大どろぼう、なすびちぎりのおくびょう人」って昔の人は言いよったけんね。

 まあ、かわいげのあったもんな。昔んとは。お菓子やらも、あんまりなかったですけんね。柿とか、そういうのが、いいおやつじゃった。

 干し柿は結構あった。

 

※昔のお話を聞いているだけで小倉が自然のあふれた町であったのだろうということが想像できた。農業の後継者の話が出たが、やはりこの問題は深刻なようである。

 

◎村に出入りしていた人々について

 

Q:他に(魚屋さん以外に)行商人の方は来ましたか?

A:乾物やら、何やら売りに来よんなはったなー。

Q:お薬とかはどうでしたか?

A:あ、ここはね、売薬さんが多かったもんね。やっぱ、内職しよんなさったもんね。薬会社が二軒ありましたもんなあ。

Q:かまどのお経をあげる目の見えないお坊さんはおられましたか?

A:こうじんさんだろ、こうじん坊さん。(ザトウさんとは言わなかった)

Q:何のためにお経をあげるんですか?

A:結局、火事とか災いを起こらないように、ってことやろうね。

Q:やはり、目の見えない方でしたか?

A:いや、そんなことはない。頭のいい人や。それから、何からも来よったね。英彦山からも。(「あー、山伏さん。」「山伏がな!」)

Q:山伏さんとは、何をする人なんですか?

A:修行してね、人の災いを自分が身代わりになって、自分がそれだけの修行をした人たい。そして、人の災いを自分がかろうていく、っていう。托鉢して回ってね。

 

  「対馬藩は農民が売薬業をすることを禁止していた。しかし、実態は隠れ売りが行われていたようだ。」(いただいた基山町に関する資料より)国境であったということもあって、多くの人が行き交ったようである。

 

◎戦時中のお話

 

Q,戦時中のお話は伺ってもよろしいですか?

 この地帯に与えた影響などは?靖国の母とかそういう方はやはりおられたんですか?

A,そらー、おる。今でんまだ居られる。何人でん・・・。

A,私たちは、結婚するときに、顔も知らんでからですねー。戦時中は、あの一緒になってから。

 そのまま戦地行きましたけんね。そんなにせん人なら、顔も知りまっせんと。式だけして、

つーっと戦地行きました。そういう時代でしたよ。

Q,恋愛とかそういうのは?

A,恋愛なんてなかったな−、あの時は。なんも無かですよ。

A,私は嫁さんにくる時な、モンペしてきましたばい。式の時だけちょっとな、仮衣装で来ましたが。

A,式も何も。大体が、軍人でしたけんな、もう。機密機密で、なーんも連絡がされんとですたい。で、ちょっと帰ってきたけん、今、っちゅうことで、仲立ちさんが式ばさせてですねー、そのまま戦地行きましたがー。そのまま、駅に送り行きました。そるけん、式する間もなかです。写真も何もなかです。昔は惨めなもんです・・・。

A,新婚旅行も無かなら、なーんも!

A,汽車ん切符も買われんかったんちゃけん。

A,違うとこまで、買わないけんかった。西鉄まで行くと、久留米まで位、行かれよったばっ

てんな、基山までは、もう乗られんとですたい。バスも無かなら電車も無い。今の時代はなー。

A,うちたちの、こまか時分な、基山駅は無かったっちゃけんな。この鉄道も、国有鉄道になる前に、3回ですかね、名前の変わって。博多鉄道から九州鉄道に変わって、日本国有鉄道になっとっとですかな。

A,大正7年にね、基山口鉄道信号所ができたっです。基山口にな。大正10年に鹿児島本線が複線化して、4月に基山駅ができましたって。昭和14年に、甘木線ができましたって。

A,甘木線の鉄道ん時は、私ゃ、測量機械ばかろうてから、今でいうアルバイト。そして、行きよったもん、基山から甘木まで。

Q,そうしたものが、与えた影響というのは大きかったですか?

