北方町白仁田 現地調査レポート

1LT03004 生田雅子

1LT03157 吉見麻衣

 

<お話を伺うまで>

「白仁田入口」。その白い小さな表示から始まった細い横道にバスが入ると、窓から見える景色は突然変わったように思えました。先ほどまで両側に広がっていた田んぼや、ぽつぽつ点在していた家もなくなり、見えるものといえば山を分けるように続く道のみ。狭くなったり広くなったりする道をバスが上っていく間、人っこひとり、対向車一台見かけることがありません。朝から降っていた雨も、ここに来て勢いを増し、余計に「静かなところだ」という印象を強く受けました。

6月28日土曜日。佐賀県杵島郡北方町大字大崎の白仁田という地域の調査にやってきた私達がバスを降りたのは、ずっと一本道で来たこの山道が二股に分かれた辻のところでした。そこには道標が立っていて、右の下り坂を指して「白仁田」、左の道を指して「杉岳」とありました。バスはもう、これ以上先には進むことはできません。バスを降り、杉岳担当の人たちと別れた私たち――白仁田の担当になっていた私たち二人と、手伝いに来てくださった大学院生の本田さんは、木々が両脇に生い茂る狭い道を下っていきました。

今回他の班と違って特別に院生の方が手伝いに来てくださったのは、事前に連絡をとってお願いした方がどうしても都合がつかなかったために、当日現地で調査に協力してくださる方を探さなくてはならなかったからです。そのことは、こういった調査がまったく初体験の私たち二人にとって大きな不安材料でした。

さて、私たちはくねくねと曲がった見通しのきかない下り坂をどんどん降りていったわけですが、道の脇に小さな畑やお地蔵様が見え出したころ、突然視界が開けました。道はまだ下っていますが、その下りきった向こう側に、何軒もの家や畑などの集まりが見えたのです。周りは山に囲まれていて、というより、山の合間に作られた集落と言った感じでした。急な斜面には、棚田や段々畑などがたくさん見えます。私たちの住んでいるところとはまるで違うのに、なんだかどこかでみたような懐かしいような、不思議な感じがしました。その坂道を一番下まで下りていく間に牛(ほとんどが子牛でした)を飼っている農家や、古い墓地の前を通り、下りきったところには小さな神社がありました。事前に地図で確認していた、天満神社です。その隣には公民館がありました。その向こうには細い道の両側に畑や田んぼが広がっていて、家も多くなってきます。そこで私たちは、外で何かの作業をしている方を見つけました。本田さんが声をかけて事情を説明したところ、自分じゃよくわからないからといってある方を紹介してくださったのです。それが、今回話を伺った小山彰さんでした。

紹介を受けた私たちは、お昼時を避けて白仁田の中をもう少し回ったりご飯を食べたりして時間を潰すと、さっそく私たちは小山さんのお宅を訪ねました。突然の訪問で、最初は家族の方も戸惑っていらしたようですが、「少しの時間でもいいので」と言ってお願いし、協力していただけることになりました。(といって、結局ずいぶん時間をかけてしまったのですが・・・・)。やっと調査の目途が立ってほっとした私たちは、さっそく地図や資料を広げて、お話を伺ったのでした。

 

<小字について>

私たちはまず、白仁田や、白仁田近辺の地域の小字について伺ってみました。小山さんは小字のことを「これは行政上、図面上の地名で、呼び名とは違う。」と説明してくださった上で、地図を見ながらその読み方や地形、位置関係について詳しく教えてくださいました。

 

小字

読み方

補足

白仁田

シラニタ

盆地になっている。「シロニタ」といわれることもあるが、「シラニタ」が正しい。

水ノ元

ミズノモト

 

川頭

カワガシラ

浄水場と笠石の間に当たる。水ノ元の西。

笠石

カサイシ

高いところ。

黒肌

クロハダ

白仁田の南。

マキ

黒肌が峰をなす向こう側(南)。

堤ノ谷

ツミノタニ

牧の北。私たちがバスで上ってきた道路を挟んで西側が堤ノ谷、東側が牧。百堂の下。

入道

ニュウドウ

笠石の南、川頭の西。さらに西側の百堂との間は山で、川頭との間は谷(川)で分かれている。

百堂

ヒャクドウ

杉岳分校の上。

松尾口

マツオグチ

堤ノ谷、長谷の北。

長谷

ナガタニ

堤ノ谷と同じく百堂の下で、堤ノ谷とは山で分かれている。

高取

タカトリ

松尾口の北。

今山

イマヤマ

黒肌が峰をなす向こう側で、牧と接近。

長崎自動車道の近く。

白仁田の辺りはとにかく勾配が急で、笠石と牧で200m、白仁田と笠石で150m〜200m、白仁田と水ノ元だけでも150m近くの落差があるということでした。堤ノ谷と牧との間にも落差があるそうです。

