高津原一丁目の歴史について

   

       火曜日 3限目 歴史の認識  服部先生

12月22日実施

 

鈴木 研郎

竹永光太郎

 

  僕たちは歴史の認識の授業の一環で、佐賀県鹿島市高津原一丁目の歴史について調べる

ことになった。12月22日、天気は曇り。果たして僕たちは無事に高津原一丁目につけるのだろうか、高津原担当の今村さんは優しい人だろうか、などの不安を抱え九州大学を後にした。

2時間ほどバスに揺られ、僕たちは目的地の高津原に着いた。降ろされたところで、辺りを見回すと、ベスト電器や、スーパー、本屋などがあり、とりあえずほっとした。僕たちは約束の時間よりだいぶ早く着いたので、とりあえず小さな食堂に入って、昼食をとるとともに、高津原一町目がどの辺になるのか店の人に尋ねてみた。地図を取り出し聞いてみたが、そこの人は佐賀に移ってきて間もないらしく、高津原一町目がどの辺なのか聞くことはできなかった。しかし、近くの交番の位置を聞くことができ、僕たち礼を言ってその食堂を後にし、その交番を目指した。

交番の警察官の人に、高津原一町目の位置と今村さんの家の位置を聞いてみると、歩いて20〜30分はかかるとのことだった。しかも高津原一町目は高い位置にあるらしく、かなり坂を上っていかないといけないということだった。僕たちは地図で、今村さん宅は西堤と濁堤の間あたりにあることに注目して、とりあえずこの二つの堤を目指すことにした。(ちなみに僕たちはこの段階では、この堤を何か堤防のようなものだろうと想像していた。後で全く違うものであることに気づくのだが・・・)上り坂を歩くこと30分、景色のいい高台みたいなところに出た。辺りを見回すとみかん畑だらけである。僕たちは感動して、デジカメで何枚も写真を写した。しかし僕たちの想像していた堤防らしきものはまったく見えてこない。そして、通りすがりの高校生に聞いたりしてさらに歩くこと10分、やっと堤の正体を知ることになった。堤とはため池だった!西堤と濁堤の間の道を歩いていくと、とうとう僕たちの目指していた今村さん宅を発見した。あまりの家の大きさに僕たちは言葉を失った。デカイ・・・。本当に大きな家だ。家の隣には、これまた広い農園が広がっている。ここにもやはりみかんが植えてある。本当にここら一帯はみかんが多い。

  今村さん宅を訪ねると、とてもやさしそうな人が出てきた。この人が今村秋弘さんなのか・・・やさしそうな人だったので、とてもほっとした。家の中に僕たちを案内してくれ、軽い自己紹介の後、早速本題に入った。

  まず僕たちはここら一帯につけられていた小字名について質問した。今村さんは地図を指しながら、この辺の小字名を一つ一つ教えてくれた。まず、僕たちのいる今村さん宅一帯を、谷越といったらしい。そして、谷越を少し濁堤側にいったあたりを蟻尾(この辺を形成した中心がこの蟻尾だったらしい)、杉本堤辺りを杉本、杉本と蟻尾の間を少し南に下ったところを妙見渕上(みゅうけんふちかみ)、そして西堤の西側が谷頭、さらに西に行ったら広瀬、谷頭を観覧堤の方に行くと永清寺となるそうだ。住所などを記載する際もこの広瀬や蟻尾などを使うらしい。

  次に僕たちは、しこ名、あだ名、あざななどがあるのかどうか聞いてみた。生産組合では高一を‘ふきあげ’というらしい。ここら辺では高津原二町目が中心で、一丁目と三丁目で、上と下に別れているらしい。そしてこの一町目が上になるらしい。

  次に最初から気になっていた、村の水利について聞いてみた。そりゃあ、あれだけ大きい堤を見たら気になりますよ。ここで、今村さんは僕たちにひとつの資料をくれた。「高公だより」という資料だ。ここでは、この中から二つの水利に関する記事の必要な部分を抜粋して添付する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして今の水利だが、上流から約4キロの水路を流れてきた水は、一時杉本堤に蓄えられ、この堤から、西堤、濁堤、観覧堤にそれぞれ水がいくようになっている。これについては、地図のほうに詳しく水路などを色分けして記載しているので見てほしい。続いて、この堤の水を使うときの取り決めについて尋ねた。この辺では6月の20日前後に田植えをするらしい。そして今では箱苗を使ってするので、ここの種植えが、5月10日〜15日に行われるらしい。そして、西堤などの水の管理をする人を水方という。この水方という人の上には、さらに総務委員の人がいるわけだが、6月18日頃から始まる水入れには、この水方という人の承認がないと水を使ってはいけないことになっている。水が少ないときや、多すぎるときの対処も、この水方という人がすることになっている。つまり農業用水を個人で勝手に使うということは認められていないのだ。この水方という人の主な仕事としては、後でも出てくるが、雨が降りすぎたりして堤の水があふれそうになったときなどは、中川に通じる水路の門を開け、堤の水を中川に出したり、逆に水が少ないときには田や畑に入れる水の量を制限して、水が不足するのを防いだりとこの辺一帯の水の量を調節しているようだ。水量についてだが、冬はそんなに雨が降らないからいいが、夏の夕立の時などいっきに多くなるので大変らしい。

