佐賀県鹿島市世間調査

 

田口 博崇

田中健大郎

田中 宣裕

 

 

 

世間

 午前11時頃、肥前鹿島駅前でバスを降りた私たち3人はゼンリンの住宅地図を頼りに最初の調査地である世間(せけん)へ向かった。曇り時々雨という天気予報に反して、空は晴れており、蒸し暑かった。田では稲が30cmほどの高さに育っており、稲の緑が空の青に映える。駅から歩くこと約10分、私たちは目的の世間地区公民館に到着することができた。公民館の前では、予定より若干遅れた私たちを古老が出迎えてくださった。古老にせかされて公民館の中に入っていったのだが、部屋には地域の皆さん方が大勢集まっており、たいへん驚いた。 事前の連絡では、地域の最長老である杉光潤一氏を紹介して頂けることしか聞いておらず、これほど多くの人に一度にご協力頂けるとは全くの予想外だった。

 初めに、今回の調査の意義と目的を皆さんに説明する。皆さんの目がこちらに向けられる。大勢の前で話すということには慣れていないし、このようなことになるとは考えてもいなかったので、必要以上に緊張してしまった。しかし、いざ調査という段になると、皆さん銘銘が、地図を広げたり、昔の資料・文献を出したり、またお互いに昔の話を始めたりと、非常に賑やか、かつ和やかな雰囲気となり、その雰囲気の中で大変快適に作業を進めることができた。

 

―田ン中のしこ名について 

 事前の学習で、相手にしこ名について理解してもらうことに苦労したということをよく聞いていたので、多少心配していたのだが、この地域に関しては杞憂のようだった。黒板に小字が書かれ、その下にしこ名が次々と書かれていく。事前に調査内容を先方に伝えていたのだが、その時点でそれを理解して頂き、そのうえ事前に準備までして頂けたようだった。そのおかげで地名調査はスムーズに進んだと言いたいところだが、現実はさもあらず。それ相当の時間をかけることになってしまった。これは地名調査の要領を得ない私達のいたらなさのためである。

 田ン中は、まず小字によって大きく分けられており、その下に細かい名前がついていると説明を受ける。この細かい名前というのがしこ名に相当するのだ。一般的にはしこ名という単語は用いないようである。しこ名を地図に落とす時も、「ここらへんを俗に“タテワリ”というったい」というふうに教えてくださる。考えてみれば、我々がしこ名と呼ぶものは、地域の人にとってあくまで「俗に」言うものであり、地域外の人間に説明することもなかったものなのだから、それをわざわざしこ名という枠で囲う必要もなかったわけだ。

 しこ名は農道や水路によって、その範囲を決められることが多い。しかし、圃場整備の際に、細かい道や水路はつぶされてしまったということなので、必要に応じて昔あった道などを地図に書き足すことになった。例えば、小字三丁分のサンチョウブン(三丁分)とシモタムネ(下田宗)は今はなき道により分断されていたらしい。地名はこのようにして失われていくのだろう。

 

―地域の水利について

 次に田の水路・水源について尋ねた。世間地域は小字名に準じて、水路名がつけられていることが多い。世間地域の水源から発し、集落部を通る水路は「中溝」と言った。私が「この水路はどこにあるのですか」と尋ねたところ、「公民館の前の溝がそれったい。あんたたちもここに来るときに見てきたろ?」と教えてくれた。確かに、公民館の前の道に並行して、幅1m、深さ1m強程度の比較的大きな溝があった。水路とはこのようなものかと改めて実感することができた。

 世間地区では、地区から少し外れた所にある地下水を汲み上げて、水源としている。以前は、地区内にもポンプ場があり、地下水を汲み上げていたらしいのだが、それは圃場整備のために閉鎖されてしまい、現在は一つだけである。しかし、この水源地は世間単独のものであり、他の村との水利権争いのようなものとは無縁であった。水源豊かとは言わないまでも、渇水のために苦労したということも今までほとんどなかったようである。