また、百堂の下には元々細長い谷があって、それが下から高取、松尾口、長谷と名付けられているそうです。

 小山さんがおっしゃるには、これらはすべて台帳上の地名であるため、80歳くらいの人は普通、地区で使う呼び名は知っていても、小字は知らないそうです。小山さんは、自分は昔事業に取り組んでいたから知っているのだとおっしゃいました。

そこで、ひとつ疑問が生まれます。

 

<閑話休題>

「小山さん何年生れなんですか?」

小・「わたし?何年生まれんごた?」

「あはは、教えてください。」

小・「平成10年じゃなかよ。」

「あははは(笑)。」

小・「戦争行ったよ。」

「あ、行かれたんですか?」

小・「戦争行ったっちゅうことはいつん頃と?」

「えー、昭和じゃあ・・・えーっと」

小・「戦争行った人はね、昭和3年くらいまで。」

「ですよねぇ。」

「え、小山さん大正なんですか?」

小・「大正12年。」

「ええっ!!??」

「じゃあ今8・・」

小・「80歳。」

「えええええっっっっっ!!!!!!!?????」

と、私たち三人は大騒ぎ。

なぜかというと、小山さんはとても若く言葉もすごくハッキリしていて、私たちは皆60〜70くらいだろうと思っていたからなのです。さらに驚いたことに、なんと小山さんは非常勤ではあるものの、未だ現役で北方町の役場に勤めていらっしゃる方だったのです。実際戦後の農地改革の頃、新農村建設事業に関わっていらっしゃったとのこと。言われてみれば納得、小山さんは本当に白仁田だけではなく他の地区の事まで大変詳しかったのです。それなら、ということで次に私たちはその「小字ではない呼び名」のことについて伺ったのでした。

 

<呼び名について>

まずは白仁田のなかで、正式な地名ではない呼び名を伺いました。大きく分けると3つあって、

コウビラ

(一度だけタカヒラとおっしゃいました)

小山さんの家を含む。坂を登ってきた高い所。白仁田の3分の1

ドウノウエ

辻から坂を下ってきた、お墓がある辺り。

神社の上に当たるため。

シタグミ

コウビラとドウノウエを除いたところ。

白仁田の中で一番土地が低い。

さらに、シタグミの中で神社に近いところ(ドウノウエの下に当たる)を「テラノシタ」と言ったりもするそうです。なぜ「寺」なのかを尋ねたところ、昔(昭和10年頃まで)はお宮の所に一緒に天徳寺というお寺があったそうなのです。しかし、寺号を多久市の方に持っていかれ、完全に廃寺となったそうです。今ではお堂を小さくして、観音様だけが残っているとか。昔でも、小山さんが知るかぎりでは住職はおらず、ただ、小山さんのお父さんと同年代くらいでかつで住職をしていたと言う人はいたそうです。明治後期辺りだろうとおっしゃっていました。

 

また、他の小字における呼び名についても教えてくださいました。

呼び名

そこの小字

由来等、補足

ヨコミチ

百堂

文字通り、道が横に通っているから。

ナガタニ

松尾口

長谷というのは松尾口の北にある小字名ですが、実際は松尾口のあたりも「ナガタニ」と呼ぶそうです。

ドウマン

黒肌

葦屋道満に由来する。祠がある。

スナクダシ

黒肌

地盤が柔らかいところ。地形が崩れたことが由来?

カンノンヤマ

江戸時代に殿様が馬を飼っていた場所なので、馬頭観音があることが由来。牧という地名もそこから付けられた。

ナンコバ

水ノ元

川頭との境まで広がっている。

「こば」と言うのは畑のこと。

トンコバ

さらに、私たちの持っていた「北方町史」の地名(呼び名)に関する資料の中で、知っているものについて教えて頂きました。

呼び名

そこの小字

補足

ウツボダ二

払川

 

ゴンゲンババ

今山?

