北方町東宮裾

LT03020    江越 真樹子

LT03015  入来 慶

 

    北方町東宮裾

私たちが北方町の東宮裾を訪れた日は、あいにくの雨で、実際に外を歩いて回ることはできませんでしたが、地域の方々のたくさんのお話を聞くことができました。私たちが訪れた北方というところは、武雄という盆地地帯からでたところにあり、1000年くらい前は海岸線だった地域です。実際に14〜15年くらい前に井戸から塩水がでてきており、また、朝日ダムの中からは、昭和15年に中世の鉄のいかりが出土しています。さらに、東宮裾と西宮裾があり、私たちが訪れた東宮裾は、西宮裾に比べると少し小さな地域です。また、東宮裾には、きれいなたんざく型の圃場があります。町の人々がおっしゃるには、これらの地域がきれいな直線で区切られているのは、もともとであって、土地改良をしたためではないそうです。さらに、この「宮裾」という地名は、宮の下に住んでいたという意味で、「宮下」と昔は書かれていたそうです。それが、明治時代から「宮裾」になったそうです。私たちは、この北方町でたくさんの地名についてのおはなしを聞くことができました。

 

    歴史的遺物が出土する北方町

  ここ北方町の東宮裾では、たくさんの歴史的遺物が出土しています。まず、弥生時代前期の甕棺です。それと同時に、ともえ型銅器、星型銅器、貸銭も出土しました。この星型銅器は九州で唯一この北方町から出土したものだそうで、北方町は古くからひらけた土地であったのではないかと、町の人々はおっしゃっていました。また、牧(マキ)という場所では、弥生時代のかまどが出土したそうです。さらに、山伏道というところからは、帷子(かたびら)が、トウジンバルというところからは、古墳時代中期の須恵器のかまどと馬のはにわが出土しているそうです。その他にも、仁安3年に建てられたクリカラ竜王というものがあります。これは、平安時代の石像で、平安時代の石像が出土したのは、ここ北方町のみだそうです。

 

    朝鮮との関わりの深い地名

  ここ北方町は、朝鮮出兵の際に陶工がつれてこられたそうです。そのため、初めて焼かれたかま跡がモチヤマというところにあるそうで、かま跡以外にも、朝鮮式焼物や朝鮮絵図がみつかったそうです。また、桜木(サクラギ)という地名がありますが、「サコ」というのは狭い場所のことをいうそうで、「ラギ」というのは、朝鮮語だそうです。「サコラギ」が「サクラギ」となり、ここも古くから朝鮮と交流があったのではないかと考えられています。桜木には天神さまがまつられているそうです。さらに、耳取(ミミトリ)という地名があります。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、諸将が戦いであげた手柄を示すために、敵兵の首を持ち帰っていましたが、あまりにぶっそうなので、首の代わりに敵兵の耳を切り取り、戦功状をもらっていました。この耳そぎが行われたのが、耳取で、昔は耳取橋という橋がかかっていたそうです。その他に、アシハラという地名があります。この地はヤソノという女王がいたという伝説がある地だそうです。昔の朝鮮語で女王のひらいた田んぼをアシポルといったそうです。この朝鮮語の「アシポル」が日本語になって「アシハラ」となったと考えられています。

 

    戦乱と関わりの深い地名

  町のひとびとのお話をききながら、地名には何らかの意味があるのだなあとしみじみ感じました。例えば、引町という地名は、軍勢がその場所で引いたからそう呼ばれるそうです。私たちが最も興味深いなと思ったのは、経田(キョウデ)という場所の中にある赤江(アカエ)という地名でした。赤江の「江」の字からもわかるように、元はこの場所は船つき場だったそうです。この場所は、南北朝時代に合戦が行われた場所だそうです。この合戦で敗れた南朝の人々が大勢討ち死にした場所だと話してくださいました。赤江の「赤」は、その討ち死にした人々の赤い血を意味しているのだそうです。このような赤江のように戦乱でながした血を意味する地名は北方にあと2ヶ所あるそうです。また「赤坂」という地名もあちこちにありますが「赤坂」の「赤」も血を意味しているのではないかとおっしゃっていました。地名に「赤」という文字がつく場所は、戦乱が行われた場所である可能性が高いようです。この赤江の裏に池がありますが、そこを油手谷(ユデノタニ)といいます。そこはかつて宮裾城がつくられた場所で、暖かい場所だそうです。また、そこには中世の墓があり、戦乱で亡くなった人々が大勢まつられている場所だそうです。真言宗の徳王寺という寺もあったようです。さらに、この油手谷の中に永林寺という寺があります。この寺は永禄8年に建てられたもので、マイシロ(ミャージョウと現地の人々は呼んでいるそうです)というとりでの跡があります。私たちがお話をうかがっていた公民館のすぐそばの停留所の横は、ドウヅカとよばれています。そこは、1350年(正平5年)に宮裾原の合戦が行われた場所だそうです。この合戦は7万人もの人たちが戦争したそうで、この合戦で亡くなった人々がこの地に埋められたそうです。また、この合戦で徳王寺も灰になったそうです。そのためか、このドウヅカをちょっと動かして、たたられ、体が動かなくなってしまった人がいるという少し怖い話もあるそうです。

