水曜日一限目

授業名 歴史の認識

教官名 服部英雄

レポート名 西宮裾

 

 松原桃子

横山佳奈

 

 

6月28日土曜日、天気はあいにくの雨。午前11時半頃、西宮裾の老人会長さんが紹介してくださった後川仁一さん宅に伺う。約束の時間より遅れてしまった私たちを後川さんは快く迎えてくださり、大黒柱のある座敷に通される。机を挟んで私たちの前に後川さんが腰を下ろし、聞き取りスタート。

 

後川さん自身が、事前に郵送した資料について前もって考察していてくださり、地名についての話をしてくださった。

 

西宮裾と東宮裾は合わせて宮裾と呼ばれ、宮裾の小字は正方形の形をした一町ごとに付けられている。これは区画整理をした時に付けられたものだと考えられる。また先生から配布された地図は、明治20年ごろに後川さんの三代前の後川五左衛門さん、東宮裾の山下宝太郎さん、原(名前は不明)らが責任者として、作成したものだそうだ。今もなお、近隣の100m以上の山には測量のときに造られた塚が残っている。また地図はわざと33cmの普通の尺ではなく、37cmの鯨尺で測られており、それによって少しでも年貢米を減らそうとしていたことが判った。

 

西宮裾は通称西浦と呼ばれ、西浦は西浦、八竜、馬場、高取、大西、経田といった地区で構成されている。それぞれの地区で8件から12件の家が集まって班を構成し、班の間で寄合が開かれた。西浦の班は、大西、出口、中組、川東、高取、上組、赤江などがあった。

 

以後は先生から配布された聞き取りのマニュアルを元に、村での農作業を中心に生活について伺った。

 

村では年に3回、祭りが開かれた。

春。班の家々が集まり、弁財天を祀るお祭りが開かれる。この祭りは昼夜の食事を集まってするというもので、後川さんは落雷がないことを祈願する祭りをかねていたのではないかとおっしゃった。ちなみに雷はこの地方の方言で、七神(鳴神のことか)さんと呼ばれており、家に雷が落ちても火災が起きなかった場合、火の神様と水の神様のご加護だと考えられていた。また田んぼに雷が落ちると、2m四方に竹を立てて、それを縄で囲い、御幣を縄につけて祀ったそうだ。

 

夏。9月1日、樋田神社において宮裾の規模で夏祭りが執り行われ、盆踊りなどがなされていた。10年程前に無くなり、5年程前から再度、執り行われるようになったという。

 

初冬。11月頃の米の収穫が終わったころ、班毎にそれぞれにあったお堂に集まり、新しく取れたお米で牡丹餅を作り、昼夜の食事をとるという祭りが開かれる。このお祭りは現在でも半分の班では、まだ継続されているそうだ。

 

屋号については、農家に屋号は無く、商人や庄屋の家ぐらいだったそうだ。

 

木舟神社には御神木で、毎年赤い実をつける大きな木があり、モチの木と呼ばれている。
 

山には昭和20年後半まで隠れ田という田があった。隠れ田とは渓谷などにひっそりとあった田を呼び、田の周辺の木を伐採し、そこに生えた草を田の堆肥として使っていた。木を伐採できる敷地は決められており、堆肥として人糞なども使われた。隠れ田は山道を通って、牛や馬を用いて耕作さていたが、機械の発達によって衰退したそうだ。現在は杉山になっている。

 

田んぼへの水は溜め池から引くのが一般的である。川は通っているが満潮の時には海からの塩水が入り込み、使えないのだそうだ。また水の流れについても、昭和30年から現在までは全く変わっていないとのことだった。村には水の使用権を含め、村の掟が存在し、実際に口にすることは無くとも、代代受け継がれ、それはかなりの拘束力を持っていた。後川さんは村の掟について、無条件に自然に永久に続くものであり、侵したらどうなるとかいう次元ではなく、侵そうとさえ毛頭思いもしないものだとおっしゃった。うまく表現できないが、掟は村で生活する上で最も根本にあり、掟があるからこそ村で秩序が保たれ、運営され、村自体が存在することができるのだということを強く実感した。ある意味閉鎖的とも呼べる村で生活を助け合う反面、掟がうまい具合に作用して成り立っていたのだと感じた。掟は一般の村人にとって自分たちを守ってくれるよう作用していたようだ。

 