資料では「ゴンゲンバル」となっていた。今山の西で、東宮裾の辺り。権現山というお宮がある。

フナキ

 

東宮裾で、ため池の近く。

ヤツマオ

 

西宮裾の辺り。

資料の中には聞いたことの無いものも多かったようですが、その中に「シラニタヤシキ」というものがありました。お話によると、その地名自体は聞いた過去とが無いけれども、小山さんのお宅のすぐ前に、昔庄屋さん(殿様)の屋敷があったそうです。最後の庄屋さんが亡くなったのは昭和16年ごろで、お屋敷も昭和40年ごろになくなって今は小さな運動場になっています。そこの庄屋さんは白仁田の50%の土地を所有していたそうなのですが、戦後の農地改革でほとんどが小作人に解放されたと言うことでした。(ちなみに、残りのうち30%が自小作をやっていた小さな地主さんで、この方たちも解放の対象となっています。小山さんのところも隣の部落に持っていた土地を不在地主で一町歩ほど取られたそうです)。

呼び名については他にも「どっさりと知っている」とおっしゃっていたのですが、時間の関係上全てを教えてもらうことができなかったのが残念です。また、畑や田んぼに名前が付いている、ということはないようです。

 

 

ここから先は、農業や神事など、農村の生活についてお尋ねしました。

<焼畑について>

その辺りでは「ヤキバタ」というそうですが、話に聞いただけで小山さん自身はやったことはないそうです。ただ、害虫駆除のための火入れなら若い時分にやっていたとのこと。

昔は、町有林を野焼きしていて、特に土地を持たない人は地主さんから土地を借り、木を切る代わりにそこで農業をさせてもらっていたそうです。

 

<川の名前と炭鉱について>

白仁田の中には小さな川が流れています。その川の名前を伺ったところ、この辺りでは白仁田川といい、それが向谷川、牛津川、六角川へと繋がっているそうです。

 次に小山さんは炭鉱のことを話してくださいました。北方町には以前西杵(ニシキ)炭坑という炭坑があり、多久のメイジザカ炭坑と坑内を結んでいたということです。しかし、水が枯渇したり土地が傾いたりといった鉱害があって、昭和48年に閉山。今は廃坑になって、坑内に水が溜まっているため、それを機械でくみ上げて川に捨てているんだそうです(そうしないとアカミズとして吹き上げてくるため)。

 

<みかんについて>

小山さんのうちでは今は何を作っていらっしゃるのかとお尋ねしたところ、90%はみかんで、米も作っていると言うお答えがありました。多久の白仁田も含め、その辺りの地域は昔から有名なみかんの産地なのだそうです。ちなみに加工用は一割程度で、今はほとんど成果しかとらないのだとか。他にもその辺りでは桃の栽培もやっているそうです。

  お話を伺っている間に、みかんジュースと桃をごちそうになりました。大変、おいしかったです。ありがとうございました!

 

<田んぼと水について>

白仁田には棚田が多くあります。そこでまず、水のことについて尋ねました。

お話によると、棚田地帯というのは大体地下から湧き出る自然流から引いていて、それをせき止めて上から流し、上の田でいらない分が下に流れてくるという仕組みになっているそうです。そこで次に、水利権についての争いなどはあるかと言うと、「もちろんある」とのお返事が。水を引くときにパイプなどにひっかかると水利権の紛争になり、上から引くことはできません。また井堰には管理権があって、それを飛び越えて水を引くことはできず、そこから漏れた水を下でまた堰きとめて管理することはできます。これらのことは道徳的、常識的なルールだそうです。

 

<田んぼと災害について>

 次に、災害について尋ねてみました。平成6年の旱魃のことについて聞いてみますと、意外にも「ああ、大旱魃ではなかったけどあったねえ。」というお返事が。では、ひどい時の旱魃についてお聞きすると、ずっと前(昭和43年ごろ?)に自分の家で食べる保有米も無いような大旱魃があったそうです。幸い、ここ最近ではそこまでのものはないとか。そういう時には、タンクで水を汲んで上のほうまで運んだりもするそうです。普通旱魃だと、上の方の地域の方が被害が多いのだと小山さんはおっしゃっていました。

