鹿島市 新篭

阿部 康作

山田 良基

今回は、普段では体験できない貴重な体験をすることができた。祖父、祖母以外の年長者と話をする機会はめったにないので、いろいろと勉強させてもらった。

私たちのグループがまず、訪問をさせていただいた幸尾さんからは田畑などの四股名を聞くことができなかった。しかし、田畑の整地のときの話や昔の暮らしについてはとても参考になる話を聞かせてもらった。

田畑の整地は昭和40年代後半から始まり、昭和の終わりまで続いたそうである。整地というのは、生産性があがり、収穫高が増加化するので農村の人には喜ばしいことだと思っていたが、一概にそうは言えないようである。用水路が張り巡らされたことで、田畑の面積は減少したそうである。また、区画整理のために、1人の持ち主の離散していた1つ1つの田畑が集約化されたり、機械農業のための1つ1つの田畑の拡大によって、個人の田畑は他に移動させられることになった。土地の高低差によって、水の給水と排水の効率のよさは違ってくる。したがって、悪い土地にあたってしまうと、悲惨である。海の近くの土地は普段、ポンプで排出しても水がたまるそうだ。1994年の大干ばつの時、陸の高いところの田んぼはよかったのだが、海近くの干拓の低い田んぼは、水が供給されず、干上がってしまい全滅だったそうである。それらの中間の田んぼは、ポンプでの水まきで何とか稲は助かったそうだ。このように土地の場所の違いが、収穫高にとても影響を及ぼすそうである。この整地は、より多くの人々に不満が残るものとなってしまったようである。この不満がある人がいたという話をするとき、幸尾さんの基調は非常に強くなっていた。田畑の良し悪しは、数字でははかることができないので、仕方のないことかもしれない。

この地区では炭は取れなかったので、ほとんど炭ではなく藁で火はたかれていたらしい。

炭が要るときは、お金で買っていたらしい。

米作り以外の現金収入となると、昔は漁業、ノリ養殖であった。幸尾さんは子供のころ、小銭を稼ぎに、しょっちゅうムツゴロウなどを採りに行っていたそうだ。しかし、14,5年ほど前から、ノリの不作や漁獲高の減少などでノリ養殖や漁業をやる人が少なくなってきているそうだ。だから現在では、漁師さんたちは自分たちの食べる分ぐらいしか取っていないのである。そして現金収入を得るために、みんな賃金労働者になってきているそうだ。でも、休みの日だけなんとか農業をやっているそうである。これは、機械化のおかげだそうだ。だが、機械の購入やメンテナンスなどのコストがかかり過ぎる。それから輸入物による作物の値段の下落で人件費が維持できないと頭を悩ましている。今では、人件費がいちばん高くついているそうだ。一番の悩みは、みんな若いもんが賃労働者になっているので、後継者がいなくなってきていると危惧をしている。この10年後、どうなるかと幸尾さんは、とても心配していた。

電気は、大正10年には通っていたそうだ。だが、飯炊きなどの炊事は、昭和30年ぐらいまでかまどを使っていたそうだ。

昔の若者たちは、夜な夜なクラブと呼ばれる場所(公民館)に集まっていたそうだ。そこでは、祭りのために楽器の練習や偶に飲めや唄えのどんちゃん騒ぎなどをやっていたそうだ。

毎年10月に、フウリュウと呼ばれる収穫を祝う祭りが、鹿島市全体で行われるそうだ。そこで、日ごろ練習していた楽器の演奏が行われるらしい。みんな日ごろの成果を披露するために一生懸命だったそうだ。

丁寧に御礼をした後、幸尾さんのお宅を出た。そして、我々は、写真撮影をしながら、出会った人に話を聞いてまわることにした。歩いていると、1人のおばあさんを見つけた。そこで早速、お話を聞いてみることにした。そのおばあさんは40年前にこの土地にやって来たばかりだそうだ。だから、詳しいことは聞くことができなかった。しかし、この地区の区長さんを親切に紹介してくれた。区長のさんのお宅で、しこ名について聞くことができた。新篭では、しこ名がそのまま小字になったらしく、それが今でも使われているようだ。用水路についたしこ名も聞いてみたが、特に名前をつけているものはなかったと言われた。私たちが聞いた人たちの中にはそこまで高齢の人はいなかったので、本当にそれがしこ名だったのかどうかはわからない。

