佐賀県杵島郡北方町大字大崎字杉岳
(調査者)1LT03005 石井 陽子
1LT03070 芹川 梓
1LT03106 西江 幸子
1.はじめに
私達が訪れた『杉岳』は、杵島郡にある徳連岳山腹に位置する静かな村だった。この地へは大型バスは入れない小さな道が続いていた。道の途中では突然現れた蛇や立ち込めてくる霧など、目の前に広がる自然に恐怖さえ感じた。しかし、私達を招き入れてくれた人達は暖かく、帰る頃には村も違った表情をして見えた。
今回の調査は、しこ名や、昔の生活における風景をこの機会に思い起こしてもらい、それを記録することを目的として行った。 事前に、調査項目の一覧表を送っていたこともあり、様々な事柄を聞くことができた。その内容は、単なる過去の集落のことだけではなく、現在の社会についても聞くことができ、4年後には1社会人として自立しなければならない私たちにとって、とても良い経験になったと思う。以下に、今回の調査の記録を記そうと思う。
2.しこ名について
私たちは、まずはじめに、事前に郵送していた北方町のしこ名一覧について、諸石さんよりお話を伺った。
杉岳地区のしこ名は、次の通りである。
ヒャクドウ(百堂)、モリ(森)、ヨコヤマ(横山)、ヨコオダニ(横尾谷)、
カサイシ(笠石)、カサイシヒガシタニ(笠石東谷)、アセリ(阿勢里)、
アセリヒガシタニ(阿勢里東谷)、アセリニシトウゲ(阿勢里西峠)、
ヤスミマツ(休松)、オガワ(小川)
部落外ではあるが、他にも次のようなしこ名があるということを教えてくださった。
シイガワ(神水川)、フナギ(船木)、ハギノオ(萩ノ尾)、ナガタニ(永谷※)、
オオベットウ(大別当)、ハチリュウ(八竜※)
※ ナガタニ、ハチリュウは、諸石さんの書かれた地図によると、それぞれ長谷、龍
と表記されていた。
こうして判ったことは、しこ名の中には‘シイガワ‘のように特殊な読み方のもがあるということだ。
しこ名について尋ねることを通し、驚くべき発見を得た。なんと杉岳地区は、北方町と武雄氏の両方にまたがっているのだそうだ。こうした発見は、フィールドワークに出かけるからこそ得られた情報である。机上の勉強だけではいけないということを、身にしみて感じさせられた。しかし、残念なことに武雄市側のしこ名については、事前に調べられていなかったので、そちら側のしこ名について調査をすることができなかった。次回、武雄市に調査をしに行く班が、調査をしてくれることを祈ろうと思う。
3.圃場制度以前の田んぼの名前
次に、圃場整備が行われる以前の田んぼにはどんな名前がついていたのか質問した。諸石さんは、「うちの場合は(圃場整備は)なんもできとらんです。」と仰った。諸石さんによると、昔は段々畑のように石垣を積んで田んぼを作り、「池松」とか「三ノ山」などの名前で呼んでいたそうだ。圃場制度は、日本全国満遍なく実施されたものとばかり思っていたが、地域により、圃場整備の影響を受けた所とない所があるということが、この質問をすることによりわかった。私的には、「池松」とか「三ノ山」などの名前で田んぼを呼んでいたという事実に親近感を覚えた。
4.昔の山の中の田について
昔は、小作人と地主の関係が厳しく、百姓の生活は苦しいものであったらしい。そのため、小作人は、狭い土地や荒れた土地、高地さえも利用して、米・麦・粟・野菜などをつくっていたそうだ。杉岳地区の場合、標高200〜300mの場所でも耕作を行っていたという。
百姓と小作人の関係については、今回の調査で頻繁に言及された。諸石さんの家庭は小作人でも地主でもなかったそうだが、諸石さんにとって、地主に押さえつけられる小作人の姿は特に印象深かったようで、後の調査項目でも、小作人に親身になってお話してくださった。
5.川の瀬や渕、滝、谷の名について
川の名前としては、事前学習により学んでいたように、一の川・二の川など数字を用いたほうしきで川を呼んでいたそうだ。杉岳地区は、山間部に位置するため川の水が豊富で、大規模な溜池などの必要はなく、作っていなかったそうだ。農業を行う集落は、ため池を必ず作るものだと思っていた私にとって、この事実は驚かされるものだった。しかし、杉岳は、田んぼを少しでも増やそうと努力していた集落だ。だから、水が豊富に流れているという理由で、わざわざため池を作らなかったのも当然といえば当然の結果だと思う。けれど、ため池がないぶん、旱魃の際の苦労は大変なものだったそうで、時には水喧嘩も起こったりしたらしい。一時的な天災に備えるか、日々の収穫量を増やすか。どちらを選択するかは、杉岳に住む人々にとって切実な問題だったのではないかと思う。