 逆に大雨の場合、この地域は土砂崩れの恐れがあるそうです。実際、私たちも白仁田の中をまわっているときに「指定地域」を示す看板をいくつか見ていました。120〜200ミリの大雨が降ったときは山が水を含み、含みきれなくなった時に柔らかいところから吹き出す山潮(ヤマシオ)というのが災害の中で最も恐ろしいものだということです。小山さんは笑いながら「ナイアガラのようだ」とおっしゃっていましたが、その形容が山潮の脅威を物語っているのだと感じました。

 では、これらの自然災害に対して何らかの予防のための神事などはあるのでしょうか。そのことについて尋ねてみますと、今尚行われているものも含め、多くの神事や儀式が存在することがわかりました。二百十日の風籠(カザゴモリ)は今でも毎年行われており、お酒を飲んで神様にお祈りをするそうです。また、それとは違う雨乞いの儀式としてかつて行われていたものに、高いところにいらっしゃる「弁天さん」(弁財天)を担いできて、水(六角川)にざぶんとつける神事があったそうです。(このとき「ざぶんとつける」という言い方が可笑しくて、笑いが起こりました)。小山さん自身はこの「ざぶんとつける」に参加したことはないそうですが、それでも若い頃にはやはり弁天さんの所へ太鼓を叩いて祈願に行ったとおっしゃっていました。そもそも弁天さんというのは普通山間の部落にはどこにでもいるもので、白仁田周辺では入道の山の一番高いところ(小山さんの地域)と、水ノ元の山の一番高いところ(違う部落)にいらっしゃるそうです。

台風予防の神事としては、先ほど述べた風籠がそれに当たります。

また、これらの災害の被害にあうことなく、無事に済んだことを感謝する彼岸祭というものがあり、また田植えが終わった後すぐに行う田祈祷というものがあるそうです。田祈祷は主に二つの意味で行われます。ひとつはもちろん、五穀豊穣を祈る意味。そしてもう一つは、田植えの間に鍬や鋤で虫などを殺してしまった、その供養の意味だそうです。田祈祷は今でも行われていて、小山さんのところも行ったばかりだとおっしゃっていました。

<さなぼりと田植えについて>

 小山さんは次にさなぼりについて語ってくださいました。さなぼりとは、先に述べた田祈祷をすませてから行うもので、気休め程度ではあるが、田植えで疲れた体を休めるために近所で集まって食べたり飲んだりする打ち上げのようなものなのだそうです。近所の中でも年齢層でグループを作って集まるのだそうですが、たいていは皆さん夫婦で来られるのだそうです。次に、田植えの時に歌う田植え歌があったかお聞きすると、小山さんはこのあたりにはなかったとおっしゃいました。ただ、武雄市の川の上あたりにはまだあるともおっしゃっていました。田植えのお手伝いをする早乙女が来たかお聞きすると、早乙女という言葉は聞いたことしかないと答えてくださいました。小山さんがお聞きになっていた早乙女とは神社の神事の中で田植えをする女性のことだそうです。田植えのお手伝いさんですが、昔は農繁期になると他の部落からお手伝いに来る方もいらしたそうです。しかし、今は田植えのほとんどを機械でするので、他から手伝いに来るようなことはないとおっしゃっていました。昔は何せ人手が足りないので、少しでもその穴を埋めるために皆で共同で作業を行っていたそうです。そうした共同作業は「ゆい」と呼ぶものらしいのですが、小山さんの地域では「いい」と呼ぶのだそうです。

<害虫駆除について>

 害虫がつくことがあったかお聞きすると、「そりゃー、あったさ」とお答えになり、その口調から大変さが伝わってくるように感じました。現在は数時間前にしろ数日前にしろ、田植えをする前に箱苗に虫が卵を産み付けない様にする薬をかけておくのだそうです。すると苗が薬を吸って成長するので、少なくとも20日間はそのまま放置して、田植え後の3時間は田んぼの中には入らないのだそうです。その後は個人で農薬をかけたり、指定区域内にのみかけたりするのだそうです。昔から農薬は使用していた、とのことですが、ずーっと昔はふじいしというものを行っていたとおっしゃいました。それは薄い油を田んぼにまき、足でけってまわって葉にかけて虫を殺すというものだそうです。また、害虫はもちろんみかんやもも等にもつくので、それらには農薬の原液を何千倍かに薄めて液状にして葉に散布するのだそうです。今でも年に5,6回は散布する必要があるとのことです。ここで、小山さんは有機肥料の説明をしてくださいました。根菜などの場合、農薬による薬害なしに良いものを作るには有機肥料を使う必要があるのだ、とおっしゃっていましたが、今は無農薬野菜などの薬害のない、安全な野菜を消費者が欲しており、そうした消費者ニーズに合わせて作り手の製法を変えなければならないのだ、と話してくださいました。