 

    神に関する地名、神社、寺

ここ東宮裾には、樋口(ヒグチ)神社が陣内(ジンノウチ)というところにあります。「樋口」はもとは、「火口」とかかれており、字のとおり、火の神様がまつられています。裏にまつられている鉄心さんを宮裾の人たちは権現さんと呼んでいるそうです。この火の神様は古事記にも記されており、古事記にはミカズチノカミサマと書かれているようです。また、この神社には樹齢400年になる木もあるそうです。この東宮裾の火の神様に対して、西宮裾には水の神様がまつられている貴船(キフネ)神社があります。宮裾の人々はこの神様を明神さんと呼んでいるそうです。この貴船神社は1度、樋口神社に移されたことがありましたが、その次の年に疫病がはやったためもとの位置に戻されたのだそうです。この宮裾は、人間が生きていくために必要不可欠な水と火の神様にはさまれているのです。また、戦国時代後期につけられた地名で、今山というところがあります。この今山という地名は、伊万里などあちこちに存在する地名です。北方町の今山には、宮の跡があったそうですが、樋口神社に移されたそうです。杉岳という場所には、大聖寺という寺があります。この寺は和同5年に建てられた1番古い寺だそうです。この寺には、行基の彫った不道明王があり、黒いにしきの袋も出土しています。また、直径約2メートルにもなる杉の木の切り株が残っているそうです。時間の関係上、はっきりした場所まではお聞きすることができませんでしたが、この北方には1度もかれたことのない泉があるそうです。地元の人たちはその泉の水を山の神の水とおっしゃっていました。その泉の水は、ガンに効くらしく、江戸時代からすでに難病に効く水だといわれていたそうです。

 

    その他の地域

そのほかにも、江戸時代につけられた「新橋」という地名目や米つきの音からとった「ギットン」という地名があります。またこの北方町では、今でも1度荒らして、草が生えてきてから焼く焼畑が行われており、焼畑にちなんだ地名も残っています。黒坊(クロボウ)やオソ焼という地名がそれです。黒坊とは、燃えて黒くなった木の株のことをいうそうです。

新村(シ(ン)ムラ)という地名がありますが、それは、何もないところに新しい人たちが住んだことからそう呼ばれるようになったそうです。佐賀県の三根町に「新町」、上峰町に「坊所新村」という地名がありますが、それらの地名もこの北方町の「新村」のような意味があるのではと私たちは思いました。この北方町の新村には、海岸で魚を獲るためのあみを干していた「網ぼし」という場所もあるそうです。

「馬神」(マガミ)という地名があります。この地名の由来は、2つあるそうです。1つは、武雄の古文書に書いてあったことで、中世の土地台帳であった馬上帳にちなんでつけられたという説です。もう1つは、馬の神がまつってあるという説です。戦国時代に、豪族立花氏が龍造寺ナガノブに敗れて死んだ場所であり、地頭観音があるそうです。

さらにお話を聞いていくと、この北方町には、江戸時代、宿(駅)があった場所もあるそうです。300〜500人の大名行列がやって来て、その場所で参勤交代の荷物運びが交代していたそうです。また、トンネルが4つある場所もあり、そこでは、戦争中、日本の兵隊が駐屯していたそうで、ピストルの練習場にもなっていたそうです。ここは、同じ場所に4つもトンネルが作られたことでも有名だそうです。

その他にも、ヤンボシドウというところからは、インディカ米、ジャポニカ米ともう1種の全部で3種類の米がでてきたり、土砂防ぎのためにある高取池は、馬場原ため池と呼ばれていたりします。今回私たちがお話をうかがった地名は以上ですが、ここ北方町には、まだまだたくさんのおもしろい地名がありそうです。