現在では、部落同士喧嘩することはなくなり、「雨は天から降ってくるものだ」、という考え方を集落の全員が共有するようになり、喧嘩は起こらなくなったそうだ。ある意味、こうした結論を導き出し、喧嘩をしなくなった杉岳の人々はすごいなと思わず思った。
6.井手の名前について
三年前に用水路を工事する以前には、杉岳にも多くの井出があったそうだ。井出とは、川から水を引くために石垣を積んで泥を詰め、竹筒を5mにも20mにもつないだもので水を田へと引くよう水路のようなものである。現在は、竹の代わりにビニールパイプを使うのが一般的になっている。また、石垣や泥の代わりにコンクリートで固めるところもある。しかし、この工事には何億という資金が必要なので、いまだに徹底できていないというのが現状のようだ。諸石さんは三年前にコンクリート工事を行ったそうだが、まだできていない農家は、雨が降ると泥が流れてしまい、大変苦労されているらしい。自然の材料をそのまま用いて作られたよう水路のほうが、親しみがもてるような気がしたのだが、雨によって壊されやすいという点を考えるに、コンクリートやビニールパイプの水路に変わっていったことも、ある意味必然的なことだったのかもしれないと思った。
今回の調査の要となる井手の名前については、「池松の井手」とか「阿勢里の井手」などといったものを集めることができた。しかし、残念なことにその井出がどこにあったかはわからなかった。おそらく、そういった井手のある地域の字を取って読んでいたのではないかと、この質問に対する応答から私は推論した。
7.古賀(小集落)の名前について
「古賀にはどのような名前がついていましたか?」という質問から、私たちは面白い情報を聞くことができた。その情報とは、杉岳では、「コガウチ(古賀)」のことを「チャガウチ」と言うということである。しこ名のときに思ったことだが、同じ漢字がつけられた土地でも、地域によって読み方が違うのだと、しみじみと思った。そして、なぜこのような現象が起こるのか、少し興味がわいた。
杉岳の古賀は、西組、上岳組、向之組、みちまち組、下組の5つあり、この5つの古賀によって部落は、構成されている。この中でも上岳組には、いろいろといわれがあることがわかった。上岳組は大聖寺の近辺にある古賀だ。明治維新より前は、大聖寺が多久鍋島氏と佐賀鍋島氏の祈祷寺であったため、この古賀は、たいそう賑わったそうである。当時は、檀家が80軒ほどあって,木賃宿屋や豆腐屋、蒟蒻屋などいろんな商売人がいて、下から荷物を上げて日用雑貨を運搬するする人もいたらしい。しかし、明治維新の後は、廃藩置県の影響から多久鍋島氏や佐賀鍋島氏からの援助を大聖寺が受けれなくなった。この影響から、上岳組に来る人も減り、この古賀は次第に衰退していき、80軒あった檀家も生活が苦しくなり山から下りていって、40軒に減ってしまったそうだ。そして、諸石さんが戦争から帰ってきた自分には、既に1軒も残ってなかったそうだ。‘繁栄する土地に人は住む’といった、まさに典型的な集落だったように私には感じられた。
この質問に関連して、大聖寺についても伺うことができたので、次に記そうと思う。大聖寺は、400年ほど昔に火災にあったそうだ。当時、火は今の寺より西側の本堂で三日三晩燃え続けるほどの激しい火災だったそうだ。火災の沈下後、大聖寺を再建するために、和歌山の高野山からは材木を筏に積んで運び、瓦は福岡の城嶋から運んできて、これらを人夫が運んで大聖寺のところまで登ったそうだ。大聖寺の標高は300メートル近くある。当時の人夫がどれほど苦労して、こうした材料を大聖寺まで運んだかは、想像に難くないと思う。この寺の復興のための財源はなかったそうで、「たいてい、檀家の人々は苦労しとんなさる。」,と当時の人々の苦労を思いながら諸石さんは話してくださった。
8.家の屋号について
杉岳地区では、家の屋号は特になかったそうだ。では、どのように呼んでいたのだろうか?諸石さんの話によれば、ミヤタケ組に80軒くらい家があったが、ほとんどが商店だったので、豆腐を売っているお店なら‘豆腐屋’というような感じで呼んでいたそうだ。他にも、あったかもしれないが、諸石さん御自身は、こうした呼び名以外の名前については、何も聞いたことはないとおっしゃっていた。
