北方町北方の聞き取り調査

 

調査場所 佐賀県北方町

調査日  平成15年6月28日

調査者  1LT03041 木村 祐典

      1LT03052 後藤 秀彰

 

 

 

北方の地名

 

北方

   「北方」は「キタガタ」と濁る。「ガタ」は、「遠浅の海岸で、潮の干満によって見えかくれするところ」という意味の「潟」からきたという説と、大和朝廷時代の県の支配者である「県主」の「アガタ」からきたという説がある。前者のほうが有力か。 

 

大崎

  「崎」は「陸地が海中に突き出た所」という意味である。また、北方には、「海や湖などの、陸地にはいりこんだ所」という意味の「浦」が付く地名が多い。「北方」の意味と併せて考えると、昔は北方にまで有明海が続いていた可能性があると考えることができる。

 

  役所があった場所である。

 

犬神

  「舘」の戌亥(北西)の方角にあることから付けられた。

 

中々

  「チュウチュウ」と読み、渦巻く水の音を表している。

 

宮田

  お宮さんが祭りで使う米を生産していた場所である。

 

寺田

  寺の祭りで使う米を生産していた場所である。

 

屋敷の坪

  城があった場所か。

 

黒坊

  焼畑農業の地名で、「木の株」という意味である。

 

遅焼

  これも焼畑農業の地名である。ここでは1年おきに焼かれていた。

 

井出ノ元

  「井出」は「田の用水をせき止めてあるところ」という意味で、谷の水をせき止める場所である。

 

勢屯口

  戦国時代に軍勢が駐屯した場所である。

 

 

砥ノ木場

  砂岩、粘板岩などの天然砥石が採掘された場所か。

 

唐人原

  豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から多くの陶工が連れてこられたが、彼らが住んでいた場所か。

 

姥懐

  「ウバガツクラ」と読む。「ツクラ」はこの地方の方言である。

 

牟田

  湿地帯のベタベタした所という意味である。

 

丁の坪

  北方には、「七の坪」「八の坪」のような地名があるが、「丁の坪」は、「十の坪」の「十」の上の棒がなくなったものか。

 

 

久治浦

  「クジュウロウ」と読む。神様のいた場所という意味の「クチフル」がなまったもの。なお、久住山も「クチフル」からきている。

 

陣内

  戦国時代に、肥前の大名である龍造寺隆信が、攻めてきた際に陣を張った場所である。

 

樋口神社

  境内の裏に、鉄心という鍛冶屋がいた。「樋口」は「火口」からきており、火の神が祭ってある。

なお、貴船神社には水の神が祭ってあり、「火」と「水」という、人間が生きていくための最低条件が揃っている。

 

長崎街道

  小倉から長崎までの25の宿場を結ぶ228kmの街道。北方宿は25宿のうちの一つ。幕府測量方の伊能忠敬や長州藩士の吉田松陰など、多くの旅人がこの街道を歩んできた。

  なお、伊能忠敬の「壬申測量日記」(文化9年)には、北方の地名が正確に記されている

 

 

 

 

 

 

 

 

北方のむかしの様子

 

田んぼへの水はどこから引いているのか?

  山の溜池から引いている。北方は山や谷が多いために、溜池が多くできる。そのため、水に困ることはない。福富など他の地域にも水を送るくらい、水が多い。高い所から低い所へと、水が溜池から自然と田んぼに流れていく。

なお、西堤溜池は炭鉱用水に利用されていた。

 

水を分けるうえで特別のルールは?

  地区によってどこから水を取るか決められていた。大崎は浦田溜池から水を引き、それでも足りないときは、船木溜池、朝日ダムなどから水をもらっている。

なお、焼米溜池は寛政12年にできた人工の溜池である。

 

肥料は?