·          田んなかと水

 私たちが北方町を訪れたときはすでに田植えは終わっており、水の張った田んぼがうっすらと緑色に染まっていました。たくさんの田んぼがありましたが、近年急激に住宅地が増え、昔に比べると農地は少なくなったそうです。そのおかげか、今では水の量も豊富にあり、水争いはないそうです。また、田に水を引くためのため池が4つもあることもその理由のひとつです。4つのため池とは、馬場ため池・船木ため池・笹尾ため池・今山ため池です。その中でも主に船木ため池から水を引いているそうです。では、田に必要な水を自分の好きなだけ引いていいか、というと、そうではなく、全体の6割を、ずっと下の方にある久津具というところが、残りの4割を宮裾が使っています。さらに、宮裾が使える4割のうちの6割を西宮裾が、4割を東宮裾が使います。一見不公平に思えますが、これにはきちんと理由があります。

 昔、船木ため池の堤をつくる時に出したお金の割合が、久津具6割、宮裾4割だったのです。そして、東宮裾と西宮裾を比べると、西宮裾の方が田の面積も大きく宅地も大きいので、水も多く引けるのです。もし堤などを修理する場合に出すお金は、当然、水の量と同じ割合だけ、ということになります。

 水争いがない理由はもう一つあります。それは“農薬”です。本来、ただ稲を育てるだけならば水は田をしめらす程度あれば十分です。しかし、育てる過程でどうしても害虫がついてしまいます。その害虫削除のために多量の水が必要だったので、昔はちょこちょこ水争いがあったそうです。ところが、現在では農薬(殺虫剤)をまくため、必要最小限の水しかいらなくなったのです。その農薬のふりかたにも変化があり、最近ではヘリコプターを使って農薬をまく光景がしばしば見受けられるようになりました。しかし、ヘリコプターはお金がかかるということもあって、手でふっている農家が多いそうです。

 ここで、昔の害虫駆除の方法を教えていただきました。まず、田んぼにたっぷりと水を入れます(このときに多量の水が必要となるわけです)。次に、水を入れた田んぼに薄く灯油を流します。最後に、ほうきで稲から害虫を落として沈めてしまうのです。

 なぜ灯油を流すのか、と疑問に思う人は、数年前、タンカーから重油が流れ出した事件を思い浮かべてみてください。油まみれになった鳥が水をはじけずに海に沈んでしまったり、飛び立てずにそのまま死んでしまったりしていました。それと同じことが田んぼのなかで行われているのです。また、江戸時代に大蔵永常によって書かれた「除蝗録」にも、鯨油を使って同じようなことをしている様子が描かれています。この方法は、農薬が使われる前の一般的な害虫駆除のやり方だったようです。

 今年の梅雨はよく雨が降っています。私たちが訪れた日も一日中雨が降っていました。しかし、年によっては空梅雨となる年もあります。水がなければ稲やその他の農作物は枯れてしまうし、普段の生活にも影響を及ぼします。そんな時、特に戦時中などには“雨乞い”が行われていたそうです。どのようにするのかというと、六角川(エゴ)へ塩水を汲みにいって神様にお供えをし、その時に神社で“雨乞い浮流”をする、というものです。エゴとは干潟での川のことです。昔はこの付近に海岸線があったのでこう呼ばれることもあるそうです。

 

·                    田んなかの今・昔

 機械が導入される以前、農作業はすべて手作業で行われていました。しかし、人間の力だけではどうしても効率が悪くなってしまいます。そこで登場するのが牛・馬です。北方町でも牛・馬を使って仕事をしていたそうです。ただし、すべての農家が牛・馬を持っているわけではなかったといいます。昔は農業で生計を立てている家が多く、そのせいで、上等な田を持つ家と粗悪な田を持つ家との格差がありました。それでも自分の田を持つ家はまだいいほうで、水呑百姓・小作人と呼ばれる、自分の田を持たない人たちもいました。彼らは地主から田を借りて米を作っていたため収穫の半分近くを地主に納めねばならず、苦しい生活をしていました。牛・馬も地主から借りていたのでそれに見合うお返しをしなければなりませんが、今と違ってお金ではなく、自分の労働力を提供していました。そうはいっても牛・馬と人間とでは一度にできる仕事の量などに大きな差があります。そこで、例えば1日牛を借りたら3日間その家の手伝いに行く、というように、約3倍の時間働くことでお返しをしていました。このようにお互いに加勢しあうことを「いいかえす」と言ったそうです。「いい」とは「ゆい(結)」がなまったものです。