A,そりゃ、基山駅ができればですなー。やっぱそりゃ、そうなっとるですよ。今はですね、基山銀座っていうてね、ここら辺は、サラリーマンが多いわけですよ。福岡と久留米とかね、割と近かったけん。ほとんど、若いもんは、勤めに行きよったですね。基山駅降りると、すっとするちごつ、言われとったもんなー。(笑)

A,サラリーマンが多いもんですからね、今日の税金の源泉徴収はな、相当比率が高いわけですよ。やっぱり、佐賀県では、基山は裕福な税収がある、と。率として。額じゃなくて。

 それから、田んぼは少ないですね。農業だけでは生活が出来んくらいの田んぼ。だから、やっぱりサラリーマン勤めに出てね、副業で、今、農業はしよるわけ。

A,もう専業でしよる人はわずかしかおらん。畑で1件。専業するほどの土地が無かったもん。会社が率がなぁ。現金収入が良かもん。でねぇ、あの昭和3年、カネヒシっていう絹糸会社が、長野県から進出してきて。第1号じゃないかなぁ。旭化成、日本化薬が入ってきて。いろいろ企業から、注目されるようになってきて・・・。

A,大体ねぇ、貧乏な基山ですよ。全国でもね、養蚕をしよったとこはなー、貧乏な所ですよ。病気が入ったらね、もう流れる。餌ば食べるだけ食べてなぁ、繭ば張らんとじゃんなぁ。

 そすと、もう大損じゃんねー。蚕おくと、寝るとこ無かごんないよったもんな。今の生活様式から考えたら、想像のつかんような生活だったつよ。だいたい、電球は1件のうち1つ、2つしか無かったもんなぁ。私たちが子供の時分迄はなぁ、寝床のほうではランプば掃除しよったよ。

Q,電気の来たのはいつ頃でしたか?

A,大体、大正のはじめ頃・・・。基山駅ができた頃(大正10年)だろ?目の開いたごたったもんなぁ。電気の点いたときゃーなぁ。

Q,終戦後は?

A,食べもんがですね。百姓でっちゃ、どうがやしですね。供出(供出米)がね、厳しかったけん。金はもらわんとですよ。強制発動ていうてな、調査に来るとじゃ、固有米の。もう、いわれるわけですたい。割り当てで、何俵出せって。供出ば出してしもうて、固有米の無かごたなるもんな。そげん厳しかったです。

A,うちへんでん、あやん作っとったっちゃ、小屋ん中に、トウモロコシでんコウリャンテン(?)でん預かりよりましたげな。そやん奴ば、脇寄せて食べよりましたばい。

Q,犬なども食べたって事はあるんですか?

A,ええ、いっぱいある。とにかく、赤犬のようなのはね、とにかく喜んで食べよらした。

A,狸はあるけど、犬は食べたこと無い。

Q,狸が居るって事は、猪なども居るんですか?

A,ここには居らんばってんですね、山のほうにはいっぱい居って、出てきて、農家の困りよったですたい。狩猟期以外でも、鉄砲で撃ったり、罠仕掛けたりして、駆除しちゃもらいよったですけども。犬やらもですね、国鉄の保線区の人たちが、犬がはねられとったりしたら、とって来て食べたりする、とは言いよったですね。その時分は、スタミナ源でね。もう肉なんて、滅多に口に入らんて。牛肉とかね。豚ば、食いよったですね。鶏もよく食いよったです。

 

※電気が初めて点いた時の、‘目の開いたごたったもんなぁ。’という表現がとても新鮮で、かつ説得力があった。戦時中に結婚した方は、相手の顔さえも見ずに出征してしまわれたというお話が印象深かった。

 

◎福岡との県境の問題

 

A,昔は、福岡県の道路予算だけで、佐賀県全体の予算に匹敵するっちゅう言うとった。そこで、佐賀県の道は悪かったんだな。そして、此処は元々、佐賀藩じゃなかっちゃけんね。それが、やっぱ、ちーとは、冷や飯食わされとったですね。「西高東低」っていうでしょうが。こないだ、選挙で言いよったが。佐賀周辺は良くて、こっち側にはなかなか金が回って来んていう。一番端じゃけんですね。

 昔はよう喧嘩しよったばってんね。今はもうせんちね。小山の観音様の所に居ってち、余所者の通ったら、捕まえちから。そん代わり、私たちが、向うば通った時は、命がけで用心して行かないけんち。

Q,やっぱり、余所の村から来た人には、冷たいんですか?

