「乙丸・伏原」
(調査した者の名前)
池田 憲司郎
板谷 和樹
石水 優太
(お話してくださった方のお名前)
(乙丸)
江口 岩男様(昭和5年生まれ)
市子様(昭和7年生まれ)
(伏原)
藤永 治美様(大正11年生まれ)
ツサ様(大正13年生まれ)
小字乙丸のうちに
ガッコニキ
ズイデンジノマエ(瑞田寺の前)
小字伏原のうちに
ミズアライ(水洗い)
ソウカン
シモダ
カキノキ(柿ノ木)
シンチュウダ
オオデマチ
イワンシタ(岩下)
ゾウシキ(雑敷)
コウラケダ(高良毛田)
ジョウゴトウ
「乙丸編」
調査に向かう三日前から服部教授に紹介していただいた方に電話するが、農家の方だからお忙しいらしく乙丸の方も伏原の方も連絡をとることが出来なかった。そこで12月22日、僕たちは直接
目的地に向かう車中僕たちは不安でいっぱいだった。電話で連絡を取れないまま行ってしまったという事もあるし、いきなり知らない人のお宅を訪問してお話を伺うということは初めての経験だったからである。また、ほんとに全く知らない土地に向かうのだから、目的地にうまくたどり着けるだろうかといった不安もあった。
ところがそうした不安をよそに、カーナビのおかげで比較的楽に最初の目的地である乙丸に到着した。僕たちは住宅地図で間違ってないことをしっかりと確認すると、「きんちょうするね〜」とか言いながら玄関口へと向かった。ところが玄関らしきところに呼び鈴はなく、どうしていいかわからず家の周りをうろうろしていたら、家の中からお話を伺えそうな人が出てこられた。「突然すいません、僕たち九州大学の学生で田んぼのあざなや歴史について調べているので、お話を伺いたいんですが。」と言うと、「わしゃぁ他んところから来とるけん、この辺のことは詳しくない。そっちの道から入って九州電力のとなりに江口岩男さんて区長さんしとるけん、そこへ行き。」と言われた。
アポなし訪問だし、予想はしてた事なのであまりショックは受けず、「ありがとうございました。」と言って江口さんのお宅へと向かった。言われた通りに行くと江口さんの家はすぐに見つけることが出来た。呼び鈴を鳴らすと、奥さんの市子さんが出てこられた。初めはびっくりされた様子だったが、僕たちが趣旨を話すと快く迎えてくださった。部屋には岩男さんがいらっしゃって、コタツに招き入れてくださった。後で聞くと今はもう仕事をなさってないそうで、仕事場だったところに部屋を建て増しされたばかりでとてもきれいな部屋だった。僕たちは「よろしくおねがいします。」と言うと、早速地図などを取り出し、まず乙丸の範囲を伺った。住宅地図を差し出すと、岩男さんはメガネをかけて「ここを通って、こっちに行って」と境界線を示してくださった。
次に、「自分たちだけで呼んでる、あだなみたいな地名とかってありますか?」とお聞きしたところ、お二人とも少しお考えになってる様子だったが、市子さんが、「そういえば、(地図を指差して)この辺のことを子供の頃ガッコニキていよった。」とおっしゃった。「ガッコニキですか?」と言うと、「そう、学校の近くっていう意味。ニキっていうとは、〜の近くっていうことよ。」とおっしゃった。なるほど、名前のついていない所でも、近くにランドマ−クがあれば名前が付けられるんだなと思った。「他にはないですか?」と言うと、「ここに瑞田寺ってあるけど、この辺を(地図を指差して)ズイデンジノマエって言いよった。」と今度は岩男さんがおっしゃった。自分たちには全くなじみのない、地図には載っていない地名というものに初めて触れて、僕たちは少し興奮していた。