  田畑の肥料には、以下のようなものがあった。

緑肥…田に蓮華草を打ち込んで肥料としたもの。

干鰯…脂を搾った魚を干したものを、そのまま田畑に打ち込ん

    で肥料としたもの。昔は田畑に魚が突き刺さっている風景は珍しくなかった。現在は粉末にしたものが使われている。                                                  

じゅかい…貝の一種で、これも田畑に突き刺して肥料としたも

      の

下肥…人の糞尿を肥料としたもの。

油粕…菜種の油を搾った残り粕を肥料としたもの。

 

稲の害虫駆除は?

  中国大陸からウンカが大量に飛んでくる。これを駆除するため、鯨油を搾って小さな竹筒に入れ、水田に点滴する。鯨油によってウンカの気門は塞がれ、ウンカは窒息死する。

  なお、鯨は安価であったため、農家は塩漬けした鯨を主に食べていた。

 

米の保存方法は?

  それぞれの部落に、津蔵、郷蔵と呼ばれる蔵があり、そこで精米する前の米を保存していた。ネズミが来ないように板が張られていた。

 

牛や馬は?

  小さくて使いやすい対州馬が飼われていた。馬蹄が強いので、鉄蹄の代わりにわらじを履かせていた。

  また、明治43年くらいに、牛乳を売るために酪農をしていた。

 

もやい風呂(共同風呂)は?

  昔は家庭に風呂がなかったため、生活用水の川の横に風呂場を作り、当番制で風呂を沸かしていた。川で魚を調理したり、風呂の水を汲んだりしていた。

病気になったときは?

  診療所に町医者がおり、そこで予防接種などをしていた。

  また、北方は長崎に近いために蘭学が入ってきており、医学が他の場所よりも50年近く進んでいた。民間薬や薬草のほかに、オランダからの薬もあった。

  漢方も、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、大陸から入ってきた。

 

祭りは?

  旱魃や災害が多いときには、太鼓浮立(ふりゅう)といって、太鼓を鳴らして雨乞いをしていた。他にも、祇園祭や収穫祭などがあり、地区ごとにそれぞれ決まっていた。

 

共同作業は?

  「結」といい、忙しいときに、お互いに労働力を交換し合っていた。また、「三夜待」(男性)、「六夜待」(女性)と呼ばれる飲み会をしていた。

 

 

飲料水は?

  谷に泉が湧き出ており、そこから水を運んで飲んでいた。

 

木材の運搬は?

  樵が木を切ったあと、木製のソリに木を載せて、牛や馬に引かせていた。

 

農薬は?

  「ホリドール」という農薬を、若者が何人かで散布していた。しかし、「ホリドール」が劇薬であることがわかり、危険であるために廃止された。

  農薬により、水田や川の生き物が激減した。

 

戦中、戦後の様子は?

  戦時中、男性はみな戦地に赴いていた。戦後、戦地から帰ってきた人たちは、職がないためにみな百姓になっていった。田畑は荒れ果てていたため、植えなおして米を作っていた。しかし、地区別にまとめて米を納入していたため、家にはわずかしか米が残っていなかった。そのため、イモなどを混ぜて食べていた。

  明かりは、ランプやろうそくのほか、電力がないためにろうそく程の光しか出ない電灯を使っていた。

  また、当時は石炭の需要が高かったため、炭鉱は特別に優遇されていた。

 

むらが変わっていったところは?

  北方は炭鉱が多く、石炭の質がよかったため、昔は人口が多かった。多いときには2万5千人もいた。特に日露戦争が終わってからは景気がよくなり、大正時代には、学校も教室が足りず、午前と午後の二つに分けて授業をするほどであった。農家も農業の副業として炭鉱に行っていた。

  戦時中はもちろんのこと、戦後も朝鮮戦争が勃発したため、生産量が増加した。

  しかし、昭和35年前後に起きたエネルギー革命によって、主要なエネルギー源が石炭から石油に転換していった。それ以降、炭鉱の閉山が相次いだ。

  昭和47年、北方にある、佐賀県で最後の炭鉱が閉山した。

  平成12年4月1日現在、北方町の人口は8,992人。町の衰退は否めない。だが、北方には、全国に誇れる歴史がある。今後は、北方の歴史を前面に押し出した活動をすることが望まれる。