水争いはあった。水の配分は時間などによって決められていたが、8月頃、水の量が減ったときは、水路をせき止めて水を横取りすることがあった。そんな時は寄合が開かれ、詮議され、調停がなされた。

 

昭和42年頃、7月9日に雨が降ったのを最後に45日間に渡って雨が降らないことがあった。その間、宮裾は水不足になり、近くの炭鉱から地下水をもらい、ポンプで田に引き入れたそうだ。六角川の近辺では大潮のときに、少しでも川の水を増やすため、苦肉の策で、川に塩水を引き入れそれを薄めたものを田に引き入れた。また一方で雨乞いもなされた。六角川の水を竹筒に入れ、その水を神前に捧げ、神主が祝詞をあげたそうだ。ただし現在では区画整理によって小さな川を集約し、川を広げ、常に一定量の水は確保されている。

 

また逆に、昭和32年の7月25日、長崎の本明川流域で大水害が起こった。このときは行政か農協の要請に応じて、村から長崎へ稲5束を拠出したのだそうだ。

 

溜め池ではフナが養殖されており、川にはドジョウが住んでいた。秋になると溜め池を干してフナを取ったが、次の年のために少し生かしておくのが常であった。しかしこれらの生き物はDDTとかいった除草剤によって現在では姿を消してしまったそうだ。

また昭和40年前半、主なタンパク源は鯨、さば、いわしなどであり、40年からは豚肉、45年からは牛肉へと移行したそうだ。後川さんは昭和40年代、ふざけてウシガエルを食べたこともあり、ウシガエルの味は鶏肉のようで意外とおいしかったとも教えてくださった。

 

以前、田んぼにはフナの稚魚がすんでいたが、現在では除草剤や白鷺が理由でいなくなったそうだ。また川にはフナ、なまず、ドジョウ、コイなどが住んでいたが昭和30年以降は姿を消し、現在では小さな川に、はやや、めだかがいる程度だそうだ。

 

麦の栽培は二条大麦が主流であり、その他にも飼料用の麦やビール用の麦が栽培されており、種類によっては食用されていたものもあった。米はひのひかり、もち米、酒用のれいほうなどが栽培されている。麦は土壌中の水の量によって栽培できる田とできない田があり、水はけの良い田でしか栽培することができなかった。村では区画整理の際、

それまで麦を栽培できなかった田を、人工的に水はけをよくしたため、現在では区画整理の行われたすべての田が一等田であるそうだ。

 

化学肥料導入以前、普通の田では1反あたり4俵から5俵の収穫が、隠れ田では1反あたり3俵前後の収穫が一般的であった。化学肥料導入後、1反あたり7俵から8俵のの米が収穫されている。麦は3俵から4俵の収穫が一般的であったが、区画整理後は5俵に増えた。そばは作っていないそうだ。また化学肥料導入以前の肥料について、大豆の油粕や、いわしを乾燥させて粉状にしたものを使っていたそうだ。試験的に直播が行われたこともあった。しかし直播は収穫量が変わらない上、草取りがかなりの余計な労力を必要とするために、以後作られることは無かったそうだ。

 

昭和30年以前、除草剤が導入される以前、稲を育てる上で最も労力を必要としたのは、草取りであった。田植田植えをしてから稲刈りまで、約10日おきに常に草取りをしなければならなかった。

 

稲の病気にはいもち病と呼ばれる、稲の葉に斑点がついてかれてしまう病気に悩まされたそうだ。害虫ではニカメイ虫とうんかに悩まされたそうである。ニカメイ虫は稲の茎の空洞の部分に入り込み、内側から食い荒らし、結果的に稲をからしてしまう。この虫には特に有効な対処方法は無く、ニカメイ虫の住み着いた稲ごと取り除かなければならなかった。一方うんかは外側から稲の蜜を吸って、稲をからしてしまう。昭和30年、うんかが大発生したとき、村では石油を村の田んぼに蒔き、ほうきや水をかけてうんかを稲から落としたそうだ。地面に落ちたうんかは、油が体について飛べなくなって死ぬのである。

 

草刈といった山の管理や水路の掃除は村全体で行っていた。その他、春と秋の年に2回、地ならしや草刈を行って道を整備などは村全体での共同作業であった。また葬式の時には班で炊き出しなどを手伝っていた。農作業や山作業にかかわる共同作業は、その性格からゆいとかせいの2種類に分けられる。

 