A,通るとね。

A,子供のときですよ。

A,西島(三島?)は西鉄乗る時には、小倉ば通らないかんでしょ。通るとき、丁度境目で悪さばするんですよ。石投げたりね、いろいろする。ただ普通、通行する人が、そんなんやったたいね。

(転居してきた人たちに対しては、最初の間は、少し警戒こそするものの、日にちが経

っていくと、「このくらいよか住みよい所は無い」と言うようになるらしい。「そらもう

ね、憚って言うてよかけん()」だそうだ。親戚以上の付き合いになるらしい。)

 

※県境の問題は昔は特に深刻であったらしく、現代でも少なからずその名残があるらしい。他の地域に住む私たちにとっても「西高東低」という表現が既知のものであるかのように考えられていたところが、この問題の大きさを物語っているように感じた。

 

◎神社・民俗芸能・祭りについて 

 

(小倉は昔、税に苦しみ貧しい生活をしていたというお話を受けて)

.この急場を救った対馬藩のカシマ代官、代官のカシマさんというのがものすごう、なんて言うかね、かわいそうと思うて、多少情をしたために、ある程度、今度は里をかえられて、あんまりいい待遇受けてないけれども、現在に至ってまだ、その「カシマ祭」ていうてね、対馬と基山の基養父領の人たちの交流があって、お祭りがありよう。お祭りちゅうのは、祭典たいね、供養が。現在にありよう。

  タシロも、昔の旧基養父領。

  そして、基養父の鬼門に・・・。

Q.鬼門とは?

A.きれいにしとかにゃいかんとこ。

 家でもありましょうが。

 裏鬼門と、表鬼門と。

 ちょうど基養父の近く。

 お伊勢参りに行ききらんけんな、ここに参りに来ござったげな。

 伊勢神宮の代理やけんな。

ムガクシャ、ソンシャ、ケンシャ・・・。

 ここ(お話を伺った公民館。お宮と一緒になっていた)は郷社。

 お宮としてはね、位が上。伊勢山の方が。伊勢山神宮。

 あそこ(伊勢山神宮)ん鳥居は・・・。

 あそこん鳥居は出とらんもんな。

Q.(郷社やソンシャというのは)どんな字を書くんですか?

A.郷社っていうのは、いろいろな神さんば集めたとこですよ。

ここご神体の古いとのあったとに、いくつもあったでしょうが。

Q.そこに(公民館の外)恵比寿様がまつられているのは?

A.あれはまたべつやったとばですね。そこにマンションができたでしょう。それがのけにゃいかんかったけん、ここのお宮をかりて、場所をかりて・・・。

 ここのお宮の鳥居がですね、下のケタがな、端が出とうもんな。で伊勢山神社んとは出とらんもんな。あれは出とらんとは、伊勢神宮とかな、皇室の関わった人の鳥居はな、両端出とらん。

 (皆驚く)

 伊勢山の鳥居はな、端が出とらんにゃ。下んとが、横から出とらん。ここ(公民館)んとは出とうとですね。

 あすこんとは出とらんもんな。こりゃやっぱ伊勢神宮の系統じゃけえ、こげんしちょるとじゃろうねえと・・・。

Q.伊勢神宮の系統になるんですか?伊勢山神宮は。

A.伊勢山神宮は神社や。鳥居が違う。

 あれが出とらんとこはですね、やっぱわりと位の高か、皇室が関わったお宮はね、出てない。

 伊勢神宮も出とらんけん。その系統やけん出とらんとじゃろうと私は思ってる。

 

Q.神社のお祭りとか、盆踊りとか、そういったものは?

