佐賀県鹿島市末光

        芥川和弘  松田美貴

 

   お話を伺った人・・・小野善辰さん、昭和8年生まれ

             織田さん、大正15年生まれ

             前田さん、昭和3年生まれ

             溝口さん、昭和16年生まれ

 

 住宅地図を見ながら小野さんの家を探す。歩いている間とても不安だった。というのも、小野さんに手紙は出したものの、当日まで連絡が取れずにいたからだ。

小野さん宅はバスを降りた地点からかなり遠いのではないかと思ったが、意外に近く、すぐにたどり着いた。タイミング良く小野さんが玄関を開けて出てきた。不安に思いながら事情を説明すると、どうやら手紙はちゃんと届いていて、私たちが来るのを待っていたそうだ。連絡が取れなかったのは、小野さんが旅行に行っていたからだった。ひとまず安心した。

 時間より早く着いた私たちは公民館に案内された。なんとありがたいことに、ほかにも3人のお年寄りを呼んでくれていた。一度に4人の人から話が聞けるというだけで、この現地調査は成功しそうな気がした。お茶とお菓子まで出していただいて、なんだか嬉しかった。おかげでのんびりと待つことができた。

 しばらく待つと、ぞくぞくと人が集まった。学校の校長先生だったという織田さん、公民館の管理人の溝口さん、前田さん、そして小野さん。まずは自己紹介から。私たちが九大からきたということで、「私は一度だけ九大病院に行ったことがある。」とか、「九大は箱崎にあるんだよね。」とかいった雑談で場は盛り上がった。

 しこ名について知りたいというと、織田さんは「字のことかな。」と言って持ってきた本をめくる。それは、明治18年、鎌田景弼氏が県知事を務めたときにつくられたという、各土地の面積・特産物などを記したに史料の、鹿島市に関する部分だけを、馬場市長の時に複製したものらしい。史料によると、重ノ木村・高津原村・納富分村の3つをあわせて鹿島村といったらしい。私たちが調査にいった末光が位置するのは納富分である。昭和29年に市制がしかれてからは、『鹿島市大字納富分』というそうだ。それから小野さんが、末光の地図をくれた。末光の地図の番地は、『甲〜』となっている。明治時代に圃場整備したあとの土地は、甲をつけてあるそうだ。地図を見ながら松、吉国、柿ノ木、藤津の4つの小字の境目と位置を教えてもらった。これは非常に助かった。前もって小字図を受け取っていたが、末光付近はごちゃごちゃしていて、ほとんど読みとれず、困っていたからだ。

 さて、私たちが知りたいのは、小字ではなくしこ名だ。もう一度しこ名について切り出してみると、「ああ、私称地名?」と小野さん。「そうそう、それです!」やった、意外に簡単に理解してもらえた。「そういえば、この辺はイシバシ(石橋)って言ってたな。」地図を指しながら、前田さん。前田さんの鹿島弁はほとんど聞き取れなかったのだが、私たちが困っているのを見て、そばにいた小野さんが前田さんの言葉をわかりやすく繰り返してくれたので、わかった。イシバシという地名について、「どうしてでしょうね。昔ここに石橋があったんですかね。」「さあ、私もよく知りませんね。」などと周りのみなさんが言った。それからは、たくさん人がいたせいだろう、サンノカク、クノカク、シメゴ、トウゲなど、どんどんしこ名がでてきた。もう今ではほとんど使わないらしく、忘れてしまったというものも多く、思い出せないしこ名があり、残念だった。また、漢字はどう書くのかきいたところ、「呼んでいただけで字に書いたことはほとんどない。」というわけで、漢字がわからないものもあった。以下にしこ名一覧を示す。(計13個)

 

 小字藤津のうちに・・・サンノカク(三角)、クノカク(九角)、シノカク(四角)、

           ハチノカク(八角)、シメゴ、サヤノキ、キタベンザラ、

           ミナミベンザラ、ナガツ、トウゲ(峠)、シンコガ(新古賀)

           フルヨツギャ(古四つ角)

 小字吉国のうちに・・・イシバシ(石橋)

 

このうち、サンノカク、クノカク、など『〜カク』という地名は、前田さんが持ってきてくださった、『藤津郡末光村角割帳』という、1677年(延宝5年)の史料にも残っていた。市役所にあったというそれは、かなり古いにもかかわらず、保存状態がよかったのか、虫にも食われずにきれいな状態であった。「私も初めて見ました。」「保存状態がいい。」「昔の人は字がきれいだなあ。」と一同絶賛だった。大騒ぎであった。「何でも鑑定団にだそうか。」と言い出す人もいた。私たちも手に取ってみたが、とてもそんなに古いものとは思えないほどきれいで驚いた。ちなみに角割帳(かくわりちょう)というのは、それぞれの所有する土地面積を記録したものだそうだ。「ここにサンノカクとか載ってるということは、やっぱり昔からそう呼んでいたんだなあ。」そうおっしゃったのは小野さん。しこ名は記録されていないと聞いていたので、こんな貴重な資料にお目にかかれて、私たちもびっくりした。角割帳のなかには、古い通行手形もはさんであった。これもきっと貴重なものなのだろう。