 このような「いい」という言葉も、機械の登場とともにだんだん使われなくなっていきました。北方町で最初に機械が使用されたのは昭和22年のことで、その機械を使った人は周囲に自慢してまわっていたそうです。当然ですよね(笑)その後、全体的に普及しだしたのは昭和29年ごろになったそうです。ところが、機械の導入によって大きな問題が発生しました。これまでのように牛や馬でしたら勝手によその田んぼに入ってもよかったのですが、機械になるとそうはいきません。しかし、従来の細いあぜ道では機械が通ることなど不可能です。それで、機械の通り道として新たに道(田んぼ道)が作られたのです。

 では、機械の導入によって収穫量にどのような変化があったのでしょうか。1反(10R)あたりでくらべてみると、昔は56俵、今は8俵くらいだそうです。ところが、米の収穫量自体にはさほど変化はなく、今は「くず米」が減ったのだそうです。くず米とは,水呑百姓・小作人が主に食べていたものです。先述のとおり、水呑百姓は地主から田を借りて耕作していたため,収穫の約半分、1反当り2,53表を地主に納めなければなりませんでした。では残りの半分は自分たちで食べていたかというとそうではなく、生活に必要なものを買うために、売ってお金に換えていたのです。それで必然的にくず米を食べることになったのです。

 田んぼで米がつくれない冬場は、裏作として麦をつくっていたそうです。これは今も変わらないことですが、やはり使われている道具が違います。例えば脱穀をするとき、昔は千歯(千歯扱き)が使われていました。それからトウスへ、昭和12年ごろからは脱穀機へと変わっていったそうです。また、ハダカ麦はオニバでたたき、小麦は裏返した臼の上で打っていたといいます。戦後は機械が普及しだしましたが、そのほとんどをアメリカから輸入していたため、アメリカよりも小さい日本の田にはあまり合わなかったそうです。今は日本の小さい田に合わせた機械が使われています。

 私たちの頭の中には、農村の秋といったら祭りだ、というイメージがあります。祭りは、日本では古来からずっと行われてきましたが、最近では全国的に少なくなっているのが非常に残念なことです。そこで、北方町には農作業に関係のある祭りはなかったか尋ねてみました。その答えは、田植えの後と稲刈りの後にある、というものでした。田植え後の祭りは「さなぼり(さなえぼり)」と言い、今でも神社に行って神事をしているそうです。稲刈り後の祭りは「おくんち(オ供日)」と言い、できた米をお供えするものです。豊作を神に祈り、そして感謝する。まさに古来から受け継がれた精神の表れといえます。このほかにも、お宮祭り(東宮裾では91日に行われる)や夏祭りなども年中行事としてあります。昔はこのような年中行事の時は「青年団」が手伝いをしていたそうです。

 

l        しぇいねんだん

 祭りの話を聞いている時に「青年団」という言葉が出てきました。そこで青年団について実際にその一員だった方から話をうかがいました。ここでいう青年団とは現在あるような商工会の青年団とは全く違うもので、結婚前の若者の「夜学校」のようなものでした。昭和33年ごろまであり,現公民館をクラブと呼んで、そのクラブで年300日以上(正月以外はほとんど)一緒に寝泊りをしていました。熱のある時は氷枕を持って泊まりに来ていたほどだそうです。クラブの中には、いつ洗濯したのかわからないような六畳ほどもある大きな布団があり、それをみんなでかぶって畳の上で寝ていました。いかにも若者のすみか、という感じがします。また上下関係は厳しくて、上級生の「水汲んでこい」などの指図には従わなければなりませんでした。盗み食いなどしょっちゅうで、「つるしてある団子を食べたり、干し柿・スイカ・桃・梨・ブドウなどをいただくのは青年の特権やった」「公然たるもんやった」そうです。つるし柿などは、「これは青年さんが取りにくるもん」として残していたくらいで、これは「昔は経済に無頓着だったから」とおっしゃっていました。ところが、そのうち経済がひっ迫してくると、「青年からスイカを盗まれんごと」番小屋を作って見張りをするようになったそうです。昔は「こんぐらいやったら青年がやったとやろー」くらいで、心の余裕があった、としみじみと話してくださいました。

 そんな青年団にも行事があり、1130日には「お火たき」が行われていました。神社にあるこもり堂で土をもっていろりを作り、そこで煮炊きをするから「お火たき」といいます。煮炊きのためには肉が必要で、「あそこのニワトリをとってこい」という上級生の指図のもとで盗んできたニワトリをつかってお火たきをしていたそうです。

 よその村の青年との喧嘩は当たり前で、原因は“縄張り争い”や“女関係”だったそうです。特に縄張りに関する喧嘩はひどかったといいます。話をうかがった方は、例えば「よその村の夏祭りを見に行くと、その村の青年がからんできて殴りかかってきたので,橋の上で相手を突き落として帰ってきた」というようなことを実際にしていたそうです。また、恋愛は地元優先で、“よばい”もさかんだったそうです。