A.そりゃありよるですよ。

おくんちが。

氏神様の祭りとしてね。

Q.(お祭りは)やっぱり夏ですか?

A.夏。もう明日1つ、ここのお宮で明日。田植えが終わってね。

おくんちとかね、願成就とか。

明日は願成就。田植えの終わってからね。

地区地区でありよるわけ。

民俗芸能はね、ここはもう荒穂神社やけん。ここ(公民館)は氏子じゃなかけんですね。ばってんもう、昔は荒穂さにも何か出しよったでしょう?

出しよった。

今はもう全然な。

やけん、春の祭典とかですね、いろいろあるですよ。

昔荒穂神社で5月の4日なあ。

荒穂神社がな、春2月に、夏が5月に、秋が9月、冬は12月。

えーとな、こもりだきもあるしな。

  庭にですね、ここの宮の庭に大きい穴を掘って、昔は子供で全部仕切って燃やして。11月の30日ですかね。大体、月末の。

  神無月で神様が帰った来なさるとをお迎えする、火ば焚いて。

 Q.それは子供たちが?

A.子供たちで。ここの神様がね、出雲に行って、あーたたちの縁組の(笑)話をして打ち合わせして、その年のね、取り決めが終わった段階で帰っちきござったとよ。それが、もつれたりしてから(笑)いろいろ問題が(さらに笑)糸がもつるるわけたい。そして、外れたりしてから(笑)

 今は神様がせんでちゃ、人間がするけん。

 迎え火ば焚いて、子供が迎えに行った。

 一晩中太鼓たたいてまわしよった。

 今はもう10時までやけん。

昔は子供がスコップで掘りよりましたろうが。

 子供は今掘るとは掘りよりますよ。ほいで焚き物はですね、小倉村は山切りに行ったりな、伊勢山の木ば切ったり、それからミクニ峠に行って・・・。

 そうそう、リヤカーでなあ、学校から帰ってきたらなあ。

 今の子供は親が知らんとせんとじゃけえ、子供に教えんでしょうが。そやけんなーんも、取り決めとか何とか知らんもんじゃけえですね。

 30日の日にこもりだきをして、あくる日はトスの市じゃったけえな。トスの市に一応、そのオヤガシラの銭ばもろうて(笑)

 オヤガシラでお金ば分けてな。

 500円ずつかなんか、決めたっちゃろ。

 

Q.木を切っていたと言っておられましたが、その木で炭を作ることは?

A.そりゃない。炭を作るような材木はない。

Q.どんな木で炭を作るんですか?

A.ここには炭を作るようなとこはないけん、向こうの山手へ行って、かたーい木たいね、カシの木とか。そういう風なとやったら、本当の堅炭。今度は松炭ちゅうたら、松の木で結局、火力のちょっと弱いね。貴重な、炭たいね。そういう風に、いろいろ種類はあるけれども、木の種類によって、炭の種類がまた変わってくるけん。

 誰か焼きよらんね?

 今は、竹で。

 (口々に)竹炭が今はやりようもん。

 それであの、焼くときですね、スができるでしょうが。それもまたそれなりに利用しよるもんね。あれもねえ、本当言うてねえ、時代の流れやろうけれどもなかなか自分のうちに合ったらね、効かんとね。効かん。体にも。