<牛について>

 随分先にも述べたのだが、この地域には牛(主に子牛)を飼っている家があった。そこで牛を飼う目的についてお聞きすると、それは畜産であり、畜産には3通りあるとおっしゃいました。乳絞りのための酪農牛と、子を産ませて子牛を育てて市に売りに出す生産牛と、食材である牛肉のための飼育牛の3通りだそうです。この地域で飼っている牛のほとんどは生産牛なんだそうです。田んぼで牛や馬を使うことがあったかですが、役牛(えきぎゅう)といって、家畜で田んぼや畑を耕し、運搬も家畜で行っていたそうです。小山さんの地域のように山間部では牛を使うことの方が多かったそうですが、平坦なところでは馬も使っていたそうです。昭和30年に機械を導入するまでは、耕すことから運搬まで牛を使っていたので、「牛は朝飯を一番よく食う家族だった」と笑いながら話してくださいました。さらに、雄牛の世話が大変だったかお聞きすると、牛も馬も畜生だから、その世話には危険が伴う、とのことでした。しかしそれは経験したから言えることで、小山さんの息子さんの代になると経験していないからわからない、とおっしゃっていました。

<博労さんと行商人について>

 本田さんが博労(ばくろう・ばくりゅう)さんはいましたか、とお聞きすると、「よくそげなこと知っとるねぇ」と感心なさっていました。博労さんとは、牛や馬を売ったり交換したりしに来る人のことだそうですが、白仁田には趣味で牛を扱っている人がいて、その人が杉岳にいる本職の人の仲買いをしていたのだそうです。牛や馬以外はどうしていたのだろうと思い、他の地域から行商人がやってきたかお聞きすると、戦後10年くらいは闇買いさんが来ていたとおっしゃいました。その後はなじみの行商さんが来ていたので、塩、呉服、衣料などの当時の貴重品や、その他の不足している日用品を自分の家でとれた農作物と物々交換していたのだそうです。また、衣料は特に貴重だったので、切符制で一枚一枚点数が決まっていて、一人あたり20点までだったと小山さん自身の服をつかみながらわかりやすく説明してくださいました。(そして小山さんは「地域と歴史はなじみが深いんだよねぇ」とおっしゃいました。本当にその通りだと思います。その土地の生活に歴史が反映されているのだ、と思いました。)

<自然と生物について>

 次に川に生息していた生き物について尋ねると、「あー、昔は魚もおったね」とおっしゃり、ふな、どじょう、どんぽ、うなぎ、なまず等の名前を挙げてくださいました。私たちは「どんぽ」という生き物を知らなかったのでお聞きすると、頭が大きくて、黒い生き物で、なまずと同じ種類なのだそうです。ただ、どんぽにはひげは無く、今は有明海にいる、とのことで、現在の名前を思い出そうとなさっていましたが、その生物の名前はわかりませんでした。(ちなみに思い出そうとなさっていた時にお嫁さんが「わらすぼ?」とおっしゃり、それとも違うと小山さんはおっしゃっていたのですが、わらすぼという生物も私は初めて聞きました。)さらに小山さんは「昔はちょっと石ころを崩すとすーぐ子連れの蟹が見つかりよったのにいまはそういったのが無くなってしまったねぇ」と懐かしそうに、また寂しそうにおっしゃっていました。ただ、本田さんが蛍がいるかお聞きすると、最近は蛍は少し増えてきたとのことでした。川底がコンクリートになってしまっていたために、蛍は水草に卵を産み付けることができずに減っていたらしいのですが、河川の改良に山石を使ったり、農薬の被害を減らしたりしたことで自然が帰ってきた証拠に蛍が増えてきたのだろうと小山さんはおっしゃっていました。