 “よばい”にはなんと団体で行くこともあって、「伝統行事やった」そうです。相手と約束をしておいて、夜になると女が家の中から合図をし、男が忍び込むというものです。ところが当時は下駄をはいていたため、歩くときなどにその音が邪魔になってしまいます。そのため、年下の子などは“下駄もち”としてついていっていたそうです。

この話題になると張り切って話をされる方がいて、その方からきいたはなしです。 

噂で「よか娘のおる」というのを聞き、その娘の家に行って、台所の窓からのぞき見をしていました。そのころは鍵をかけている家などなかったのです。ところが、窓のほうにばかり気をとられているとなかなか足が地面につきません。おかしいと思って下を見てみると足の下には井戸があり、ひやっとしたことがあったそうです。しかし、このような危険なことも含めて「おもしろがいよった」と、笑いながら話してくださいました。

 

l        昔の暮らし・今の暮らし

昔の食事についても話をうかがいました。今からは考えられないほどで、昭和25年ごろまでは残飯のようだったといいます。尋常小学校にかよっていたころ、弁当に入っていたのは梅干1個だけで、2個入っていると違反で先生から没収されたそうです。終戦から昭和245年までは本当に粗末な食事で、「白いまんまが食べたい」と寝言を言うほどでした。白米は食べられるはずもなく、いつも芋ご飯でした、それも「芋にちょこちょこちょこっとご飯ばつくっごとして食ぶっ」程度でした。非農家になると米は配給制で、1日2合半くらい、まさに雑炊でした。しかも米ではなく「コーリャン」という中国のキビの実だったそうです。コーリャンとは,仁丹より少し大きめのキビの実のことで、精米すると赤色になります。また、炊く前にゆがくのですが、それでさらに赤色になるので、遠目には赤飯にみえたそうです。このコーリャンは何と陸軍も食べていたそうです。ところが同じ軍隊でも、なぜか「海軍は白米ばっかい」だったといいます。

 中国といえば、近くにいた医者は何と中国医だったそうです。何でも診てくれ、当時はそれで十分でした。現在よりも体が強く、病気にかかりにくかったからだと思います。また、集落の外には「サヤの神」という神様がいます。なぜ集落の外なのか不思議に思っていると、「病気が集落の中に入ってこんごと守る神」だと教えていただき、なるほど、と感心しました。

 私たちが話をうかがっていた宮裾公民館のそばには地蔵堂があり、そこに、お地蔵様の後ろに押し込んだようにして、“渡唐(トトウ)天神”という神様がいます。渡唐天神とは勉強の神様で、白い石に手彫りで彫ってあります。140年前の記録にもこの名があります。渡唐という名前から中国との貿易に関係のある神様だろうと想像していたところ、案の定、中国と直接貿易をしたところにしかいない神様でした。「北方町は古くから開けたところだった」と力説されていたのにも納得がいきます。そして、この神様について1つ望みがあるそうです。それは「仏ではないから地蔵と別にしてほしい」というものです。いわれてみると、地蔵は仏で天神は神様です。それなのに同じところにあって、しかも天神は地蔵の後ろに押し込められたようになっている・・・これではいくら頼んでも学校の成績が上がることはなさそうです。是非とも別にしてほしいと思います。

 

l        終わりに

 宮裾は西宮裾と東宮裾に分かれていますが、その2つをあわせて西浦というそうです。西浦はスイカの産地で、戦前は「西浦スイカ」として広く名を知られており、よそから盗まれないように小屋番を作って見張りをしていたこともあったそうです。とれたてのスイカを井戸水や小川で冷やしてかぶりついている光景が目に浮かぶようです。

話をうかがった方の中には若いころの服部先生をご存知の方がいて、北方町の地理・歴史についてとても詳しく教えていただきました。その方が中心となって作成した「北方町史」には、さらに多くのことが書いてあります。また現在は、比較的新しい時代の歴史の編纂もすすめられているそうです。

今回は雨が降っているにもかかわらず、たくさんの方に集まっていただき、様々な話を聞くことができました。一日中雨が降り続いていたために、実際に神社や遺跡を見てまわることができなかったことが残念ですが、とても意義ある時間をすごせたと思います

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

l        話をうかがった方々

 松江信彦さん  昭和9

松尾末吉さん  昭和6

黒岩誠さん                            

中島守さん            ご協力ありがとうございました