 (お金を)高く出して買うてこんと効かん(笑)そりゃ、あたしんとこの弟が焼きよるけんね、炭いっぱいもろう手来るよ。それこそ、いるならあげてよかぐらい持ってくるばってんね、家のだーれも使わんもん。使やあ良かばってん、若い世代の人は、あたしんとこでも、あたしたちの時代は終わって、もう若い者がするでしょう。そしたらねえ、野菜でも何でも自分の家で取れた野菜は使わずにね、もう町から買うてきてね、そしたらちゃーんときれいに洗うて、消毒バンバンした野菜を買うてきて食べるでしょ。自分の家はもう無農薬みたいにして作っとっても、そりゃ食べない。時代の流れていうかね。さっき子供クラブの話の出とったけどね、これから先子供たちはどういう風に成長していくか、ちょっとあたしたちも気になることは、今の、青年・・・もう、230代の人たちなあ、一番気になるのは、町のイベントでね、竹とんぼ作りをしますと。商店街で。そしたら竹材料を用意するまでは良かたい。ところが、そんな夏休みのとき子供が集まってね、竹とんぼとか竹馬とか言うてもね、作る催しをした本人がね、作りきらんでね、ちょっと、おっちゃん加勢して、だーれも作りきらんけん、そんなして呼びに来るわけね。そうすっと今度は子供にしてみたら何にも自分たちで使う道具は持ってないでしょう。こっちんと使わす。そしたらもう、九大生んごたっと違ってナイフの使い道ひとつ知らない、子供が。(声を大きくして)こういう時代でいいのかなって・・・。私たちはそういう風になんとなくさびしい思いをすっとですね。

 学校には私たちは鉛筆そぐとはな、小刀持っとるのは普通やったけん。

 今は持たせんとやろ? 学校に持ってっちゃいかんのやろ?

 もう、これから先どげんなるのかなと思って・・・。子供たちのナイフひとつ持っとるわけじゃなし、持ったらいかんから持ってないんじゃろうけど。

 

Q:他のお祭りなどは?

A:昔はもう、仮装行列がありよったもんな。道ば、三味線ば弾いてな、提灯行列。村総出でな、えらい多かったもん。

A:昔は何も楽しみがありまっせんでしたろが。テレビがあるわけじゃなし、ラジオがあるわけじゃなし。

 

私達が訪問した時期は、ちょうど田植えの頃であった。調査に行った次の日に、願成就(がんじょうじゅ)のお祭りがあると教えていただいた。

願成就・・・田植え終了後から91日までの間何回か行われる。虫封じ、疫病除けの神事が行われていた頃の名残で、現在は田植え終了後の休息の意味合いもある。   以前は、田んぼや村の出入り口などにお札を立て、神社にお供えものをして神官に祝詞をあげてもらい、汐井とりの方向や日にちを決め、汐井をとり神社に供えた。その日は村中が仕事を休んだとのことである。砂のことをつつの汐井という。

籠焚き(こもりたき)・・・陰暦10月は、カミナシツキと書き神無月と称し、神々が出雲の方に集まる月とされています。神様がそれぞれの地域より出雲に行きますので、地域の神社では神様を送るため9月末日の夜火を焚いて送ります。また、10月末日には神様が帰って来るので同様に迎え火を焚きます。これを神送り、神迎えと言います。

     神迎えの事を通常、籠焚(こもりたき・こもんたき)と言い子どもの行事で、陽暦1130日に行われています。

     当日までに神社に焚物を集め、焚き火をする場所に穴を掘り準備をします。そして、各家庭から米・野菜・お金などを集めます。当日、子どもが集めた材料で調理し、お参りにきた人にお神酒とともに饗します。

     以前は、夜どうし焚き火していたが今は10時前後で終了するみたいです。なお、地域によりやり方などが異なるようです。

頂いた資料より

 

  炭のお話をしていただいているうちに今の子供たちの話になった。今の子供がナイフさえ扱えないということを嘆いてらした。願成就は一種のさなぼりではないかと思われる。籠焚きは、現在の子どもたちが(その親たちも)やり方を知らないと言って嘆いてらっしゃった。神様の送り・迎えのために成されるということに驚いた。仮装行列は大きな出来事があった時(基山駅誕生など)に行われていたらしい。

 

◎最後に

基山はもう、昔の地形から、(強調して)全然変わってしまっとるけんね。

 小倉こそ、あんまり変わっとらんばってん、上はなあ、団地がでけとるけんが、全然分からん。ここらやったっちゃ、田面がな。だいぶん減っとる。

 あと10年すっと、あと3分の1くらい減るでしょうね。

 

A,しかし、まぁ、今日は私たちも勉強になった。あなたたちが来てくれたおかげでね、やっぱしねー、忘れかけたことをね、思い出し、思い出しでもするとね、やっぱり話すと懐かしいとよ。

