松崎有希子
吉松由起
朝8時半集合予定、8時過ぎに家を出て学校に行く。途中で飲み物を買ってみたところ、生まれて初めて当たりがでて、もう一本もらえた。ただし30秒以内に押さなければならなかったため、焦ってココアなどを買ってしまう。その後に思った・・・これからバスに乗るというのになんでこんな酔いそうなものを買ってしまったんだろう、と。
8時25分、学校につく。正門の前にバスが止まっている。しかし、人影がない。と思った瞬間に友達がバスの陰から現れた。そして「私10分くらいからきてたんだけど、誰もいなくてさ・・・。」と、ちょっと悲しげに言う。その直後に先生が現れて必要な地図を配りだした。私が取りに行ったとき、もう一人の女の先生から急に「デジカメ貸すから今日の調査風景を撮ってきてもらえない?」と言われる。内心焦りながらも「はい。」などと言ってしまう。朝からびっくりな一日の始まりだ。そうこうしているうちに、ちらほらと人が集まりだした。相棒も登場。とりあえず、デジカメを見せてみる。「え、まじで?」「はい、マジです。」としか返せない。ともかくバスに乗って出発することになった。
バスの中で、デジカメの使い方を覚えた後、お互いにまとめてきた今日の質問事項をチェックしあう。ついでに忘れ物のチェックもする。一通り終わって安心したら2人とも寝てしまう。気づくと
まず下古枝の範囲から聞いた。すると、下古枝には10個の班があることも教えてくださった。その10個を聞くと下古枝は3つにわかれ、『下古枝の上古賀(下の上か上古賀)』『下古枝の中古賀(下の中か中古賀)』『下古枝の下古賀(下の下か下古賀)』となり、門前の町(先ほどのお土産屋さんが連なっている通りのことらしい)も3つに分かれて、『門前上古賀(門前の上か門前の上の班)』『門前中古賀(門前の中の班)』『門前下古賀(門前の下か門前の下の班)』となるそうだ。門前の場合は下古枝と区別するために『門前』という言葉をつけるらしい。そして、残る4つは、昔は通山と一つにまとめられていたが、範囲が広いため分けられ、現在では『通山』、その東側を『通山東』、小学校のあるところを『学校通り』、新しくできた団地を『グリーン団地』というらしい。昔は門前に60戸、下古枝の農部落に60戸で120戸だったのが、現在では北のほうにできた雇用促進住宅古枝宿舎に120戸、祐徳グラウンドのところのあたりに30戸で、合計して約270戸の家があるそうだ。
次にしこなについて聞いてみる。しかし上手く説明できず、「だいたいここにかいてあるごとねぇ、中川良(ナッゴウラ)とかねぇ、それとか定座とか八田とかね、普通言うもんね」と小字の名前を言われたが、もう一度説明したところ、七田さんが定座に持っている土地のあたりを浜坂(ハマザカ)というと教えてくれたが、他の場所は良く分からないようだ。ドウセンボイという名前も覚えているらしいが場所がちょっと曖昧である。後は上古枝になるが彦四郎のところをアナモンといい、祐徳神社の奥にある修行のために信者が行くところを奥の院というと教えてくれた。また、小字の木藤の事をキッツとも呼ぶことを教えてくださった。
村の水利
水田にかかる水は、ササワ(ハ)ライデ(笹原井手)、ツカブチ(つか渕)、コイデ(小井手)ウウイデ(大井手)というところから引水されており、現在でも使われているのは笹原井手、つか渕、大井手の3ヶ所であり、用水源は全て浜川である。浜川にはダンノシタと呼ばれるところもあり、そこもせき止められてはいたが、そこから引水はされておらず、昔は子供たちが泳いだりしていたそうだ。大井手から引水された水は門前の方へ行き、農家や門前の町の鯉料理に使われる
祐徳グラウンドは佐賀国体まではずっと農地だった。むかしはそのあたりから、田に水が張っている時期にきれいな水が伏流してきて湧いていた。セリが生えているきれいな川だったことからセリガワ(セイガワ)と呼んでいたそうだ。
下古枝は古枝の中では山ではなく町なので、堀がないらしい。用水は下古枝だけで使われていたらしい。笹原井手は権利は下古枝にあったが、大村方や久保山とも共同で使っていた。特に水利が強い地域などもなく、水に恵まれた地域だったため水をめぐった争いや水利に関する慣行もなかった。浜川だと奥山から浜までのことさすため、下古枝のあたりの川のことはキンパガワ(錦波川)と呼ぶ。神社があるため、観光客にも錦波川と言っているらしい。きれいな川であったため河口には酒蔵も多かったらしい。
旱魃
7年前の旱魃の時も、他の地域ほどひどいこともなく特に困ったこともなかった。雨乞いの経験も聞いたことはあるが、下古枝には実際に経験したことはない。高台の鮒越などではたらだけまいりなどがあったらしい。
災害
