高津原二丁目の歴史について
12月22日実施
火曜三限 歴史の認識 服部先生
吉田 雅史
上川 哲治
1
僕たちは「歴史の認識」の授業の一環で、
二時間ほどで、僕たちは高津原に到着した。バスを降りると、外は結構寒かった。今にも雨が降りそうなどんよりした空模様。とりあえず僕らは地図にしたがって歩き始めた。途中で小さな食堂に入って昼食をとるとともに、高津原二丁目までの道を聞いてみたが、あまりここの土地には詳しくないという返事。結局近くの交番で森田さん宅近辺を調べることとなった。交番を出たあとは迷うことなく森田さん宅へまっしぐら。やっと森田さん宅を発見。立派な門構えに少し驚いた。早速森田さんのお宅に上がり、いきなりお話を聞くこととなった。まず森田さんの家が地図上でどこにあるかを説明するために地図を渡すと、色々と周辺の地理について説明してくださった。そして、僕たちが字のはなしを持ち出すと森田さんは「ここら辺は、割合そんななかったね」といいながらいくつか教えてくださった。そしてしこなは以下のようになる。
高津原二丁目のうちに
タンダ、タンダコガ(谷田) 、ナカダン(中谷)
周辺地域のうちに
ワレイシ(破石)、アメゼ(雨瀬)、クラタン(闇谷)
クロゴ(黒川)、マツオダン(松尾谷)
しこ名の由来には、たとえばクラタン(闇谷)だと、クラタンは狭い土地で、谷間にあって、山で陰になっているためにこういうらしい。水利についてだが、雨瀬だと堤から水があふれた時、水がたまるため、こう呼ばれるらしい。由来がはっきりわからないものもあった。これらのしこ名は地図に詳しく記しておくとする。
昔、大雨が降った時は、雨瀬を越えて水が浸入してきた家もあったという。黒川から水があふれてしまうこともあり、そのたびに水がたまるような湿田もあったらしい。また、普通の田でも洪水でぐちゃぐちゃになってしまうこともあったらしい。そして、現在の水の流れだが、上流から約4キロの水路を流れた水は、一時杉本堤でためられて、ここからにごり堤・西堤・観覧堤のそれぞれに流れるようになっている。これも地図を参照してもらいたい。
次に堤の水の利用に関しての取り決めについて尋ねた。取り決めはたくさんあったらしく、例えば各々の使う割合などは元々決まっていたらしい。また、水が少ないときに水を二人で管理するようになっていて、かわのながれをせき止めて取水していたという。もし取り決めを破ったときははっきりしなかったが、何らかの罰則があったらしい。僕らは二人とも九州の出身ではないから、この地方の降水状況などはよくわからないが、昔は洪水や水不足などに悩ませられることはいろいろあったらしい。現在では川岸の整備などが行き届いているため、昔よりも環境は改善されたとのことだった。なお、水道の普及は比較的遅く森田さん宅付近の鹿島高校でも遅かったという。水道の無かった時代にはやはり井戸が多かったのことだ。
昔の道について聞いてみると、森田さんは地図を指してあれこれと教えてくださった。家から田畑に行くときに利用していた。道などを詳しく知ることができた。道の中には利用するにはかなり狭いものもあったとのことだ。また、バイパスの位置も地図で教えていただいた。学校で入手した地図には載っていなかったものだったので、僕たちは来る途中に感じた違和感をようやく解消することができた。バイパスができてからの生活について尋ねてみると、特に変わったことはないが、ただ森田さん個人としては米を作らなくてよくなったためホッとしたらしい・・・。バイパスの建設時に一軒だけ立ち退きに反対した家があったとのことだが、それ以外には反対運動などは起こらなかったとのことだ。
そうそう、話は変わって、昔の現金収入について尋ねてみた。ほとんどの家が専業農家だったという。あえてするとしたら、農地の少ない人が兼業で大工や左官、石かきや石工などの職をしていたとのことだ。どれほどの収入を得ていたかはわからなかった。
昔の若者がどのようなことをしていたかについて尋ねてみた。現在でいうクラブのようなものがあってそこで寝起きなどをしていたらしい。夜になったら、酒を飲み交わしたりいろいろなことをしていたそうだ。週末の僕らの生活実態によく似ているかもしれないと感じた。森田さんはあまり行っていなかったらしい。
