文学部二年
原田 崇央
藤 孝明
松尾 洋介
お手紙を出した竹下健次さんはお客さんがいらっしゃるということで、元区長の中村幸さんと竹下久男さんを紹介していただいた。湯ノ峰の公民館でお話を伺った。初めに中村さんが浜町や湯ノ峰地区の成り立ちをお話してくださった。市役所にまで問い合わせて下さったそうで頭の下がる思いがした。1872年に町制が引かれたときに八本木村から浜町になり、湯ノ峰は開田古賀(ヒラキダコガ)と浜崎古賀(ハマサキコガ)が合併して成立したそうである。その名残で今でも湯ノ峰には開田古賀と浜崎古賀にそれぞれ天満宮があり開田古賀は9月15日、浜崎古賀は1月25日と別々に祭りをしているそうだ。
鹿島藩は300年前2万石しかなく石高を増やすために鍋島氏3代藩主のナオトモ公が改田を行ったそうだ。その名残で‘トンサン(殿様)篭’という水田があるということだった。改田の際には中国大陸からやってきたジョーリコさんという土木に優れた人に意見を聞き、浜川の上流から岳水道や堤を作り水路を整備したという話が残っているそうだ。その岳水道は浜川上流の船越地区と下流の湯ノ峰地区、新川地区で水利組合を作り管理し、全長が4000mもある。水路は田代堤につながっている。この田代堤は上、下の二つに分かれており‘親子堤’とも呼ばれる。上堤(うわつつみ)は地主の長松氏の別荘があったため‘長松別荘’とも呼んだそうだ。主に使用するのは上堤のほうで下堤(したつつみ)は雨で増水したときに上堤から水を流すためのもので、これを「アマコシ(雨こし)」と呼ぶらしい。上堤の水はさらに下流の黒岩堤や石船堤に送られたり、周辺の船越の水田に引かれるらしくその割合は黒岩:石船:水田=4:4:2とのことである。黒岩堤へは黒岩水路を通って水は流れる。黒岩水路はホンミゾ(本溝)ウワミゾ(上溝)とも呼ばれる。石船堤へは石船水路を通っていく。この岳水道の管理は水役という人を船越から1名、田代から2名選び、さらに湯ノ峰、新方の人が船越の人1名に水道気遣(スイドウキヅカエ)という役を頼むのだそうだ。これは湯ノ峰、新方からでは岳水道までは遠いため上流の船越の人に頼むとのことだ。水が不足するときには、湯ノ峰、新方の区長、区長代理や、浜町から7名、船越から7名協議人を出して話し合いを行ったそうだ。そして解決策として、水田全体のうち3割なら3割に水を流すという‘わりつけ田’という方法を行ったり、日にちと時間を決めて水役2名とその他2名が水を順番に流すという‘まわし水’という方法も行っていたそうである。中にはかってに水路をあけ自分の田に水を入れる「いたらん人」もいたようである。このように湯ノ峰、新方の人が船越に行って水利について話し合いをすることを‘船越のぼり’といい船越の人には決して歓迎されることではなかったため酒や肴を手にお願いに行くといった感じだったらしい。また水害などで水路が壊れたときは船越が4割、湯ノ峰、新方が6割修理を負担しており、これは300年来続いていたそうだが、中村さんと竹下さんが区長をなさっていたときにようやく5割ずつに改めたそうだ。このように、水利に関しては船越が優位だったのを対等な関係に改めたのは自分たちだとお話しされるお二人はとても誇らしげだった。また昔は水路が土で作られていた土水路っであったため頻繁にもれていたそうで、人夫がふせ役として上っていったり、上流に田を持つ人たちが穴をあけて水を取っていたため、水番といって泊り込みで監視していたそうである。しかし隙を見ては水路に穴をあけてられていたらしい。ではあるがある程度は容認されていたらしく、水路の壁面をコンクリートで固めた三面水路となった今では周辺の水田のために取り入れ口をつくっているそうである。お二人はとにかく水利関係は複雑で、「そいぎ水利権(の慣行)は法よりも強か」とおっしゃっていた。
国道207号より海側の水田は篭と呼ばれ中村さんのお父さんが15歳で働き始めたばかりのころの明治37年にホジョウ整備が行われ、1つの田が1反ずつに分けられたということだった。ここの水は浜川に堰を作って引いているそうだ。この堰は近くにある泰智寺にちなんでタイチジンセキと呼ばれていて、ここからマチミゾ(町溝)という水路を通って篭に水がいっている。
昭和45年から始まった減反政策により減反率を決められ、特に山側の上田(アゲデン)のほうを減反しているそうだ。減反した田には大豆などを作っているということだった。平成2年に湯ノ峰、新方合わせて67町歩あったのが現在では50町歩に減少したらしい。米あまりや外米輸入でどんどん減反率を上げられていることに憤りを感じるともおっしゃっていた。
1994年の旱魃時の様子を聞くとそれはもう大変だったとのお答えが返ってきた。朝昼晩1日に何度も堤や水路に上ったり、厳しく節水したり、田の水位をさげたり水を抜くという努力をしたそうだ。さらに黒岩堤の水を出して黒岩谷だけは水を100%張っていたらしい。こうした努力の甲斐あって稲には無事穂がつきかえってよく取れたということである。
昔の娯楽について聞くとカネ風流だと言われた。晩に集まって太鼓、鐘、笛をならしていたそうだ。しかし戦時中に馬などとともに金属製の鐘が没収され、唯一空襲などの警報のために小さなチッカンガンという鐘が残された。その鐘には慶応年間の年号とフジツ郡野込郷八本木村開田古賀と刻まれているそうで、昔の地名の名残を知ることができた。
しこ名について尋ねるとあざ名で土地を呼んでいることがほとんどでしこ名はなかなか聞けなかった。それでも調査の趣旨を説明ししつこく聞いているといくつか聞くことができた。お二人は繰り返しもう2〜30歳上の人だったらわかっただろうとおっしゃっていた。予想以上にしこ名は失われているのだとわかった。
こうして調査を終え一段落していると中村さんの奥さんが差し入れを持ってきてくださった。お二人にはちょうど私たちと同年代のお孫さんがいらっしゃるらしく、電話をしてくるのはお金が無くなった時だけだとか、ジュースを2ケースも送ったのに友達がどんどん飲んだらしく10日でなくなったらしいなどの話をされて、私たちにあてはまることばかりで妙に恥ずかしかった。その後「苦労ばいっぱいせんば」とか「いろいろなことば経験船ばよ」と人生の大先輩のお話をきくことができ、ためになったし、何より楽しかったです。中村さんは私の祖父に似ていらっしゃることもあり本当の祖父と話しているような気分でした。現地調査は初めてで、うまく進められない私たちに親切にしてくださったお二人に心からお礼を言いたいです。ありがとうございました。