ほとんどない。1度、昭和37年頃堤防が決壊したことがあり、水が溢れ出した。それ以後にはそんなこともない。そのため、まじないなどもなかった。
村の耕地
ほとんどが乾田である。八田のあたりが昔は湿田だったが圃場整備後は乾田となる。通山のあたりも昔は湿田だったが、今では半分は宅地になり、残っているあたりも麦を栽培できるので湿田ではない。下古枝全体が良田であり、定座は特に上田と言われていたそうだ。戦前の肥料はし尿である。
耕作にともなう慣行
ゆいは今はしてないが昔は田植えなどでしていた。古枝全体に勾配がついているため、奥山などの高地から田植えが始まるため、上の人の田植えを下の人が手伝い、ゆい返しとして上の人が下の人の田植えを手伝っていた。下古枝の中でも勾配があるため行っていた。農薬のない時代は竹筒に油を入れて、たらしながら足で蹴って稲の茎についている虫にかかるようにする。なぜそのようにするのかというと、油を虫にかけることで虫の周りに油の膜ができ息をできなくさせる。
昔はあぜに大豆や小豆を植えていた。なぜ、あぜに大豆や小豆を植えていたかと言うと、泥をねってせっかく作ってあるのだから、有効利用するために植えていたそうだ。今ではコンクリートにしたため、そんなこともしなくなった。
農作業にともなう楽しみ・苦しみ
いつもはお昼ご飯を家で食べていたけれど、農作業の日は田んぼでご飯を食べたりすることや落穂拾いが楽しかった。農繁期は学校が3日くらい休みになったりもしていた。つらいことは特になかった。共同田植えは40年ぐらい前まで行われていて、田植えの後にはさなぶりがあり、その日にぼた餅や饅頭と一緒に田植えを手伝ってくれた人に労賃を払っていた。さなぶりは今も続いているが、今の費用負担は生産組合費から出ている。稲刈りのあとはどこも秋祭りの季節のため、特に何かしたりはしなかった。
田んぼには鮒、どじょう、なまず、などがいた。また、土用干しと言うものを6月の終わりごろから7月のはじめごろの土用の時期に行う。これは稲に酸素をあたえるためであり、今は3日間くらい(昔は5日間くらい)田んぼの水を止め、土壌をからからにひびわらせる。
村の生活に必要な土地
ガスが普及する前はご飯を炊いたり風呂をたく燃料として麦わら、樫の木、雑木などを使っていた。共有林は下古枝にはないそうだ。
米の保存
知っている限りではずっと農協があったそうだ。政府米は農協を通じて政府に送っていた。地主と小作人の関係は終戦の頃まであり、小作料は現物で支払っていた。昭和20年ごろの農地改革で、大地主だけが儲けないように、小作人にも土地が与えられて平等になった。小作米は質が良いものを出して、家では残りの米を食べていた。上米は政府に献上して、中米は自分たちで食べて、くず米は味噌や醤油にしていた。青田買いとか青田売りとかいう経験はないらしい。明治くらいの話ではないかとのこと。家族で食べる飯米のことはハンミャーと言っていたそうだ。保存方法としてはかめや缶の中に入れていたそうだ。袋に入れるということはなかったらしいが、今では2斗入りの袋詰単位でいえにおいてあるらしい。翌年の作付けに必要な種籾等もねずみに食われないように缶に入れて保存していた。50年位前のご飯は、農家であったため米が主体であったが、麦や芋も入っていた。裸麦のことはひしゃぎと言っていたらしい。ずっとそればかり食べていたので麦や芋、かぼちゃなどは嫌いだとおっしゃっていた。雑穀類の稗は食べたことがないが、粟は粟餅にして食べたりしていたらしい。他に「きび」もきび団子などにして食べていたそうだ。
たべもの
干し柿は正月にみかんと一緒に鏡餅にのせるために作る。干し柿を鏡餅にのせるというのは初めて聞いたため、とても驚いた。粉を吹かせるためには、納豆のようにわらで包むといいらしい。1年間くらい保存はきくが正月という季節物のため、だいたいその時に食べ終わることが多い。今では冷凍がきくため、年中保存がきく。
食べられる野菜・きのこ
しらたけ、まつたけ、しいたけなどがあったが、今ではほとんど採れないらしい。
村の動物
牛や馬を農家は田をすくために最低一頭は飼っていた。雌は値段は高かったが、繁殖させれるため大体雌を飼っていた。博労のことはばくりゅうといい、彼らはタオルの下でお金のやり取りをしていた。ばくりゅうは、ばぞう(不動産屋さんに支払う手間賃のようなもの、売った側と買った側の両方からもらう)で儲けていた。大体働くのが嫌な遊び人で、口が上手い人が多かった。馬洗い場や馬捨て場などは、下古枝にはなかった。
村の道
馬が引く電車で、馬鉄というものがあった。参拝客は川沿いをずっと歩いて来ていた。魚は、浜から魚屋さんが自転車やリヤカーで売りに来ていた。だいたい決まった時間に現れるため、11時屋さんなどと呼ばれていた。峠はない。
まつりと行事
