歩きみふれる歴史学レポート

百崎亨

山崎淳

 

調査地区:新方

 

はじめに

七月七日、心配していた雨も降ることなく我々は無事調査を終えることができた。六本松を出発した当初は我々だけでどうなることかと思ったが、何とか無事に調査を終えることが出来たのはひとえに調査に協力していただいた皆様のおかげである。

最初我々がうかがったのは、区長の橋本一男(69歳)さんのお宅だった。橋本さんは、この土地の生まれではないということだったので、どうなることかと思ったが、橋本さんのご好意でこの土地で昔から暮らしておられる大町竹次(70歳)さん、富永勝美(58歳)さんをご紹介いただいた。この御参方から貴重なお話を聞かせていただいた。以下その話を元にレポートを作成する。

 

集まったしこ名は以下のとおりである。

小字龍源寺挧のうちにハジノキデイ(櫨ノ木堤)

小字前籠にイタバシ(板橋)

小字大久保にイチゴザキ

小字開浦にオンガミサン、ナカデイ(中堤)

小字保木にムカイヤマ、テンカイ・テンキャ(天開)

小字坂上にウマザカ(馬坂)、ミヤマンクイ

小字宮ノ前にクルマンカワ(車ン川)

 

村の生活と発達

浜地区全体をかつては「ハチホンギムラ」と呼んでいたらしいが、中でもこの新方地区は、「ヒラキノウラムラ(開浦村カ)」と呼ばれていた。昔は、川が生活の中心であり、何でも川で洗い食するなど川は生活と一体化した重要なものであった。現在はかなり汚れており、現在は以前のように川で何かを洗って食べるなどのようなことはできないということである。なお、この地区に水道がとおってきたのは、昭和四十年ころのことであり、電気はそれよりも前にとおってきたとのことであったが、残念ながらはっきりとした年代は確定できなかった。またこのような工事の際には、各戸から手伝いに人が出ていた とのことだった。鉄道がとおったのもかなり早い時期であったようであるがそのとおった範囲は一部だけで、全線がつながるのにはかなり長い時間がかかったということである。

水利について

タケスイドウといわれる水路が今でも使用されている。この水路は湯峰、新方、船越の三地区が合同で使っており、昔は春になると約一週間ほどをかけてこの水路の修理などを行っていたということである。

村の祭りについて

祭りは色々行われていたが、男は鐘をたたき、女は踊りを踊っていたという。祭りが行われていたところはたくさんあり、七良宮だけでなく湯峰山や鹿島、有明海の灯台あたりまでもいっていたようである。話をしてくださった橋本さんによると「風流を奉納」するというのが祭りの一つの目的であったという。また現在まで受け継がれている祭りの一つとして「千燈篭」と呼ばれる祭りがある。

若者達の生活について

テレビも無いような時代に当時の若者はどのような娯楽があったのかについて質問したところ、大変詳しい話を聞かせていただいた。当時の若者達は、公民館などに泊り込みで集会のようなものを行うことなどが主な娯楽であった。特に春に行われたハルザケノミ、秋に行われたモチヨイなどは本当に楽しかったと語っておられた。当時は現在のような商店のようなものも無く、買い食いなどは出来なかったらしい。そのため人の家で、防腐対策に井戸につるして冷やしてあるようなもちや饅頭といったものを夜中にそっといただいたり、畑に行ってスイカをいただいたりといったことも日常茶飯事だったとのことである。このようなことは大人たちも笑って許してくれるというほほえましい関係が成立していた。また当時は先輩後輩の関係がしっかりしており、様々なことを教えてもらったが、決して現在のようないじめは無かったと聞いた。

また男女の付き合い方も現在とは違って、ほとんど部落内での付き合いが主ではあったが、祭りやいろいろな仕事などの手伝い、青年団の交流などを通じて部落の違う男女が恋に落ちることもあったという。しかし男女の付き合い方は現在のようにおおっぴらに手をつないだりするようなことは出来ず、目立たず健全な交際が行われていたと聞いた。

終わりに

 当日は出発前から小雨が降りどうなることかとも思ったが、現地は晴れており調査も思いのほか順調に進んだ。お世話になった皆さんには本当に感謝しても感謝し足りない。この場を借りてお礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。