EMTについて>

 ここでお嫁さんが私たちにEMT(イーエムワン)というものを紹介してくださいました。EMTとは農薬ではなく、糖蜜で微生物を培養して作る原液で、琉球大学農学部生物生産学科教授の比嘉照夫さんがEM菌を見つけたことに始まるそうです。EMTは田んぼにも川にもトイレにも野菜にも使うということで、その用途は多岐に渡っているようです。また箱苗に使うと、根の活性が良くなるそうです。北方町では婦人部で取り組んでおり、小さな工場で作っているそうです。EMTの匂いをかいでみると、糖蜜で培養し、黒砂糖も入っているせいか、甘い香りがしました。EMTは糖蜜で培養した後に米のとぎ汁を加えてさらに培養するそうです。米のとぎ汁は一番へどろになりやすく、そのため微生物のえさに調度いいのだそうです。米のとぎ汁を加えた後は2,3日おいて発酵させると色が変わり、完成となる、とのことでした。実際に2,3日発酵させたものと朝培養したばかりのものを見せてもらうと、2,3日おいたものは白っぽく濁っていました。自然を取り戻し、蛍などの生物がまた増えるようにするために、北方町では精力的にEMT作りに励んでいるようでした。また、自然を取り戻す動きは有明海にも見られるようです。先ほど小山さんの蟹のお話を書きましたが、蟹が減り始めたのは約20年前からで、20年経った今、有明海の魚介類がなくなりつつある、という事態に見舞われているそうです。そこで有明海を上からきれいにしていこうということで、六角川をきれいにしようという動きもあるそうです。

<祭りと盆踊りについて>

 ここからは日常の生活がどのようなものであったかについてお聞きしました。

まず、この地域にお祭りがあったか尋ねました。お祭りはいろいろあり、地蔵さん祭りとか花見とか氏神さんの祇園祭などがあって、大勢で集まって楽しく騒ぐのだそうです。白仁田には菅原道真を祀る天満宮があるので、全国の天満宮と合わせて25日にお祭りがあるのだそうです。こういったお祭りはこの地域ではまだ今でもあっているとのことでした。次に、お祭りの時に盆踊りがあったかお聞きすると、昔は白仁田でもあっていたのだそうですが、今はもうないということです。ただ、白仁田だけではあっていないが、北方町では今でもあっているとおっしゃっていました。

<わっかもん宿について>

 結婚前の男性が集まって寝泊りする宿があったかお尋ねすると、わっかもん宿という宿があって、小山さん自身結婚前にはそこで寝泊りしていたのだそうです。当時は教育グループの中に青年団という厳しい団体があり、それをもっと近い言葉でいうとわっかもん宿になるのだそうです。そのためわっかもん宿と言ったり、青年団と言ったり、青年クラブと言ったりしていたのだそうです。その宿は天徳寺にあり、白仁田の未成年・成年の未婚の男性が集まっていたのだそうです。わっかもん宿は白仁田には天徳寺にあったが、他の地域にも同じようにあり、どこにでもあったとおっしゃっていました。

 また、興味深いことにわっかもん宿にまつわる、女性を呼ぶ歌があったのだそうです。小山さんもふざけて歌われていたそうで、どんな歌か歌っていただきたかったのですが、小山さんは恥ずかしがられて歌ってはくださいませんでした。しかし、他の地域とは異なる特別な例として、白石という地域の歌を紹介してくださいました。白石は今で言う女性参画の町で、女性が強く、また女性に選ぶ権利があったのだ、ということです。そこでできた歌とは次のようなものでした。

 

白石変なところ おなごから通う 男寝て待つ

 

インパクトのある歌で、しかも状況がすぐに理解できる、なかなかにいい歌であるように思いました。思わず笑わずにはいられない歌です。

<他地域との交流と結婚について>

 次は、多久と白仁田で結婚するようなことがあったかお聞きしました。それはもちろんあったようです。そもそも当時の結婚はいとこ同士など親戚同士ですることが一番多く、次に多かったのが地域での結婚だったそうです。戦争があったために恋愛結婚はほとんどなく、親や近所の人のお世話で見合いのようにして結婚することの方が多かったそうです。

また、よそから来た若い人とけんかすることがあったかお聞きすると、それはやはりあったそうです。男同士、縄張り(この表現に笑いが起きました)があったのだそうです。けんかの一因として、白仁田の若い女性がよその部落の男性にちょっかいを出されたため、というものもあったそうです。逆に、白仁田の男性がよその部落に乗り込んでいくこともあったそうです。