 さて、地名のほかに、川の名前も聞いた。今は神水川という川は、むかしはシオミガワ(汐井川)だったそうだ。昭和37年7月8日に大洪水があり、中川橋をはじめとして、川に架かっている橋も全部流れてしまった。

 では、干ばつはあったのだろうか。マニュアルに載っていた、1994年の大干ばつのことをきいてみる。するとみなさん口をそろえて、「さあ、干ばつなんてあったかな・・・」「ここは昔から水には不自由していない。」とのこと。末光は、干ばつが少なく水源が多いところだという。昔は2メートルぐらい掘れば水がわいていたそうだ。今では宅地造成により、多くの水源がつぶされているということも、すこし残念そうにおっしゃっていた。用水路は明治時代から整備されていたそうだ。

昔の生活についてもきいてみた。

「テレビはいつ頃からあったのですか?」「東京オリンピックの頃はもうあったなあ。」と織田さん。

「電気は?」「電気はいつ頃かねえ。」「さあ、私らが子供の頃はもうあったねえ。」というわけで、電気がいつ通ったかを知る人はいなかった。

「電気はわからないけど、鉄道ならよく覚えてる。」というので、鉄道の話を聞かせてもらった。昭和5年、今の長崎本線の浜駅まで鉄道ができたそうだ。当時は有明線といっていた。これをつくるときに、南鹿島村議会が反対した。「なんでかというと、線路が塞いで、洪水の時に水がたまるからです。このあたりは周りよりも低地だからね。」織田さんが説明する。「結局、排水工事をきちんとするってことで鉄道をつくったんでしょうね。」ほかにも、昔の生活の知恵なるものを話していただいた。たいまつや鐘で子供の頃虫おいをしたこと、はえ取りランプなるものがあったこと、などなど。それから、千燈籠という、子供たちのお祭りがあったそうだ。天神様、お地蔵様などに燈籠をたくさんともしてお祈りしたそうだ。

「末光には、昔は米をつく水車があった。」と小野さん。

 末光の南西部3分の1くらいは、昔は乾田で、麦が作れたため、『麦田』と呼んだそうだ。残りの部分は湿田だったそうだ。

 さらに、末光のことを、室町時代の史料では『末満』と表記されていることもきいた。

 このあたりで、ひととおりきくことが終わった。いろいろためになる話が聞けて満足。だが、時間がかなり余ってしまった。「他にきいておきたいことはない?」私たちに質問されるのを楽しんでいるように、みなさんがうながす。なんだかもったいない気がして、他にきくことはないかとマニュアルをぱらぱらめくる私たち。そんな様子を見て、小野さん。「なんなら見にいくか?」小野さんと織田さんの案内で末光を見て回ることになった。

 まずは水路を見に行った。歩いていると、いたるところに水路が張り巡らされていることに気づく。話によると水路に接していない水田はないというほどだそうだ。「ここは水には不自由しないけれど、万一の時に備えて、ダムがあるんです。ダムからこのポンプで水を汲み上げて、水路全部に行き渡らせるんですよ。」ダムの前で織田さんが説明してくれる。「このダムは使ったことはあるんですか?」「うーん、ほとんど使わないねえ。」干ばつが少ないのにこんな仕組みが整っているなんて、すごいと思った。

 これだけ水源が豊富で、水路も整っているのだから、きっと水争いはなかったのだろう。ところが前田さんによると、「明治35年に水路が整備される前は、馬渡から水をもらわなければいけなかった。トウゲ(峠)あたりで馬渡と水争いがあった。」そうだ。

 ほかにも、末光の大部分を占める小字、「藤津」の名前の由来を聞いた。話してくれたのは織田さん。わざわざ『肥前風土記』から伝説を書き写したものをいただいた。つぎのようなものだ。

 

  昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、行幸(いでま)しし時、此の津に到ります に、西日の山に没りて、御船を泊(は)てたまひき。明くる旦(あした)、遊覧(みそ なわ)すに、船を大きな藤に繋ぎたまひき。因りて藤津の郡といふ。

                                                  ・・・『肥前風土記』より

 