  生活用水は鹿島市の水道を使用している。この水道が普及してない昔は、井戸を主に使っていた。しかし、なんとこの今村さんのお宅は今でも井戸の水を使っているらしい。珍しい〜。しかし水は普通の水道水に比べて、何倍もおいしいだろうと思った。飲んでみたい・・・

  昔の道について聞いてみると、あまりよく分からないが、今バイパスが出来つつあり、今村さんもこのバイパス建造のため立ち退きを余儀なくされ、今の場所に移ってきたそうだ。そういえば来る途中で、出来かけの大きな道があった。あれはバイパスだったんだ!!学校でコピーした地図には載っていなかったため最初迷ったかと思ったんだよな・・・

  次に昔の現金収入について聞いてみた。昔は畑で芋などを作り、これをでんぷん工場に売るなどをして、現金収入としていたようだ。今では子供たちが働いているため、これを現金収入にしている。今でも、みかんや野菜などを市場などに出して、収入を得ている人もいるが、ほとんどこのような人はいなくなっているそうだ。40〜50年前の農業以外の現金収入についてたずねてみると、ほとんどなかったそうだ。現代とは価値観が大きく違うため、あまり現金収入にこだわらなかったのだろう。

  この話に続いて、牛や馬の話になった。昔はほとんどの家に牛が一頭ずつはいたそうだ。今村さんが14〜15歳の時は今村さんの家にも牛がいたらしい。この牛の排泄物や、草の腐らせたものを化学肥料が入ってくるまでは、肥料として使用していたらしい。そして牛の数だが、だいたい一家に一頭の割合だったらしい。特別畑や田が大きい家では、二頭飼っているところもあったが、だいたいは一頭だったらしい。これには、少しびっくりした。僕のイメージではもっとたくさんの牛を飼っていたかと思っていたが、意外な結果だった。後で出てくるが、この辺の人で馬を飼っている人は少なかったようだ。牛が主だったらしい。

  次に昔の若者がどのようなことをして遊んでいたのかたずねた。昔もいわゆるクラブみたいなものがあったらしい。若者は夕方まで自分のうちで仕事をして、夜ご飯を食べて、それからクラブに行っていたらしい。クラブではおしゃべりをしたり、将棋をしたりして遊んでいたそうだ。そして夜は、活動写真を見に行ったり、お芝居を見に行ったりしていたらしい。若者は明け方近くまでこのクラブで遊んで、そして家に帰り、また昼は働く、という生活を送っていたようだ。このクラブは今で言う公民館らしい。今の公民館は、とても若者が集まるとは遠いイメージなのでびっくりした。

  次に有明海との関連について聞いてみた。この高津原から有明海まで車で行けば5〜6分で着ける近さらしい。だから昔から有明海で魚を採ったりしていたらしい。魚を採る仕掛けについて聞いてみると、‘タナ’という竹で作った箱状のものを使っていたそうだ。この仕掛けは片一方からは入れるが、一度入ってしまうと出られなくなるようになっているようだ。この仕掛けは潮の干満を利用したものとなっていたそうだ。木の棒に傘の骨などをつけて、直接魚を突いてとるような仕掛けもやっていたらしい。夏は光に集まってくるイカの習性を利用して、電気を船に吊るし、一気にイカを網ですくったりしていたようだ。この漁法は現在も行われている。

  ここで先ほど聞いた水利に関して、他の村との水の分配に対してのもめごとがあったかどうか聞いてみた。60年ほど前、今村さんの祖父の時代、水が少ないときに水を取った、取らないで争いがあったらしい。今でも水が取られる恐れはあるが、そのようなもめごとは、しばらくの間起こっていないらしい。

  次に他の村との交流について聞いてみた。この堤の水が流れている村同士が集まって、一年に一回は一緒にお酒を飲んだりしているらしい。今は、ほとんどの人が車に乗っているため、なかなか挨拶などをしなくなったが、昔はみんな歩いていたので、他の村の人たちとすれ違ったときなどは、挨拶を交わしたりしていたようだ。車の発達などにより人と人とも交流が希薄になりつつあることを話す今村さんの表情がさびしげだったのは、とても印象的だった。