<もやい風呂・よばい・力石について>

 もやい風呂(男女混浴の浴場)があったかについてもお聞きしてみました。すると、多久の殿様が特にもやい風呂を好んでいたので、多久近辺には川沿いにいっぱい設けられていた、というお答えが返ってきました。「あれは優雅なところでねえ」と笑いながら小山さんは語ってくださいましたが、当時では話の場、そして娯楽を含めた場所として大切だったそうです。入浴の際には年齢の順序といったものもなく、若い女性と一緒に入れるか、などは全て早い者勝ちだったそうです。3人くらいがおけの中で、2人くらいがふちに座るので1度に入れるのは5人くらいだったということです。もやい風呂には蒸し風呂などもあるそうですが、この地域のもやい風呂は石炭でお湯を沸かすタイプのものだったそうです。多久近辺にもやい風呂がたくさんあったことについては先ほど書きましたが、多久と白仁田が共同で使っていたわけではなく、多久と白仁田で交代で使っていたのだそうです。また、小山さんは私たちにあまりなじみの無い五右衛門風呂についても説明してくださいました。五右衛門風呂は金属製の釜に水を張り、下から温めることで湯を沸かす仕組みだったそうです。下から直に温めるので、釜の中に入るときには「げた」と呼ばれる板を沈めて、その板の上に乗ってから入るのだそうです。ふちが金属でできていると、熱で熱せられるので入る時に危険なのではないかと思ったのですが、危険なほどに熱くなるといったことはないということです。もやい風呂がいつまであったかは定かではありませんが、小山さんの予想では60になったばかりくらいの人はもう経験していないだろう、とのことでした。続けて、この地方でよばいがさかんであったかについてお聞きしました。よばいは東北と九州で特にさかんであったということです。東北地方については、小山さんが戦争に行かれた時、東北の方に聞かれたのだそうですが、東北では冬場はほとんど雪で覆われてしまい仕事ができないことがよばいがさかんな理由であるとのことです。先ほどのわっかもん宿も同様なのですが、よばいは田舎(特に白仁田のように入り組んだ山間の地方)では風習であったということです。小山さんも経験はあるとのことでしたが、先輩の下駄持ちや見張りもあえてしていたとおっしゃっていました。また、「そういった風習なんかから地名や今の慣習なんかも生まれてくるよね」とおっしゃっていました。次に、力石があったかについてお聞きすると、力石もあったのだそうです。力石は今で言うダンベルの要領で行うのだそうですが、当時わっかもん競争がはやっていたから、わっかもん宿で今の単位で60kg(昔の単位はかんめとかきんめとかであった)くらいの石や俵を持ち上げて、何kgまでいくかを競っていたのだそうです。力石に参加できたのは18歳からで、賃金なんかも18になって一人前と認められるのだ、とのことでした。

<電気・ラジオ・ガスについて>

 この地域に電気が通ったのがいつ頃からであるかお聞きすると、大正12年からとの答えが即座に返ってきました。(ほんとに即答であったので、正直私たちは驚きました。)電気が通ったのは割と早かったとおっしゃっていました。ラジオは第一次世界大戦後で、昭和23年くらいからなのだそうです。ガスが日常に定着したのは30年くらい前なので、昭和50年くらいからだとおっしゃっていました。ガスがなかった頃はまきやわらで火を起こしていたのだそうです。

<木炭・石炭について>

 また、農作物とは別に木炭も作っていたのだそうです。木炭はいい収入源となっていたのだそうです。ただ、作るのには手間がかかり、釜に入れて火入れをして、完全燃焼させて木炭の状態にするまでが少なくとも20時間、それを冷やすためにまた20時間がかかるので、木炭を作るのには4日くらいかかり、木炭にするための木をすべて木炭に変えてしまうまでには2週間くらいがかかるのだそうです。木炭は燃料以外に消臭、乾燥防止、水の浄化という機能を持つので、昔から重宝されてきており、今でも作っているところもあるのだそうです。ここから石炭の話になったのですが、白仁田の近くにある西杵炭鉱で石炭が取れるということで、小山さんの家にも西杵炭鉱からもらってきたという石炭があり、私たちは自分たちの目で初めて石炭を見たので、実際に触らせていただきました。(私は石の炭ってどういうものなのだろう、と思っていて、本当に石が炭になっているのか疑問だったのですが、触ってみて黒い炭が手についているのを見て初めて石炭というものを知ることができた気がしました。)木炭と石炭の違うところは、木炭は炎をあげて真っ赤に燃えることはないが、石炭は炎を出し真っ赤に燃えて熱を発するので、機関車などの燃料として使えるのだ、おっしゃっていました。