下古枝には上古枝とあわせて祐徳神社のふもとに氏神様を祀ってある。昔は一緒にお祭りをしていたが、今では11月11日、12月11日、4月11日の年3回祭典を開くだけである。参加するのは、上と下の総代、区長、班長、婦人部という役員のみである。昔は村全体で行っていたが、今ではみんな農業だけやっているわけではなく、忙しくなったのでやらなくなったそうだ。ここの地域は祐徳神社があるため、そっち関連のお祭りが多い。区長や政策部長も呼ばれる
村の発達
戦後である昭和20年にはすでに村に電気はきていたらしい。戦時中も電気をつけたりけしたりしていたそうだ。ガスがきたのは昭和40年ごろである。それ以前は電気のかわりにろうそくや油の火を用い、燃料として薪やたき物を使って生活していたそうだ。
昔の若者
昔の若者はわっかもん宿というクラブに夜集まっていた。今ではテレビなどが普及したため、夜に出歩いたりすることもなくなったそうだ。そこに寝泊りして遊んでいたらしい。力石も3つほどあった。そこでは年長者のほうがやはり権力をにぎっていて、試胆会という今でいう肝試しのようなこともしていたそうだ。
お日待ちは、昔は下古枝でもあったらしいが今はしていない。他のところでは今もしているところもある。
戦後の時期に犬を食べたりしたと言う話はきいたことはあるが、実際に食べたことはない。七田さんはお兄さんの友達が食べたという話をきいたことがあるそうだ。
他の村からよそ者が来たりということはよくあった。今は高校とかで会うため、昔のほうが多かったらしい。お祭りの日に特に男や女はどこに行こうかと出歩いて、その後結婚したりと言うこともあったそうだ。昔はよそ者を村に入れないように妨害したりということもあったと聞きはするが経験はないらしい。
男女が知り合う一番の機会はやはりお祭りである。夜に目をつけた子がいる地域のお祭りに行ったりしていた。戦後はオープンで恋愛の自由はあった。夜這いの風習もあったとは聞くが、経験はない。あったのは戦前の大正生まれの人たちの頃だろう。
村のこれから
今はリストラもあり、高卒の就職率も50%くらいで、不景気のため今後の予想はつかない。これからの日本農業の展望も政治家じゃないからわからないとおっしゃった。
質問事項を全てを聞き終えて、もう一度しこなについて聞いてみたところ、西平の山の水が湧いているところをミズノミ(水飲み)といい、もっと登ったところの観音様があるところをイケイバノカンノンサマ(いけい場の観音様←憩いの場の観音様という意味、休憩するところ)というと教えてくださった。それ以上は分からないらしく、明治、大正生まれの人じゃないと分からないらしい。その時、95歳の長老が近くに住んでいるといって、電話をして下さったが、でないからといってその方のおうちまでわざわざ聞きに行ってくださった。しばらくすると戻ってこられて、やはりお会いするのは無理らしいと言われたが、しこなを聞いてきてくださっていて、ドウセンボイの正しい位置とケイフクインノマエ(敬福院の前)というしこなを教えてくださった。
バスの時間がだいぶ近づいていたので私たちはお礼をいってお暇することにした。
失礼した後、「しこなはあんまり分からなかったけど、昔の話とかいろいろきけて面白かったね。」と言いながら、余った時間で少し遠回りをして、お話の中できいたドウセンボイとダンノシタを見て回って帰った。
_しこなのまとめ_
小字木藤(キトウ)のことをキッツという。
小字定座のうちに------ハマザカ(浜坂)
小字堂園のうちに------ケイフクインノマエ(敬福院の前)
小字木藤のうちに------ドウセンボイ
ダンノシタ
ササワライデ(笹原井手)
小字彦四郎のうちに----アナモン
小字岩本のうちに------ミズノミ(水飲)
小字通山のうちに------セイガワ
小字名は良く分からないがその他に、ツカブチ(つか渕)、コイデ(小井手)、ウウイデ(大井手)、イケイバノカンノンサマ(いけい場の観音様)、といったものがある。
お世話になった方
七田辰己さん・・・・昭和15年2月18日生まれ
〈感想〉
現地に行くまでの準備時間が短かったこともあり、ちゃんと調査できるのかはじめは不安だったけれど、いざ現地に行ってみるとそんな不安もなくなり、楽しく調査できました。祐徳神社と言う有名な神社も訪ねることができ、充実した1日でした。しかし、何と言っても調査が上手く進んだのは七田さんのおかげです。出会いも急で驚きましたが、とても親切に迎えてくださいました。あと少しでバスがくるという時間にも関わらず、わざわざ他のお宅まで聞きに行ってくださったことなど、私たちはとても感謝しています。この場をお借りして、お礼を述べさせていただきたいと思います。本当にありがとうございました。