ゆいはお金のやり取りなしに仕事を手伝うのであるが、別の労働として返さなければならなかった。これをゆい返しといい、どちらかに労働力の提供が偏っている状態をかたゆいと呼んだ。ゆいは牛馬を含めた労働力で返すのが原則であるが、それが不可能なときは物で御礼をすることもあった。また労働力は年間を通して返すのが一般的であり、

草取りといった平素の農作業を手伝うといったものだった。

 

一方、かせいは労働力を含め一切の見返りなしに、労働力を提供することをいった。田起こしが行われる5月の半ばから、田植えが行われる6月にかけて、ゆいが行われた。宮裾では1町以上田を持っている家では、ゆいでは人手不足の場合、早乙女を雇うことがあった。また宮裾から他の村に早乙女として出向くこともあった。その場合、1週間から長くて20日ほど出向いた村で寝起きしたのだそうだ。

 

田植えの日、作業は午前4時半頃からはじめられ、午後8時頃まで続く。田植えが終わると2,3日後には、樋口神社でさなぼりが行われた。これは田植えの労をねぎらうとともに、稲の豊作を願うというもので、皆で食事や酒をとった。ここでゆい返しの配分が決定されたそうだ。ゆいにおける労働力の算出は以下のようである。

l         田植えの準備

0.5

l         田植え

0.7

 

村では約90パーセントの人が牛や馬を飼っており、そのほとんどは牛であった。ほとんどの村人が地主から土地を借りて小作する小作人であり、小作料は1反につき2俵、収穫の約半分であった。

 

後川さんは18歳から33歳まで自分の牛を飼っていたそうだ。牛には稲わら、野草、ぬか、残飯を食べさせていた。手綱については牛は1本、馬については2本が一般的であった。牛の中には気性の荒い牛がおり、つのや脚蹴りで人間に危害を加えることもあった。しかしそういう牛でも飼い主を攻撃することは無く、しつけや訓練によって、かなり制御することができたそうだ。また操作用の紐とは別にもう1本、鼻に紐を通して手綱にくくりつけることもあったそうだ。ここで、後川さんは牛には生まれながら定まった性格があるのだと教えてくださった。それは環境で形成されるのでなく遺伝的に定められたもので、人間にも同様のことが言えるそうだ。

 

馬の手入れについては、夏は毎日馬を川で洗っていたが、冬はあまり洗うことは無かった。丁後川は馬を洗うのによく利用されており、馬川とも呼ばれていた。馬は作業用の利用されたが、荷馬車として利用されるほか、農作業に使われることは無かったそうだ。一方、牛は滅多に洗うことは無く、時折、わらなどでこすってマッサージをする程度であった。これらの違いについて、後川さんは皮膚が違うからではないかとおっしゃった。牛は水で体を洗うと、皮膚が以上に熱くなったのだそうだ。また牛も馬も小屋にはわらを敷いていたが、馬のわらは3日ほどで発酵したのに対して、牛のわらは1日で発酵し、取り替えなければならなかった。これらは消化の度合いの違いによると考えられる。

**入り会い山について**

共有の山としては、国のものと町のもの、そして村のものがあったそうです。後川さんのところでは、「入り会い山」というのは国所有の山を指していて、村所有の山のことは村山(むらやま)と言っていたそうです。村山に植えられていたのは、松。理由は、松があまり肥沃でない土地でも育つことと、成長が早く、十年余りで切って薪にすることができるからと教えていただきました。そうやって作った薪は炭鉱のほうに資材として売り、収入を得ていたそうです。木の切り出しについては、特別な方法(木馬・路引き・川流し)は西宮裾にはなかったとのこと。馬や牛を使って運んでいたということでした。また、炭焼きはやらず、木を切ってそのまま出していたそうです。

 

 

**山焼き(キイノ・切り野、切山=焼畑)について**

西宮裾では山焼きは行われませんでした。草山を焼くこともなかったようです。

 

 

**山の幸について**

後川さんは、子どものころよく「山モモ」を食べにいったと言います。他には、「つくねいも」と呼んでいた自然薯の仲間?のようなものを採っていたそうです。

 

 

**川の毒流しについて**

昭和50年ごろまでは行われていたようです。よそから人がやって来て、毒のある木の根を川に流し、魚を捕っていったのを見たことがある、と話してくださいました。

 

 

**お菓子について**

「アメガタ」?といって、もち米で作ったお菓子があったそうです。(残り時間が気になり、詳細を聞けませんでした。残念。)

 

 