次に村と村との交流について聞いてみた。農業の人はほとんど『面浮立』をしていたという。面浮立とは、男の人が面をつけて、女の人が鐘を叩いたりする。一種の祭り的行事だという。高津原百人面浮立というものがあったらしい。どんなものだか一度みてみたいものだ。
また、ここで昔の楽しみ、いわゆる娯楽について尋ねてみた。ほとんど映画と狂言で、映画はロクヨウカン(鹿洋館?)で狂言などの芝居は、当時あったという鹿島座で見ていたという。
他の家の田植えを手伝うときはどういった感じでしたか?と尋ねると、森田さん曰く、隣村から泊り込みで手伝いの人が来ていたという。その報酬は賃金で払っていたそうだ。
先ほど尋ねた水利に関連して、水に関する争いなどがあったかどうかをたずねてみた。森田さんの話によると、多少の小さな小競り合いはあったが、大きな争いには発展しなかったらしい。水が少ないときには昼はもちろん、夜も二人ぐらいで交代で見廻りなどしていたとのことだ。
稲作のできない冬はどういうことをしていたか尋ねると、森田さんが小さい頃は俵で保存していたそうだが、大体昭和15年頃からは玄米の状態で間に保存するようになったという。
川で魚を獲ったりしていたのですか、と質問すると、森田さんは川でフナ、ハゼを手づかみ(!)で捕まえていたとおっしゃった。当時は捕まえること自体が楽しくて、食べたりはせずに川に放していたという。今では魚はほとんどいなくなってしまったようだが、昔は6月頃になると川辺にホタルがよく飛んでいたという。僕らは実際のホタルを見たことがないから、この話がとてもうらやましくおもえた。また、森田さんもこの話をするときは特に昔を懐かしむように、楽しそうに話していたのが印象的だった。
災害についても尋ねてみた。鹿島では水害多かったらしく、『水の都』といわれるくらい水浸しになることもあったという。台風での被害は頻繁には起こらないが、数年前の台風では屋根瓦が飛んでいったり、稲が横倒しになったりと、大きな被害があったらしい。平成6年(1994年)の大旱魃では、他の地域ほどの影響はほとんどなかったらしい。というのも、水の節約をしたり、色々な工夫をしていたためだという。昔は稲の穂が出なくなるほどのひどい旱魃もあったらしいがここ十数年では、そのようなことは起こっていないという。また、旱魃に関連して、雨乞いについて質問してみると、近年ではそのようなことは行っていないが、戦前、大体60年程前までは穂が出ないようなときにはそのような風習があったらしい。戦前の田畑の肥料は、『豆玉』という大豆の油を絞ったかすや乾燥した魚などであったという。豆玉は乾燥していたので、水につけて利用していたらしい。魚が肥料に使われていたのは、昔は輸送手段があまりなく、保存がきかないからではないだろうか、と森田さんはおっしゃっていた。というのも、魚の貯蔵は、箱の上に氷を置いただけの簡単なものであったからだ。昔は乾物や塩漬けにしてほぞんすることがおおかったが、いっぽうで、有明海の生の魚も高津原にも来ていたんだよ、と森田さんはおっしゃっていた。化学肥料も、結構前から利用されていて、ほとんどは農協から購入していたらしい。しかし、戦後すぐはすべて配給だったため自由に買うことはできなかったという。
米の流通について尋ねてみた。米はかなり前から強制的に農協に出すようになっていたようで、闇米も出回っていたらしい。作ったうちの一部を保留米(自分たちで食べる分)としてとっておくことができ、いくらか保留米を多くしたことがあったらしい。
ここで、食事の話になった。50年前は米に麦を混ぜた麦飯を食べていて、その割合は米:麦=7:3が森田さんの家庭では普通だったらしい。戦後すぐには、闇米を売るために米の割合を減らすこともあったかもしれないそうだ。秋頃には、芋飯にしたりもしていたそうだ。
牛馬についてだが、この近辺では、馬はいなかったが牛はいたそうだ。ほとんどがメスで、オスもたまにはいたそうだが去勢はしなかったらしい。農作業に使われることが多く、田畑を耕したり麦を蒔いたりするときに重宝されたという。一家に1頭の割合でいたらしい。ちなみに、馬洗い場といったものはなく牛などは、川で洗っていたとのことだ。牛を売る博労と言われるような人がいたらしい。一年の行事について聞いてみると以下のようだった。
・ 正月
・ お彼岸
