佐賀県鹿島市新町に関する調査

 

水上 徹郎

 

お話をお伺いした方

鹿島市新町 迎 達郎さん,森田 国義さん

 

 

 まず僕がお伺いしたのは、森田国義さんのお宅。森田さんは大変親切な方で、僕がお伺いする前に、この地域の「長老」と呼ばれている迎達郎さんという方にアポをとっておいてくださり、僕はさっそく森田さんと2人で迎さんのお宅を訪問した。この地域の「長老」と呼ばれている方なのでどんな方なのだろう、と僕は緊張していたのだが、迎さんはとても話しやすく気さくな方だったので、ほっと胸をなでおろした。

 

@  しこ名・あざ名について

まずお伺いしたのはしこ名やあざ名のことだが、新町地域は古くから城下町で、農村ではなかったのでお聞きすることはできなかった。

しかし、「新町」という地名の由来を聞くことができた。鹿島という土地はもともと、有明海を埋め立てた土地なのだそうだ。そして、その埋め立てた干拓地のことを「牟田」や「袋」、「籠(こもり)」などと呼んだそうだ。「新町」とは、「牟田」に囲まれた新しい町という意味であるのだと教えてくださった。実際地図で確認してみると、確かに「西牟田」と「中牟田」の間に位置している。

   ちなみに、城下町だった新町では、市がさかんに開かれており、やすり屋、筆屋、鍛冶屋、笠屋、ちょうちん屋、竹細工、もくろう(ろうそく)屋など、職人の数は豊富だったそうだ。迎さんは「都会とは職人の種類の多い町のこと」とおっしゃっていたが、新町はまさにそれであった。

 

 

 

 

 

A  水利について

   次に、新町地域の水利に関してお伺いしたのだが、これに関しても大変興味深いエピソードを聞かせてくださった。

   江戸時代、干拓地であった鹿島では、水の確保に相当苦しんだそうだ。当時、鹿島藩の居城は鹿島の山の手の高津原というところにあったそうだ。藩主は、城付近のため池から用水路を引いて城内の生活用水としていたが、城下町に住む町人たちに対しては、何の施しもしないでいた。そのため、町人たちが城下町にも用水路を引くように藩主に訴えたが、それでもいっこうに用水路ができる気配はなかった。そこで、町人たちは力を合わせて自分たちの力で、近くの中川から用水路を引くことに成功した。その用水路は、町人みんなで力を合わせて建設したものなので、互いに争うこともなく公平に使われたそうだ。

   そうやってできた用水路のことを、住民の方々は「逆川(さくさんがわ)」と呼んでいるそうなのだが、この名前の由来がおもしろい。当時の人々は、川の流れは山から海へ流れるのではなく、有明海の潮が満ちているのを見て、海側から山側へ流れるのだと勘違いをしていたそうなのだ。それで、用水路が山側から海側へ流れたのを見て(それが普通なのだが)、「逆川(さくさんがわ)」と名付けたそうなのだ。

   その「逆川」は、いってみれば「町人の意地」の象徴的存在だったそうだ。その用水路には「棚地」と呼ばれる洗い場があり、シジミが生息するほどきれいだったそうだ。向かいさんも、小さいころその用水路には言ってフナをとって遊んでいたので、近所のおばちゃんに「達郎さん水路には入らんといて」といつも怒られていたそうである。何よりもみんながきれいに使おうと心がけていたそうだ。昭和7,8年ごろから水道が普及し始めると、用水路は使われなくなるようになった。用水路は現在も残っており、1年に1度、6月ごろに地域のみんなで清掃しているそうだ。今年も7月1日()に行われたそうだ。しかし、「今では昔の面影がないほど汚くなってしまった」と迎さんはさびしそうに語ってくださった。

   余談になるが、クリークの多い佐賀藩では子どもが水死するたびに、「河童に引きずり込まれたんだ」といって恐れていたそうだ。そこで、年に1度、なすびやきゅうりといった河童の好物をお供えする「ひゃ−らん祭り」というお祭りを行っているそうだ。「ひゃ−らん」とは「入らない」という意味で、子どもたちに対して「危ないからクリークには入るな」というメッセージが込められている。

 

 

 

 

 

B  水害について

次に水害のことである。鹿島という土地は扇状地であり、そのうえ、有明海から潮が満ちてくるところでもあるので、水害は頻繁に起こっていたそうだ。迎さんは「水害は年中行事。床下浸水なんかは手馴れたもの」とおっしゃっていた。また、町の映画館で夢中になって映画を見ていて、ふと気づいたら足元が水浸しになっていたなんていうエピソードも、鹿島では珍しくないことだそうだ。

 しかし、昭和37年8月の水害は、死者3名を出す大惨事であったそうだ。迎さんは「雨はそれほど怖くはない。本当に怖いのは大雨じゃなくて風なんだ」とおっしゃっていた。

 そしてその翌年から、大水害が起こった8月7日、8日に、大惨事に打ちひしがれた住民たちを鼓舞する意味も込めて、「鹿島踊り」が毎年開催されるようになった。また、水に対するおまじないとして、立春から210日後と220日後と230日後を、それぞれ1番当夜、2番当夜、3番当夜と呼び、太鼓浮流をするようになったそうだ。