**食べられる野草について**

後川さんが食べていたのは、「ぎしぎし」と呼んでいた渋い味がする草や「おなごがやの穂」(ススキのメス?)でした。今のチューインガムのような感覚で食べていたということです。(昔のチューインガムは野草だったと聞いて、なるほど!と思いました。今ではいろいろなお菓子がお店に並んでいますが、昔のお菓子は自然の中にあったのですね。)

 

**米の保存方法、ねずみ対策について**

家の、米を保存する部屋で「すいぬか」に入れて保存したそうです。(「すいぬか」というのは方言で、もみがらのこと。)もみがらの中に入れることで、虫よけにも、ねずみ対策にもなっていたといいます。

 

 

**米作りの楽しみ、苦しみについて**

米作りの楽しみは「収穫」。それしかないのではないか?と後川さんはおっしゃいました。(なんともあっさりと言われ、私たちはなんとも返す言葉が見つかりませんでした。それほどきつい仕事をして生きてこられた後川さんの強いこと。)それ以外はまったくつらいことばかりだそうです。今はトラクターなどの機械ができ、仕事の効率も良くなりましたが、昔はすべてが手作業。田植えの時期ともなると、毎朝四時半から田んぼに出て、夜の八時まで働いたといいます。毎日10時間以上の労働です。田んぼ一丁作るのに、5人は必要だったそうです。(現代っ子の私たちには到底わからない世界です。朝四時から仕事と聞いたときには、思わず「朝の四時ですか!?」と聞き返してしまいました。10時間以上も腰をかがめてひたすら稲を植える。想像もつかず、ただただ感心するばかりでした。)

 

 

**昔の暖房について**

「昔の暖房は、囲炉裏か火鉢。それ以外はなか。」とのことでした。(私たちが生まれたときには、もう当たり前のように存在していた電気こたつやヒーター。しかし、ほんの少し前の時代には考えられない物だったのだろうと思うと、時の流れの不思議さを感じました。) 

 

 

**村への出入り(行商人・お坊さん・薬売りなど)**

村に来る行商人は何を売りに来ましたか?

「魚ね。海のもの、海産物よ。こっちでは獲れんぎ、売りにきたっさ。」と教えてくださいました。魚は有明の海で獲れたものを、武雄市、朝日町を経由してリヤカーで運んできていたそうです。後川さんのところでは、有明海で獲れた魚のことを「マエノ(ン)モン」と呼んでいたとのこと。おそらく「前の魚」という意味で、有明海が、「前」と呼ばれていたのでしょうか。これは昭和30年まで売りに来ていたそうです。

 

それから、洋服屋さん、入れ薬屋さんも来ていたといいます。入れ薬屋さんは、やはり富山の方から来ていたらしいです。

 

 私たちが、「かまどのお経をあげる目の見えないお坊さんは来ていましたか?」と訊ねると、「ああ、来ていたよ。年にいっぺんやったか、半年にいっぺんか。」と教えていただきました。あちらの方では「やんぶしさん」と呼んでいて、祈祷師さんのような感じでかまどにお経をあげてもらっていたそうです。かまどの神様(火の神様)は「こうじんさん」というそうで、どの家もきちんとお祀りしていたといいます。ここで後川さんのお家を見渡すと現在もいろいろな神様がお祀りしてありました!仏壇があり、神棚もあり、お金の神様もいれば、こうじんさんも祀っているそうで、たくさんのものに感謝を日々ささげておられるのだなあと感じました。農業生活をしていらっしゃるから鋭敏な感性をもっておられるのでしょうか、人と自然との本来の関わり方とはこういうものなのだろうと敬虔な気持ちになりました。自然を畏れ敬い、感謝をささげる。これは、現代忘れかけているけれども、とても大切な考え方だと思います。

 

 「川原やお宮に野宿して箕を直したり、箕を売りに来るひとはいましたか?」との問いには、「おったよ、年に何度か来よった。」とのお答えでした。特別な呼び名は無く、箕を直してもらっていたそうです。そのひとたちは、何箇所かの村を渡り歩き、お宮の境内などにしばらく居つき、そこで自炊しながら商売をしていたといいます。そのひとたちがどこからきたのかは、はっきりとはしないが、たぶん被差別地区からきたのではないだろうかと考えられていたみたいです。確かなことはわからない、ということでした。 

 

 

**医療について**

後川さんが子どものころから病院はあったそうです。病気になると、「ながたさん」というお医者さんへいっていたといいます。今はもうないけれども、むかしから病院を営んでいたところらしいです。