A,よう覚えっちゃるもん。

A,そう、それこそ貧乏ばっかりして来とるけんで。貧乏じゃったけん、楽しかったのかもしれん。

 

※「勉強になった」「懐かしい」というお言葉は非常にありがたく思う。貧乏だったので楽しかったというお言葉は感慨深い。苦労と快楽は紙一重なのだろうか。現在の生活は豊かになりすぎているということを、再三おっしゃっていたことが印象深かった。

 

21日の行動記録

9:00  六本松キャンパス集合

9:10  バス乗車、出発

 10:15  基山町5区にてバス下車

 10:25  基山町5区公民館到着

  〜   周辺散策

 10:50  公民館にて調査開始

 12:15

 〜    昼食

 13:00  調査再開

 15:30  終了

 15:40  周辺の石碑について説明を受ける

  〜   水路・伊勢ノ山神社に連れて行っていただく

 16:25  案内してくださった方と別れ、朝下車した場所でバスを待つ

 16:30  バス到着、乗車

 18:00  六本松キャンパス到着、解散

 

◎感想

 

戦前・戦後の生活や、農業のことなど、日頃なかなか考える機会の無いような事を、いろ

いろ伺い、とても興味深かったです。特に、油を使った殺虫法や七夕の風習など、初めて、

耳にすることも多く、自分の祖父母等からの伝聞とあわせ見て、地域毎の多様性というも

のを、強く感じました。

こういう場には不慣れなため、どうなる事かと思っていましたが、現地の皆様には、と

てもよくして頂き、驚くと共に、とても感謝しています。        三蔭 純子

 

今回の調査で印象深かったのは、古老の皆さんが昔を懐かしむように、とてもうれしそうにお話をしてくださったということです。「あなたたちがこうして聞いてくれて、私も昔のことを思い出して懐かしくてうれしい。」という古老のお言葉を頂き、私もとてもうれしく思いました。調査をする人間にとっては、最もありがたい言葉であったと思います。また、風変わりな呼び名が出る度に、皆さんが大笑いをなさっていました。呼び名というのが、これほど地域に根づき、親しみを込めて呼んでらしたということに、驚くと同時に、地域住民の方々の絆の強さに感心させられました。ちょうど田植えの時期でお忙しい中、貴重な時間を割いてお話くださった古老の皆さんにとても感謝しています。 森田 朱音

 

今回の調査で、地名に関することや昔の暮らしについて実に様々なことを聞くことができました。それだけにとどまらず、今の時代風潮、現在の若者についてどのように思っていらっしゃるかという貴重なご意見を聞くこともできました。その中で、古老の方々は、「今の時代は確かに便利ではあるけれど、ナイフの使い方ひとつ知らない子供が普通になっていて、とてもさびしい思いをしている」というのが印象に残りました。このようなご意見を念頭に置きながら、私達若者が時代を形成していかなければならないということを強く感じました。

古老の方々は皆さんとても気さくで、あたたかな方ばかりでした。貴重なお話をして下さり、本当に感謝しています。                    藤田 恵理子

 

 

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 3p ほいてあすこはドジョウタ、まじくってからな。

 堤に入ってからは、堤の中ば迷って靴も汚かったけんな。混ぜてからな、汚かったもん。臭うして臭うして・・・センバダキして、お坊

さんがどんどんどんどん、お経もあげて・・・

*これは九千部の千把焚きのはなしですか。雨は降ったといっていましたか。

   A:千把焚きをしてその時、雨が降ったそうです。それとは別に堤でお祈りをしたというようなニュアンスでした。

 

4pあれは・・・な、話しても口が十分じゃったじゃろ、結局旱魃のために、あの、百姓一揆がここは起こった。(しばらく沈黙)

*口が十分、どういう意味ですか

A:口が達者ということだと思います。空白には固人名がはいります。

 

 17p 憚って言うてよかけん()

どういう意味ですか

A:基山はよい町だということを、広めてほしいということだと思います