  次に高津原一帯は基本的に水が豊富だったのかどうか聞いてみた。今村さん曰く、この辺は少し高台であるから水が少なくなるときはかなり少なくなるそうだ。そして北鹿島、つまり僕たちのバスが停まったベスト電器辺りは低いため、こっちで水が不足したときなども結構豊富に水があるらしい。逆にこのベスト電器あたりは、雨がたくさん降ったときなど、水がなかなか引かなくて被害を受けたりもしたらしい。そして今でもこの高津原一丁目辺りは、水が少なくなることがあり、本来は水を三回田に入れなければならないときに一回にするなど調整をして水不足を乗り切っているようだ。このように水の少なくなることがある地域では‘雨乞い’などもあったのではないかと思いたずねてみると、やはりあったそうだ。

  次に過去の自然災害について尋ねてみた。今村さん曰く、最近はそうでもないけど、37年、51年(佐賀国体の年らしい)は水害がひどかったらしい。台風の被害について聞いてみると、ここ何年か被害などはあまり出ていないということだった。

  次に、この辺で、米やみかんなどの取れるところや取れないところなど、差があるのかどうか聞いてみた。今僕たちのいる高津原一丁目だけの話でいえば、あまりそのような差はないらしいが、鹿島市全体の話で言えば差があるらしい。今村さんは少し困ったように、この辺はみかんがあまり甘くないことを教えてくれた。この辺はみかん畑が多い!!と思っていた僕は少しショックを受けた。本当に僕たちの質問に正直に答えていただいてありがとうございます、と感謝の気持ちでいっぱいになった。そしておいしいみかんの見分け方も教えてくれた。丸いやつよりも、少しつぶれたような平べったいやつがおいしいらしい。そしてみかんの出回る最初の時期は糖度が8〜9度のものが出回るが、今の時期で言うなら15度以上はないと駄目らしい。この高津原一丁目辺りはみかんができることはできるが、等級は落ちてしまうそうだ。量自体は少なくはないということだった。なぜそのような差が出てくるか聞いてみると、どうも土の問題らしい。なるほど・・・このようなみかんも、最近は生産者が少なくなる傾向にあるらしい。原因としては、このみかんのコンテナは20〜30キロあるらしく、65歳を過ぎた方などにとっては重くて大変ということでやめる人が出ていることや、なんと言っても若者の後継者不足が原因になっているらしい。ここで、今村さんからみかんを食べるように進められた。一人暮らしではなかなか食べられないので、たくさん頂いた。甘くておいしかった。

  次に化学肥料が入る前の農作物の虫除け方法を聞いてみた。虫除け方法としては、油(灯油)をまいていたらしい。今ではもうこの方法での虫除けはしていないらしい。現在は田の消毒として年に2〜3回、みかんは20回くらいしないといけないらしい。ここがみかんの大変なところだと今村さんは言っていた。虫除けだけでなく、色付けもしないといけないとのことだった。化学肥料が入ったことにより、土がやせたりなどの副作用ともいえるようなことが起こっているかどうか聞いてみると、どうも人それぞれらしい。もちろんたくさん入れすぎるとやせてしまうが、土のことを考え、気をつけてやればそうでもないらしい。今では土の診断などの試みも園芸連のほうが行っており、それぞれ、田や畑を持っている人に指導が行われているらしい。土は、見た目などでは状態などはわかりにくいだろうから、これはなかなかよい試みだと思った。他にもその年のみかんのなる量を調節することで、次の年のなる量を調節したりなんかもするそうだ。すごい・・・

  次に昔の田植えについて聞いてみた。昔は土地を一丁ぐらい持っていたら、田植えだけでも10日から2週間はかかっていたそうだ。またこの辺は傾斜のある土地となっているため山のほうからだんだん田植えが成されていくという形だったため、田植えの終わった上のほうの人たちが加勢に来てくれていたそうだ。

  次に炊事や風呂焚きで使っていた薪を得る方法について聞いてみた。今ではなかなか考えられないが、この辺の人は大体の人が自分の山を持っていたらしい。薪はそこから拾ってきていたそうだ。中にはカシの木などを、売っている人から買っていた人もいたそうだ。

  この話に続いて風呂の話になった。今の風呂は大体家の中にコンパクトにあるが、昔の風呂は大体外にあったそうだ。この理由としては、昔は、家にあるわらなどを主に燃やしていたため外にあったのだそうだ。そして風呂も丸いカネ風呂だったそうだ。しかも下で燃やすため底の方はかなり熱くなるので、そこに木の板などを沈めて入っていたそうだ。

