清見太一
古賀直樹
村の名前
土穴
しこ名一覧
ワタマル(和田丸)の中にワタマル(和田丸)・ウエンヒラ(上平)
ナカジマ(中島)の中のカワラ(河原)
ツチアナ(土穴)の中にツチアナ(土穴)
ドウゾノ(堂園)の中にドウゾノバタケ(堂園畑)
フキアゲ(吹上)の中にフキアゲ(吹上)
ナガノ(長野)の中にオオクボ(大久保)・ナガノ(長野)・ジョウド(浄土)
聞き取りしたお相手
今村作次郎(70)
白仁田進さん(68)
前回「歩き見ふれる歴史学」で、このしこ名調べの現地調査を経験し、それなりの成果を修めたと自分では思っていたので、今回の調査を多少甘く見ていたのがあだとなったのかでだしが失敗し少しあせった。が、結局はまずまずであったので良かったと今では思う。
12月17日、教官からの紹介の白仁田進さんに手紙を出す。これがまず遅かった。そして12月21日、3限の授業後、確認ならびに了承のお電話をすると、奥さんが出られて進むさんは養子で、昔のことはあまり知らないのこと。それでほかの方のご紹介をお願いすると、白仁田修造さんを紹介していただいた。さっそくお電話するとわたしたちの調査日はお忙しいのことで断られてしまった。わたしは前回このそうなことはなかったのでとまどったが、大変申し訳ないと感じつつ再び進むさんのお宅にお電話した。そして紹介していあだいたのが今村作次郎さんだった。こんどこそは願いつつお電話すると、むかしのことはおぼえてないとおっしゃりつつも何とか調査相手になっていただくことを了承してくださった。
いよいよ12月23日当日、冬の寒空のなか集合し、バスに乗車、前回と同じ道をとおり
まずお聞きしたのが村の範囲だった。わたしたちが予想していたよりもそれは大変狭く驚いた。字の範囲もお聞きし、しこ名の調査へ。お話しを聞いていると土穴ではしこ名のことを呼び名というらしかった。一部を除き字と呼び名は一致していた。
土穴は中山間部にあり、湿田は存在しないそうだ。それでも、水を大量に必要とする米が作られるのは水利がいいからだ。1994年の大干ばつのときでも中川〔地元では大川と呼ばれる〕は水が無くなることがなかったため、影響はあまりなかったそうだ。中川を本流として、それぞれの田で水を引いているそうである。このように水に関して困ることのなかったこの地域では用水に関する慣行はなかった。ただ、田植え前の溝さらいというものがあったらしい。
このあたりまで終わったとき一人の方が入ってきて作次郎さんとしばらく話しをしていてそれが終わった後調査に協力してくださるとおっしゃってくれた。お名前を聞くとなんと最初にお電話した白仁田進さんであった。ここからはお二人にお聞きした話しを記す。
肥料としては以前は牛や豚のたい肥とわらの混合物を用いていたそうだ。特別な名称はついてないらしく、田植えを村落共同でやっていた以外は何もしていなかったそうだ。自分の推論ではおたがいに手伝うことでお礼の代用物になっていたのではないだろうか。
また、農作業の楽しみは「品物、時間等が自由にできること」、「豊作」を挙げられた。なるほどと思った。現在の作物は米を始め、裏作に野菜(こねぎ、芋、大根、白菜、ばれいしょ、大豆)、そしてみかんであるそうだ。米は良く取れるかどうか訪ねると、国がつけた田んぼのランクはBであって、実際その程度取れるということであった。
米を農協に出す以前、商人が直接村落をまわって米を買い付けていたそうだ。しかし米の値段は商人側が勝手に決めていたらしく、時には安く買い叩かれるときもあったそうだ。
家で消費する米は飯米〔ハンミャー〕と、特に変わった名称はついていなかった。
次に家畜は牛、豚、鳥がいたらしいが、今では鳥がいるだけだそうだ。牛は耕作、たい肥のために飼われており、今のように食べるというようなことはなかった。また、去勢するようなことはなく、もともと雄と雌では雌が圧倒的に多かったそうだ。1軒につき1頭飼っており、牛馬商(ばくりゅう)が売りにきていたらしい。豚は太らせて売るのが主な用途であったらしい。鶏は一軒約5羽程度、卵をとるのに使っていたそうだ。
入り会い山は土穴にはなく徒歩で30分のところにあったらしい。地図で場所を教えてもらったが、とても遠かった。そこで植林などしていたそうだ。
商品の流通に関しては、小売店と行商人という2つのツールがあったそうだ。塩等は小売店で購入していたが、行商人から魚(鯨など)を購入していたそうである。肉はほとんど食べなかったそうである。生活に余裕がなかったからだとおっしゃっていた。
農業以外の収入は昔は山林の木を売っていたりなどしていたらしいが、今はまったくお金にならないらしい。またほとんどのかたが兼業農家であるそうだ。
村の祭りは田の神さん(3月の20日前後の社日に豊作を祈って)、水道祭(5月1日に部落で作った水道を祭る祭り)、お日待ち(11月15日前後の日曜に収穫の感謝を祈って)とあるそうだ。基本的に全員参加だそうだ。
電気は大正、プロパンガスは終戦後に来た。これらがなかった時代は、自分の家の裏の
山から薪を、また移動性の製材所から薪をもらった。
また昔の若者は今も残る公民館に青年クラブとして集まって朝まで女のこの話などをしていたらしい。よばいは普通らしかった。親にばれても平気だったらしい。
村はやはりどんどん変わってきているそうだ。機械化、電気化、衣服も和から洋へ、言葉も標準語へ、と挙げるときりがない。農業の後継ぎはおらず、農地も貸付が進んでいるらしい。小作人も5人いるらしい。専業農家の方はもうたった1人になってしまったらしい。このような日本農家の武器はやはり「国内の安全な品」ということだった。
前回小舟津という地域を調査をした私にとって村というものがすべて小舟津のようなものだと思い込んでいる部分があった。しかし当たり前だが小舟津と土穴はまったく違うものだった。日本は今農業に関して問題をたくさん持っていると思う。問題を解決するためにはひとつひとつ村々の状態を把握することが不可欠だと思われるが、それは不可能だろう。が、政府は日本の農業のために、しいては日本のために問題を解決していって欲しい。
今回の調査で大変お世話になった今村作次郎さんご一家と白仁田進さんへの多謝を述べ終わりとする。