 

 

 

     しこ名調査の感想(山田)

 

私は,佐賀県の鹿島市というところを訪れた。家族旅行でなら、佐賀にきたこともあるが,このように田畑がずっと遠くまで広がるような農村を歩き回ったことは初めてであった。授業で,弁当を買っていくようにといわれていたが,私は持って行かなかった。普段都会に住み慣れているので,田舎のことをなめてかかっていたのだ。鹿島市の「市」という名前は名ばかりで,全くの「村」であった。寒ければ,コンビニやスーパーに入っていればいいと思っていた私たちを,バスは現地に降ろし,他のグループの目的地へとあっという間に去っていった。しこ名調査にきたのだから,とりあえず、今日私たちが訪問させていただく家へと向かうことにした。電話で30分後に行くということを伝えた。

田舎は家の数が少ないので,地図を見ると,簡単に目的の家までたどり着くことができた。家の前に立つと、やはり、なかなかインターホンを押すことができなかった。私と同じグループの人としばらくどちらが押すのかについて押し問答をしていた。結局、私が押すことになり、インターホンを押した。すると、中からおじいさんの声がしてきて、玄関のドアが開いた。そのとき始めてあって、いきなりその知らない人の家に入るという経験をしたことのない私は、おどおどしながら中へ入った。「おじゃまします」という挨拶は忘れなかったが、靴をそろえるのを忘れていて、私とペアの人が靴をそろえているのを見て、慌てて私もそろえた。中に入ると、客間らしき部屋に入れてもらい、そこに座った。そしてあらかじめ用意していた質問事項を見ながら質問した。始めに、しこ名についての質問をしたが、知らないといわれてしまった。授業で、現地の人は恥ずかしがって、しこ名については知らないという人が多いと書いてあったので、何度か違う言い方で聞いてみた。それでもしこ名については、教えてもらえなかった。その人は、あまりそこまで年配ではなかったので本当に知らなかったのかもしれない。それに、あまりにもしつこく聞くのは失礼になってしまうので、それ以上、私たちは聞かなかった。その他については、その村の昔の生活様式などを聞いた。その中でも、とりわけ熱く語ってくれた話が、田畑の区画整理についてであった。私は、それまで生産性が上がるのだから、農村にとってはいいことなのだろうと思っていた。しかし、区画整理の際には、田畑や用水路の形を変えなくてはいけなくなり、持ち主も今までもっていた田畑から全く別の土地へ移動しなくてはいけなくなってしまう。田畑というものは、土地の高低差による給水や排水の効率などによって、良い土地も悪い土地もあるようで、土地の配分の不平等が起こったようだ。そのことに対して、今でも不満が残る人もいるようである。教科書では学べないような事実を、現地の人から直接聞くことができて、今までふれたことのない世界にふれているような気がして、知らぬ間に真剣に聞いていた。そのほかにも、ためになる話をいろいろと聞かせてもらったあと、お礼を言って、その家から出た。