  風呂の話で盛り上がった後、米の流通について聞いてみた。今村さんの知る範囲では、やはり米は昔も農協に出していたそうだ。しかし、昭和20〜30年後半ぐらいまではヤミ米があったらしい。40年代にはもうヤミ米は姿を消していたらしい。なるほど・・・

  次に地主と小作人の関係について聞いてみた。収穫のどれくらいを地主に納めるのかなどは、地主が決めていたそうだが、この率も大体決まっていたそうだ。

  米の保存の仕方についても聞いてみた。米は大体、缶(ドラム缶みたいなもの、十俵ぐらいは入るらしい)に入れていたそうだ。この缶は虫除けやねずみよけの役割も果たしていたようだ。大きさは今村さんの身長ぐらいはあり、1m50cm〜60cmぐらいはあったそうだ。かなり大きいな・・・

  次に昔の食事について聞いてみた。この辺で言うと、昔、夏場は外に机を出して、外で食べていたらしい。今のように肉を食べられるといった時代ではなかったため、粉を挽いた‘だご汁’や畑で育てた野菜を主に食していたらしい。ごちそうと言えば、卵料理(玉子焼きなど)だったそうだ。風邪をひいたときなど、卵を食べていたらしい。ここで今村さんが思い出したように「いも饅頭をよく食べていた」と言われた。現代とあまりに違う食事の内容に驚いた。

次に、今ではご飯の米の割合は100%だが、昔はどうだったのか聞いてみた。戦争のときなどはお米を出さないといけないため、芋やそばなどを米に混ぜて炊いていたそうだ。米との割合は一対一ぐらいだったようだ。

次に、高津原の様子の話になった。昔この高津原一丁目は30軒ばかりあったが、そのうち農業をしていた人は22〜23軒だったらしい。今となってはこの高津原一丁目には、300軒ばかりの家があり、そのうち農業をしている家は14軒ほどらしい。この結果に至る過程としては昭和45年ぐらいからだんだん家の数が増えていったらしい。48年〜50年ぐらいが一番増えたそうだ。次に人口と家の戸数の話になった。この高津原は、1〜4丁目までを合わせて、高津原の部落とするそうだが、1100戸ぐらいの戸数があり、3200人ぐらいの人口らしい。この内、農業をしている人は50人ぐらいで、その中でも専業農家の人は10〜20人ぐらいだそうだ。昔の割合と比べると格段に少なくなっているのがわかる。

牛を売る、博労(ばくろう、ばくりゅう)と言われるような人がいたかどうか聞いてみた。この高津原にはいなかったらしいが、他の部落には‘ばくりゅう’と呼ばれる人がいたらしい。要するに牛の仲買人らしい。また、そのころ(30年代までが主、40年代になるとほとんどなかったらしい)にはこの鹿島にも牛の市があって、家で牛が産まれたりすると、その市で売っていたらしい。このような中で、‘ばくりゅう’といわれる人は市を通さず、直接牛を売ってもらったり、またその牛を売ったりしていたそうだ。今となっては牛を飼っている人も、この高津原では、まったくいなくなってしまったそうだ。

次に牛(うま)洗い場というものがあったかどうか聞いてみた。今村さんいわく、特別そのようなものはなかったらしい。牛を洗うとしたら、自分の家の庭にある池(そのころは自分の家に池があるという家庭が多かったらしい)や、堤で洗っていたそうだ。

次に高津原で行われる祭りについて聞いてみた。高津原全体としては毎年8月19日に豊作を願う祭りをやっているらしい。鹿島市の中では、3〜4地区に分かれ、これまた豊作を祈願する‘とうや’と呼ばれる祭りを8月31日、9月10日、9月20日とやっているらしい。昔から祭り自体は何も変わっていないということだった。普通一般に言われる祭りは11月2日(オクダイと言うらしい)、3日(オノボリと言うらしい)に行われているようだ。他には特に村をあげて何かするといったような行事はないようだ。

次に村の電気、ガス、水道などがいつ来たのかたずねた。電気は昭和入ってすぐに来たらしい。ガスは40年代頃(しかし僕たちの思っているような都市ガスではない。配管などは無く、個人個人のガスである)。水道は地区によってだいぶ違うが、昭和37〜38年ぐらいには来たそうだ。