9.大木や古い道、峠に付いた名前について
杉岳には、ドクミズ(毒水)やナナマガリ(七曲)、イケマツといった名前が付いたものがあった。以下に、これらのいわれについて、諸石さんの言葉を基にして記そうと思う。
毒水:今は水が出てこないけど、昔は水が出てきていて、下から歩いて上ってくる時に飲むのに具合が悪いため、「飲んじゃいかん」といっていた。だから、「毒水」と呼んでいた。
ナナマガリ:その道の形から。道が本当にくねくねしており、曲がったりするのが大変だったそうだ。
イケマツ:太い松があってそこまで登ってくると日陰で休むことができ、そこで休憩して行っていた。『イケマツ』というのは、『イコイマツ』からきている。というのも、ちょうどこのイケマツがある辺りが、杉岳に登る道のちょうど中間地点にあるからだ。しかし、だからといってそれだけの理由で名前をつけるのなら別に『イコイマツ』でなくてもいいと思う。実際は、『イコイマツ』と付いていることを考えるに、誰もが思わず休息を取りたくなる場所であったからこそ、『イコイマツ』という呼ぶようになったのではないかと私は思った。
これらの名前は、当時の生活に密接に繋がっていて、それらから人々の生活がありありと思い浮かべられた。
10.田んぼの水について
昔、田の水は、竹やぶから切り出してきた竹を割り、中の節を取り、そうしたものを50mや100m繋ぎ、川から田んぼに水を引いていたそうだ。たまに翌日、竹がひっくり返ったりしていて、田に水が入っていなかったこともあったりして、当時は苦労したそうである。棚田には、近くの水が出るところから引いていた。また、先に記してあるように、杉岳には溜池や堤がなかったため、雨が降るのを待ち、雨が降ると急いで田に水をために行っていたこともあるそうだ。昔は今のようにカッパがなかったので、蓑を着て作業していた、という苦労についても聞き、思わず時代の流れを感じた。
次に水争いについての話があった。昔は、たまには,「うちんとば(水)取った」といって、喧嘩になることもあったそうだ。そのためか、「水のことで喧嘩しちゃいかん。だけん,水争いだけはすんなよっ」と言われていたそうである。水争いで、疲弊したからこそ効した言葉を子供に伝えたのではないだろうか。この言葉には、昔の人々が水で苦労をしながらも、互いに協調して暮らしていこうとする姿勢が感じられた。
11.旱魃について
旱魃の時は、雨が降るのを待ってから、田植えをしていたそうだ。つまり、杉岳地区は旱魃が起こったときでさえ、田植えをするだけの水を確保することはできていたということらしく、このことから水に恵まれていた土地であることがわかる。
旱魃についての話を伺っている中に、小作人さんの苦労についてのお話も伺うことができたので、以下に記そうと思う。旱魃のときでさえ、小作人は地主に決められていた量の米を納められなければならなかったそうだ。そのため、地主に納めなければいけない米の量を確保できなかった小作人は、対応に困り、「今年は米が取れんけん,仕方なかばい。こらえてくんさい。」と頭を下げに行ったそうだ。しかし、地主もさることながら、「やかましい」と言って小作人を突き放していたそうだ。そのため、小作人は泣く泣く家に帰ってたそうだ。その様子を「本当に哀れなものだったと思うよ」、と諸石さんは当時の小作人の悲惨な様子について沈痛な面持ちで語ってくださった。このように苦労の絶えなかった小作人も、農地解放により、小作人にも田や畑が割り当てられるようになり、農家は楽になったそうだ。農地改革前後の小作人制度に関しては、後でまとめようと思う。
旱魃といえば雨乞いが思い浮かぶ。そこで、雨乞いの儀式の有無についてお尋ねした。すると、諸石さんが戦争から帰ってきてからは、1,2回ではあったそうで、実際に、雨乞いの儀式を行ったそうだ。その際は、竹筒を持って、村人は男も女も全員で朝石の高橋に塩水を汲みに行き、大聖寺に登って僧侶に願を立ててもらったそうである.。そのことで降ることもあり、「お不動さんのおかげで雨が降ったばい」と言っていたそうである。この恵みの雨は、偶然なのか必然なのか、まさに神のみぞ知るといったところだ。
12.用水路について
用水路について尋ねたところ、今は用水路は荒れてしまって本川しかないとのことだった。田が荒れていくのとともに、用水路も減ったようだ。このことは、昔ながらの景観も失われていくということでもあり、少し寂しい気がした。
13.何斗蒔き?