次に、「あと歴史のこととかについても教えていただけますか?」と言うと話してくださったのは、いま北鹿島小学校があるところは昔お城だったそうで、常広城とか鹿城と呼んでいたことや、水害で城は移ったのだそうだが、その後桑畑で堤防を作り部落の境目にしてその辺を古城と呼んでいたこと、昭和37年の7月8日にも大水害があったらしく、その時は川から1メートル以上水が溢れ出したことなどを聞かせてくださった。そして、市子さんが「良かったらこれ持って行っていいよ」と、鹿島の歴史について書いてある本を貸してくださった。僕たちはありがたくそれを受け取りもう十分お話を聞けたと思ったので、御礼を言って帰ろうとすると、岩男さんがみかんを食べていけと言ってくださった。
一人暮らしの僕たちにとって、みんなで集まってこたつでみかんを食べる機会などないので、すごくうれしかった。「(家族じゃないけど)だんらん、やっぱりこういうのが幸せだな〜」などと人の家にもかかわらずあつかましくも考えていた。みかんを頂いている間にも、岩男さんは僕たちはどこ出身かと聞いてくださったり、法政大学の学生が昔東京から自転車で来て、泊まるとこの世話をしてあげたなどという信じられない話?をして下さったりした。こうして江口さん宅での時間は非常に和やかに過ぎた。そして、僕たちは突然お邪魔したことの非礼へのお詫びと、全てのことへの感謝の念を伝えると江口さん宅を後にした。
「伏原編」
次は伏原だ。乙丸では思いのほか事がすんなり運んだので、こちらのお宅にも連絡がついていないことを僕たちは一瞬忘れかけていた。あんなにあっさり済むとは限らない。多少の不安を抱きつつも、乙丸での成功で自信をつけたのか、「まあ大丈夫だろう。」という気持ちで服部教授に紹介していただいた方のお宅へと向かった。
「ごめんくださ〜い!」、なぜだか声にも自信がみなぎっている。でて来られたのはお話を伺う予定の娘さんと思われる方。「僕たち九州大学のものですが・・・。」事情を説明して旦那さんのご在宅を尋ねる。すると、「ごめんなさいねぇ、今おらんとですよ。わたしじゃあまりわからんですし・・・。」と申し訳なさそうにおっしゃったので「あぁ、そうですか。でしたら他の方をご紹介願えませんか?」、悪いなぁと思いながらもお願いした。
そしてご紹介いただいたのが藤永さん。さっきの奥さんにあの人なら大丈夫と太鼓判を押されていたので、僕たちは何の不安も抱かなかった。藤永さんのお宅に着いてみて見上げると立派な茅葺き屋根。これはいける、そう確信し「ごめんくださ〜い。」すると小学校高学年から中学生くらいの女の子が「はい。」と出て来られた。「おじいちゃんいらっしゃいますか?」「ちょっと待ってください。」すると、あとでお世話になるのだが、治美さんが出て来られた。事情を説明すると、庭まで出て来られて「そうやねぇ、わたしもあんまりわからんけんねぇ。この道をまっすぐ行って右に曲がるとゲートボール場があるとですよ。そこに古い人らがいっぱいおんしゃあけん、たくさん聞けると思いますよ。」御礼を言ってその場を去ったものの、この寒い中ゲートボールをしている人がいるのだろうか?などと急に不安になり、僕たちは付近のお宅を手当たり次第尋ねていくことにした。
一件目。「ごめんください。」「・・・。」反応がない。ご不在のようだ。二件目「ごめんください。」「・・・。」こちらもご不在だ。三件目「ごめんください。」かすかにTVの音がきこえる!「ごめんください。」しかし返事は聞こえない。四件目「ごめんください。」「・・・。はぁーい」やった!出てこられたのはおばあさん。即座に事情を説明した。「あぁ、でもわたしらはもう田んぼしよらんしわからんけん。」「少しでもお話を・・・。」その一言がいえなかった。その後も数件訪ねたが、僕たちを招き入れてくれるところはなかった。