 

 

**米と麦**

米と麦の比率は、半々であったり、また、米一升に麦が三合などという風に混ぜて食べていたようです。しかし、あまり麦が多すぎるとおいしくない、という話でした。

(「麦めしなんて、食べたことなかろう?」と言われて、私たちが「給食で食べたことがあります。」と言うと、「でも麦は多くなかろ?」と尋ねられました。確かに、米の方が多かったです。)

 

 

**自給できるおかずとできないおかず**

自給できるのは、野菜類と川魚。海産物は買っていました。塩は海に作りに行っていたそうです。

 

 

**青年クラブについて**

後川さんも青年クラブに行っていたそうです。そこでは、夜だけ寝泊りするようになっていて、男性だけの集まりだったとのこと。「女性は行ってはいけなかったのですか?」と聞くと、寄り合いのときは女性も集まったという話でした。青年クラブでの規律は、そんなに厳しくなかったが、上下関係はあったそうで、上の言うことには絶対服従でした。ここで特に決まった仕事はないようで、火の用心や防犯みたいなこともしていたけれども、15歳になるとみんな必ず消防には入っていたので、青年クラブだから、というものでもないらしいです。後は頼まれて、何かの理由で仕事ができない家に手助けにいったりしたといいます(かせい)。また、お祭りのために太鼓や笛の練習をしていたそうです。そのことを「ふうりゅう」?と言ったとか。ケンカもしたそうです。よその祭りに出かけて行って、そこの若者とよくケンカした、と教えてもらいました。力くらべとしては「力石」などはなく、代わりに「すもう」をしていたようです。10月19日のおくんちにはすもうをやっていたといいます。それから、11月30日のかんなめ祭では、みんなで干し柿を盗みに行ったようです。これは暗黙の了解のようになっていて、干し柿を盗られたところも昔、青年クラブに入っていたころ干し柿などを盗んでいたので、許してくれていたのだとか。お互い様というところのようです。また、すいかも盗みに行ったよといたずらっぽく教えてくれました。すいかは「番小屋」という、すいかを盗られないように見張る小屋があったが、見張っているのは一人だからどうしても寝てしまう。そのすきに、すいかをもらってきたと楽しそうに話してくださいました。なんとも大らかで、おもしろいです。

 それから、犬も食べていたそうです。ここでも、犬を食べるとおねしょが治るといわれていたようです。飼っていた犬をつかまえてくるときもあり、犬肉とは言わずに「里肉」と言っていたとのこと。塩焼きにして食べていたそうです。

 

 

**「よばい」、恋愛について**

「よばい」はやはりあって、よその村から青年が来ることもあったけれどもそれは罪になることだったそうです。ケンカもしたようです。恋愛に関しては結構ふつうで、結婚は半分くらい親が決めていたといいます。「もやい風呂」も、各班に一つくらいずつあったそうです。

 

 

**村の未来について**

村はほんとうに変わってきた、といいます。新しい家が建ち、よそから人がやってきて、ずいぶん変わったと複雑な表情を浮かべていらっしゃいました。ここではないところで育った人は、やはり風習の違い、考え方の違いがあるのでなかなか難しい、ということです。遠いところからお嫁さんが来たりすると、子育てのことなどで考え方が異なり、いろいろとあるようです。

 

 

<この調査で感じたこと>

 最初はお話を聞かせていただく人がどんな方なのか、気難しい方であったら、うまくお話を聞くことができるだろうか、などと心配していました。しかしそれはまったくの取り越し苦労で、後川さんは大変優しく、お話し上手の方でした。突然の手紙に、急なお願いを快く引き受けていただき、本当に感謝しております。昔のむらの生活は、大変興味深く、長時間に渡って話してくださったこと、うれしく思いました。おむすびや漬物、コーヒーなども出していただいたのに手をつけないままにお話を聞き、またそんな私たちにつきあって昼食を食べ損ねてしまった後川さん、ありがとうございます。持たせていただいたおむすびはありがたくバスの中でたべました。漬物もおいしかったです。この調査では、昔の話も勉強になりましたが、人の心の温かさに改めて触れられたと思います。後川さんが最後に私たちにかけてくださった言葉、「人生はいろいろな人との出会いがあって、それによって多くのことを学ぶ。これからたくさんのことを勉強しなさい。」というこの言葉、心に刻んで大切にしていきたいと思います。本当にありがとうございました。

 

                          1LT03132  松原桃子