昔、何斗蒔きというのをしていた田はあったそうだが、どれ位ばら蒔いていたかは覚えていない、ということだった。今みたいに機械で一定量を植えれるわけではなく、感覚的に蒔いていたと思われるので、言葉でその量を表すのは難しく、だから、はっきりとした量は伝わっていないのではないかと思った。
14.農薬について
諸石さんが戦争から帰ってきてからは化学肥料があったらしいが、以前は草を切ってきて、それを肥料にしたり、また、牛の糞を肥料にしたりしていたそうだ。切ってきた草は腐るのを待って、手を傷だらけしながら田にそうした草を入れていたそうだ。当時は、草は貴重品だった。だから、少々手が傷つこうとかまっていられなかったのだろうと思う。農業は、本当に大変な仕事だと思った。
15.稲の病気について
昔は、稲の病気についてあまり気にしてはいなかったそうだ。けれど、話をうかがう中で、稲に害をなす3つの害虫が上がった。それらは、ネンキン、タムシ、ウンカである。ネンキンは、稲の茎に入る害虫で、穂が出なくなるそうだ。この害虫の駆除方法は、残念ながら聞くことができなかった。次にタムシは、苗床のときから稲の葉の裏につき始める害虫だそうだ。そして、この害虫は、小学生の遊びの一環として、駆除が年中行われていたそうだ。仕事を遊びに変える発想には、思わず脱帽した。最後は、ウンカである。ウンカは、田に当時貴重品だった菜種油を入れることで、駆除していたそうだ。こうしてみてくると、害虫駆除といっても、全て自然に対し易しい方法が取られていることがわかる。つまり、昔の人は、うまく自然と共存していたのだ。現代の私たちも、少しはこうした農業を見直すべきではないかと考えさせられました。
16.田植えについて
田植えはだいたい2,3軒で「ううん」して、つまり「もよう」って、親戚同士や隣同士で組んで,「今日はあんたとこ、明日はどこどこ・・」といって、2週間くらいかけて植えていったそうだ.。杉岳では、農業とかでの共同作業のことを「いいして」といいうそうだ。私がこれまで知っていたそうしたものの呼び名は、「もやい」や「ゆい」であるが、一体どういった語幹変化をへて「いいして」と呼ばれるようになったのか、少し興味を持った。授業で習ったとおり、地域によって同じ作業でも呼び名が違うということを肌身で直に感じ、昔の人の言葉は、温かいなと思わず思った。
17.早乙女の有無
田植えの際、お手伝いさんとして早乙女を頼んではいなかったそうだ。むしろ、頼む前に、彼女たちが他の人のお手伝いをしていたため、杉岳では女子衆をお手伝いさんとして頼まなかったそうだ。一方、地主さんは、権力に物を言わせ男女合わせて7,80人もの人を頼んで、田植えをさせていたそうだ。どの時代においても、権力者というものは、金にものを言わせた行動をとっているということがこの問いを通し伺えた。
18.家畜は牛
杉岳部落では、馬ではなく牛を一軒が少なくとも一頭づつ飼っていたそうだ。杉岳部落は、山にある部落であるため、他の大きさも小さい。よって、田を耕作するうえで便利な牛を飼っていたのだと考えられる。牛を飼うか、馬を飼うか。こうした選択には、どうやら地域性がかかわっているらしいということが、この問いを通しわかった。
19.草切場と薪と入会地
草切山は、山の部落ということもあり、やはりあったそうだ。場所は、徳蓮岳周辺、及び、百堂の周辺にあったそうだ。「(草切場は)あったばってんが、遠かとこばっかあったけんね。」とおっしゃって、当時の苦労を話してくださった。杉岳の草切山は、特別山の上にあったそうだ。その上、その場所は部落から遠い所だった。だから、草切山に行くときは、牛を引き連れていき、集めた草などを牛に引かせて帰っていたそうだ。部落から草切山までの道中が長いということもあり、雨が降った日には、ぬかるみに足を取られ、また、夕立にあうなど様々な苦労をしていたとおっしゃっていた。