次に昔と比べて大きく変わったところについて聞いてみると、今村さんは「農業の機械化」を挙げた。これにより今では年を召された方でも、重労働をしなくても農業ができるようになったため、60〜70歳になっても農業をする人が多くなったと言われた。機械化により、ほかの人の田植えを手伝うなどの、人と人とが触れ合う機会は少なくなってしまったかもしれないが、農業がずっと楽なものに、そして年をとってもできるようになったことは否定の使用が無い事実だ。最近、機械化についての否定的な意見(人間は自然のままに生きるのが一番だ!!みたいな)をよく耳にするが、やはりこのような機械化の利点は大事なものだと思った。

次に、昔の若者たちの恋愛の仕方について聞いてみた。やはりここでも先ほど挙がったクラブ(公民館)が出てくる。ここで若者は出会い、時に男のほうが女の家に押しかけたりして、結婚にいたったケースなどもあったそうだ。

次に減反政策の影響について聞いてみると、この辺もやはり減反政策をやっているらしい。これに続いて、有明海干拓問題について聞いてみた。この辺は近年余りいい海苔が取れてなかったが、なかなか小さい業者ではテレビに出てくる業者のように立ち上がることは難しかったようだ。津原の中でも、この問題で、もめるようなことは無かったようだ。どの地区の人たちも、自分達のことばかり主張するのではなく、ほかの地区の人たちのことも考えたりして、少しは妥協するなどしないといけないだろうと語っていた。

次に1993年ごろに起こった平成の大干ばつのことを聞いてみた。このときは、やはり水方と言われる人が他や畑に入れる水の量を調節して乗り切ったそうだ。

次に田植えのときの楽しみについて聞いてみた。やはり植え終わった後に、近くの人達で食べるものや、お酒などを持ち寄っておしゃべりをしたりするのが楽しかったそうだ。しかし今となっては先ほども挙げたように、機械で田植えなども終わらしてしまうため、このような風習はなくなってしまったそうだ。

一通り質問も終わり、九大や寮の話で盛り上がった後、僕たちは、今村さんと実際に堤や、水路、この辺の地形を見に行くことにした。外に出ると小雨がぱらついており、傘を持ってきてなかった僕は、今村さんに傘を借りた。何から何まで迷惑をかけてすみません。

まず僕たちは今村さんの家の裏手にある農園を見て回ることにした。そこには色々な野菜、みかんなどが植えてあった。きちんと手入れもしてある。しかも農園の大きさも半端じゃない!全部今村さんが育てているかと思いきや、他の人に土地を貸して、その借りた人たちが各々、野菜やみかんなどを育てているそうだ。

次に西堤と濁堤を見て回った。今村さんの説明通り、よく見ると、それぞれの堤に水門みたいなものがあり、水の量を調節できるようになっている。それにしてもこの辺は高台にあるため、景色がいい!!写真をたくさん撮ろうっ!!

続いて僕たちは、杉本堤を見に行った。この杉本堤に上流から流れてきた水がいったん集まり、この杉本堤から西堤、濁堤、観覧堤とそれぞれの堤に水が行くようになっているので、この杉本堤は堤の中心と言ってもいい堤である。この堤にもやはり水の出し入れを調節するための水門みたいなものが何ヶ所もある。この堤から出ている水路をたどると、西堤や、濁堤につながっているのがはっきりわかった。

そして杉本堤に水を注いでいる水路に沿って、僕たちはどんどん上に上っていった。この上に続く水路は、4キロぐらいあるらしい。そのさすがに一番上までは行かなかったが、僕たちは途中で、この水路から中川に直接通じているところの水門を見せてもらった。この水門は今まで堤にあった水門より大きかった。そして僕たちは実際この水門から中川に水を流すところを見せてもらった。今村さんが水門の上に登り、大きなネジみたいなものを回すと、水門がゆっくりと開いていった。それと同時に大量の水がいっきに中川に流れていった。すさまじい音とともに大量の水が中川に流れていっている。はっきり言って感動だった。

水門も無事に閉め、僕たちはもと来た道を戻っていった。少しルートを変えて、クラブ(公民館なのだが・・・)や、みかん畑を見て回って僕たちは今村さん宅に戻ってきた。そして少し世間話をした後、僕たちは今村さんに最初のバス停まで車で送ってもらった。

今回の調査で、この高津原の今と昔の姿を知ることができたとともに、この高津原の自然のすばらしさ、昔の人の知恵や努力を知ることができた。最後になったが、僕たちの現地調査に最後まで付き合っていただいた今村さんに、心から感謝したいと思う。また佐賀に来るようなことがあったら、連絡しますね。今村さんも福岡に来るようなことがあった、連絡ください。

こうして僕たちの高津原現地調査は幕を閉じた。

九州大学法学部    1年 鈴木 研郎

 

 

九州大学法学部    1年 竹永光太郎