 しかし、その反面水害には非常に影響を受けやすい地域である。この辺りはもともと干拓地で、周囲を堤防に囲まれている。そのため、一旦堤防が決壊してしまうと、堤防近くの田は浸水し、手の施しようがなかったという。また、すぐ北を流れる鹿島川は、有明海に注ぎ込んでおり、世間地域あたりでは、川の水には塩分が含まれている。私が「では、堤防近くの田はあまり良質の田ではなかったのですね?」と尋ねると、「昔は苦労することもあったが、今は他とも変わらんいい田になっとる」ときっぱりと言われた。短い受け答えであったが、苦労を重ねて田を育ててきた農家の誇りや自信が感じ取れた。付け加えておくと、堤防の反対側は畑として利用し、また川沿いのイナゲゴモリに「イナゲの排水機場」を設置し、大雨などに備えていたようである。

 

―地域の産業・農業と漁業 

 現在のように化学肥料が普及する前は、牛馬の堆肥を肥料とした。虫除けに、油を撒いて、皆でそれを蹴って広げたりした。特に虫の多い時期は夜に松明をもって田の廻りを歩き、虫を追い払ったりした。

 農協ができる前は独自の産業組合を作り、各地に出荷していた。また、村に商人が訪れて、直接売り渡すこともしていた。青田売りといった習慣はなかったようである。

 農業と併せて漁業も行われていた。鹿島川に係船しており、漁となると、有明海まで出ていった。あまり川で魚をとることはなかったようだ。海苔の養殖もしていた。漁法には様々なものがあるが、以前とおしアミ漁法がNHKにより取材・放送された。

 村には多くの行事がある。そのほとんどが農業と関連しているが、現在ではめっきり減ってしまった。田植えが終わると、3日かけて、さなほり、おれまい(おれいまいり)、ねんぶつといった行事が行われる。ねんぶつの際にじゅずを回しながら、太鼓や鐘をたたき、これを「かんかんだんぼ」と呼ぶ。

 村では、農耕用に雌牛を飼っていた。雄牛は種付けのために飼う程度でほとんどいなかった。馬は農耕に用いることはなく、運送業を営んでいた人達が飼っている程度だった。牛はトラクターなど農耕機械が普及するまで用いられ、昭和35年ほどまで使われていた。

 

―地域の生活一般について

 プロパンガスが普及するまでは、ワラを利用して料理や風呂焚きをした。世間は平地に広がる農耕地帯であるから、薪を地域内で入手することが難しい。また、昔の農村は自給自足が基本であったから、他地域から薪を買い入れるということはなかったようである。

 電気が村にやってくるようになったのは、大正11年である。今回集まっていただいた皆さんのほとんどが生まれたときには、既に電気は通っており、電気の来る前のことは知らないとのこと。しかし、最長老の杉本潤一さんは電気が来る前に菜種油を使ったランプを用いたことが記憶に残っているようであった。 

  話が昔の若者のことになると、急に賑やかになる。「あんたの若い頃の話ししちゃりぃ」といった感じでお互いにはやしたってあったりしている。皆さん、若い頃にはいろいろあったようだ。世間には青年クラブがあり、学校を卒業した男性は皆そこで寝泊りしていたという。先輩・後輩の縦の関係は厳しかったようだったが、「軍隊に比べれば甘いもんたい」との意見もあった。クラブの人間が集まると、連れ立って外に干してある饅頭を盗りにいったり、畑の柿やら西瓜を盗ったりしたこともあったと懐かしそうに語ってくれた。「昔のやり方のほうが若もんにとっては良かった、色々と勉強になることも多かった」と皆さん口々に言う。マンションに住んでいて、隣の部屋の人の顔さえ知らないような現代に青年期を迎える私たちにとって、残念ながらその風習は実感として受け入れられない。レトロやノスタルジック、古き良き時代というような言葉でしか括りようがない。現代の若者と青年クラブに寝泊りしていた若者、どちらのほうが良かったのか、少し考えてみた。しかし、当然これといった答えを出せるはずもなかった。ちなみに昔の青年クラブが現在公民館として用いられているらしい。今日お集まり頂いた皆さんも、今の私たちと同じような年頃の時、この部屋で夜を明かして仲間達と語り合っていたのだろうか。