薪について、話を伺ってみると、興味深い話を聞くことができた。山間部は、薪は焚き木だそうだが、平坦部では、わらばっかりだったそうだ。わらはすぐに燃え尽きてしまうため、ご飯を炊くのにも一苦労していたそうだ。杉岳は、山間部の部落ということもあり、 もちろん焚き木である。薪は、たいてい自分の山から採ってきていたそうだ。山を持っていない人は、共有地から2間分切る許可を持っていて、そこから採ってきていたそうだ。また、薪は1年に必要な量の目安をあらかじめ立てた上で採りに行っていたそうだ。大変合理的で、賢明な方法だと思う。今では、猪が山に出るため、山に入れないそうだ。そのため、「山は荒れてしもうとる。」と、悔しそうにおっしゃっていたのが印象的だった。また、「木材も外国産の杉を使うてから、日本の木材を使うてからせん。」と、山が荒れるもうひとつ原因についてもくさしそうにおっしゃっていた。たしかに、現代社会を振り返ってみても、安さを重視するあまり、日本の森林が荒れているということは事実である。今回、直接こうした話を聞く機会に恵まれたのだから、今一度、日本の森林について考える必要があるのと思った。
入会地は、森、百堂、入道の周辺にあったそうだ。先に記したように、一定の規則を元に、部落の人の間で自由にその土地を使っていたことがわかる。今では、国勢調査で部落の人一人一人に分けられているそうだ。
20.キイノについて
キイノという地名は、一般的に焼き畑のことを指すといわれている。杉岳で、キイノと呼ばれている場所があるかどうか尋ねたが、そういった地名は聞かないといわれた。必ずしも、どこの地域でも焼き畑をしていたわけではないということがわかった。
21.昔のおかしについて
かアメがたとか、のうきりとかを買えたのはよか。」と、昔を懐かしみながら語ってくださった。いつの時代も、子供のころに食べたお菓子とは忘れられないものである。
22.米の保存方法
米は収穫後、トウスっていうものに入れてくるくる回し、籾殻をはずし、乾燥させてから、60kgずつむしろで編んだ俵に入れて、ねずみに食われないように、家の2階においていたそうだ。昔の家の2階は、かまどや囲炉裏から立ち上る湯気によって、感想を促し、また屋根がかやぶきということもあって、通気性がよく、カビが生えにくいという、まさにものを保管するにはもってこいの場所であった。
23.米作りの楽しみ・苦しみ
米作りは、重労働である。だかた、私のように米作りとまったく縁のなかったものにとって、米作りの楽しみ・苦しみとはどのようなものなのか、想像が全くつかなかった。だから、この問いに対する話には、大変興味を向けていた。
「朝は2時頃から起きてよ、ご飯を食べて、ばあちゃんが作ったダゴのような饅頭を持って、朝3時頃から田んぼに行きよった。」とおっしゃって、米作りについての話が始まった。米作りの楽しさは、「今年はどのくらいあるかな。」っといって、予想するのが百姓の楽しみなのだそうだ。だから、「今年はよかったなあ。」とか、「今年は少なかがってん、どがんして食うていくか。」とか言ったりするそうだ。「百姓の喜びは、米に限らずね、何でもできた品物が良かったなっていうので、言葉では言われん。」と、誇らしく語っておられた。農業と縁のない私にとって、この諸石さんの言葉にはじんと来るものがあった。
24.杉岳を訪れる人々について
戦前には、お宮に野宿をしながら箕を直したり、箕を売りに来る人はいたそうだ。主に、2月28日や8月28日にある‘お不動さん’の祭りのときに来ていたそうだ。戦後は、その訪れもぱったりとただえたそうだ。戦争を境に、日本の暮らしは大きく変わったということが、この事実からうかがうことができた。
25.青年宿について
結婚前の若者たちの集まる青年宿は、杉岳にも存在していた。青年宿に参加できたのは、15歳から23,5歳ぐらいまでの結婚前の若者たちだそうだ。ここで行っていたことは、みんなでご飯を一緒に食べることと、笛とか太鼓といった風流を年寄りから習うことの2つだった。また、青年宿での上下関係は厳しいものだったそうだ。こうした事実からわかることは、青年宿とは、部落に伝わる伝統を次の世代にかたり継ぐ役目と、同世代の結束を強めさす役目を果たしていたのではないかということだ。
26.戦前の農地改革前の小作人制度について