・ 松陰の祭り・・・3月に行われる女の子中心の祭りで、この時ふつ(よもぎ)つんで、 ゆでてもちをついていた。昔はあぜ道によもぎがたくさんあった。
・ 神社の祭り
・ 五月の節句(男の子中心)
・ お盆(8月)
・ 秋のお彼岸
・ 11月2,3日のお祭り
・ 11月14,15日の大日待(おおひまち)・・・14日の晩からお日様に感謝する日であるから、その日は洗濯物を干さないようにした。この日にももちをつくらしい。
ここで、『もちをつく日が多いですね』と聞くと、「昔は今と違ってもちが一番のごちそうだったけんね。」とおっしゃった。正月には120キロほど(!)つく家もたくさんあるらしい。もちの保存は水につけておくらしい。水を替えると1年ほどももつという。1年で何回ももちをつくが、保存用は正月のもちだけらしい。
いきなり話は変わって、恋愛の話となり、出会いは祭りのときや家に行った時などと楽しそうに語って下さった。夜這いもあったか?と聞くと、「戦前は多かったけど・・・」と言われた。またお母さんと娘を間違えるというエピソードを聞いたことがあると言っていた。
ちなみに森田さんは夜這いをしたことないらしい。クラブに行くような人が多いのではないかということでした。次に「溜池の管理人はいるか」と聞くと、「管理人は今もいて堤を守るだけで、水の配分は水引きが決める」とおっしゃった。水引きは生産組合の人が適当であると思われる人を指名して、水引きが責任はあるが水の配分を決ることができるらしい。次に高津原が3つに別れていることなどを聞く。森田さんは地図で直接示してくださった。面積では高津原1丁目が一番広いが、人の数では高津原2丁目が一番多いとの事だった。田の話となり黒川が一番の湿田でありヒル(ビル)がたくさんいた。また、乾田はどこにでもあったそうだ。ほとんどの田で麦も作っていたということだった。「いいしゅい」、「いいす」が少しはあって、牛革の梱包の手伝いなどをしていたようだ。そのお礼はお金、他の仕事を手伝う等であった。稲作の苦痛は田植えの下準備が大変だったとの事だった。昭和35〜36年ガスが普及する前は、山から薪を取ってきていたとのことだった。それは2〜3月頃だったらしい。早い者勝ちではなく共同で分けていたとのことだ。この方が平等に分けられ、効率がいいらしい。村で共用する入会地は、ここではなかったと言う。ただ、焼畑は行われていなかったらしい。次年度の作付けに必要な種もみは、乾燥させて保存したとのことだった。ネズミなどの害虫対策としては、ネズミは玄米よりもモミを食べるので、そこに気をつけたと言う。そして柿はたくさん作っていたという。粉をよくつけるためにワラをつけるようにしたらよいという。乾燥しすぎないように気をつけたとのことだ。食べられる野草は、きのこやしいたけといったものしか知らないらしい、とおっしゃっていた。
干し柿泥棒やすいか泥棒はいたらしく、特にスイカ泥棒が多かったようだ。その対策として、自警団などが活動していたようだ。また、年長者を敬うという意味での序列や規律は今よりも厳しかったようだ。ただ、特に制裁などはなかったそうだ。また、犬を食べる習慣について聞いてみると、詳しくはわからないが、そのような話は聞いたことがあるとの事だった。
3kmほどいった所に有明海があって、自分で獲った魚を売りに来たりする人もいたとのことだ。ガスや電気が入ってくる前は囲炉裏や掘りごたつで暖を取っていたとのことだった。最後に村のこれからに付いて質問すると、農業は後継者がいないから、続けていくのは難しいとの事だった。又、日本の食糧自給率が低いためこのままでは日本の農業はつぶれてしまう。自給率は60%位が理想的で、自給率を上げるには消費者がもっと米を食べるようにすればいい、と率直な意見がうかがえた。諫早干拓については森田さん自身は特に詳しいことを知らないし影響もないようだが、干拓の効果については疑問が残るらしい。ガタリンピックなどの町おこしのことを知っておられ、よいと思うとのことだった。農業の実体も大きく変わり、作物の季節感が薄れ、生産量が増え、また輸入などによって価格が安くなって苦しいこともあるようだ。
最後に、今回の高津原の現地調査で高津原の色々なことを知れてよかったと思う。これは何よりもやさしくていねいに話してくださった、森田さんのおかげです。みかんまで下さり心から感謝したいと思います