<小山さんと別れるまで>

以上で私たちの質問は終わったのですが、最後にナンコバやトンコバといった地名を地図に落とすのを手伝っていただきました。本田さんにも手伝っていただいたお陰で、順調に地図に落としていけたのですが、スナクダシの位置がよくわからずに混乱してしまいました。しかし、そこも本田さんのお陰でなんとか把握することができました。そんなこんなで、お聞きした地名を地図に落とし終えると私たちは小山さんのお宅を後にさせていただくことにしました。当初、私たちはバスを降りたところまで歩いて帰るつもりでしたが、お話を伺っている時に小山さんが「帰りは辻のところまで送ってあげる」と大変親切にもおっしゃってくださったので、そのご好意に甘えさせていただくことにしました。お話の途中でまたまた親切にも出していただいた桃の残りをすべていただいて、(柔らかくて甘くて本当においしかったです!!)お嫁さんとひい孫さんにお別れを言って、いよいよ私たちは小山さんのお宅を後にすることとなったのです。車で送っていただく時にも、小山さんはナンコバやドウマンの場所を指差しながら丁寧に教えてくださいました。(黒肌を通る時にスナクダシも教えていただいて、地図ではよく理解できていなかったのですが、実際に目で見てようやく理解することができました。)これらの呼び名の中には奈良時代から残っているものもあるのだそうです。また、車内で、これから先の息子さんの代にも農業で生活は成り立つかお聞きすると、「うーん、それは不透明ねえ」と答えてくださいました。今は中国の影響が大きく、国内産というだけで残っていけるかわからない、とおっしゃっていました。さらに、小山さんは杉岳分校にも連れていってくださいました。門のところには杉岳分校の百周年記念に作られたという記念碑がたてられていました。平成8年に百周年を迎えた時、卒業生が大勢集まって盛大にお祝いしたのだそうです。記念碑の裏に書いてあったのですが、小山さんは百周年記念委員会の委員長を務められたのだそうです。校舎の裏にまわると、グラウンドとプールがありました。この日は朝からずっと雨が降り続いていて、少しうっとうしかったのですが、グラウンドにはほんとにたくさんのアジサイが咲いていて、(しかもひとつひとつが大きい!)雨の中にアジサイが映えていて、それが本当にきれいで、初めて雨で良かったかもと思わされました。最後にそのアジサイに囲まれて、小山さんと一緒に記念撮影をしました。その後、分校を後にすると、私たちがバスを降りた辻まで送っていただき、そこで小山さんとお別れし、バスが来るのを杉岳担当の人たちと一緒に待ち、バスにも乗れたので、不安に始まったこの調査を何とか無事に終えることができました。

<調査を終えて>

 最初にも書きましたが、今回の調査は初めての経験であることに加えて、お話を伺う方を現地で探さなければならない、いわゆる「ぶっつけ本番」であったことがかなりの不安材料になっており、お話ししてくださる方がおらず、何も聞けずに帰ることになったらどうしよう、とそればかり考えていました。そんな中、こういった現地調査に慣れている本田さんの存在はとても大きなものでした。私たちがお話を聞ける場を提供してくださり、その他にもいろいろとサポートしていただいたお陰でこの調査を無事に終えることができたと思っています。この場を借りて深くお礼を申し上げさせていただきます。また、今回お世話になった小山さんに至っては、言葉では言い尽くせぬほど感謝しております。突然現れた大学生たちの質問に丁寧に答えてくださり、帰りまで送っていただいて、何から何まで本当に感謝しております。また、みかんジュースと桃をごちそうしてくださり、小山さんと一緒に質問に答えてくださったお嫁さんにも感謝の意を表したく思っております。「少しの時間でいいので」とお願いしておきながら、随分と長い時間いろいろなことをお聞きした私たちに対して、「いろいろ聞くねぇ」と笑ってくださり、ひとつひとつわかりやすくお話ししてくださり、ほんとうにありがとうございました。調査から少し時間が経ちましたが、白仁田の景色やいただいたみかんジュースと桃の味、分校のアジサイなどはまだはっきりと覚えています。一度でもこのような体験ができたことを大変嬉しく思っています。この調査をするにあたってお世話になったすべての方々に深く御礼申し上げます。本当にありがとうございました。