先にも記したように、戦前の小作人制度は、それは厳しいものだった。「小作人さんはたいてい苦労しよらした。」と、諸石さんもおっしゃっていた。しかし、戦後の農地改革に伴い、小作人制度は廃止された。「考えようによれば、部落の中で平等に谷中を造るということでよかったと思うんです。地主さんのがお金を集めた土地代は、知れたもんです。泣き寝入りをしなきゃいけなかった地主さんは、どの部落にもおつばってん。そうした人だけが、小作人制度の廃止に伴い、生活に困り、ことっと消えてしまった。」と、当時の農村の上下関係における変革について話してくださった。この農地改革は、山には関係なかったが、谷中と畑には大きな影響を及ぼしたそうだ。そのため、山を所有する地主さんはそれほど困りはしなかったそうだが、」畑しか所有していなかった地主さんは、大変苦労をしたそうだ。私も、母の実家が以前は地主をしていたという話を小さいときから聞き続けていたということもあり、この話は、人事には到底思えなかった。
27.大聖寺と杉岳神社について
まず、部落と杉岳神社との関わりについて記そうと思う。諸石さんのお話を伺ってわかったことは、この関係が大変複雑なものであるということだ。話は明治初年の廃藩置県の頃まで遡る。当時杉岳神社をミヤスソの樋口神社と統合する話が出ていたが、両方の地域で、この統合案に対する不満が高まっていたそうだ。今まで信仰していた神様と別の神様とを合わせて、一つの神様としてお祀りするなど、普通できるものではない。人々が不満を高めたのも無理からぬことだと私は思う。結局、現在では大聖寺の住職の方が杉岳神社を管理しており、神社のこまごまとした雑用もおこなっているそうだ。一方樋口神社は、年に数回神主さんが来る程度だそうだ。
28.鉱害について
鉱害はあったそうだ。その鉱害とは、水が出なくなったこと、そして地崩れが起こりやすくなったことだ。しかし、この鉱害は紙面上では認められていないという。その原因は、次のような点にあった。
昭和43年ごろに炭鉱が閉山すると、議員さんが、杉岳地区は地滑りが起こりやすい地区になっていると言いに来たそうだ。このとき、北方の平坦部と東北部は鉱害区域に指定されたにもかかわらず、それより上側の杉岳地区は鉱害区域として認められなかった。杉岳の人々は、鉱害の影響を受けているのではないかという思いを抱いていたが、政府に足元を見られたために鉱害認定を受けることができなかったそうだ。
「部落400人は、大聖寺の修理と引き換えに、鉱害の影響を受けていないという証明書に判を押さなくてはいけなかった。みんな泣き寝入りせにゃならんかった。」と諸石さんは悔しそうに語っておられた。というのも、実際には炭鉱の採掘により水が出なくなり、谷中の田畑に水か行かず、人々は多大な迷惑をこうむっていたからだ。交通費だけで一万円かかる福岡の通産局まで、むしろばたを立てて訴えに行くことも考えたが、一万円もの大金を出す余裕はなく、結局断念せざるを得なかったそうだ。「地すべり自体を何とか考えてくれないか」と今の町長に掛け合ったこともあったそうだが、「建設省がうんと言わない」と言われ、どうすることもできなかったのだそうだ。地すべり地帯なので道を作ることもできない。それどころか、分校に運動場をつくることすらままならない。この影響もあって、部落は発展できていないのだそうだ。
「何十年と経っているばってん、地すべりが一番の癌です。」「大聖寺までの表玄関ば作りたかばってん、東京がうんと言わんのです。それで今、私も無理言ってげこう場所ないと神社は提携するけんが、げこう場所ぐらいどがんかといって、ようよかいよがかなったばい。げこう場所をつくるが大々的にはいうことな。それがうちの部落の癌です。こうした言葉を辛そうに仰っていたことが印象的だった。鉱害も認められず、生活は苦しい状態で放っておかれている。このような部落があるとは、調査に来るまで私たちは夢にも思わなかった。
29.謝辞
今回の調査は、歴史を考えるという方法の中で、今まで経験したことのないものだったので、私たちにとってとても貴重な体験となりました。また、現代社会に対する意見をお聞きすることができ、様々な面において勉強になりました。今回の調査で、ご多忙の中、私たちの聞き取りにご協力くださった諸石和之様(大正10年生まれ)、そして原口ご夫妻に、この場を借りてお礼を申し上げます。
☆杉岳地区の絵図☆