まだ、バスが迎えに来るまでかなり時間が残っていた。ちょうど昼で暖かくなっていたので、寒さに震えるということはなかった。昔の生活様式については詳しく聞くことができたが、しこ名の聞き取り調査については失敗に終わっていたので、現地の写真をとりながら,あった人に聞いて回ることにした。田舎というところは、音が少ない。特に車の走る音がしないというところが好きだ。時々、爆音マフラーを付けた車が走っているが、都会に比べるとほとんど気にならない程度である。歩いていると、わらの屋根を持った家や小さな小屋の中に置かれた地蔵などの田舎ならでわの風景が目に付く。そして、バスから降りて、最初で最後の店を見つけた。それは、駄菓子屋だった。中に入ると、幼い頃に食べていた懐かしいお菓子が並んでいた。そこでお菓子をいくつか買って、外にあるベンチに座り、休憩することにした。すると、近くに住んでいる子ども達がたくさん買いに来た。今となっては簡単に変えるお菓子も、その子たちにとっては高価なものなので、熱心に選んでいた。そのベンチを発ったあと、いろいろな人にしこ名について聞いてみたが、みんな知らないとのことだった。その中の一人が、区長の家を教えてくれて、そこの区長に会わせてくれた。単刀直入にしこ名についてきいてみたところ、地図を持ってきてくれて田畑につけられていた、しこ名らしきものを教えてくれた。「しこ名らしきもの」といったのは、その人の知るかぎりではずっと昔から呼ばれているらしいが、それが明治以前からのものであるかは分からないといわれたからだ。区長に聞いて分からないものは、もうどうしようもないと思ったので、それをしこ名であると信じて、写真をとるのに専念することにした。バスが迎えに来るまでの間、退屈するかと思っていたが、その地区をあちこち見て回っているうちに、すぐに、バスに乗る時間になった。バスに乗ると、疲れていたので、いつのまにか私は寝てしまっていた。

通りすがりの見ず知らずの人に聞いて、その人たちが快く答えてくれるというのは、田舎ならではのことだろう。私たちの質問に快く答えてくれた現地の人たちに感謝したいと思う。また、この調査がうまく言ったのかどうかは、分からないが、これから先体験できないようないい経験ができたと思う。

 

 

 

感想(阿部)

 

 久々に、福岡を離れたような気がする。そして、初めて佐賀の鹿島というところに行った。このような機会がないとなかなか行かないので、とてもいい体験をすることができた。

 まずはじめに、取材する人に手紙でアポイントを取ることから始まった。見ず知らずの人にいきなりアポイントを取るのは難しい。そして、電話での確認と大変だった。

 調査の当日、バスに揺られること数時間、新篭の近くまでやってきた。そこから徒歩で、幸尾さんのお宅に向かった。そこまでは、すんなりと道に迷うことなく行けた。そして、お宅の前に立った。チャイムを鳴らすとき、心臓はバクバクと聞こえているのではないかと思うほど緊張していた。チャイムを鳴らしてしばらくすると、中から幸尾さんが出てきて、快く中に迎えてくれた。見ず知らずの人のお宅に上がるのは、ほんとに緊張するものだ。客間にすすんで腰をおろし、一息おいて、さっそく用意していた質問をしてみた。しこ名についていろいろと聞いては見たのだが、なかなか聞くことはできなかった。こちらの質問の仕方が悪かったのか、向こうが本当に知らなかったのかは分からない。本当に人からものを聞き出すことの難しさを身をもって体験した。ほかには、昔の村の様子について聞いてみた。こちらのほうはよく聞くことができ、いろいろと考えさせられることがあった。御礼をした後、お宅を出た。

 取材を終えたあと、まだ時間があったので、このあたりをいろいろと見てまわることにした。見てまわっていると、本当にあたりは静かだった。町の喧騒を忘れさせてくれ、ゆっくりと時間が流れているようであった。犬などのんびりと日向ぼっこをしていて気持ちよさそうであった。わらぶき屋根の家や古い寺もあり、いい風情をかもし出していた。偶に会う人たちに、しこ名について尋ねてみたが、みんな知らなかった。その中の人が、親切にも区長さんを紹介してくれた。そこで、区長さんにしこ名について尋ねたところ、地図を持ってきて説明をしてくれた。だが、その人の知っている限りでは、ずっとこの名称だったという。詳しくは知らないということなので、これ以上聞くことのできず、御礼をして引き揚げた。

 そのあとも、いろいろと見てまわった。そこで、お地蔵を見つけた。それは、ヤクシサンと呼ばれているものらしい。ヤクシサンは五穀豊穣の願うものであった。御供えをして、刈り入れ時期を無事に迎えられるよう祈るのだそうだ。

 こうやって見てまわっているうちに、辺りは暗くなっていき時間がきてしまった。なんだかあっという間に時間が過ぎ去ったかのようであった。

最後に、見ず知らずの者の質問に快く答えてくださった方々に心より感謝します。

それから、こんなに貴重な経験や体験をさせていただいて、本当によかったと思う。