 

 

 

C  地域の発達について

   まず、新町地域にいつごろ電気が普及したのかについてお尋ねしたところ、意外に早いとのことだった。大正5,6年ごろには、鹿島市の桜の名所、旭が丘公園というところでは、桜のライトアップが有名だったそうだ。正確には、森田さんが持っていた新町地域の資料によると、「1911年9月鹿島町に九州電灯株式会社(現九州電力)が出張所を設置し、電力の供給を開始」と記してあった。そうは言っても、やはりどこの家庭にも電灯があったというわけではなかったそうだ。ご飯はまきで炊き、石炭でお風呂を沸かし、ゴエモン風呂に入っていたそうだ。子どものころは体重が軽かったので、ゴエモン風呂の浮き板がなかなか沈まなくて苦労したそうだ。

   昭和5年ごろ、新町地域の生活が質素だったというより、日本全体が質素だったそうだ。当時は病院の息子であっても質素な生活をしており、学校へ通えるのも小地主の子ばかりで、月謝が5円もしたそうだ(ちなみに、当時の米俵1俵の価格は4〜5円)

   しかし、新町地域では戦争の被害はほとんどなく、戦時中や戦争直後であっても、ひえや粟を食べるといったことはなく、ときどき芋がゆやかぼちゃ、サツマイモを食べることはあったが、あくまでも米が中心であったそうだ。

 

 

 

 

D  昔の若者について

   昔の若者たちは夜、何をしていたのか、という質問に関しては、基本的に労働時間が極端に長かったため、ほとんど遊ぶ時間はなかったそうだ。「青年クラブ」という、夜若者たちが集まるところでは、主に先輩が後輩に漁業を教えていたそうだ。労働時間は長かったが、昔の若者たちは俳句や義太夫、漢詩などと多くの趣味を持っていたそうだ。

   また、「三夜待ち」といって、同じ趣味を持つ人同士や同じ職業の同年代がお酒を飲んだり、語り合ったりする会があるそうだ。なぜ「三夜待ち」というのかというと、その会が、毎月3日か13日か23日といった3のつく日に行われていたため、「3のつく日の夜を待つ」という意味で「三夜待ち」と呼ばれた。この「三夜待ち」は今でもさかんに行われており、「三夜待ち」を通して知り合った人たちは強い絆で結ばれており、一生付き合う友人となるそうだ。多い人では、「三夜待ち」を10ぐらい掛け持ちしている人もいるそうだ。田舎では横のつながりが強いので、何かあったときは、三夜待ち仲間が助けに来てくれるそうだ。また、どのような予定があったとしても、「三夜待ち」を最優先するほど強い絆で結ばれている、と迎さんは胸を張って語ってくださった。ただし、何でも「三夜待ち」のあった夜は、飲酒運転で捕まる人も多くなるらしい・・・・。

   次に、昔の男性と女性の関係について。昔は男性と女性がいい仲になることを「思案する(しゃんすうする)」と言っていたそうだ。迎さんは鹿島中学に通っていたそうで、すぐ近くに鹿島女学校があったそうだがほとんど交流はなかったそうだ。何でも、小学校のときは話していた相手でも、中学に入るとお互いにまったく話さなくなっていたそうだ。迎さんは思春期のときがちょうど戦時中で、そのころでは、時代の風潮や古い道徳観念もあり、女性と話すような男は軟弱なやつだと思われていたそうだ。戦時中なので、恋愛などしている場合ではなかったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

E  調査を終えて

   まず、この調査に全面的に協力してくださり、多くの含蓄あるお話を語ってくださった迎達郎さん、森田国義さんに、この場を借りて御礼申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

  さて、この調査の趣旨は、失われつつあるある通称地名や、忘れられつつある村の姿を後世にまで記録することでした。残念ながら今回の調査では、古くからの通称地名に関してはお聞きすることはできませんでしたが、昔の生活の知恵や苦労をたくさんお聞きすることができました。それだけでも大きな収穫であると思っております。今改めて感じることは、現在は過去の延長上であるということ、つまり、過去の積み重ねがいまに至っているということです。

   また、歴史を学ぶことの重要性、なぜ歴史を学ばなければならないのか、という疑問を再度投げかけられたようにも感じました。私たちは、未来のことがまったくわからないように、経験していない過去のこともまったく分からないのです。それなのに私たちは、未来のことに対して無知であることは認識していながらも、経験していない過去のことは教科書などといったものによる中途半端な知識に惑わされて、あたかも「知っている」かのように錯覚しているのです。何度も繰り返しますが、私たちは経験していないのだから、未来も過去も同様に分からないのです。

   しかし、私たちは未来を「よく生きる」ために日々道を模索していかねばなりません。そのためには、過去に立ち返って先人たちの「知恵」や「苦労」、「経験」、「失敗」などを参考にすることがいかに有効かは言うまでもありません。そういった意味で、私は大変有意義な時間を過ごすことができました。やはり、経験したことのない過去は、経験したことのある方から直接お聞きするのが一番であると痛感しました。

   迎さん、森田さん、本当にありがとうございました。