 せっかくなので昔の恋愛についても聞いてみた。皆さん、すぐに「夜這い」が思いついたようだった。昔は今と違って鍵をかける家なんてなかったし、電気をこうこうとつけている家もなかったから夜這いをするには都合が良かったらしい。特別珍しいことというわけでもなかったようだ。というのも、いつでもしたいときにしていたらしいし、曰く「昔はオープンやったったい」だそうだからだ。だからといって、それが結婚に結びつくかというとそういうわけでもなかったらしい。最終的には親が紹介してくれた人とお見合い結婚というのが殆どで、少なくとも今日来ていた皆さんは全員お見合い結婚とのこと。恋愛から結婚へと結びつけてしまう、恋愛結婚至上主義の現代とは恋愛や結婚に対する意識も随分と異なるようだった。

 

―地域のこれからの現状と展望

 世間地域の農業の現状について尋ねた。今までの和気あいあいとした雰囲気から一転、軽い緊張感が部屋の中に広がる。皆さんの真剣さがこちらにも伝わってくる。現在、世間地域の農家は今のところ後継者不足にはなっていないらしい。しかし、全て兼業農家である。やはり皆さんとしては専業農家として生計を経てるのが理想であるが、現状では難しいらしい。他の製品と比べて、農産物だけ異常に安いという声もあった。村としてはまだ後継者問題といったことへの細かい対策は立てていないようだった。しかし、いつかは大規模経営といった形をとらざるを得ないかもしれないという人もいた。

 

―世間という地名の由来

 調査の準備の段階から気になっていた「世間(せけん)」という地名の由来を最後に尋ねることにした。「世間は由緒ある地名たい」と、郷土史の資料を手渡された。それには、その昔ヤマトタケルノミコトがこの地を訪れた際に、満干の差の激しさを見て「此の地は瀬険なり」と言った事から世間という地名が生まれたとあった。思いもかけぬところで古代の伝承に触れることとなった。

 

 

 

世間のしこ名

稲毛篭のうちに…サンジャゴモイ(想田篭)、イナゲゴモイ(稲毛篭)

新ヶ江…なし

立角のうちに…ジョウカク(立角)(←リュウカクがなまった)、コゴモイ(小篭)

内の間角のうちに…カミウチノマ(上内ノ間)=ミナミウチノマ(南内ノ間)、ナカウチノ

         マ(中内ノ間)、キタウチノマ(北内ノ間)

三丁分角のうちに…イチノカク(一ノ角)、サンジョブンカク(三丁分角)

地蔵角のうちに…カモダ(鴨田)、ジゾウカク(地蔵角)

的場角のうちに…カミタムネ(上田宗)、シモタムネ(下田宗)、マトバ(的場)

外牟田角のうちに…サンダンゴセ(三田五畝)、ジュウノキマエ(重ノ木前)、ホカムタ(外          

         牟田)=マエムタ(前牟田)

黒竹角のうちに…ヨコワリ(横割)、タテワリ(立割)

江満角のうちに…シモグロタケ(下黒竹)

 

世間の村の名前

カミコガ(上古賀)、シモコガ(下古賀)

 

世間の主要水路の名前

ナカミゾ(中溝)、クロタキミゾ(黒竹溝)、サンジョウブンミゾ(三丁分溝)、ジゾウカクミゾ(地蔵角溝)、ウチノマミゾ(内の間溝)

 

 

話者:

世間

杉光吉次氏  大正14年7月10日生

中橋茂治氏  昭和8年2月15日生

森田泰治氏  大正8年10月11日生

杉光等 氏  大正15年9月14日生

杉光万寿夫氏 大正14年9月1日生

杉光潤一氏  大正6年11月4日生

中橋昇氏   昭和8年1月31日生

藤家恒善氏  昭和7年10月28日生

一瀬勝氏   昭和13年10月31日生

藤家正之氏  昭和12年1月23日生       (順不同)

 

 

(世間地域執筆担当 田口 博崇)