車をとめてから二時間近くたとうとしていた。最後の望みを託して僕たちはゲートボール場へと向かった。おばあさんたちが楽しそうにゲートボールをしている。邪魔をして悪いので声をかけ辛かった。完全に自信も無くしていた。それでも勇気を出して「すいません。」と声をかけた。休んでいたおばあさんが話を聞いてくださったので事情を説明した。「そうやねぇ、私らよりあそこの藤永さんて方がよくしっとんしゃあけどね。」その藤永さんにここへ行けと言われたんですけど・・・。さすがにもうだめかと思った。ん?待てよ。そういえばさっきからみんな口を揃えて藤永さん、藤永さんと言っている。ここはひとつダメもとで、もう一度藤永さんのお宅に行ってみようではないか。断られたら今日はあきらめるしかない、そう思っていた。
意を決して再び藤永さん宅へ。治美さんに、みなさんあまりわからないとおっしゃった旨を伝えると、「まぁ、あがりんしゃい。」とあっさり言ってくださった。やった!遂にお話が聞ける。ずっと外にいて寒かったこともあり、治美さんが仏のようにも感じた。
しこ名のことを今一度説明すると、「昔のことやけん、よう覚えとらんですよ。」とおっしゃいつつも、ミズアライ、ソウカン、シモダ、シンチュウダなど教えてくださった。「あーここはなんやったかなぁ。ちょっと待っといてくださいね。」そういい残して治美さんが席を立たれた。何だろうと思うと、すぐに奥さんのツサさんを連れてきてくださったのだ。やはり二人で話しながらだと思い出すのも楽なようで、その後オオデマチ、イワンシタ、ゾウシキ、コウラケダ、ジョウゴトウというしこ名が出てきた。出てくるたびに、僕たちが「漢字はわかりますか?」と聞くと、ツサさんがとてもきれいな字で書いてくださった。
それからツサさんが席を立たれた。「確かまだあったと思うんやけど。」と言いながら、持ってきてくださったのは「1975年」と書かれた伏原の古い平面図だった。どこからどこまでが誰の田んぼであるかを示したものであった。そして、「そういえば昔はこの三角田で仕事ばしよったとですよ。」と言って地図を指差してくださった。僕たちはそれもしこ名かと訪ねると、自分たちだけで勝手にそう呼んでいたらしい。場所の関係でその田んぼは地図上でも見事な直角三角形となっており、「誰も好まんけん、私らがとったとですよ。」とのことだった。次に用水のことを聞いたが、それはあまりご存知ないようだった。
その後も僕たちの持っていった地図と先ほどの平面図を見ながら色々なことを教えてくださった。昔は伏原をその仕事を分担する上で上古賀、中古賀、下古賀と分けていたこと、シモダは一の角から六の角まで分かれていたこと、ジョウゴトウは水が集まるところという意味からその名がついたこと、水路は自分たちで名前を決めていたことなどである。
乙丸での調査の後だったし、藤永さん宅にたどり着くまで苦戦していたので、辺りはもう日が暮れ始めていた。十分にお話を聞くことが出来て満足したので、「じゃあそろそろ・・・。」と僕たちが言うと、「そうですか、あんまり大したこと教えてあげられなくてすいませんでした。」とお二人がおっしゃった。話の途中でも「すいません。」を連発なさってたが、とんでもない。こちらが突然お邪魔してご迷惑をおかけしたのだ。「本当に貴重な話が聞けました。どうもありがとうございました。」と言って僕たちは帰路に着いた。大変ながらも達成感は大きく、楽しい一日だった。
今回は調査する楽しみ以外に、人と触れ合う喜びも得ることが出来て、非常に貴重な体験をしたと思う。それというのも乙丸の江口さん夫妻、そして伏原の藤永さん夫妻が、あたたかく迎えて下さったからに他ならないと考えています。また、面倒な作業にお付き合いくださり、この場を借りて深く感謝いたします。どうもありがとうございました。