藤津発祥の地である藤の森にも足を運んだ。今は公園になっている。大きな石碑が建っていた。藤の木があったが、昔のものではないということだ。

  そのあと、直礼塚(なおらいずか)に行った。今は住宅の一角になっていて、お供え物がしてあった。そこには次のような伝説がある。次に載せるのは、藤の森の伝説と同じく、織田さんが書き写してくれたものだ。

 

  由来は千載の住吉、吉野権現石木津に御着岸遊ばされ、一郡の根元藤の森というとこ  ろに御船を繋ぎとめたまひしかば、郡中の諸氏万歳を祝し、神輿を末光村に渡御成し  奉り、村の長官吉田某広前に恐れ敬い神拝をとげ奉り、御酒頂戴仕り候印し今に於い  て末光村に直礼塚と申伝え候古跡これ有り。

                                                              ・・・『吉田家系図』(琴路神社宮司)より

 

直礼塚の直礼とは、祝宴のこと。吉野権現がきたことをありがたがった末光の人々は祝宴を開いた。その記念につくられたものが、直礼塚ということだ。ちなみに吉野権現は、琴路神社(きんろじんじゃ)にまつってあるそうだ。

 風土記にしろ吉田家系図にしろ、末光に船で日本武尊や吉野権現が到着したとある。地図を見ると、ここは海に面してはいない。なんかおかしいな。「末光より海側の地域は、江戸時代や平安時代の干拓地だ。昔々直礼塚のあたりはとても栄えた港だった。」そうだ。なるほど、そういうことか。

 それから末光は、興教大師の生誕の地である。「興教大師??誰ですか、それ。」きいたことがない名前だったので、思わずそう言ってしまった。「興教大師っていうのは、真言宗を開いた弘法大師の亡き後、高野山の金剛峰寺を引き継いだ人だ。」織田さんと小野さんが説明する。そんな人がいたことをこの時初めて知った。弘法大師の陰に隠れて目立たないが、荒れた金剛峰寺をたて直した人だそうだ。結構すごい人かもしれないと思った。その人のへその緒がまつってあるという、小便塚にも連れて行ってくださった。塚は、現在の位置より少し南に3ヘクタールぐらいの広さであったものを移したらしい。

 一通りいろんなところを案内してもらったおかげで、話していただいたことと実際の現地がつながった。

 それから、公民館に戻った。バスがくるまではまだ時間がある。どうしようか。困った。「時間までここにいたらいい。鍵は後で締めにくるから。」と、小野さんのありがたい心遣い。「ありがとうございます!!」お言葉に甘えて、のんびりさせていただいた。バスの時間まで一時間近くあったので、風通しのいい公民館でレポートのまとめをした。見たこと、きいたことをまとめ、提出用の地図まで出来上がってしまった!なんとも充実した一日だった。

 いろいろやっていると、あっという間にバスの時間になってしまった。急いで片づけて帰る準備をする。まとめをするのに夢中になっていたから、バスに乗る場所が遠かったら間に合わなかったかもしれない。幸いバスが迎えにくるのは、公民館のすぐそばだったが。帰りは疲れてぐっすり眠ってしまった。一日が終わった。

 

 予定より少し早めに末光に着いてしまった私たちだったが、時間に余裕が持てて、ゆっくり話を聞けたうえに末光を案内していただけて、本当に満足できた。早く着いたのはかえってよかったようだ。それと、区長である小野さんの親切に感謝したい。わざわざ公民館にたくさんの人を集めてくださったおかげで、いろんな人から興味深いお話が聞けた。休日を返上して現地調査に行くのは面倒だし、つまらなそうだとおもっていたが、全然そんなことはなく、おもしろい話が聞けたし、しこ名もスムーズに集まって、楽しかった。それから、佐賀の人はいい人ばかりだった。佐賀弁を聞き取るのが少し難しかったけど、今回お話を伺ったみなさんと、プライベートで話がしたいと思った。私たちが行った末光は、のどかでいいところだった。思ったよりも田舎じゃなくて、店もたくさんあった。水路がとてもきれいなのにも感動した。こんなところに住みたいなと感じた。

 今回現地調査をして感じたのは、地名にはいろいろな歴史があるということ。自分の地元も調べてみようかと思う。きっとおもしろい発見があるだろう。

 それから、今回4人の方からお話を伺って感じたこと。年をとったら、あんなふうに、自分が住んでいるところの昔の話などを、若い世代に伝えていけたらいいなあ。

 

 最後になりますが、このレポートを作成するに当たり、ご協力いただいた、小野さん、織田さん、前田さん、溝口さん、お忙しい中、私たちのために時間を割いていただいて、また、とても興味深いお話をたくさんしていただいて、ありがとうございました。みなさんにお話がきけて、よかったです。楽しかったです。またいつか、機会があったらお会いしたいです。お世話になりました。本当にありがとうございました。